マタイの福音書第5章第27節~第30節:姦淫に関する教えマタイの福音書第5章第17節~第20節:律法に関する教え

2015年12月27日

マタイの福音書第5章第21節~第26節:怒りに関する教え

第5章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Anger

怒りに関する教え


21 “You have heard that our ancestors were told, 'You must not murder. If you commit murder, you are subject to judgment.'

21 あなた方は私たちの祖先が「殺してはならない。殺人を犯した者は裁きに従う」と言われたの聞いています。

22 But I say, if you are even angry with someone, you are subject to judgment! If you call someone an idiot, you are in danger of being brought before the court. And if you curse someone, you are in danger of the fires of hell.

22 しかし私は言います。もしあなた方が誰かについて怒っただけでも、あなた方は裁きに従うのです。もしあなた方が誰かをバカと呼べば、法廷の前へ連れて行かれる恐れがあります。そしてもしあなた方が誰かを呪えば、あなた方は地獄の火に焼かれる恐れがあるのです。

23 “So if you are presenting a sacrifice at the altar in the Temple and you suddenly remember that someone has something against you,

23 だからもしあなたが寺院の祭壇にいけにえを捧げようとしているときに、突然誰かがあなたに反する何かを抱いていることを思い出したら、

24 leave your sacrifice there at the altar. Go and be reconciled to that person. Then come and offer your sacrifice to God.

24 いけにえはそこの祭壇に置いておきなさい。行って、その人物と仲直りしなさい。それから来て神さまにいけにえをささげなさい。

25 “When you are on the way to court with your adversary, settle your differences quickly. Otherwise, your accuser may hand you over to the judge, who will hand you over to an officer, and you will be thrown into prison.

25 あなたに反対する人と一緒にあなたが法廷に向かっているときには、すぐに意見の相違を解決しなさい。さもないとあなたを告訴する人があなたを裁判官に引き渡し、裁判官はあなたを役人に引き渡し、あなたは牢屋に放り込まれます。

26 And if that happens, you surely won’t be free again until you have paid the last penny.

26 そしてそれが起これば、あなたは最後のペニーを払い終えるまで決して自由にはなれません。




ミニミニ解説

前回、第17節で、イエスさまは自分が来た理由を言っていて、それは神さまの言葉を預かったモーゼや預言者の「目的を成就するため」であり、これはすなわちイエスさまの福音を信じる人のひとりひとりに神さまの霊、聖霊が与えられて、そうすることで、人がその性分によってどうしても守ることのできなかった神さまの律法を守れるようになる日のことを言っていました。つまり聖霊を受けた人が律法を守る人になるのです。それが律法の成就です。ここからは旧約聖書の律法や預言の裏にある神さまの目的や意図についての具体的な説明が始まります

今回の第21節~第26節では「怒り」について、神さまの意図が教えられています。この部分は「マタイ」にしか見あたりませんので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」の独自資料の位置づけですが、語られた教えの内容は「Q資料」に存在しても矛盾のない、イエスさまらしい教えだと思います。

第21節でイエスさまが引用して、ユダヤ人の祖先が聞かされたと言う「殺してはならない。殺人を犯した者は裁きに従う」の言葉については、私たち日本人にも何の不思議もありません。「人を殺してはいけない」と言うのは世界中のどこの民族にも見られる共通のルールです。ユダヤ人の場合は「狭義の律法」と言われるモーゼの「十戒」でも、Exodus  20:13(出エジプト記第20章第13節)で明確に「殺してはならない」と言っています。そしてその報いについてはいろいろな記述があるのですが、たとえばExodus  21:12(出エジプト記第21章第12節)では「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない」と言っています。つまり人を「打って」殺した人は必ず死刑に処されます。

ところがイエスさまは第22節を「しかし私は言います」と聞き手の注意を促す形で始めてさらに議論を推し進め、「もしあなた方が誰かについて怒っただけでも、あなた方は裁きに従う」と言います。つまりイエスさまによると、問題なのは「殺したか」「殺さずに済んだか」の結果の話ではなくて、心の中に「怒り」があったかどうかだと言うのです。日本の裁判でも殺人を審理するときに「殺意があったか」を争ったりしますが、イエスさまの場合は「殺意」ではなくて、その発端とも言うべき「怒り」です。

第22節には、「あなた方が誰かについて怒っただけでも、あなた方は裁きに従う」とした後、「誰かをバカと呼べば、法廷の前へ連れて行かれるかもしれない」、そして「誰かを呪えば、あなた方は地獄の火に焼かれるかもしれない」としています。これが制定者である神さまが律法にこめた意図です。「殺したか」「殺さずに済んだか」で裁くのではなく、最終的には殺意にさえ至る「怒り」について考えさせるために、神さまは「殺してはならない」と言う律法を与えたのだ、と言うのです。

私は以前に神さまをガッカリさせる「罪」が、聖書の中では四つの段階を経て完成する、と教わり、そのとおりだと思っています。その四段階とは、(1)まず心の中にきっかけとなる想念が起こり、(2)その想念を心の中で育て、(3)実際のアクションに移し、(4)それを隠す、です。これを「怒り」にあてはめると、(1)心の中に誰かに対する怒りが生まれ、(2)その怒りを心の中で膨らませ、(3)相手に対してアクションを起こし(例えば、文句を言う、暴力をふるう、殺す、など)、(4)それを隠します(言い訳や言い逃れをしたり、犯罪を隠蔽しようとする)、となります。

私は(1)の、心の中に想念が生まれることは避けられないと思っています。中には「想念」が起こることを嫌って自己嫌悪したり、修行によって想念そのものを封じようと努力する人もいますが、私は心の中に想念が起こることを素直に認めることが正しいと思っています。たとえば今回の例では「誰かに怒りを感じること」、これは避けられないと思うのです。日常の些細な出来事から始まって、世の中は自分の意図通りに進まないことがたくさんあります。それについてつい怒ったり、理不尽だ、不当だと思ってしまう・・・、これは避けられません。心の中に闇(ダークサイド)が生まれる瞬間です。

ポイントはこの闇の想念を、(2)(3)(4)の段階へ進めないことです。通常、心に闇が発生すると、人には周囲が見えなくなります。冷静に自分の闇を見つめることができないうちに、段階は(2)(3)(4)と進んでしまうのです。だからできるだけ早く自分の中の闇に気づいて、自分の心に歯止めをかけなければいけません。私はこれも自分の力ではできない、と思っています。「自分は大丈夫。冷静に振る舞える」と思っていても、いざそういう局面に置かれると、ブリブリと怒り出して大きな声を出して怒鳴ったり、機嫌を損ねてしまいます。できる限り(1)(2)(3)(4)の四段階を早い段階で止めるように努力して、どれだけ注意していても、毎日のように四段階がスタートしてしまうこと、自分だけでは到底対処できないであろうことを素直に認めて、神さまに許しと助けを乞う、この姿勢が求められているのだと思います。

それでもイエスさまは「誰かをバカと呼べば、法廷の前へ連れて行かれるかもしれない」、「誰かを呪えば、あなた方は地獄の火に焼かれるかもしれない」と言っています。これはそのとおりです。神さまは誰かをバカと呼ぶ私を見て、誰かを呪っている私を見て、ガッカリしているのです。ですからこれは私の「罪」です。私は自分が有罪者だと認めます。イエスさまや洗礼者ヨハネが伝道する道とは、「罪を認め、その罪を悔い改め、神さまに向き直ること」です。世の中には罪を犯さない人は一人もいないのです。求められているのは、そのことを素直に認め、神さまに申し訳ないと思って後悔し、神さまに許しと助けを乞うことなのです。

第23節に書かれている「寺院の祭壇にいけにえを捧げようとしているとき」や、第25節に書かれている「あなたが法廷に向かっているとき」とは、聖書の律法に示されたプロセスに従って、神さまに向き合うときです。そのときには「怒り」の面で、自分が神さまをガッカリさせるようなことをしていないか、よく考えてみて、もしひとつでもそういう要素に思い至ったのなら即座にアクションを起こして解決しなさい、と言うのです。罪の自覚、つまりは神さまに対する汚れの自覚があるままに、神さまと向き合うことは神さまに対して誠意を示しているとは言えないからです。







english1982 at 19:00│マタイの福音書 
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