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2015年12月27日

マタイの福音書第5章第17節~第20節:律法に関する教え

第5章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about the Law

律法に関する教え


17 “Don’t misunderstand why I have come. I did not come to abolish the law of Moses or the writings of the prophets. No, I came to accomplish their purpose.

17 私が来た理由を誤解してはいけません。私はモーゼの律法や預言者の書物を廃止するために来たのではありません。違います。私は彼らの目的を成就するために来たのです。

18 I tell you the truth, until heaven and earth disappear, not even the smallest detail of God’s law will disappear until its purpose is achieved.

18 あなた方に本当のことを言います。天と地が消え去るまで、神さまの律法の一番小さな部分でさえ、その目的が達成される前に消え去ることはありません。

19 So if you ignore the least commandment and teach others to do the same, you will be called the least in the Kingdom of Heaven. But anyone who obeys God’s laws and teaches them will be called great in the Kingdom of Heaven.

19 だからもしあなた方が一番小さな掟を無視して、他の者にも同じようにするようにと教えるのなら、あなた方は天の王国で最も小さい者と呼ばれます。神さまの律法を守り、それを教える者は天の王国では偉大な者と呼ばれます。

20 “But I warn you -- unless your righteousness is better than the righteousness of the teachers of religious law and the Pharisees, you will never enter the Kingdom of Heaven!

20 しかしあなた方に警告します。あなた方の正しさが、律法の先生やファリサイ派の正しさにまさるのでなければ、あなた方は決して天の王国には入れません。




ミニミニ解説

今回の部分は「マルコ」にも「ルカ」にも登場しませんので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」の著者が独自の資料に基づいて追加した部分になります。

これまでも何度か書いているとおり、「マタイ」を生み出した教会(あるいは教会群)は恐らくユダヤ人を主体とする教会で、ファリサイ派を代表とする律法を重視する保守派から出てきています。その「マタイ」が、独自の資料から追記する形でわざわざイエスさまに「自分が来た理由」を語らせています。それはまず「律法を廃止するためではない」であり、「彼ら(モーゼや預言者)の目的を成就するため」です。

「マタイ」ではこの後にイエスさまが激しくファリサイ派を批判する場面が出てくるのですが、それは自ら「律法を守っている」と主張するファリサイ派が、どうして律法が神さまから与えられたのか、その本来の意図を理解せず、「表面上の清さ」だけを追い求め、それを自慢して高慢になっていたからです。

今回の部分で「マタイ」の著者が言いたいのは、自分たち(=「マタイ」の教会)がファリサイ派を批判するポジションを取ったからと言って、それは「ファリサイ派の高慢」を批判しているのであって、「律法そのもの」を否定しているのではない、と言うことでしょう。逆にイエスさまは自分が来たのは「彼らの目的を成就するため」と言っています。ここで「彼ら」は「モーゼ」と「預言者」たちを指し、それは神さまの言葉を預かった人という意味です。つまり律法は神さまの言葉なのです。

律法は神さまの言葉ですから、神聖であり、正しいものです。もし人が律法を守りながら生きるのであれば、人は神さまの目に「正しい」と映り、人と神さまとの間に不和はありません。人は何の問題もなく天の王国へ迎えられることになります。しかし人はどうしてか、律法を守ることができません。冷静に議論すれば何が正しいかはきちんと判断できるのに、なぜかその反対を行うことがしばしばです。たとえば配偶者がいるのに他の異性を見て惹かれてしまう。人の持ち物を見てうらやましく思う。他人の言動についかっとなってしまう。本当のことを言えずに嘘をついてその場を逃れる。そうやって表面上は善人を装いながら生きていても、すべての人が、他の人に見せられない裏の自分、自分の闇を持っています。これが人間という生き物の性分です。これでは人はいつまで経っても律法を守ることができず、天の王国へは入れないということになります。

たとえば旧約聖書で預言者のエゼキエルは次のように書いています。Ezekiel 36:24-27(エゼキエル書第36章第24節~第27節)です。

「24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」([新改訳])。

これはエゼキエルが人が救済されるときの様子を予告した預言ですが、この中でエゼキエルは「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける 」と言っています。これはイエスさまの福音を信じる人のひとりひとりに神さまの霊、聖霊が与えられることを言っています。そしてイエスさまの福音を信じて聖霊を受けた人に、「わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる 」と言います。つまり聖霊を受けた人が律法を守る人になるのです。人がその性分によってどうしても守ることのできなかった神さまの律法を守れるようになる日、それが律法の成就でしょう。イエスさまはそれを実現するために地上に遣わされたのです。

第18節は「天と地が消え去るまで、神さまの律法の一番小さな部分でさえ、その目的が達成される前に消え去ることはありません 」と言っています。もちろんです。律法はそもそも神聖であり、正しいのです。消え去ることはありません。一番小さな掟でも、それを無視する者は天の王国では最も小さい者と呼ばれ、神さまの律法を守り、それを教える者は天の王国では偉大な者と呼ばれるのです。

第20節には「あなた方の正しさが、律法の先生やファリサイ派の正しさにまさるのでなければ、あなた方は決して天の王国には入れません。」と書かれています。人が天の王国に入る条件は神さまの目に自分が正しく映ること、自分が律法に照らして100%正しいことです。しかしそれは上に書いたように無理な話です。人々の尊敬を集めるファリサイ派だって自分たちが守っていると主張しているだけで、イエスさまから「偽善者め」と厳しく批判されるのです。自分の正しさがファリサイ派の正しさにまさる方法、それはただひとつ、人が自分の力では到底達成できないことを神さまがイエスさまを通じて成し遂げてくれたと信じることです。それが人が天の王国に入ることのできる唯一の方法です。








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