ルカの福音書第18章第9節~第14節:ファリサイ派と徴税人のたとえ話ルカの福音書:第18章

2015年10月14日

ルカの福音書第18章第1節~第8節:ねばり強い未亡人のたとえ話

第18章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Persistent Widow

ねばり強い未亡人のたとえ話


1 One day Jesus told his disciples a story to show that they should always pray and never give up.

1 ある日イエスさまは、いつも祈るべきであり、あきらめてはいけないことを教えるために弟子たちに話を教えました。

2 “There was a judge in a certain city,” he said, “who neither feared God nor cared about people.

2 イエスさまは言いました。「ある町に、神さまを恐れず、人を気にかけない裁判官がいました。

3 A widow of that city came to him repeatedly, saying, ‘Give me justice in this dispute with my enemy.’

3 その町に住むひとりの未亡人が、繰り返しその裁判官のところへ来ては言いました。『私の敵とのこの争い事を裁いて、私に正義をもたらしてください。』

4 The judge ignored her for a while, but finally he said to himself, ‘I don’t fear God or care about people,

4 裁判官はしばらくの間は未亡人を無視していましたが、とうとう自分に言いました。『私は神を恐れず、人を気にかけない。

5 but this woman is driving me crazy. I’m going to see that she gets justice, because she is wearing me out with her constant requests!’”

5 だがこの未亡人は私の気を狂いそうにしている。ひっきりなしの懇願で本当にくたびれるから、彼女が正義を得られるようにしてやろう。』」

6 Then the Lord said, “Learn a lesson from this unjust judge.

6 そして主は言いました。「この不公平な裁判官から教訓を学びなさい。

7 Even he rendered a just decision in the end. So don’t you think God will surely give justice to his chosen people who cry out to him day and night? Will he keep putting them off?

7 この裁判官でさえ最後には正しい考えを下したのです。だとしたら神さまは昼も夜も神さまを呼び求める自分が選んだ人々に、必ずや正義をもたらすとは思いませんか。神さまはその人々を待たせたままにするでしょうか。

8 I tell you, he will grant justice to them quickly! But when the Son of Man returns, how many will he find on the earth who have faith?”

8 あなた方に言います。神さまはすみやかに人々に正義をもたらします。しかし人の子が戻るとき、果たして彼は地球上に信仰を持つ人を何人見つけられるでしょうか。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第18章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

前回までの第17章では第20節でファリサイ派がイエスさまに「神さまの王国はいつ来るのでしょうか。」とたずねたのを皮切りに、第17章は最後まで「神さまの王国」と「イエスさまの再来」の話になりました。そして第17章の終わりのあたりでは、イエスさまは「終わりの日」の幕開けとなる「イエスさまの再来」はまったく予期していないときに起こるのだし、そのときには日常の生活の中で、ひとりが取られ、もうひとりが取り残される、そのような事態が起こるのだ、と話します。これを聞いた弟子たちは最後に「それはいつ起こるのでしょうか。」とたずねますが、 イエスさまは「ハゲワシの集まるところの近くには死体があると示すように、終わりが近いことはしるしが示す」とだけ言い、結局「終わりの日」がいつ来るのかは、はっきりとは教えてもらえません。

今回の第18章は、イエスさまが弟子たちに「いつも祈るべきであり、そしてあきらめてはいけないことを教える」ことを必要と感じ、その目的に沿うたとえ話をしたとの記述で始まっています。これは第17章の最後で「終わりの日」がいつ来るかについて、弟子たちが「それはいつ起こるのでしょうか」と心配そうな様子を見せたのに対し、イエスさまは謎めいた回答をすることになったのですが、それでも弟子たちは「いつも祈るべきであり、あきらめてはいけないのだ」と、話がつながっていることが明らかです。今回の「ねばり強い未亡人のたとえ話」は「ルカ」だけに登場しますから、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはルカの独自の資料からの採用となります。

ある町にいる裁判官は「神さまを恐れず、人を気にかけない」人物で、第6節では「不公平な裁判官」だと言われています。なにしろ未亡人が何度も助けを求めに来ても無視しますし、あまりにもしつこいから仕方なく裁判を行うことにするなど、不公平であることは明らかです。旧約聖書の律法はあちらこちらで立場の弱い人たちには優しくしなさい、と教えています。たとえばExodus 22:21-27(出エジプト記第22章第21節~第27節)には次のような記述があります。「21 在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。22 すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。23 もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。24 わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。25 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。26 もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。27 なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。」([新改訳])。ここでは外国人、やもめ、みなしご、貧しい者、隣人、こういう人たちに優しくするようにと教えています。もし優しくしないのなら、代わりに神さまがこの人たちの叫びを聞き入れて報復するとまで言っています。今回の不公平な裁判官は、未亡人すなわちやもめの願いをないがしろにしているのですから、その言動が神さまの目に正しく映るはずがありません。

たとえ話は、そんな不公平な裁判官でさえ、未亡人が粘り強く要求すれば、そのしつこさに耐えかねて、最後にはしぶしぶ裁判を行って正義をもたらそうとするのだから、正しい神さまであれば、正義をもたらすのは当然だし、そのタイミングもすぐである、と教えます。第8節には「すみやか(quickly)」と言う言葉が使われています。ただその「すぐ」というタイミングがいつであるのか、どれくらい「すみやか」であるのか、前章の最後に「それはいつ起こるのでしょうか。」とたずねた弟子たちへの回答はここでも明らかになりません。永遠を生き、時間を超越する神さまの視点から見た「すぐ」や「すみやか」は、果たしてどれくらいすぐなのでしょうか。個人的には聖書内の大きなイベントは2000年程度を区切りに起こっているようにも読めるので、イエスさまの十字架から2000年が経とうとしているこれから15年~20年の後くらいの期間にはいよいよ何かが起こるのではないかと密かに期待したりします。世界情勢も、「終わりの日」の様子を予告した聖書の記述に近づいているようにも感じています。

神さまにお祈りをする場合、どのようにお祈りをするのがよいか、マタイには次のように書かれています。Matthew 6:7-12(マタイの福音書第6章第7節~第12節)です。「7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]」([新改訳])。 神さまは私たちひとりひとりの心を深層心理の部分に至るまでをご覧になり、私たちが何を必要としているかをすべて知っているのですから、いちいちお願いしなくとも、ここに書かれているように神さまを崇拝し、賛美し、神さまの王国が地上に到来することを求めなさい、と教えています。

一方で聖書は今回のように「神さまにはしつこくお願いしなさい。」と教える場面もあります。ルカの福音書第11章では、夜中に突然友人が訪ねて来て、その友人にふるまう食べ物が何もなくて困惑する人のことが書かれていました。この人は近くの友人を訪ねてパンを分けてもらおうと思い立ちます。ところが真夜中のことなので最初は断られてしまうのです。ですがイエスさまは、そこであきらめないで、恥ずかしげもなくずうずうしくたのみ続ければ、相手は最後には根負けして欲しいものは何でもくれるだろう、と教えます。Luke 11:9-10(ルカの福音書第11章第9節~第10節)には次のように書かれています。「9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」([新改訳])。

考えるにマタイに書かれているお祈りの方法は、毎日、定常的に行う神さまとの対話のときのことを言っているのだと思います。Matthew 6:6(マタイの福音書第6章第6節)に「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」([新改訳])とあるように、毎日時間を決めて神さまとの対話の時間を持つことが大切で、そのときには一人きりになれる場所に入り、戸を閉めて神さまと対話します。ただそのときに神さまにかなえて欲しいことや手に入れたい事柄の長々としたリストを作っておいて、毎日、毎日、それをなぞるようにお祈りしなくても、神さまは私たちが何を必要としているか、それをご存じなのですから、そのようなお祈りをするくらいなら、神さまを崇拝し、賛美し、神さまの王国の到来を求めなさいと教えているのです。一方で、神さまにどうしてもお願いしたい、緊急な要件やとても大切な要件があるのなら、そのときにはあきらめないで、必死に何度でも一生懸命神さまにお願いしなさい、と教えるのが、今回の部分やルカの第11章のたとえ話の意味なのだろうと思います。

なお今回のたとえ話は、そのように必死にお願いしなさいと伝えた後で、イエスさまは「しかし人の子が戻るとき、果たして彼は地球上に信仰を持つ人を何人見つけられるでしょうか。」という厳しい言葉で締めくくります。「いつですか」「いつですか」「いつイエスさまは戻られるのですか」と必死に問う姿勢も良いけれども、それはそれとして、果たしてあなた方の神さまを思う気持ちの方は大丈夫なのですか、という問いかけです。なにしろイエスさまは私たちの一番予期していない時期にやって来るのですから、一日一日を神さまの目の中に正しく過ごそうと心がけることが大切なのです。






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