マタイの福音書第3章第13節~第17節:イエスさまの洗礼マタイの福音書:第3章

2015年12月29日

マタイの福音書第3章第1節~第12節:洗礼者ヨハネが道を準備する

第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


John the Baptist Prepares the Way

洗礼者ヨハネが道を準備する


1 In those days John the Baptist came to the Judean wilderness and began preaching. His message was,

1 そのころ洗礼者ヨハネがユダヤの荒野へ来て説教を始めました。ヨハネのメッセージとは、

2 “Repent of your sins and turn to God, for the Kingdom of Heaven is near.”

2 「あなたの罪を悔やみ、神さまに向き直りなさい。なぜなら天の王国が近いからです。」

3 The prophet Isaiah was speaking about John when he said, “He is a voice shouting in the wilderness, ‘Prepare the way for the Lord’s coming!  Clear the road for him!’ ”

3 預言者イザヤが次のように言ったのはヨハネのことを言っていたのです。「彼は荒野で叫ぶ声です。『道を用意せよ。主が来られるのだから。主のために道を片付けよ。』」

4 John’s clothes were woven from coarse camel hair, and he wore a leather belt around his waist. For food he ate locusts and wild honey.

4 ヨハネの服は粗いラクダの毛で編まれていて、腰には革の帯を締めていました。食べ物はいなごと野蜜を食べていました。

5 People from Jerusalem and from all of Judea and all over the Jordan Valley went out to see and hear John.

5 エルサレムから、ユダヤ全土から、そしてヨルダンの谷全域から、人々がヨハネの話を聞きに出て行きました。

6 And when they confessed their sins, he baptized them in the Jordan River.

6 人々が自分の罪を告白すると、ヨハネはその人々にヨルダン川で洗礼を施しました。

7 But when he saw many Pharisees and Sadducees coming to watch him baptize, he denounced them. “You brood of snakes!” he exclaimed. “Who warned you to flee God’s coming wrath?

7 しかしヨハネが洗礼を施すのを、たくさんのファリサイ派やサドカイ派の人たちが人が見に来るのを目にすると、ヨハネは彼らを非難して叫びました。「お前たちはヘビの子だ。誰が来たる神さまの怒りを逃れるようにと警告したのか。

8 Prove by the way you live that you have repented of your sins and turned to God.

8 お前たちが自分たちの罪を悔やみ、神さまに向き直ったことを、自分の生き方で証明して見せなさい。

9 Don’t just say to each other, ‘We’re safe, for we are descendants of Abraham.’ That means nothing, for I tell you, God can create children of Abraham from these very stones.

9 互いに単に言い合うことのないようにしなさい。『我々は安全だ。なぜなら我々はアブラハムの子孫だからだ』と。それには何の意味もありません。なぜなら言っておきますが、神さまはこれらの石ころからでもアブラハムの子供を作ることができるのです。

10 Even now the ax of God’s judgment is poised, ready to sever the roots of the trees. Yes, every tree that does not produce good fruit will be chopped down and thrown into the fire.

10 いまでも神さまの裁きの斧は木の根を断ち切る用意ができているのです。そうです。良い実を結ばない木はすべて切り倒されて火に投げ込まれるのです。

11 “I baptize with water those who repent of their sins and turn to God. But someone is coming soon who is greater than I am -- so much greater that I’m not worthy even to be his slave and carry his sandals. He will baptize you with the Holy Spirit and with fire.

11 私は罪を悔やみ神さまに向き直る人たちに水で洗礼を施します。ですが私より偉大な方がすぐに来ます。あまりにも偉大な方なので、私などその方の奴隷となって、はきものを運ぶ価値さえありません。その方はあなた方に聖霊と火で洗礼を施します。

12 He is ready to separate the chaff from the wheat with his winnowing fork. Then he will clean up the threshing area, gathering the wheat into his barn but burning the chaff with never-ending fire.”

12 その方は、あおぎ分けのくま手を使って、小麦からもみ殻を選び分ける準備ができているのです。それからその方は、小麦はご自身の納屋に集めますが、もみ殻は消えることのない炎で焼き払って、脱穀場をきれいに掃除されるのです。」




ミニミニ解説

最初に「マタイの福音書」と「ルカの福音書」は「マルコの福音書」を元にして、そこに「Q資料」と呼ばれるイエスさまの「語録集」と「マタイ」と「ルカ」のそれぞれの著者の「独自の資料」を加えて作られていると説明しました。前回までにお送りした「マタイ」の第2章までは、「マタイ」の著者の「独自の資料」の部分だったのですが、第3章からは「マルコの福音書」と重なる部分が出てきます。洗礼者ヨハネについての話は「マルコ」の第1章の冒頭で語られていて、その内容は「マタイ」に書かれている内容とほぼ同じです。

イエスさまの伝道活動の物語は、その先駆けてとして出現した洗礼者ヨハネの物語で幕を開けます。ちなみにこの「ヨハネ」は「ヨハネの福音書」を書いたとされる十二使徒のヨハネとは別人です。「ヨハネ」と言う人が現れて荒野でメッセージを伝え始めたのです。「荒野」は「こうや」ではなくて「あれの」と読むのだと思います。パレスチナの荒野はサハラ砂漠のような砂の海のようなところではなくて、粗い岩肌がゴツゴツと顔を出す本当に荒涼とした場所です。実は旧約聖書の荒野は「神がかった」場所でもあります。「Exodus(出エジプト記)」でユダヤ人が神さまから十戒に代表される律法を授かった場所が荒野なら、「Numbers(民数記)」で神さまからマナと呼ばれる聖なる食事を得ながらユダヤ人が40年間にわたってさまよった場所も荒野です。そして神さまの言葉を伝える預言者はいつも荒野に現れます。だからこそ「あなたの罪を悔やみ、神さまに向き直りなさい」というメッセージを伝える洗礼者ヨハネは荒野に現れなければならなかったのですし、そのメッセージを聞こうとする人たちも「俗」のはびこる町を出て、何もない荒野へ出て行かなければならなかったのです。神さまへ回帰しようとするユダヤ人にとって「荒野」へ向かうことはとても自然なことなのでした。

第3節にはヨハネの出現は「Isaiah(イザヤ書)」に預言されていたと書かれています。イザヤは紀元前700年頃(つまりイエスさまの時代の700年前)の預言者です。イザヤ書は全体が大きく二部構成になっていて後半は救世主に関する預言です。「Isaiah 40:3(イザヤ書第40章第3節)」には次のように書かれています。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。』」([新改訳])。同様の預言は「Malachi 3:1(マラキ書第3章第1節)」にも見られます。マラキは紀元前400年頃の預言者です。「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている』と万軍の主は仰せられる。」([新改訳])。「マルコ」も「マタイ」もその荒野に呼ばわる者の声の主である使者こそが「洗礼者ヨハネ」だと言うのです。

洗礼者ヨハネはイエスさまが伝道活動を開始する少し前に出現して荒野でメッセージを伝え始めた人です。メッセージの内容は「マタイ」では「あなたの罪を悔やみ、神さまに向き直りなさい。なぜなら天の王国が近いからです」となっています(「マルコ」もほぼ同じ内容ですが、少しだけ違います)。ヨハネが人々に自覚するようにと呼びかけた「あなたの罪」とは、天地万物の創造者である神さまへの「背き」です。簡単に言えば「神さまの期待を裏切ること」「神さまをガッカリさせること」のことです。自分たちが日々神さまをガッカリさせていることを自覚して、神さまに向き直りなさい、と言っているのです。果たして何をしたら神さまをガッカリさせることになるのでしょうか、神さまの善悪の基準は、最初に紀元前1500年頃に預言者モーゼを通じて「十戒」に代表される律法と言う形でユダヤ民族に与えられました。旧約聖書にはそのときにユダヤ民族が神さまに誓った忠誠と信仰が描かれていますが、ユダヤ人はそのことをすぐに忘れてしまって、以降は自分たちの視点で良いと思ったことを勝手放題に進めていきます。つまりユダヤ民族の歴史は神さまへの裏切りの積み重ねなのです。

神さまはそんなユダヤ民族の元に次々と預言者を送って警告しますが、ユダヤ民族は警告に従おうとしません。そのためユダヤ人には予告どおりの厄災が降りかかります。予告された厄災とは「異民族による侵略」「パレスチナ地域からの追放」「ユダヤ国家の消滅」などです。紀元前8世紀からイスラエルの国家はアッシリアとバビロニアの攻撃を受けて滅び、国民は侵略国によって連れ去られ、ユダヤ国家は消滅しました。その後紀元前6世紀にエルサレムの都と寺院が再建されるのですが、洗礼者ヨハネが出現した頃のパレスチナはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ民族は相変わらず異邦人(外国人)の支配下にありました。ローマ帝国からの解放と独立は当時のユダヤ民族の悲願だったのです。そんなときにヨハネが伝えた「神さまへに対する裏切りを自覚して、神さまに向き直りなさい」のメッセージは人々の心をとらえました。さらにヨハネは「なぜなら天の王国が近いのだから!」というメッセージを加えて人々を引きつけます。

第4節にはヨハネの姿形が描かれています。「ヨハネの服は粗いラクダの毛で編まれていて、腰には革の帯を締めていました。食べ物はいなごと野蜜を食べていました」。何という格好なんだろう、何という食生活なのだろうと思いますが、これは当時の生活様式からもかけ離れています。実はこれは旧約聖書に登場する偉大な預言者、エリヤの姿形と同じなのです。旧約聖書の一番最後の預言書「マラキ書」の最終節は次のように締めくくられています。「Malachi 4:5-6(マラキ書第4章第5節~第6節)」です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」([新改訳])。預言者エリヤは紀元前9世紀に存在しました。マラキ書が書かれたのは紀元前5世紀(紀元前400年頃)です。イエスさまの時代を遡ること400年前に、マラキは「預言者エリヤが出現する」との預言を行い、いよいよそのエリヤそっくりの姿形をしたヨハネが荒野でメッセージを伝え始めます。預言されたエリヤの再来は洗礼者ヨハネの出現だったのです。

ヨハネの噂を聞きつけてパレスチナのあちらこちらからたくさんのユダヤ人がヨハネの元へやって来ます。そして第6節、「人々が自分の罪を告白すると、ヨハネはその人々にヨルダン川で洗礼を施しました」。自分が神さまをガッカリさせている、と罪を自覚して悔やむ人をヨハネはヨルダン川の中に連れて入り、その人をザブンと水没させて「清めの儀式」を施したのです。旧約聖書の中での「罪」は神さまへの裏切り行為であり、その裏切り行為は神聖な神さまの目には「汚(けが)れ」として映ると書かれています。またそのような「汚れ」の中のいくつかのタイプは、水で洗い流す儀式で清めることができることについても、たくさんの箇所で書かれています。そこでヨハネは罪を告白した人を川に連れて入って形式的な洗浄の儀式を施すことで、それを悔い改めの象徴としたのです。もちろん川の水で洗うことで罪の汚れが洗い流されるわけではありません。これはイザヤ書に書かれた「主のために道を整える」行為なのです。ヨハネはそうやって人々の心を、来たる主のために準備しているのです。

洗礼者ヨハネが「あなたの罪を悔やみ、神さまに向き直りなさい。なぜなら天の王国が近いからです!」とのメッセージを荒野で伝えて人々を集めていると、それをファリサイ派やサドカイ派の人たちが見に来ます。

「ファリサイ派」や「サドカイ派」と言うのはイエスさまの時代に影響力を持っていたグループの名前です。ローマ帝国は支配国に限定的な自治権を与えていましたが、ユダヤ人の国会はサンヘドリンと呼ばれる70人の議会になっていて、ファリサイ派もサドカイ派もここに議席を持っていました。聖書ではファリサイ派は「Scribes(スクライブス)」と呼ばれる「律法学者」と共に登場する機会が多く、私はほぼ「ファリサイ派」=「律法学者」のつもりで聖書を読んでいます。モーゼを通じてユダヤ人が神さまから預かった「十戒」に代表される律法(法律)は、旧約聖書ではモーゼ五書と呼ばれる最初の五冊、「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Leviticus(レビ記)」「Numbers(民数記)」「Deuteronomy(申命記)」に書かれていますが、ファリサイ派はこれに加えて律法学者による法解釈や適用の細則、長老と呼ばれる人たちが口頭で伝承してきた慣習法などもモーゼ五書と同じレベルで重視しており、それらを合わせるとユダヤ人が守るべきルールは、全部で613件になるのだそうです。ファリサイ派はそのルールのすべてに一つも違反せずに生きていることを自負している人たちで、人々はファリサイ派の生き方を賞賛して支持していました。支持している、と言うよりも自分たち一般の人間とは違う次元にいる恐れ多い人たちとして敬っていたのです。

一方のサドカイ派は祭司や大商人などの特権階級で構成された派閥です。ローマ帝国との関係の中で得られた既得権益を利用して生きていたので、ユダヤ人でありながらローマ帝国との関係を良好に維持したいと考えていました。サドカイ派も律法を重視しましたが、ファリサイ派とは異なり、旧約聖書の中ではモーゼ五書だけを法的に有効と考えていました。洗礼者ヨハネが荒野に出現して人々を集めていると聞くと、ファリサイ派は律法を守る律法の専門家として、サドカイ派はローマ帝国との関係を悪化させる種となるような心配はないか、それを確かめにヨハネを品定めしに来たのです。

これに対してヨハネは大変厳しく対応します。第7節にあるように「お前たちはヘビの子だ」と切り捨てます。その理由は第9節に書かれています。彼らは『我々は安全だ。なぜなら我々はアブラハムの子孫だからだ』と言っているのです。アブラハムはユダヤ民族の父祖ですから「アブラハムの子孫」とはユダヤ人のことです。つまりユダヤ人であれば神さまの怒りを免れることができる、と言っているのです。旧約聖書はユダヤ人がどれほど神さまの期待を裏切ってガッカリさせたかを書いています。そのユダヤ人の罪により、結果として神さまの予告どおりにユダヤ人は異民族の侵略を受けてパレスチナから国外へ追放され、エルサレムの寺院は崩壊し、イスラエルの国は失われてしまったのです。つまりユダヤ人は神さまの怒りを免れませんでした。きっとファリサイ派やサドカイ派は、「自分たちは違う」「自分たち律法を守り、神さまをガッカリさせるようなことは一つもしていない」「自分たちこそが真の汚れなきユダヤ人である」とでも主張していたのでしょう。

これに対してヨハネが説くのは第8節にあるように、「自分たちの罪を悔やみ、神さまに向き直ったことを、自分の生き方で証明して見せなさい」です。世の中に神さまをガッカリさせずに生きられる人など一人もいないのです。それを自覚して悔やみ、神さまに向き直り、自分の求める生き方ではなく、神さまの喜ぶ生き方を選びなさい、と言うのです。そうやって生きることからは、第10節に書かれた「良い実」が生まれます。逆に「良い実」を結ばない人たちは、たとえアブラハムの子孫であっても「すべて切り倒されて火に投げ込まれる」のです。

第9節には「神さまはこれらの石ころからでもアブラハムの子供を作ることができる」、第10節には「いまでも神さまの裁きの斧は木の根を断ち切る用意ができているのです。そうです。良い実を結ばない木はすべて切り倒されて火に投げ込まれるのです。」と書かれています。これは神さまの祝福が、旧約聖書の預言書に予告されていたとおりに、ユダヤ人の元から異邦人(外国人)へ移ることを言っているのだと思います。

第11節と第12節にイエスさまのことが書かれています。ヨハネは自分は「罪の悔い改め」の象徴として水で洗礼を授けているが、自分のすぐ後に来る「偉大な方」がいて、その方は聖霊と火で洗礼を施」すのだと言います。「聖霊と火による洗礼」と言うのは、新約聖書の「Acts 2(使徒の働き第2章)」の冒頭に書かれている出来事に象徴されていると思います。イエスさまは十字架死~復活を経て天へ帰りますが、弟子たちにはしばらくエルサレムにとどまるようにと伝えます。それはかねてより伝えてあったこの出来事が起こるためでした。Acts 2:1-4(使徒の働き第2章第1節~第4節)です。「1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」([新改訳])。これはつまり「聖霊」が天から降りてきて弟子たちのひとりひとりに宿った場面です。この場面以降、神さまに対する罪を認め、イエスさまによる罪の許しを信じると告白する人に聖霊が宿り、聖霊に満たされる場面が繰り返し現れるようになります。この出来事が起こることについては、イエスさまは十字架の前から弟子たちに伝えていたのでした。

あるいは「聖霊と火による洗礼」を、「聖霊による洗礼」と「火による洗礼」の二段階に分けて、前者を「Acts 2」冒頭の出来事に結びつけ、後者の「火による洗礼」はイエスさまが「終わりの日」に再来するときに起こる、神さまの視点による人間の類別、世界の破壊、最後の審判のことを言っていると考えることもできます。その方が第12節へのつなぎとして理解しやすいかも知れません。第12節には恐ろしいことが書いてあるのです。それは「罪の悔い改め」をしない人たちに起こることです。イエスさまは「あおぎ分けのくま手」を使うと書かれていますが、これは大きなザルのような器で、そこに脱穀した穀物を入れて使います。ザルをあおって内容物を空中へ放り上げると風が重量の軽いもみ殻だけを吹き飛ばし、中身の詰まった穀物だけがザルの中へ落ちてきます。そうやって「小麦」と「もみ殻」を分けるです。そうしておいて「小麦」は大切に自分の納屋へしまいますが、「もみ殻」の方は消えることのない炎で焼き払います。そうやって「脱穀場」をきれいに掃除するのです。この部分は当時のユダヤ人によって語られていた、この世の終末に関わる黙示思想を反映しています。この世の終わりには「人の子」と呼ばれる王が現れ、すべての決着をつけるのです。そのときに王の目にかなった人は天へ招かれ、そうでない人は消えることのない炎で焼き尽くされます。ヨハネはそれを行う人が自分のすぐ後に来る自分より偉大な方、つまりイエスさまだと言っているのです。

洗礼者ヨハネに関する記述を比較してみると、「マタイ」に書かれているファリサイ派やサドカイ派への厳しい批判は「マルコ」には登場しませんが、「ルカ」の中には同じような記述が見つかります。と言うことはこれまで説明してきたように、「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」=「マタイ」・「ルカ」だとしたとき、洗礼者ヨハネがファリサイ派やサドカイ派を批判した言葉は、イエスさまの語録集である「Q資料」に含まれていたと考えられます。「Q資料」もひとつの福音書の位置づけであり、「Q資料」のようなイエスさまの語録集を教義の中心に置いた教会(あるいは教会群)が当時存在したと考えると、その教会はここに書かれていた洗礼者ヨハネの言葉も、イエスさまの言葉と合わせて信じていたということになりましょうか。









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