マタイの福音書第5章第17節~第20節:律法に関する教えマタイの福音書第5章第1節~第12節:山の上の説教、幸福の教え

2015年12月27日

マタイの福音書第5章第13節~第16節:塩と光についての教え

第5章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teaching about Salt and Light

塩と光についての教え


13 “You are the salt of the earth. But what good is salt if it has lost its flavor? Can you make it salty again? It will be thrown out and trampled underfoot as worthless.

13 あなた方は地の塩です。ですがもし塩が味をなくしたら、塩の何が良いのでしょうか。再びそれを塩辛くできますか?きっと外に捨てられて、価値がないものとして踏みつけられるのです。

14 “You are the light of the world -- like a city on a hilltop that cannot be hidden.

14 あなた方は世界の光です。隠すことのできない、山の上にある町のようなものです。

15 No one lights a lamp and then puts it under a basket. Instead, a lamp is placed on a stand, where it gives light to everyone in the house.

15 ランプに灯りをともして、それをかごの下に置く人はいません。逆にランプは燭台の上に置いて、家の人々みんなに灯りを与えるのです。

16 In the same way, let your good deeds shine out for all to see, so that everyone will praise your heavenly Father.

16 同じようにあなた方の良い行動を輝かせて、みんなに見えるようにしなさい。そうやってみんながあなた方の天の父をあがめるようにです。




ミニミニ解説

前回までの八つの祝福に関する教えに続いて、今回からはその他のイエスさまの説教の言葉を読んでいきましょう。

今回の「あなた方は地の塩です(You are the salt of the earth.)」の言葉は「マタイ」の他、「マルコ」にも「ルカ」にも掲載されていますから、「地の塩」の話はイエスさまの言葉の中でも有名で、みながあちこちで引用していた言葉のひとつだったのでしょう。

最初に書いておきますが、今回の「あなた方は地の塩です」の言葉に代表されるように、イエスさまのほとんどの言葉はこのような「たとえ(parable)」になっていて、何が言いたいのかが直接的にはわかりません。その「たとえ」を使ってイエスさまはいったい何を言いたかったのか、イエスさまの意図はなんだったのか、聖書の中に「正解」はほとんど書かれていません。なので「私はこう思う」と自分の「解釈」を使って議論することになります。そして特定の解釈や、解釈のかたまりを「教義」(ドクトリン、ドグマ)と呼びます。

つまり私たちが「聖書に書かれている『あなた方は地の塩です』とはこういう意味です」と書かれているのを読んだり、誰かが話すのを聞いたら、それは「解釈」のひとつとして伝えられているのであって、他の場所では違う解釈が語られているのかも知れません。どれを「正解」と考えるかはその人次第です。このメルマガを書いている私自身もみなさんにひとつの「解釈」を提供していますが、私の立ち位置は、できるだけ当時のユダヤ人の立場に立って解釈したいと言うことと、無理なこじつけ的な解釈は避けて、できるだけ冷静に文脈を読み取ろうとすることを心がけながら、研究者の解釈をいくつか読み、自分で聖書を読んだときに心に響いてくるものと比べて無理がないか、不自然さがないかどうかを大切にしながら書いています。

さて「マタイ」の第13節を読むと、「あなた方は地の塩です」の後には塩が塩味をなくしてしまったら価値がなくなって捨てられる、と書かれています。つまり塩は塩辛いから塩としての価値があるのであって、塩辛くない塩は捨てられる、と言っています。

ユダヤ人にとっての「塩」は私たち日本人にとっての塩と似ています。Leviticus 2:13(レビ記第2章第13節)には次のように書かれています。「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」([新改訳])。つまり「塩」は神さまとの契約と密接に結びついていて、捧げ物に塩で味付けをしたり、すべての捧げ物に「塩」を添えることが義務づけられているのです。ユダヤ人にとって「塩」は「清め」の意味を持ちます。私たち日本人も「塩」でさまざまな「お清め」を行いますし、「塩」が食物を腐敗から防ぎ、保存に有効であることを知っています。

イエスさまはそんな「塩」をたとえにして、「あなた方は地の塩です」と言って、イエスさまに従う人たちが世の中に対して「塩の役割を果たす」と言っているのでしょう。そして塩は塩辛いから塩なのであって、塩であるはずの弟子たちが塩気をなくしてしまったら、まったく意味がないと言います。イエスさまを信じる人は世の中に対して「清め」の役割を果たし、世の中を腐敗から防ぐことを期待されているのです。Leviticus 19:2(レビ記第19章第2節)では神さまはモーゼに「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主である私が聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」([新改訳])と言っています。神さまが清いのだから、神さまを信じるユダヤ人も清くなければならない、と言うのです。イエスさまの「あなた方は地の塩です」はこれに通じる言葉だと思います。

ちなみに第13節の後半で「価値をなくした塩」について書かれていますが、「きっと外に捨てられて、価値がないものとして踏みつけられる」の部分をことさらに解釈する解説に出会うことがあります。それはイエスさまの当時から、この世の終わりに起こるとされている「最後の審判」と結びつけた解釈で、塩が塩気をなくしてしまうと、それが最後の裁きのときに影響しますよ、と言う解釈です。

第14節では「あなた方は世界の光です(You are the light of the world)」と言っています。「世の光」のたとえもやはり「マルコ」にも「ルカ」にも掲載されている有名なたとえ話です。

イエスさまの時代には電気はありませんから、灯りと言えば燃える炎の光だけで、当時の電気のない夜はいまからは想像もつかないくらい暗かったはずです。昼間に旅を終えることができず、仕方なく夜道を急ぐ羽目に陥った旅人は、盗賊や野獣の襲来に怯えながら、遠く山の上に見える町の灯火だけを頼りに進んだのでした。つまり闇の中に輝く「山の上の町」の光は町の外側にいるすべての人々の目的地であり、希望・安心・平和の象徴だったのです。

また「光」は聖書の中では神さまの象徴でもあります。イエスさまの神性を強く伝える「ヨハネの福音書」では冒頭からイエスさまを悪としての闇と対照させて、光にたとえて書いています。弟子たちに対して「あなた方は世界の光だ」と言い、それを「山の上にある町の光」にたとえることで、イエスさまは弟子たちがイエスさまを通じて神さまに結びつけられた存在であり、ローマ帝国の支配下で奴隷のように暮らすイスラエルの中で、希望や平和の象徴として光り輝く存在なのだと言いたいのでしょう。

第15節では、そのように周囲を照らす目的で灯された光を、わざわざさえぎるようにかごの下に置く人はいない、と言います。光り輝くべき存在なのだから、こそこそと隠れるようなことはせず、逆に堂々と高いところから周囲に光を投げかけるような存在でありなさい、と言うのです。そして第16節にはその目的が書かれています。それは「みんなが天の父(=神さま)をあがめるように」です。弟子たちが「地の塩」「世の光」として世を清め、腐敗を防ぎ、人々に希望や平安の気持ちを与えるのは、そんな弟子たちを見て、みなが神さまを褒め称えるようになのです。








english1982 at 21:00│マタイの福音書 
マタイの福音書第5章第17節~第20節:律法に関する教えマタイの福音書第5章第1節~第12節:山の上の説教、幸福の教え