ルカの福音書:第21章ルカの福音書第20章第27節~第40節:復活に関する議論

2015年10月12日

ルカの福音書第20章第41節~第47節:救世主は誰の息子か

第20章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Whose Son Is the Messiah?

救世主は誰の息子か


41 Then Jesus presented them with a question. “Why is it,” he asked, “that the Messiah is said to be the son of David?

41 それからイエスさまは彼らに質問をしました。イエスさまはたずねました。「どうして救世主はダビデの息子と呼ばれるのですか。

42 For David himself wrote in the book of Psalms: ‘The Lord said to my Lord, Sit in the place of honor at my right hand

42 なぜならダビデ自身が詩篇の中で書いています。『主は私の主に言いました。私の右の栄誉の座につきなさい。

43 until I humble your enemies, making them a footstool under your feet.’

43 私があなたの敵をくじき、あなたの足の下の台とする時まで。』

44 Since David called the Messiah ‘Lord,’ how can the Messiah be his son?”

44 ダビデが救世主を主と呼んだのに、どうして救世主がダビデの息子なのでしょうか。」

45 Then, with the crowds listening, he turned to his disciples and said,

45 それから民衆が耳を傾けている間にイエスさまは弟子たちの方を向いて言いました。

46 “Beware of these teachers of religious law! For they like to parade around in flowing robes and love to receive respectful greetings as they walk in the marketplaces. And how they love the seats of honor in the synagogues and the head table at banquets.

46 「この律法の先生たちには気をつけなさい。彼らはゆるやかで長い外衣をまとって歩き回ることが好きで、市場を歩いているときに慇懃なあいさつを受けることが好きなのです。また彼らがどれほど会堂の名誉の席や、宴会での上座が好きなことか。

47 Yet they shamelessly cheat widows out of their property and then pretend to be pious by making long prayers in public. Because of this, they will be severely punished.”

47 しかし彼らは恥知らずにも未亡人をだまして財産を奪い取り、それから人々の前で長々とお祈りをして敬虔を装います。この理由で彼らは厳しく罰せられるのです。」



ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第20章です。

イエスさまはエルサレムに到着すると、最初に寺院で動物商や両替商を追い立てて一掃し、それから逮捕までの一週間の間、毎日寺院で人々に教えていました。この様子を見ていた祭司長たち、律法の先生たち、長老たちが、「あなたは何の権威で、これらのことをしているのですか。誰があなたにその権限を与えたのですか。」とイエスさまに挑戦しましたが、イエスさまは逆に「洗礼者ヨハネの洗礼は天から来たものですか、あるいは単なる人のものですか。」と彼らが回答できない質問をしてこれを退けています。それからイエスさまは人々の前で邪悪な農夫のたとえ話をしました。祭司長たち、律法の先生たち、長老たちはたとえ話の中の「邪悪な農夫」が自分たちを指していると気づき、イエスさまをすぐにでも逮捕したいと思いましたが、イエスさまを取り巻く民衆の反応を恐れて行動に移すことが出来ません。最初に「律法の先生たち」にあたるファリサイ派がスパイを送り込んで民衆の面前でイエスさまから失言を引き出そうと画策しましたが、失敗しました。次に「祭司長たち」と「長老たち」にあたるサドカイ派が死者の復活と律法の矛盾を突く議論をしかけますが、こちらもイエスさまに負けてしまいます。

今回と同じ記述はマルコとマタイに見つかります。

マルコはMark 12:35-40(マルコの福音書第12章第35節~第40節)です。「35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。36 ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』 37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。40 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」」([新改訳])。

マタイはイエスさまがファリサイ派を厳しく批判する最後の二つの節の部分を大きく拡大する編集となっていて、イエスさまがファリサイ派に対して激しい呪いの言葉を言い連ねます。長いですが引用します。Matthew 22:41-23:39(マタイの福音書第22章第41節~第23章第39節)です。

「41 パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。42 「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、44 『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」』と言っているのですか。45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」 46 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。13 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。14 [わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。] 15 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。16 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』 17 愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。18 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』 19 目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。20 だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。23 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。24 目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、30 『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。31 こうしてト、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、これは「マルコ」からの採用と言うことになります。

寺院で教えるイエスさまの周囲にはたくさんの人が集まっていて、近くにはファリサイ派(律法の先生たち)と、サドカイ派(祭司長たちと長老たち)が、その様子を苦々しく見つめています。イエスさまはここで質問を一つします。マルコには大ぜいの群衆がイエスさまの話を喜んで聞いていたと書かれています。その質問というのは「どうして救世主はダビデの息子と呼ばれるのですか。ダビデ自身が詩篇の中で書いています。『主は私の主に言いました。私の右の栄誉の座につきなさい。私があなたの敵をくじき、あなたの足の下の台とする時まで。』 ここでダビデが救世主を主と呼んだのに、どうして救世主がダビデの息子なのでしょうか。」です。

ダビデはイスラエルの第二代の王で、ユダヤ人がイスラエル史上最高の王として褒め称える王の中の王です。ダビデはイエスさまの時代から1000年ほど前に存在しました。どうして人々がユダヤ人を救う救世主(メシア)を「ダビデの息子」と呼ぶのか、旧約聖書から引用して説明してみます。「2 Samuel 7:12-14(サムエル記第二第7章第12節~第14節)」からです。ここで神さまは預言者ナタンに言葉を授け、ダビデ王に次のように告げるように言いました。引用の中の「あなた」はダビデ王のことです。「12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」([新改訳])。これはダビデが死んだ後にダビデから出る世継ぎの子が王となって王国が確立し、その王国の王座は永久に立つ、という預言です。確かにこの預言は実現してダビデの世継ぎのソロモンがダビデの次に第三代の王となり、ソロモン王の代でイスラエルは栄華を極めて巨大な王国となりました。ところがソロモンの子供の代でイスラエルは南北に分裂してしまい、最終的には北朝のイスラエルも南朝のユダも滅びてしまうのです。

王国が南北に分裂している間にたくさんの預言者が現れて王の不義やユダヤ人の不信仰を批判します。そしてこのまま神さまの期待に背き続けると、やがて神さまの裁きが下ることになるぞとと警告します。そしてその裁きは「国外追放」の形で来ると言うのです。この預言もユダヤ人の歴史上で実現していて、北朝のイスラエルも南朝のユダも異民族に滅ぼされた後で民族の大半がパレスチナの地を追われてしまったのです。その一方で預言者たちは、それでも最後の最後には神さまの恵みにより王国が回復すると伝えています。そして回復される王国は「ダビデの王国の復活」だと繰り返し預言されるのです。たとえば「Jeremiah 23:5-6(エレミヤ書第23章第5節~第6節)」には次のように書かれています。「5 見よ。その日が来る。--主の御告げ-- その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。」([新改訳])。復活する王国の王となるのは「ダビデに起こる一つの若枝」です。これらの部分から最終的にユダヤ人を救う救世主が現れることが信じられ、その救世主は「ダビデの息子」と呼ばれるようになりました。これはユダヤ社会の世間一般でそのように信じられていたと言うことです。

このことについてイエスさまの質問はやはり旧約聖書から引用して行われています。引用箇所は「Psalm 110:1(詩編第110章第1節)」です。これはダビデ自身が書いた箇所で、「ダビデの賛歌」と呼ばれる詩からの引用です。「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」([新改訳])。少しややこしいですが説明してみます。ここにはダビデ自身の言葉で「主」が「私の主」に言っていると書いてあります。その「主」が話す内容は「自分が敵をあなたの足台とするまでは、私の右の座に着いて待っていなさい」です。ダビデの「主」は神さまです。つまり「主」である神さまが「私はおまえの敵を倒しておまえの足下にひざまずかせる予定だから、それまでは自分の右側で待機して待っていなさい」と「私の主」に言ったのです。つまりこれは「主」である神さまが「私の主」のために舞台を整えてあげるよという約束なのです。神さまがこれから敵を倒して舞台を整えてあげる人というのは、イスラエルに現れる救世主のことなのではないでしょうか。神さまが舞台を整えてあげる相手である「私の主」が、もし救世主なのだとしたら、ダビデはその人を「私の主」と呼んでいることになります。もし人々が信じるようにメシアが「ダビデの息子」なのだとしたら、どうしてダビデは自分の息子のことを「私の主」と呼ぶのか、立場と呼び方がおかしいではないかと言うのがイエスさまの質問です。

この問答ではイエスさまは問いかけだけをして答を言いません。ですが、答は福音書の中に用意されているのです。つまりダビデの死後、約1000年を経てダビデの血を引く家系から出たイエスさまが十字架死で人類を救い、人類の救世主となったのです。「Psalms(詩編)」にたくさんの言葉を残しているように、ダビデは王であると同時に預言者でもありました。きっとダビデは自分の死後、1000年を経て起こるイエスさまの十字架を見て、「その日まで待っていなさい」と「ダビデの賛歌」のこの部分を書いて預言したのです。あるいは「あなたの敵をあなたの足台とする」時というのが、この世の終わりに起こる「終末論」の中で信じられているような、神さまがサタンの計画を完全にくじく出来事なのだとしたら、いまから約2000年前に十字架死~復活を経て一度天へ戻ったイエスさまは、王として地上に君臨するために地上に再び戻るまでの間、神さまの右の座で待機していることになります。ダビデはそこまでを見てこれを書いたのかも知れません。

ここからイエスさまがたくさんの群衆が聞いているその前で、ファリサイ派に対する厳しい批判の言葉を言います。「この律法の先生たちには気をつけなさい。彼らはゆるやかで長い外衣をまとって歩き回ることが好きで、市場を歩いているときに慇懃なあいさつを受けることが好きなのです。また彼らがどれほど会堂の名誉の席や、宴会での上座が好きなことか。しかし彼らは恥知らずにも未亡人をだまして財産を奪い取り、それから人々の前で長々とお祈りをして敬虔を装います。この理由で彼らは厳しく罰せられるのです。」

ファリサイ派は律法を厳格に守る敬虔なユダヤ人のお手本として民衆の尊敬と支持を集めていたのですが、その様子はと言うと、日頃は必要以上に裾の長い外衣を見せびらかしながら市中を歩き回り(実はこれも旧約聖書の律法に基づく外衣の記述を誇張した服なのです)、人々がファリサイ派を見つけると地面にひざまずいて慇懃な挨拶してくるのを見て楽しみ、週末の会堂での集会では民衆と対座して座る栄光の「モーゼの座」を占め、宴会に招かれると(会堂の集会の後などに宴会を催すのが通例のようです)、宴会の主人に最上の席順を用意させていたのです。また律法の頑なな遵守を一義としていたファリサイ派ですが、特に清めの儀式と十分の一税と呼ばれる寺院への献金を声高に訴え、それが正しいことだからと諭して家計の苦しい未亡人にもなけなしの財産を納税させますし、街頭ではわざと長々とした大仰なお祈りをして見せて民衆の視線を集めていたのです。まるで日本の新興宗教の教祖か幹部のような有様です。イエスさまは、ファリサイ派がそうやって神さまの名前を使って私利私欲を追求したことで、最後の裁きの時には神さまからより厳しく罰せられることになる、と戒めます。「神さまの名前を自分の利得のために使うこと」は神さまが最も忌むことの一つなのです。

ただマタイの引用の中の第23章第2節~第3節でイエスさまは次のように言っています。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」  つまりイエスさまが批判しているのはファリサイ派の「行い」であり、ファリサイ派が会堂のモーゼの座から会衆に教えている律法は最後まで正しいのです。






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