ルカの福音書第22章第39節~第46節:イエスさまがオリーブ山で祈るルカの福音書第22章第7節~第30節:最後の晩餐

2015年10月10日

ルカの福音書第22章第31節~第38節:イエスさまがペテロの否定を予告する

第22章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Predicts Peter’s Denial

イエスさまがペテロの否定を予告する


31 “Simon, Simon, Satan has asked to sift each of you like wheat.

31 シモンよ、シモンよ、サタンがあなた方のひとりひとりを麦のようにふるいにかけてより分けることを願い出ました。

32 But I have pleaded in prayer for you, Simon, that your faith should not fail. So when you have repented and turned to me again, strengthen your brothers.”

32 しかしシモンよ、私はあなたのために、あなたの信仰がくじけないように祈りの中で嘆願しておきました。だからあなたが後悔して再び私のところへ戻るときには、あなたの兄弟たちを力づけてやりなさい。」

33 Peter said, “Lord, I am ready to go to prison with you, and even to die with you.”

33 ペテロは言いました。「主よ、私はあなたと共に牢へ入る覚悟ができています。あなたと共に死ぬ覚悟さえあります。」

34 But Jesus said, “Peter, let me tell you something. Before the rooster crows tomorrow morning, you will deny three times that you even know me.”

34 しかしイエスさまは言いました。「ペテロよ、あなたに伝えさせてください。明日の朝、雄鶏が鳴く前までに、あなたは私を知っていると言うだけのことを三度、否定するのです。」

35 Then Jesus asked them, “When I sent you out to preach the Good News and you did not have money, a traveler’s bag, or an extra pair of sandals, did you need anything?” “No,” they replied.

35 それからイエスさまは弟子たちにたずねました。「私が良い知らせを説くためにあなた方を送り出したとき、あなた方はお金も持たず、旅行の袋も、予備のサンダルも持たないでいて、あなた方は何か必要になりましたか。」 弟子たちは答えました。「いいえ。」

36 “But now,” he said, “take your money and a traveler’s bag. And if you don’t have a sword, sell your cloak and buy one!

36 イエスさまは言いました。「しかし今はあなたのお金と旅行の袋を持ちなさい。そしてもし剣を持っていないのなら、外套を売って買いなさい。

37 For the time has come for this prophecy about me to be fulfilled: ‘He was counted among the rebels.’ Yes, everything written about me by the prophets will come true.”

37 なぜなら私についてのこの預言が実現するときが来たからです。『彼は反逆者たちの中に数えられた。』 そうです。預言者たちによって、私について書かれたすべてのことが現実となるのです。」

38 “Look, Lord,” they replied, “we have two swords among us.” “That’s enough,” he said.

38 弟子たちはいいました。「主よ、剣はここに二振りあります。」イエスさまは言いました。「それで十分です。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第22章です。

この章よりイエスさまの苦難が始まっています。

今回の前半部分、イエスさまがペテロの否定を予告する部分はマルコとマタイに類似の記述が見つかります。ただしマルコもマタイも登場箇所はイエスさまと弟子たちが最後の晩餐を追えてオリーブ山へ移動した後になっています。

マルコはMark 14:29-31(マルコの福音書第14章第29節~第31節)です。

「29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」 30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」 31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」([新改訳])。

マタイはMatthew 26:33-35(マタイの福音書第26章第33節~第35節)です。

「33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」 34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用と言うことになります。

ヨハネにも類似の記述はあります。John13:36-38(ヨハネの福音書第13章第36節~第38節)です。

「36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」 37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」 38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」」([新改訳])。

第31節、イエスさまがペテロに「シモンよ、シモンよ」と二度親しげに呼びかけます。ペテロはもともとの名前はシモン(意味は「聞く」)でしたが、後にイエスさまからペテロ(アラム語では「Cephas」。意味は「石」「岩」)と呼ばれるようになりました。ここでイエスさまがペテロに告げた言葉、「サタンがあなた方のひとりひとりを麦のようにふるいにかけてより分けることを願い出ました。」は、親しげな呼びかけの後で、大変複雑でショッキングな内容になっています。

以前も書きましたがサタンはもともとは高位の天使だったのですが、神さまと同じ地位にまで上りたいとの野望を抱いたことで神さまの怒りを買い、天から追放されて地上へ落とされたのでした。このときに全天使の三分の一がサタンに従ったことでやはり地上へ落とされて、地上で悪霊とか悪魔とか呼ばれる存在となりました。聖書によるとサタンは「終わりの日」に最終的には神さまに滅ぼされるのですが、その日まで私たちの住む地上はサタンを捕らえておくための牢獄の位置づけなのです。私たちはサタンを親玉とする牢獄の中で暮らしていることになります。繰り返し繰り返しひどいことが地上で起こるのが当然と言えば当然です。神さまは人間を創造したときに、そんな地上の一部に聖域としての「エデン」を造って、そこにアダムとエバを置いたのですが、おそらく人間に対する嫉妬から、そのときすでに地上にいたサタンが二人をそそのかしました。二人はまんまとサタンの策略に乗り、神さまの期待を裏切り、エデンを追放され、人間は苦難の道を歩むことになったのでした。

ここには「サタンがあなた方のひとりひとりを麦のようにふるいにかけてより分けることを願い出ました。」と書かれています。地上に主として君臨するサタンが何かを願い出る相手と言えば、それは神さま以外にありえません。と言うことは神さまはサタンの願いを聞き、それを認めたことになります。神さまへの信仰という意味では、天で神さまと接して、神さまをうらやみ、神さまの座へ上ろうとして追放されたサタンには神さまの存在は疑いようのない事実です。また自分があこがれた神さまの全知全能をよく知っています。私たちの信仰とは比べものにならないレベルの信仰です。サタンはそうやって当たり前の信仰に基づいて神さまに願い、いちいち神さまの許しを得ては私たち人間をそそのかし、神さまの期待を裏切る悪の道へと歩ませるのです。今回の経緯は詳しく書いてありませんが、神さまから許しを得たサタンは十二人をふるいにかけて、「イエスさまを否定する」と言う最悪の役目をペテロに負わせることにした、ということでしょうか。

このままだったらペテロは、このサタンの策略によって、アダムとエバがエデンを永遠に追放されたように、イエスさまの元を去って永遠に戻ることはなかったのかも知れません。しかし第32節でイエスさまは「しかしシモンよ、私はあなたのために、あなたの信仰がくじけないように祈りの中で嘆願しておきました。」と続けます。つまりイエスさまはサタンが神さまに願い出たことの内容を知り、そしてサタンが最悪の役目にペテロを選んだことを知ると、イエスさまもやはりお祈りをして神さまに嘆願し、ペテロの信仰がくじけないように守ってくれたのです。サタンの願いさえ聞き入れた神さまです。イエスさまの願いを聞き入れないわけがありません。このイエスさまの嘆願によって、ペテロはイエスさまを裏切った自分を激しく後悔し、何日かを経てもう一度イエスさまの元へ戻れるようにしていただけたのです。イエスさまはペテロに、そのときには仲間である兄弟たちを力づける役目を果たしなさいと命じます。こうしてペテロは初期の教会のリーダーとなるのです。

ペテロはイエスさまから直接お祈りして神さまに嘆願いただいて、なんともうらやましいなぁ、と思うかも知れませんが、天国に戻られたイエスさまはいま神さまの右の座にいて、そこでクリスチャンのためにその役目を果たしているのです。 イエスさまへの信仰を告白したクリスチャンには、そのひとりひとりに聖霊が封印され、その聖霊が私たちがうまく言葉に出来ない願いさえ、きちんとくみ取って天へと上げてくれます。そして天へ上がった私たちの願いはイエスさまが自分の願いとして神さまに伝えてくれるのです。なんと頼もしいことでしょうか。

さて何も知らないペテロは「主よ、私はあなたと共に牢へ入る覚悟ができています。あなたと共に死ぬ覚悟さえあります。」とずいぶん威勢の良いことを言います。が、このあとオリーブ山でイエスさまが逮捕される場面では、弟子たちの中に誰ひとり抵抗する者はいませんでした。それどころか全員がイエスさまを見捨てて逃げてしまうのです。こうやって虚勢を張ってプライド高く振る舞ってみたものの、実際にその場面になると自分の行動を自分の言葉のレベルに追いつかせることが出来ない、これは私たちも人生上で何度も繰り返し出会う苦い経験ではないでしょうか。福音書の中ではこれは本当にペテロ向きの役回りで、サタンの人選はなんと的確なのだろうと思います。私たちもサタンに品定めされて、最も効果的な方法で苦難が与えられているのだろうなと想像します。ペテロはこうやって何度もかっこ悪いドジを踏みながら、それでも悔い改めてイエスさまの信仰へと戻り、初期の教会のリーダーとなって力強く福音を伝道するのです。ペテロはドジな私たちのお手本です。

第34節でイエスさまは、その夜のうちにペテロが三度にわたり「自分はイエスという人物を知らない」とイエスさまを否定するのですよ、と予告します。これはペテロに対して、あなたをそういう試練が待ち受けているのですよ、と告げているのだと思います。

第35節以降はルカだけに登場する話ですので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはルカの独自資料からの採用と言うことになります。

かつて伝道活動のために弟子たちが送り出されたとき、イエスさまは周到な用意は不要だと弟子たちに言い含めました。なぜならそのようなことはわざわざ心配しなくても、必要なものはしかるべきタイミングですべて神さまから与えられるからです。これは旧約聖書からの常識で、逆に「心配すること」は神さまに対する不信仰となってしまうのです。ところがイエスさまは第36節で、今回だけはしっかり準備を整えなさい、さらに着物を売って剣を買いなさい、とまで言います。これは弟子たちに実際にいざとなったら剣で戦え、と言っているのではなくて、これからイエスさまが逮捕され十字架にかけられた後で、世の中に出て福音を伝えていくと言う活動は、想像を絶する困難を伴うのだから、しっかり覚悟を決めなさい、と言っているのだと思います。

第37節、イエスさまは「なぜなら私についてのこの預言が実現するときが来たからです。」と言い、聖書から『彼は反逆者たちの中に数えられた。』があげられます。 これは旧約聖書のIsaiah 53:12(イザヤ書第53章第12節)の中にある言葉だと思います。イザヤ書の第53章は全体が救世主の苦難を予告する章となっていますので、今回は全体を引用します。なおイザヤ書の第53章がイエスさまの言う「預言者たちによって、私について書かれたすべてのこと」ではないと思います。イエスさまについて書かれた預言は旧約聖書全体にたくさんあります(イエスさまは旧約聖書が自分を指し示していると言っています)。これはイエスさまの言葉の中に「預言者たち(the prophets)」と複数形で書かれていることからも明らかです。

Isaiah 53:1-12(イザヤ書第53章第1節~第12節)です。

「1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」([新改訳])。






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