マタイの福音書第5章第13節~第16節:塩と光についての教えマタイの福音書:第5章

2015年12月27日

マタイの福音書第5章第1節~第12節:山の上の説教、幸福の教え

第5章


(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Sermon on the Mount

山の上の説教


1 One day as he saw the crowds gathering, Jesus went up on the mountainside and sat down. His disciples gathered around him,

1 ある日イエスさまはは群衆が集まっているのを見ると、山に登って座りました。弟子たちがイエスさまのまわりに集まりました。

2 and he began to teach them.

2 そしてイエスさまは彼らに教え始めました。



The Beatitudes

幸福の教え


3 “God blesses those who are poor and realize their need for him, for the Kingdom of Heaven is theirs.

3 「神さまは、弱くて、神さまを必要とする気持ちをはっきりと意識する人たちを祝福します。なぜなら天の王国はその人たちのものだからです。

4 God blesses those who mourn, for they will be comforted.

4 神さまは、嘆き悲しむ人たちを祝福します。なぜならその人たちは慰められるからです。

5 God blesses those who are humble, for they will inherit the whole earth.

5 神さまは、謙虚な人たちを祝福します。なぜならその人たちは地球全体を受け継ぐからです。

6 God blesses those who hunger and thirst for justice, for they will be satisfied.

6 神さまは、正義に飢え渇く人たちを祝福します。なぜならその人たちは満たされるからです。

7 God blesses those who are merciful, for they will be shown mercy.

7 神さまは、慈悲深い人たちを祝福します。なぜならその人たちには慈悲が示されるからです。

8 God blesses those whose hearts are pure, for they will see God.

8 神さまは、心が清い人たちを祝福します。なぜならその人たちは神さまを見るからです。

9 God blesses those who work for peace, for they will be called the children of God.

9 神さまは、平和のために働く人たちを祝福します。なぜならその人たちは神さまの子どもと呼ばれるからです。

10 God blesses those who are persecuted for doing right, for the Kingdom of Heaven is theirs.

10 神さまは、正しいことを行ったことで迫害される人たちを祝福します。なぜなら天の王国はその人たちのものだからです。

11 “God blesses you when people mock you and persecute you and lie about you and say all sorts of evil things against you because you are my followers.

11 あなた方が私の信者であるという理由で、人々があなた方をあざ笑い、迫害し、あなた方についてありもしないことを言って、あなた方に対してありとあらゆる悪口を言うとき、神さまはあなた方を祝福します。

12 Be happy about it! Be very glad! For a great reward awaits you in heaven. And remember, the ancient prophets were persecuted in the same way.

12 それを幸せだと思いなさい。大きく喜びなさい。なぜなら天国では大きな報酬があなた方を待っているからです。そして覚えておきなさい。歴史上の預言者たちも同じように迫害されたのです。




ミニミニ解説

「マタイ」の第5章~第7章はイエスさまの語録集になっています。「山の上の説教」は、そのイエスさまの説教が山の上で行われた、という想定で書いています。これは第5章~第7章の話が、ただ一度の「山の上の説教」で行われたと言うよりも、イエスさまがガリラヤ地方で行った伝道活動の中で話された語録を、このような形に編集して提供しているのだと思います。ただ、イエスさまの伝道活動では、こうして屋外で群衆や弟子たちに教える場面も少なからずあったのでしょう。

第5章の最初に登場するのが「Beatitudes」(「ビアティチュード」と発音)です。辞書で調べると研究社の新和英中辞典には「八福、キリストが山上の垂訓中に説いた八つの幸福の教え。マタイによる福音書 5:3‐12」と書かれています。つまりイエスさまが山上で教えたとされ、「マタイ」の第5章第3節~第12節に書かれている、「God blesses」から始まる8つの言葉を「Beatitudes」と呼ぶのです。

[新改訳]では八つの幸福の部分は、「心の貧しい者は幸いです」などと言うように「~の者は幸いです」と書かれています。私は[NLT]の英文に書かれているのをそのまま「神さまは~の人を祝福します」と訳しました。原文の逐語訳に近い[KJV]では「Blessed are the poor in spirit」などとなっていますから、原文は「祝福されるのは~のような人々です」と言う書き口のようです。

「bless」と言う単語は新和英中辞典には「〈神が〉〈人などに〉恵みを授ける、祝福する」の意味だと書かれています。[新改訳]のように「~は幸いです」と意訳してしまうと、その「幸い」がどこから来ているのか、実は「幸い」は、そもそも神さまが人を祝福するところから来ているのだ、と言うことが伝わらない気がします(極端な話をすれば、主観的に自分が「私は幸いです」と思ったら、それがすなわち「幸い」と言う解釈をされてしまいかねません)。なので個人的には「神さまは~を祝福します」と言う訳の方が原文の文意が伝わりやすくて良いのではないか、と思います。逐語訳を越えて、文脈としての意味、一般的なユダヤ人がその部分を読んだときに何を感じるか、の部分までを伝えようとするのが[NLT]のそもそもの意図でもありますし。


一つ目と二つ目

さて「八つの幸福の教え」の一つ目は、「God blesses those who are poor」、つまり神さまは「poor」な人を祝福する、とあります。「poor」と言う単語は新和英中辞典には「I 1 貧しい、貧乏な(中略)、II 2 〈体・記憶など〉弱い; 〈健康・気力など〉悪くした、害した(中略)、V 1 哀れな、不幸な、気の毒な(後略)」などと書かれています。原文に近い[KJV]には「Blessed are the poor in spirit」として、「霊に於いてpoorな人々は祝福される」と書いていて、それを[NLT]は「those who are poor and realize their need for him」(弱くて、神さまを必要とする気持ちをはっきりと意識する人たち)と意訳しました。なのでこの「poor」は金銭的、経済的に「貧しい」ことを言っているのではなくて、「霊」のレベルで「弱々しく」「哀れ」な状態を言っているのだと思います。つまり自分は哀れで弱い状態だから神さまがいないとダメなんだ、どうしたって神さまが必要なんだ、という神さまに対する渇き、お金や物質ではなくて、霊のレベルでの弱さや貧しさを自覚している人がいたとしたら、神さまはそう言う人に恵みを授け、祝福を与えるのだと言うのです。

これはキリスト教の考え方の本質だと思います。キリスト教では神さまを絶対視して依存し、一般的に「宗教」と呼ばれる活動から区別されます。一般的な「宗教」では信者は自分の力で苦行や修行や精神や肉体の鍛錬を通して道を切りひらいて行き、最終的に「悟り」などの境地や高みに達しようとするのですが、「マタイ」がここの節で言っているのは「私は神さまがいないとダメなんです」「だから神さまの助けが必要なんです」と、いつまでも神さまに頼りきってオロオロとすがるような人がいたら、神さまはそういう人間を祝福すると言っているのです。これがキリスト教が求める人間像です。逆に言うと「もう大丈夫です。ここから先は私は神さまなしでもやっていけます」などと言う「自立」の言葉は求められていないのです。いろいろなことがうまく行ったと感じるとき、クリスチャンが神さまに言うべき言葉は「ありがとうございました。私のような者のために恵みをいただき心から感謝します。どうかこれからも私を守り導いてください。何しろ私は神さまなしではやっていけないのですから」なのです。

誤解してはいけないのは、「クリスチャンは神さまに頼りきりで努力をしない人」と言っているのではないところです。クリスチャンが追求するのは「神さまの目に正しく映る人」です。自分のエゴの実現ではなく、ただひとつ、神さまを喜ばせるために努力するのです。どのようにすれば自分の言動が神さまの目にかなうのか、どうすれば神さまは喜ばれるのか、そのヒントは聖書を通して繰り返し書かれていて、イエスさまはそれを実践した私たちのお手本です。だから私たちはイエスさまが何を教えたか、イエスさまが何をしたかを、学ぶのです。すべては自分の言動が神さまの目に正しく映り、神さまに喜んでいただくためにです。

私はどのような人も「心の闇」を持っていると思います。誰にも見せられない、誰にも言えない、周囲から隠している何かです。「隠している」と言うことはそれが「悪」だと自覚している、ということです。また私はどのような人にも、「自分で自分をコントロールできる」という自負があると思います。食欲や性欲などの肉欲、プライドやエゴなどの自分だけを大切に思う欲求、「きっと自分は大丈夫」と思っているとしても、本当にどんなときでも、自分の良心に照らして正しい行動を選択できるでしょうか。このときの「正しさ」は、程度とか重要度で計る問題ではなく、本当にどんな局面でも、自分の行動は神さまの目に正しく映っている、と言いきれるでしょうか。人間は修行を積めばある日「ぜったいに大丈夫」という境地に到達できるのでしょうか。福音書の中で「自分は神さまの目に正しく映っている」と主張したのはファリサイ派です。彼らはそのためにイエスさまから厳しい批判を受けるのです。

この節の後半には「for the Kingdom of Heaven is theirs」(なぜなら天の王国はその人たちのものだからです)と書かれています。つまり、自分は弱くてダメなので、神さまなしではやっていけない、とはっきりと自覚する人たちには、その見返りに「天の王国」が与えられるのです。ここで注目したいのは「天の王国」を受け取るための条件として、「自分の言動が神さまの目に正しく映ること」が求められているのではないと言うこと。必要なのは「自分は神さまなしではやっていけない」という自覚だけです。その自覚さえあれば「天の王国」はもらえるのです。ではその「天の王国」と言うのはいったい何なの?、という話になりますが、それはここには書かれていません。別の箇所で探してみましょう。

二つ目には神さまは「those who mourn」(嘆き悲しむ人たち)を祝福する、と書かれています。これは一つ目の「自分は弱くて神さまを必要としているとはっきりと意識する」を受けているのだと思います。自分は弱くてオロオロするような存在だから、そういう人は自分の「弱さ」を嘆き悲しむのです。神さまはそのような人を祝福し、慰めると書いてあります。つまり気持ちが弱くて嘆きたいときや悲しいときには、神さまの前では虚勢を張る必要はなく、オロオロと嘆き悲しみ、どうか助けてください、と神さまだけを寄り頼めばよいのです。そうしたら神さまはそう言う人を慰めてくださる、と書いてあります。

一つ目と二つ目がセットになっていましたので、八つの祝福は二つずつを組にして四つのセットでできているのではないか、と考えてみます。


三つ目と四つ目

三つめには神さまは「those who are humble」(謙虚な人たち)を祝福すると書かれ、四つめに神さまは「those who hunger and thirst for justice」(正義に飢え渇く人たち)を祝福する、と書かれています。

「humble」は研究社の新英和中辞典に類語の記載があり、「柔和で高慢や独断的なところがなくへりくだった」様子と書かれています。[KJV]では「meek」という単語が使われていて、新英和中辞典では「(腹を立てず)じっと我慢する、 おとなしい、素直[柔和]な」と書かれています。私はここはそのまま、そういう人物を指向しなさい、つまり「柔和で高慢なところがない人物でありなさい」と読みましたが、誤解を招く可能性があるとしたら、これが「クリスチャンは受け身。屈従的。いくじなし」みたいなイメージに結びつけられるところでしょうか。

以前会社で一緒に働いていた人から「私はクリスチャンを軽蔑します」と言われたことがあって、びっくりして「どうしてですか?」ときいたところ、その人はアメリカに留学してホームステイしたことがあって、そこの家がクリスチャンの家庭だったそうで、その家の夫婦は毎週日曜日にはきちんと教会に通うものの、息子も娘も非行に走って家庭はボロボロに崩壊したような状態で、それなのに夫婦は「これは神さまの計画されたこと。きっと神さまが助けてくださる」と言うだけで、息子や娘に対して自分から何かの行動に出るわけでなかったのだそうです。息子さんや娘さんと同年代だったその方は、彼らが両親からの働きかけを待っていることが痛いほどわかったのですが、ひたすら神さまに祈るだけのその夫婦を見て、クリスチャンというのはそういう風に事を荒立てないで、すべての苦難を神さまの意志として受け入れて我慢している人たち、と言うイメージを持ったのでした。

私が通っていた教会にもそう言う方々が少なからずいらっしゃったので、私にはこの人の言うことがとてもよくわかって悲しくなりました。そしてクリスチャンだというのなら聖書を読めばよいのに、と思いました。神さまを喜ばせた人たち、神さまから祝福を注がれた人たちが、どういう行動を取っているかを聖書の中で読めば良いのに、と思いました。福音書に登場するイエスさまだけを見てもわかります。イエスさまの言動は私たちのお手本です。果たしてイエスさまが屈従的でいくじなしだったでしょうか。それは読めば誰にでもわかると思います。屈従的でいくじなしの人には40日の断食には耐えられないし、背中を切り裂く40回のむち打ち刑や、両手足を杭のような太い釘で貫く十字架刑にも耐えられないと思います。そしてイエスさまが神さまをガッカリさせる人たちに対して、どれほど強烈な姿勢を貫いたか・・・。

そもそも「受け身。屈従的。いくじなし」として現実を受動的に受け入れていたのでは、「正義に飢え渇く人たち」にはなれないと思います。四つめに書かれている「正義に飢え渇く」の正義は[NLT]では「justice」、[KJV]では「righteousness」と書かれています。この「正義」「正しさ」は言うまでもなく、自分本位の「正しさ」ではなく、神さまの目で見た「正しさ」です。神さまの目による善、私たちの心の中にも植え付けられている倫理的な善、道徳的な善がこの世の中で行われることを待ち望む人たち、と言うのは決して受け身でもいくじでもなくて、そう言う善のために立ち上がり行動する人たちのことでしょう。

さて三つめでは「謙虚」な人は「地球全体を受け継ぐ(they will inherit the whole earth)」と書かれ、四つめでは「正義に飢え渇く人たち」は「満たされる」と書かれています。「地球全体を受け継ぐ」は、最初の第3節に書かれていた、「なぜなら天の王国はその人たちのものだからです」を思い起こさせます。つまり「天の王国」はきっとこの地球上に実現する地球全体を領土とするような王国で、「謙虚」な人がその王国を受け継ぐことになるのではないでしょうか・・・。そしてその地上に実現する天の王国では、神さまの目で見た「善」が実現しているのです。だからその王国を受け継ぐ人たちの「正義に対する渇き」が満たされるわけですね。

ちなみに、これら後半の時制はすべて「will」です。「will」と言う単語は中学や高校の英文法で単なる「未来形」として習いますが、ネイティブの人が使うときのニュアンスは「確定している確実に起こる未来」のことです。たとえば「It will rain tomorrow」は「明日は雨が降るでしょう」と訳しますが、この人は天気予報を見て明日は100%雨が降ると知っていて言っているのです。「明日は雨が降る」と言い切っても良いくらいの確信を表しています(雨が降るかどうかが不確実な場合は「It might rain tomorrow」のようになります)。つまりイエスさまが各文の後半で「will」を使って言っていることは、確実に起こると確信して言っているのです。


五つ目と六つ目

第7節では、神さまは「those who are merciful」(慈悲深い人たち)を祝福する、と書いてあります。「merciful」は「mercy(慈悲)にあふれた」と言う意味ですが、研究社の新英和中辞典によると「mercy」とは「慈悲,、情け、容赦」と書いてある後ろに、わざわざ「生殺与奪の権を握られている罪人などに対して罰しないで許そうとすること」と書いてあります。「生殺与奪の権(せいさつよだつのけん)」は難しい言葉ですが、これは新明解国語辞によると「相手を殺そうと生かそうと、物を取りあげようとやろうと、自分の思うままに出来る偉大な力」とあります。つまり自分の生死や所持品をどうするかを決める権利です。この権利を他者に握られている罪人と言うのは死刑囚のことでしょう。そんな死刑囚を罰しないで許そうとする気持ちのことを「mercy(慈悲,、情け、容赦)」と言うのです。

言い換えると第7節では、殺されて当然の死刑囚さえも罰しないで許そうとするレベルの情けの気持ちを持つ人は神さまの祝福を受ける、と書かれています。たとえば自分が、これはどう考えても怒って当然と言う状況におかれながら、それを怒らずに相手を許そうという気持ちを持ったとしたら、その人は祝福されるのです。もちろんこれも神さまの目で見て「怒って当然」の話ですから、一方的で独りよがりの理不尽な怒りを忘れてやる、と言うのとは違います。そういう情け深い人には神さまから「慈悲が示される(they will be shown mercy)」と書かれています。何度か書いていますが、私たち人間は神さまをガッカリさせずに生きることは不可能なのです。なにしろ神さまの「善」の基準は恐ろしく高いので、誰もこれを満たすことなどできないのです。だからどんな人も神さまの意図に反することをしてしまいます。神さまは万物の創造主で、私たちひとりひとりに命を与えた方ですから、私たちの生殺与奪の権を握っている方です。ガッカリさせられたときに、その人を煮ようが焼こうが神さまの意のままです。でも情け深い気持ちを持つ人については、神さまも慈悲の心を持って許してくださる、と言うのです。

第8節では、神さまは「those whose hearts are pure(心が清い人たち)」を祝福する、と書かれています。「pure」と言うのは「混じりけのない純粋さ」を表す単語ですが、研究社の新英和中辞典に書かれている訳の中では「Ⅳ (道徳的・性的に)潔白な, 清純な, 貞潔な」の意味がここの意味に近いのではないかと思います。と言うのは、「清い」と言う言葉は旧約聖書の律法の中で何度も何度も繰り返し出てくる言葉だからです。ユダヤ教の律法は何が「pure」で、何が「pure」でないかをさまざまな角度から定義しているのです。

律法はユダヤ人に「pure」であることを求めます。ユダヤ人は、「pure」であるために律法を理解し、そこに書かれていることを実践しなければならないのです。イエスさまの時代には律法に書かれていることばかりではなく、長老や律法学者が口頭の伝承で受け継いでいる聖書の外側にある細則までもが聖書と同じように重視され、合計して613項目の規則をひとつも違わずに守るものが「pure」だと解されてきたようです。

ところが第8節に書かれているのは「hearts are pure(「心が」清い)」です。たとえ自分が613項目の律法をひとつも違えずに守っているとして、そうやって表面上を「pure」に見せていたとしても、心の中はどうなのでしょうか。たとえばその人は第5節で書かれていたように「柔和で高慢や独断的なところがなくへりくだった」心を持っているのでしょうか。自分は律法を守っていると主張しているとしたら、それは高慢になって他者を見下しているのではないでしょうか。もしそうであればその人の「心」は清くないのです。イエスさまは表面だけを取り繕うファリサイ派をそう言って激しく批判します。

さて、「心が清い」として神さまに祝福される人は、なんと「神さまを見る(they will see God)」のです。「see」は人を目的語に持った場合には「〈人に〉会う、面会する」の意味も持ちます。前回も書いたように「will see」と「will」を伴っていますので、心の清い人は将来のどこかで必ず神さまに会うことが約束されているのです。では、いつか必ず神さまに会える、心が清い人と言うのはいったい誰なのでしょうか。神さまが求める人間の心とはどのような心なのでしょうか。それはここには書いてありませんが、その答えのヒントとなるイエスさまの言葉を福音書の中で探していきましょう。


七つ目と八つ目

第9節では、神さまは「those who work for peace(平和のために働く人たち)」を祝福する、と書かれています。[KJV]では「peacemakers」が祝福されると書かれていますが、これは「調停する人、仲裁する人」の意味です。つまり争いを好まず、逆に争いを調停したり仲裁して平和を追求する人を神さまは祝福するのです。そしてそういう人たちは「the children of God(神さまの子供)」と呼ばれる、と書かれています。第10節では、神さまは「those who are persecuted for doing right(正しいことを行ったことで迫害される人たち)」を祝福する、と書かれており、「Kingdom of Heaven is theirs(天の王国はその人たちのものだ)」とされます。

八つの神さまの祝福に関する教えの最後のペア、つまり七つ目と八つ目を読むと、私は何だか他のペアとは雰囲気が違うなぁ、と感じます。一つ目に戻って順番に振り返ると神さまの祝福を受けるのは「神さまを必要とする気持ちをはっきりと意識する人たち」、「嘆き悲しむ人たち」、「謙虚な人たち」、「正義に飢え渇く人たち」と前半部分には神さまに愛される人の「心のありよう」が書かれていて、後半の五つ目に入ると「慈悲深い人たち」、「心が清い人たち」と「罪」についての定義や「行動」のあり方が入って来ます。そして最後の二つではいよいよ「平和のために働く人たち」、「正しいことを行ったことで迫害される人たち」となって、平和のために行動を起こすことへの呼びかけや、さらにはそのために迫害を受けるところにまで話が及んでいます。私が不自然に感じるのは、たしかにイエスさまは迫害を受けて最終的には逮捕されて殺されるのですが、山の上の説教の時点ではイエスさまの伝道の旅は始まったばかりです。この時点で「平和のための行動」や「迫害」についての記述は早すぎます。洗礼者ヨハネのときもそうでしたが、イスラエルのどこかに伝道を行う人が現れ、その人のまわりに群衆が集まり始めると、それがローマ帝国への反逆行動につながることが警戒されます。そして中央のエルサレムから調査のためにファリサイ派やサドカイ派が送り込まれます。ですが八つの神さまの祝福に関する教えの時点では、イエスさまの伝道活動もまだまだ序盤に過ぎず、イエスさま自身が民衆に向かってここまで言うのは言いすぎのように感じられるのです。

実は「神さまの祝福に関する教え」は「ルカの福音書」にも書かれています。当時イエスさまの説教は「Q資料」と呼ばれる文献に集められていたとされていて、「マルコ」よりも成立年の遅い「マタイ」と「ルカ」について、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式が成り立つのであれば、ここで「ルカ」が「祝福に関する教え」をどのように書いているかを見てみるのはどうでしょうか。「ルカ」では第6章第20節から「祝福に関する教え」が書かれています。[新改訳]で読んでみます。「20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」。これだけです。これを読むと「ルカ」の第20節は「マタイ」の第3節と同一。「ルカ」の第21節は「マタイ」の第4節、第6節と同じだとわかります。

オリジナルの「Q資料」の語録集に書かれていたイエスさまの言葉は「ルカ」の第20節と第21節(これに対応する「マタイ」の第3節、第4節、第6節)に限りなく近かったのではないでしょうか。つまり「マタイ」の第5節と、第7節~第10節は「マタイ」の著者による「独自の資料」と言うことになります。「マタイ」を始めるにあたって最初に説明しましたが、四つの福音書の存在は、少なくとも四つの教会(あるいは教会群)の存在を意味し、「マタイ」の教会は恐らくユダヤ人が主体の教会で、もともとファリサイ派に代表されるようなユダヤの律法を重視する保守的な派閥に所属していた人たちが、旧約聖書の中に埋め込まれていた福音の意味を見つけて作った教会だったのだろう、と書きました。「マタイ」の教会がユダヤ人の保守派から出てきて、律法を表面的に守ることを否定して、そうではなくて、神様が求めているのは謙虚に自分の罪を認める内面の清さなのだ、と説いたとしたら、その教会は保守派のユダヤ人と真っ向から対立し、激しい批判を受けて迫害されたことでしょう。

「マタイ」が書かれたのは西暦60~65年頃とされます。これは最終的に70年のローマ帝国によるエルサレムの寺院の破壊に向かう時期で、イスラエルの中は迫害と内乱で激しく揺れた時代でした。そんな激動の時代にあって、ローマ帝国からも同報のユダヤ人からも追い立てられる「マタイ」の教会の信者たちは、いつも寄り添ってお互いを励まし合っていたことでしょう。「マタイ」の著者による第5節と第7節~第10節の追記は、このような背景に基づいて、教会の信者たちを励ます目的で書かれたのかも知れません。(「マタイ」が書かれた時期を70年のエルサレムの崩壊後であるとする説もあります。この場合、「マタイ」の教会の信者たちへの迫害はさらに激しさを増していたはずです。)

第7節~第10節に続く第11節と第12節は、ルカの福音書第6章第22節と第23節とまったく同じですから、これはイエスさま自身の言葉として「Q資料」にも含まれていたのでしょう。同じ部分を「ルカ」から[新改訳]で読んでみましょう。「22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」

「人の子」と言うのは、旧約聖書の「Daniel(ダニエル書)」などに登場する言葉で、イエスさまが自分を呼ぶときに好んで使った呼称です。ここでイエスさまは自身を旧約聖書に登場する預言者になぞらえています。旧約聖書にはユダヤ民族の歴史が記されているのですが、それは神さまに対する「裏切り」の歴史です。神さまはユダヤ人のために素晴らしい環境を整えてくださるのですが、ユダヤ人はいつもそれを、自分の罪、つまり神さまをがっかりさせる行動で裏切るのです。神さまはイスラエルがいよいよ乱れた時代には自分の言葉を伝える使者として預言者(神さまの言葉を預かる人)を送り、「罪(神さまへの裏切り)を自覚しなさい。神さまに向き直りなさい。さもないと裁きが下ります」と呼びかけさせます。しかしイエスさまが言われたように多くの預言者の呼びかけは人々に煙たがられて迫害されたのでした。だから「神さまへ向き直りなさい。天の国は近いのです」と伝道するイエスさまの元へ集まり、イエスさまの信者となることを躊躇することはない、もしそのことで批判を受けるようであれば、逆に神さまはその人を祝福する、その人に対して天には報いが用意されている、それは旧約聖書にも書かれているとおりだ、と説明しているのです。









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