マルコの福音書第10章第46節~第52節:イエスさまが目の不自由なバルテマイを癒すマルコの福音書第10章第32節~第34節:イエスさまが再び自分の死を予告する

2015年11月21日

マルコの福音書第10章第35節~第45節:イエスさまが他の人たちに仕えることについて教える

第10章


 
 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Teaches about Serving Others

イエスさまが他の人たちに仕えることについて教える


35 Then James and John, the sons of Zebedee, came over and spoke to him. “Teacher,” they said, “we want you to do us a favor.”

35 それからゼベダイの息子のヤコブとヨハネがやって来てイエスさまに言いました。「先生、ひとつお願いがあるのですが。」

36 “What is your request?” he asked.

36 イエスさまはたずねました。「あなた方の頼み事は何ですか。」

37 They replied, “When you sit on your glorious throne, we want to sit in places of honor next to you, one on your right and the other on your left.”

37 ヤコブとヨハネは答えました。「先生が栄光の王座に就くとき、私たちは先生の隣の栄誉ある場所に座りたいのです。ひとりが先生の右に、もうひとりが先生の左に。」

38 But Jesus said to them, “You don’t know what you are asking! Are you able to drink from the bitter cup of suffering I am about to drink? Are you able to be baptized with the baptism of suffering I must be baptized with?”

38 しかしイエスさまは彼らに言いました。「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていません。あなた方はこれから私が飲もうとしている苦難の苦い杯から飲むことができますか。私が受けなければならない苦難の洗礼を受けることができますか。」

39 “Oh yes,” they replied, “we are able!” Then Jesus told them, “You will indeed drink from my bitter cup and be baptized with my baptism of suffering.

39 彼らは答えました。「ええ、できますとも。」イエスさまは彼らに言いました。「確かにあなた方は私の苦い杯から飲み、私の苦難の洗礼を受けることになります。

40 But I have no right to say who will sit on my right or my left. God has prepared those places for the ones he has chosen.”

40 ですが誰が私の右や左に座るかについて私には言う権利はありません。それらの場所は神さまが選ばれた者たちのために用意しているのです。」

41 When the ten other disciples heard what James and John had asked, they were indignant.

41 他の十人の弟子たちはヤコブとヨハネが願い出たことを聞いて腹を立てました。

42 So Jesus called them together and said, “You know that the rulers in this world lord it over their people, and officials flaunt their authority over those under them.

42 そこでイエスさまは彼らを一緒に呼び寄せて言いました。「あなた方はこの世の支配者たちが自分の人民に威張り散らし、役人たちが自分の下にいる人たちに対して権力を誇示するのを知っています。

43 But among you it will be different. Whoever wants to be a leader among you must be your servant,

43 しかしあなた方の間ではそうでありません。あなた方の中で上に立ちたいと思う者は、みなの召し使いとなりなさい。

44 and whoever wants to be first among you must be the slave of everyone else.

44 あなた方の中で一番になりたいと思う者は、他の者全員の奴隷となりなさい。

45 For even the Son of Man came not to be served but to serve others and to give his life as a ransom for many.”

45 なぜなら人の子でさえ、仕えられるためではなく、他の人たちに仕えるため、そして多くの人のための身代金として自分のいのちを与えるために来たのですから。」




ミニミニ解説

イエスさまの元へやってきたゼベダイの息子のヤコブとヨハネは兄弟で、ともに十二使徒です。二人はガリラヤ湖の漁師でした。Mark 3:17(マルコの福音書第3章第17節)にはイエスさまが二人に「雷の子」というニックネームを付けたと書かれていますから、よほど気性の激しい二人だったのではないかと思われます。実際、Luke 9(ルカの福音書第9章)ではイエスさまの一行を歓迎しないサマリヤの町に火を降らせましょうとイエスさまに提案したりしています。

この二人がイエスさまにした頼み事は、イエスさまが政権を掌握する暁には自分たち二人を王座の左右に座らせてくれ、つまり二人を右大臣、左大臣のように扱ってくれというものでした。何度も書いているようにイエスさまに付き従っている弟子たちはイエスさまがこのあとエルサレムに入城して王となることを信じて疑わなかったのです。そして弟子たちがイエスさまに付き従う理由とは、イエスさまの新しい王国でできるだけ高く取り立てられたいと言うあくまでも世俗的なものなのです。これはイエスさまが逮捕され、十字架刑に処せられても変わりません。信じて疑わなかった自分たちのリーダーが反逆者としてあっさりと処刑されてしまうのですから、弟子たちは失望し、さらには自分たちにも追及の手が及ぶのではないかとびくびくと恐れながら日々を過ごすことになります。

第38節、イエスさまは自分たちを王座の左右に座らせて欲しいと頼んできたヤコブとヨハネにたずねます。「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていません。あなた方はこれから私が飲もうとしている苦難の苦い杯から飲むことができますか。私が受けなければならない苦難の洗礼を受けることができますか。」

イエスさまは二人に一体自分たちが何を求めているのかわかっているのか、とたずねています。王座の左右に座るということはイエスさまと同じ苦難を味わうことを意味するのだとわかっているのか、と。ここで「苦難の苦い杯」や「苦難の洗礼」が表しているのは、逮捕され、ばかにされ、つばを吐きかけられ、むちで打たれ、最終的に十字架に掛けられて殺されることを言っているのだと思います。そういう覚悟をして言っているのか、と言うのです。 これに対し二人は第39節で「ええ、できますとも。」と安請け合いしますが、彼らが請け合っているのは、イエスさまが言っている意味合いでないのは明らかです。

ところがイエスさまはこれに対し「確かにあなた方は私の苦い杯から飲み、私の苦難の洗礼を受けることになります。」と言います。これはどういう意味でしょうか。

イエスさまの十字架死~復活の後、エルサレムにとどまっていた弟子たちに不思議なことが起こります。これはイエスさまがかねてから予告していたとおりのことなのですが、天から聖霊が訪れ、一人一人に宿り、これによって彼らは福音の真の意味を初めて知るのです。そしてその後の彼らはまるで別人のようになって大胆にイエスさまへの信仰を表明し、救世主イエスさまに関する良い知らせを人々に広く伝える活動に入ります。

やがてクリスチャンに対する迫害が強まると彼らは逮捕されたり、さらには殺される者も現れます。今回イエスさまにお願いをしたヤコブは、その殺された様子がActs 12(使徒の働き第12章)に記録されています。もう一人のヨハネは、もしこのヨハネが「Revelation(ヨハネの黙示録)」の著者のヨハネと同一人物なのだとしたら、この本の中では島流しにされていますが、言い伝えによると島流しの前には煮え立つ油の中に入れられる刑に処せられています(ヨハネはこれを生き延びたとされています)。

イエスさまはこれを予見して「確かにあなた方は私の苦い杯から飲み、私の苦難の洗礼を受けることになります。」と言っているのでしょう。第40節、イエスさまはどちらにしても、神さまの王国で誰がどのポジションに就くかは神さまが決めることなので自分にはわからないと言います。

第41節、他の者を出し抜いて勝手に願い事をした二人について他の弟子たちが怒り出します。彼らの怒りの理由ももちろん世俗的な理由なはずで、王座の右に座るとしたらそれはお前たちではなく俺だとか、そういう怒りでしょう。

弟子たちの口論を聞いていたイエスさまは彼らを呼び寄せ、繰り返し教えてきた「神さまの王国での序列」の話をします。つまり第43節~第44節にあるように「あなた方の中で上に立ちたいと思う者は、みなの召し使いとなりなさい。あなた方の中で一番になりたいと思う者は、他の者全員の奴隷となりなさい。」という、神さまの王国では最初の者は最後になり、最後の者が最初になるというルールです。

今回は第45節に、このルールの理由が書かれています。「なぜなら人の子でさえ、仕えられるためではなく、他の人たちに仕えるため、そして多くの人のための身代金として自分のいのちを与えるために来たのですから。」 イエスさまは神さまが、人類と神さまを和解させるただひとつの解決策のために地上に遣わした一人息子です。神さまが王なのであれば、イエスさまはただ一人、王位の相続権を持つ王子さまです。そんな王子さまは地上では神さまと同等の歓待を受けなければならないはずです。

ところがイエスさまはそのように「人に仕えられるためではなく」、自分のいのちを全人類のいのちの代償として差し出すために来たのです。自分をすべての人間の下に置いて、自分のいのちをすべての人間の役に立てるため、すべての人間に仕えるために来たのです。しかもその殺され方はまったく残酷で惨めな方法でした。秘密裏に暴力的に逮捕され、一方的で不当な裁判で裁かれ、異邦人に引き渡され、ばかにされ、つばを吐きかけられ、背中の肉が裂け骨が砕けるほどむちで打たれ、手と足を十字架に打ち付けられて殺されるのです。

イエスさまがその道を選んだ理由は、イエスさまが自分の意志よりも、神さまの意志を選択したからです。Mark 14:36(マタイの福音書第14章第36節)で、イエスさまはお祈りの中で次のように言っています。[新改訳]です。「父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 つまりイエスさまは苦難の杯を選ぶのが嫌なのです。それを取り除いていただくのがイエスさま自身の望みなのです。ですが自分は、自分の願うことではなく神さまの意志を尊重すると言っています。

イエスさまはこの選択により人類の救済に関わるすべての栄光を神さまに帰し、神さまを褒め称えています。神さまはまたイエスさまがこの選択をしたことについてイエスさまを褒め称えています。だから私たちも主であるイエスさまのやり方にならって、自分の世俗の望みを追求することよりも、神さまの目に正しく映る道を追求すべきなのです。そしてその方法とは、他人の召使いになること、他の者全員の奴隷になることだとイエスさまは教えています。






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