マルコの福音書:第3章マルコの福音書第2章第18節~第22節:断食に関する議論

2015年11月29日

マルコの福音書第2章第23節~第28節:安息日に関する議論

第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


A Discussion about the Sabbath

安息日に関する議論

23 One Sabbath day as Jesus was walking through some grainfields, his disciples began breaking off heads of grain to eat.

23 ある安息日にイエスさまは穀物畑の中を歩いていました。弟子たちは食べるために穀物の穂を摘み始めました。

24 But the Pharisees said to Jesus, “Look, why are they breaking the law by harvesting grain on the Sabbath?”

24 しかしファリサイ派の人たちはイエスさまに言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは安息日に穀物の収穫をして律法を犯すのですか。」

25 Jesus said to them, “Haven’t you ever read in the Scriptures what David did when he and his companions were hungry?

25 イエスさまは彼らに言いました。「ダビデと共の者たちが空腹だったときに何をしたか、聖書の中で読まなかったのですか。

26 He went into the house of God (during the days when Abiathar was high priest) and broke the law by eating the sacred loaves of bread that only the priests are allowed to eat. He also gave some to his companions.”

26 ダビデは神の家に入って行って(アビヤタルが大祭司だった頃です)、祭司だけが食べることを許されている聖なるパンを食べて律法を破りました。ダビデは共の者たちにもパンを与えました。」

27 Then Jesus said to them, “The Sabbath was made to meet the needs of people, and not people to meet the requirements of the Sabbath.

27 それからイエスさまは彼らに言いました。「安息日は人間の必要を満たすために作られたのです。安息日の必要を満たすために人間が造られたのではありません。

28 So the Son of Man is Lord, even over the Sabbath!”

28 だから人の子は安息日に対しても主なのです。」




ミニミニ解説

イエスさまの一行が穀物畑の中を歩きながら穂を摘んで食べているところを見つかってしまいました。ファリサイ派はこれを指摘して議論をふっかけますが、私はてっきりファリサイ派は「つまみ食いをするな」と怒るのかと思いましたがそうではなくて、穀物の穂を摘むことは「収穫」という労働だから安息日にやったら律法違反だ、と言うのです。

ちなみに穀物の穂を手で摘みながら歩くことそのものは合法なのです。たとえばDeuteronomy 23:25(申命記第23章第25節)には「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」([新改訳])と定めています。その根拠はLeviticus 19:9-10(レビ記第19章第9節~第10節に「9 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。10 またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」([新改訳])とあるように、収穫はそもそも神さまが与えているものだから、感謝して受け取るべきもので、ケチケチしないで気前よく貧しい人や外国人に分け与えなさい、ということだからです。

ファリサイ派が言いたいのは、Exodus 34:21(出エジプト記第34章第21節)に「あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。」([新改訳])とズバリ書いてあるとおり、安息日には収穫するな、と言うのです。議論の的はイエスさまの弟子たちがしたことが、ここで取り上げられている「刈り入れ」の作業に該当するかどうかでしょう。ファリサイ派は律法に違反する行為として責めたわけです。イエスさまの弟子たちはお腹が空いたから穀物を食べていたのであって、収穫して蓄えたりそれを誰かに売って利益を得たりという目的ではありませんでした。

イエスさまが挙げたダビデ王の例は、1 Samuel 21:1-6(サムエル記第1の第21章第1節~第6節)に書かれている話です。ダビデ王はイエスさまの時代を1000年も遡るイスラエル王朝が栄光を極めた時代の王で、ユダヤの民にとってのヒーローです。そのダビデは第二代の王なのですが、王となる前に初代のサウル王の嫉妬を買って各地を逃げ回る日々を送りました。あるときダビデが祭司のアヒメレクのところに逃げ込んだときに空腹で食べ物を乞うのですが、アヒメレクはダビデに祭司だけが食べることを許された特別に聖別された供えのパンを渡した、という話がここに書かれています。

「1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」 2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」 4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」 5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」 6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。」([新改訳])。

イエスさまはダビデ王でさえ空腹の時には律法を破って食べてはならないパンを食べたのだから、律法をどのようにあてはめて裁くかは、なんでもかんでも杓子定規にやれば良いというわけではないと言っているのです。

イエスさまは第27節で「安息日は人間の必要を満たすために作られたのです。安息日の必要を満たすために人間が造られたのではありません。」と言っています。人間はアダムとエバが作られたのが最初で、安息日はそのずっとずっと後で与えられた律法です。そしてイエスさまは「安息日は人間のために与えられた」と言っています。具体的には安息日は上で引用したように「あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。」と定められています。神さまの意図は人間の働き過ぎを抑制しているのです。人間ばかりでなく家畜も畑も7日間に1日は休ませなさいと言っているのです。人間は一週間に一度は肉体的にも精神的にもリフレッシュして、そのときには神さまに感謝する時間を持ちなさいと言うのです。

ファリサイ派は、律法は「あなたは六日間は働き七日目には休まなければならない。」と定めている、「だから絶対働いてはならない」「穀物を摘み取ったら労働だから律法違反だ」と言いますが、イエスさまやダビデ王は神さまの意図を解釈して「どうしてもお腹が空いたら必要を満たすためには律法違反もやむを得ない」と言います。たとえば急病人を助けるために仕方なく赤信号を無視した人を信号無視としていつもと同じように裁くのか、ということです。法律を解釈するときにはそれがなんのためにどういう意図で作られたのかを考えなければいけません。






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