マタイの福音書第5章第31節~第32節:離婚に関する教えマタイの福音書第5章第21節~第26節:怒りに関する教え

2015年12月27日

マタイの福音書第5章第27節~第30節:姦淫に関する教え

第5章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Adultery

姦淫に関する教え


27 “You have heard the commandment that says, 'You must not commit adultery.'

27 あなた方は「姦淫してはならない」と言う掟を聞いています。

28 But I say, anyone who even looks at a woman with lust has already committed adultery with her in his heart.

28 しかし私は言います。誰でも情欲を抱いて女性を見るだけで、すでに心の中でその女性と姦淫を犯したことになるのです。

29 So if your eye -- even your good eye -- causes you to lust, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell.

29 だからもしあなたの目が、それがあなたの良い方の目でも、あなたに情欲を起こさせるのなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。あなたにとっては身体の一部を失う方が、身体全体を地獄に投げ込まれるよりは良いのです。

30 And if your hand -- even your stronger hand -- causes you to sin, cut it off and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell.

30 そしてもしあなたの手が、それがあなたの強い方の手でも、あなたに罪を犯させるのなら、切り落として捨ててしまいなさい。あたなにとっては身体の一部を失う方が、身体全体を地獄に投げ込まれるよりは良いのです。




ミニミニ解説

イエスさまは、自分が来た目的は「律法や預言の裏にある神さまの目的や意図を成就するため」と言いました。前回は「怒り」についての具体的な説明でした。今回は「姦淫」、つまり「浮気」などについての具体的な説明です。

第27節にあるユダヤ人が知っている「姦淫してはならない」と言う掟とは、たとえばExodus  20:14(出エジプト記第20章第14節)のモーゼの「十戒」の中にある「姦淫してはならない」と言う命令です。「姦淫」は新明解国語辞典では「倫理にそむいた肉体関係」と定義しています。旧約聖書の律法ではどのような場合に男性が女性と肉体関係を持って良いか、どのような場合にはいけないか、を規定した部分がたくさんありますが、私たちの常識的な理解とかけ離れたものはありません。ただし旧約聖書の律法では、基本的に「倫理にそむいた肉体関係」を営んだものは死罪です。

「マルコ」や「ルカ」にはこの部分と同じ記述は見つかりませんので(後半部分については後述)、いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分が「マタイ」の独自資料の位置づけになります。が、前回同様、こういう話の仕方は、いかにもイエスさまらしい教え方ですので、実際にイエスさまが語られた言葉そのものなのではないのかなと私は思います。

前回同様、イエスさまは第28節を「しかし私は言います」と聞き手の注意を促す形で語り始め、「誰でも情欲を抱いて女性を見るだけで、すでに心の中でその女性と姦淫を犯したことになる」と言います。男性が「情欲」を抱いて女性を見ればそれは「姦淫」であり、「姦淫」である以上、律法上は死罪です。女性を見て情欲を感じたら死罪なのだとしたら、この世の中に死罪にあたらない男性がいったい何人いるのか、という議論になるでしょう。答えは前回も書いたとおり、「この世の中に死罪にあたらない人はいない」です。神さまは人の心をご覧になります。自分の心を覗かれて、「情欲」の面で神さまをガッカリさせたとしたら、その人は死罪なのです。ポイントは自分が死罪にあたる立場であると自覚しているかどうかなのです。自分がどれほど神さまをガッカリさせる存在か、と言うことを自覚して、それを素直に認めて、神さまに大変申し訳ないことをしていると思い、神さまに謝罪する姿勢を取れるかどうかなのです。

ここではそんな生ぬるいことを言っているのではないのではないか、と言う人もいるかも知れません。なにしろイエスさま自身が第29節と第30節では、情欲を起こさせる目をえぐり出し、罪を犯させる手は切り落とせ、と言っているのですから。ここの部分は同じような記述が「マルコ」にも見られます(Mark 9:42-48・マルコの福音書第9章第42節~第48節)。ただし「マルコ」では、やや違った形で違う文脈で用いられていて、必ずしも姦淫に結びつけられているわけではありません。ですが「マルコ」に登場することからも明らかなのは、この「えぐり出せ」とか「切り落とせ」と言う恐ろしい言葉自体は間違いなくイエスさまの言葉だと言うことです。

私はこれを字面どおり受け取る必要はないと思います。根拠は、新約聖書の中には片目や片腕の弟子が登場する場面はありませんから、イエスさまが実際に弟子に命じてこれらを実行させたのではないだろうと言うことと、仮に私が片目をえぐり出したり、片腕を切り落としたとしても、それで私がすっかり神さまをガッカリさせない人に生まれ変われるかと言ったら、そんな保証も、自信もまったくありません。私はどのような身体になっても、生きている限り、相変わらず神さまをガッカリさせ続けることでしょう。イエスさまが言いたいのは、片目や片腕を切り落とすくらいの覚悟で、自分の行っている行為の罪深さを考えなさい、それくらい重い話なのだ、ということでしょう。

ちなみに旧約聖書では「姦淫」と言う言葉は「倫理にそむいた肉体関係」とは異なる文脈でも登場します。それはユダヤ人が聖書に書かれた神さまではない、周辺国の他の宗教の偶像を拝む行為を指しています。ユダヤ人が異民族の宗教の神さまの偶像を崇拝するような儀式を行い(ときには自分の肉体を傷つけたりします)、捧げ物をし(ときには自分の子供をいけにえに捧げたりします)、いつもいつもその異教の偶像のことが心を占めて恋いこがれるような様を「姦淫」と呼ぶのです。

この「姦淫」は「倫理にそむいた肉体関係」の「姦淫」とどのような関係があるのでしょうか。これは本来自分の心を占めているべき異性、たとえば配偶者であったり恋人であったりする異性がいるのに、倫理や道徳や道義に背くような別の異性のことで心を一杯にして、いつもいつも恋いこがれているような状況と同じだと言うのでしょう。配偶者や恋人は、相手の心の中が別の異性のことで一杯だと知ったら、さぞかしガッカリするでしょう。神さまも同じように、本来は自分のことで心の中を一杯にしているべき人間が、異教の偶像で心を一杯にしているのを知ると本当にガッカリする、それは「姦淫」と同じことだ、と言うのです。イエスさまが律法の裏側に踏み込んで、「怒り」や「倫理に背く情欲」を罪だと説いている理由はここにあるのです。







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