ルカの福音書:第18章ルカの福音書第17章第11節~第19節:ハンセン病を癒された十人

2015年10月15日

ルカの福音書第17章第20節~第37節:王国の到来

第17章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Coming of the Kingdom

王国の到来


20 One day the Pharisees asked Jesus, “When will the Kingdom of God come?” Jesus replied, “The Kingdom of God can’t be detected by visible signs.

20 ある日、ファリサイ派の人たちがイエスさまにたずねました。「神さまの王国はいつ来るのでしょうか。」 イエスさまは答えました。「神さまの王国は目に見えるしるしによって見つけられるものではありません。

21 You won’t be able to say, ‘Here it is!’ or ‘It’s over there!’ For the Kingdom of God is already among you.”

21 あなた方は『ほらここにある』とか『あそこにある』とか言うことはできないのです。なぜなら神さまの王国はすでにあなた方の中にあるからです。」

22 Then he said to his disciples, “The time is coming when you will long to see the day when the Son of Man returns, but you won’t see it.

22 それからイエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方が人の子が戻る日を見たいと願い、それでも見られないときが来ようとしています。

23 People will tell you, ‘Look, there is the Son of Man,’ or ‘Here he is,’ but don’t go out and follow them.

23 人々はあなた方に言うでしょう。『見なさい、人の子がいる』とか『ここに人の子がいる』とか。ですが外に出てその人たちを追いかけてはいけません。

24 For as the lightning flashes and lights up the sky from one end to the other, so it will be on the day when the Son of Man comes.

24 なぜなら稲妻が光って空の端から端を照らすように、人の子が来るときにはそのようであるからです。

25 But first the Son of Man must suffer terribly and be rejected by this generation.

25 しかし、まず人の子は激しく苦しみ、この時代から拒絶されなければなりません。

26 “When the Son of Man returns, it will be like it was in Noah’s day.

26 人の子が戻るときは、ちょうどノアの日のようです。

27 In those days, the people enjoyed banquets and parties and weddings right up to the time Noah entered his boat and the flood came and destroyed them all.

27 あの頃は、ノアが舟に入り、洪水が来て、人々を滅ぼすその直前まで、人々は宴会やパーティーや婚礼を楽しんでいました。

28 “And the world will be as it was in the days of Lot. People went about their daily business -- eating and drinking, buying and selling, farming and building --

28 また世の中はロトの時代のようです。人々は日々の仕事をせっせとしていました。食べたり、飲んだり、買ったり、売ったり、耕作したり、家を建てたりです。

29 until the morning Lot left Sodom. Then fire and burning sulfur rained down from heaven and destroyed them all.

29 それはロトがソドムを出て行くまでの話です。それから火と燃える硫黄が天から降ってきて、すべての人々を滅ぼしました。

30 Yes, it will be ‘business as usual’ right up to the day when the Son of Man is revealed.

30 そうです。人の子が現われるその日まで、いつもの仕事の状態なのです。

31 On that day a person out on the deck of a roof must not go down into the house to pack. A person out in the field must not return home.

31 その日には屋上にいる者は荷造りのために家に入ってはいけません。畑にいる者は家に戻ってはいけません。

32 Remember what happened to Lot’s wife!

32 ロトの妻に何が起こったかを思い出しなさい。

33 If you cling to your life, you will lose it, and if you let your life go, you will save it.

33 もしあなた方が自分のいのちに執着すればそれを失います。もしあなた方が自分のいのちを放てばそれを保ちます。

34 That night two people will be asleep in one bed; one will be taken, the other left.

34 その夜、同じベッドで寝ている二人の人が寝ていると、ひとりは取られ、もうひとりは取り残されます。

35 Two women will be grinding flour together at the mill; one will be taken, the other left.”

35 製粉所で二人の女が粉をひいていると、ひとりは取られ、もうひとりは取り残されます。」

(36, Two men will be working in the field; one will be taken, the other left.)

36 {畑で二人の男が働いていると、ひとりは取られ、もうひとりは取り残されます。}

37 “Where will this happen, Lord?” the disciples asked. Jesus replied, “Just as the gathering of vultures shows there is a carcass nearby, so these signs indicate that the end is near.”

37 弟子たちはたずねました。「それはいつ起こるのでしょうか、主よ。」 イエスさまは答えました。「ハゲワシの集まるところが近くに死体があると示すように、これらのしるしが終わりが近いことを示すのです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第17章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

第20節、ある日、イエスさまのところへファリサイ派の人たちがやってきて次のようにたずねます。「神さまの王国はいつ来るのでしょうか。」  イエスさまの時代のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。ユダヤ人に対する弾圧は日増しに厳しくなり、国内ではローマ帝国支配からの脱却とイスラエル王国の復興を目指す声が高まり、各地で武装蜂起が発生していました。最終的には西暦70年にイスラエルの首都エルサレムがローマ帝国軍によって陥落し、ユダヤ人は祖国を失うことになるのですが、その日に向けて世の中はどんどん荒れていくのです。

そんな荒れゆく世の中で、当時のユダヤ人には神さまの王国の到来に対する願望が特に強かったようで、今回のファリサイ派の質問もそこから来ているものと思われます。ここでファリサイ派が言及し、当時のユダヤ人の読み手が共有する「神さまの王国の到来」とは、遠い昔にアブラハムと契約を結び、人類の中から特別にユダヤ人を選び出した神さまによる支配が及ぶ、そのような王国です。きっとそこではユダヤ人の間に平和と安寧が実現しているはずなのです。あるいはファリサイ派が質問しているのですから、神さまの目に正しく映る、自分たちファリサイ派のような正しいユダヤ人に平安が実現している、そんな世界が想定されているのかも知れません。

これに対するイエスさまの答えは「神さまの王国は目に見えるしるしによって見つけられるものではありません。」でした。この言葉はイエスさまが聖書を貫く真理をここで改めて言ったと言うよりは、今回のファリサイ派の質問に答える形で限定的に言われたのではないかと思います。つまり「神さまの王国はあなた方ファリサイ派が考えているような、目に見えるしるしによって確認できるような形で、地上でいますぐにでも見つけられるように実現するものではないのですよ。」と答えているのだと思います。

第21節の「あなた方は『ほらここにある』とか『あそこにある』とか言うことはできないのです」の言葉は類似の記述がマルコやマタイに見つかります。

マルコはMark 13:21-23(マルコの福音書第13章第21節~第23節)の周辺です。「21 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。22 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。23 だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」([新改訳])。

マタイはMatthew 24:23-25(マタイの福音書第24章第23節~第25節)の周辺です。「23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用となるのでしょうが、ルカではまったく違う文脈に編集されて組み込まれています。 マルコやマタイではここは「終わりの日」の様子を書いた章なのですが、ルカではファリサイ派の質問に対する回答の中に組み込まれているので、第20節の説明につなげて考えなければなりません。当時、『ほらここにある』とか『あそこにある』と神さまの王国の到来を宣言しそうな人たちとは、イスラエルの中で自分こそが旧約聖書に約束されたメシアだと名乗りをあげて出現し、民衆の支持を集めて武装蜂起を行った反ローマ帝国のリーダーたちなのかも知れません。イエスさまは神さまの王国がここにあるとか、あそこにあるという発言を否定しています。

第21節のイエスさまの言葉の続きは、「なぜなら神さまの王国はすでにあなた方の中にあるからです。」となっています。聖書によると神さまの王国は「終わりの日」を経て、物理的に最初にまず地球上に実現することになっているのですが、それまでの間は神さまの王国を自分の内面で実現することができるとされています。「神さまの王国」とは神さまの支配が行き届いた場所のことです。物理的に神さまの王国が地上に実現すると、それは日々の暮らしのあらゆる場所で、いやでも確認できるようになるはずです。人々は神さまが自分たちの支配者であること、自分たちの王であることを認めざるを得ません(それを受け入れるかどうかはともかくとして)。しかし神さまの王国が物理的に地上に実現するまでの間は、神さまの存在、神さまの正しさ、神さまの計画を信じる人が、自分の存在や、自分の人生のすべてを神さまに委ねることで、神さまの支配が行き届いた状態を自分の内面に実現させることができます。これが「神さまの王国はすでにあなた方の中にある」と表現される状態です。ファリサイ派はイエスさまを敵視しており、イエスさまもファリサイ派を厳しく批判していますから、ここで言う「あなた方」はファリサイ派を指しているのではなく、周囲で聞いている人たち全般を指していて、神さまの王国はそうやって自分の内面からスタートさせることができるのですよ、と教える言葉なのだと思います。

第22節からはファリサイ派ではなく、イエスさまが弟子たちに向けた言葉になっています。「あなた方が人の子が戻る日を見たいと願い、それでも見られないときが来ようとしています。」  これはこの後にイエスさまと弟子たちに起こることを予告しているのでしょう。イエスさまはこの後エルサレムに入城し、逮捕され、十字架刑で処刑されます。が、その三日後に復活して弟子たちの前に姿を現し、再来を約束して天へ戻ります。弟子たちはイエスさまの栄光の再来を見たいと願うでしょうが、それを見ることはできません。

第23節~第24節はマタイに類似の記述があります。Matthew 24:26-27(マタイの福音書第24章第26節~第27節)です。「26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マタイ」と「ルカ」に共通なので、イエスさまの語録集である「Q資料」からの採用です。

イエスさまの再来は「終わりの日」の最初の出来事となっています。そのときから地上では大変な厄災がスタートするのですが、そのような世紀末の様相の世の中では「ここに救世主が出現した」「あそこに救世主が現れた」というようなデマが、次々と人々を扇動します。ですがこれに惑わされてはいけないのです。第24節には、「なぜなら稲妻が光って空の端から端を照らすように、人の子が来るときにはそのようであるからです。」とあります。 これの解釈については、「稲妻が空の端から端を照らすように」、その日にはイエスさまの再来は誰の目にも明らかだと言おうとしているのだとの解釈を言う人もいますし、私たちは日常、稲妻が出ないかと予期して待つようなことをしませんから、そうやって稲妻がまったく予期しないときに突然発生するように、イエスさまの再来を予期することに意味はないのだ、という解釈をいう人もいます。この「終わりの日」やイエスさまの再来が「予期不能」であるとするたとえ話は、福音書にたくさん登場しますから、後者の方が正しいのかも知れません。ただ稲妻は一度発生すると大きな光りや音を伴って空を渡って人々を震え上がらせますから、そういう予測不能な状態と、一度発生すると誰の目にも明らかな驚くほど大きなアピールを持つことを合わせて言っているのだろう、という人もいます。

第25節、「しかし、まず人の子は激しく苦しみ、この時代から拒絶されなければなりません」は、これからエルサレムで起こる出来事の予告です。

イエスさまは第26節で「人の子が戻るときは、ちょうどノアの日のようです」と話します。ノアの箱船の話は旧約聖書の「Genesis(創世記)」の第6章~第9章に出てきます。地上が水で覆われる大洪水の話は聖書を知らない人でも耳に挟んだことがあるくらい有名な話です。

余談ですが、この地上を覆い尽くして大洪水をもたらした大量の水がいったいどこから来たのかについて、聖書の解釈に一つの仮説があって、私はこの仮説が好きです。それは「Genesis(創世記)」の第1章の一番最初のところ、天地創造で神さまが地球を作ったときの話の解釈です。Genesis 1:1-8(創世記第1章第1節~第8節)を読んでみましょう。

「1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」 7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」([新改訳])。

これによると最初、地球は水で覆われていて闇が大水の上にありました。神さまは第一日に光を作ります。その次の第二日、神さまは「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」と言い、「大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。」とあります。ここです。 神さまは水を上下に分けてその間に「大空」を置いています。下の水は「海」のことだろうと想像できますが(この続きで神さまは地上を陸と海に分けます)、いったい「上の水」とは何でしょうか。「雲」のことでしょうか。あるいは「水蒸気」のことでしょうか。いずれにしも「上の水」と呼ぶには、雲や水蒸気では不確かな気がします。私の好きな仮説では「上の水」はいまはもはや存在せず、それはノアのエピソードの洪水のときに地表に降り注いでしまったから、というものです。仮説ではGenesis 1:6で作られた「上の水」とは、地球を覆う水でできた天蓋というか、厚い膜のようなもので、この天蓋で太陽からの紫外線を防ぎ、地表に温室効果をもたらして、エデンの楽園に理想的な気候を提供していたというものです。キラキラと水の膜に覆われた地球、素晴らしい仮説だと思います。

さてノアの話です。Genesis 6:5-7(創世記第6章第5節~第7節)には、「5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」([新改訳])と書かれ、神さまは人を創造したことを悔やんで、地上の生物を滅ぼしてしまおうと決めます。 続きのGenesis 6:8-9(創世記第6章第8節~第9節)には、「8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」([新改訳])とあり、ノアが神さまの目に正しく映ったことが記されています。ノアは「正しい人」「全き人(=完全な人)」と評価されています。

神さまはノアに箱船の建造を命じます。そして舟に乗るのはノアの妻、三人の息子、息子の妻たちの8人の人間と、すべての生き物の二匹ずつのつがいで、これらだけが洪水の厄災を免れて生き延びるとされるのです。なにしろ巨大な舟ですから建造には長い年月を要しましたし、その間、巨大な舟は当然人々の目にもとまったでしょう。ノアは「正しい人」ですから、神さまを賛美し、神さまから聞かされた神さまの心痛と、地表の生物を滅ぼす決心を人々に話し、人々に悔い改めを求めたものと考えられます。ところが第27節のイエスさまの言葉によれば、ノアが舟に入り、洪水が来て、人々を滅ぼすその直前まで、人々は宴会やパーティーや婚礼を楽しんでいたのです。きっとノアを笑いものにしていたのではないかと思います。そしてノアの家族とあらゆる動物のつがいが舟に乗り込むと、その7日後から40日に及ぶ大雨が降り、洪水が地上を襲います。アダムとエバの二人から始まった人類は、ここで再びノアの家族の8人からのスタートにリセットされました。イエスさまが再来されるときはまったくこのときのようだと書かれています。人々がまったく予期しておらず、日常の生活をしているところへイエスさまは突然帰って来て、そこから「終わりの日」が始まるのです。

第28節から書かれているのはソドムが滅ぼされたときの話です。ロトはアブラハムの甥で、ソドムの最初のエピソードは「Genesis(創世記)」の第13章に出てきます。アブラハムもロトも共に羊の群れや牛の群れ、天幕を所有して裕福に暮らしていたのですが、なにしろ所有物の割りに住んでいる土地が狭すぎて、アブラハムの牧者とロトの牧者が衝突して争い事が起きたりします。そこで周囲の土地は広いのだから別々に住もうということになり、ロトはソドムの近くへと移って行きます。続きは「Genesis(創世記)」の第18章~第19章です。ある暑い日、アブラハムが天幕の入り口に座っているといつの間にか三人の人が自分の前に立っています。アブラハムは瞬時にその人たちが神さまのところから来たのだと理解します。アブラハムがこの人たちと話をしているとやがて重大な秘密が明かされます。Genesis 18:20-21(創世記第18章第20節~第21節)には次のように書かれています。「20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」([新改訳])。アブラハムは神さまがソドムとゴモラを滅ぼそうとしているのだと知り、ソドムの近くに居を移した甥のロトとその家族に思いをはせます。そこでアブラハムは神さまの使いと問答を繰り返し、最終的にもしソドムに神さまの目に正しく映る人が10人見つかったら、ソドムを滅ぼすのをやめようと約束させることに成功します。これは聖書には書かれていませんが、ロトと家族のことを考えればなんとか10人、神さまの目に正しく映る人がソドムに見つかるのではないかとアブラハムは考えたのだろうと想像します。

神さまの使いはそこからソドムへと歩いて行き、最初に門のところに座っていたロトに出会います。ロトもやはり、この人たちが神さまの元から来たことを瞬時に悟り、自分の家へと招きます。ところがロトが客人を迎えたことはすぐにソドムの住人に知れることとなり、なんとロトの家はソドムの住人によって取り囲まれてしまうのです。そして人々は家の外からロトに向かって叫びます。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」([新改訳])。 この「彼らをよく知りたいのだ」と言うのは「彼らと性交を持ちたい」の意味だそうで、ここから英単語の「sodomite(ソドム人)」は「男色者、男性同性愛者」の意味になっています。つまり老いも若きも町中の男たちがロトの家を取り囲んで、外から「その男たちを出せ、その男たちとセックスさせろ」と叫んでいるのです。なんという町なのでしょうか。

神さまの使いは不思議な力で外にいる人たちの視力を奪い、ロトに言います。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」([新改訳])。夜が明ける頃にロトは妻と二人の娘を連れて町を出ます。そのときに神さまの使いが言います。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」([新改訳])。ロトたちが町を出ると神さまはソドムの上に硫黄の火を降らせて住民もろともその周辺を壊滅させてしまいます。この話もまたイエスさまが再来されるときの様子として引用されているのです。まさかある日、空から硫黄の火が降り注いで瞬時に自分の住む町が壊滅するとは誰が想像しているでしょうか。イエスさまの再来はそれくらい予期できないことだと言うのです。

第31節はMark 13:15-16(マルコの福音書第13章第15節~第16節)にまったく同じ記述があります。「15 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用です。

また今回の箇所との類似の記述の意味ではMatthew 24:33-41(マタイの福音書第24章第33節~第41節)に次の記述が見つかります。「33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用です。

ここで特徴的なのはイエスさまが再来するときに起こるという「ひとりは取られ、もうひとりは取り残される」と言う言葉の繰り返しです。 この「取られる」という言葉は旧約聖書に出てきます。旧約聖書には死を迎えることなく神さまのところへ連れ去られた人物が二人登場するのですが、そのうちのひとり「エノク」については、Genesis 5:24(創世記第5章第24節)に「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」([新改訳])と書かれています。エノクは神さまに「取られて」いなくなっています。つまり「取られる」というのは神さまによって地上から神さまのいる場所へ連れて行かれることを言っているのです。

同じことがイエスさまが再来するときに起こるのです。地上にいる人が神さまの元へ連れて行かれる人と、地上に残される人に分けられるのです。ではどうしたら私たちはそのときに神さまに「取られる」側に入れるのでしょうか。答は聖書を通じて一貫して書かれています。神さまは人間を滅ぼしたいのではありません。神さまは人間が神さまの意図から外れることに心を痛め、悲しみ、そして怒っているのです。神さまはわざわざ自分の姿を映して創造し、愛する人間をひとりでも多く天国に迎えたいと願っています。だからそのために救世主としてイエスさまを送ってくださいました。そして私たちにイエスさまを指し示す「聖書」という地図を残し、ひとりひとりの心には判断の基準として「善」の意味を書き記してくださいました。だから神さまの意図のとおりに歩むこと、すなわち福音を信じて受け入れることこそが、私たちが「取られる」側に入るための条件なのだと解釈するしかないと私は思っています。

第32節に書かれている「ロトの妻に何が起こったかを思い出しなさい。」は、神さまの使いから「うしろを振り返ってはいけない。」と言われたはずなのに、ソドムを脱出してロトの後ろを走っていた妻はこの警告を無視して(あるいは忘れて?)、後ろを振り返りそのときに塩の柱になってしまったことを言っています。

第33節の「もしあなた方が自分のいのちに執着すればそれを失います。もしあなた方が自分のいのちを放てばそれを保ちます。」は、Mark 8:35(マルコの福音書第8章第35節)の「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」([新改訳])とそっくりで、イエスさまの特徴的な謎かけの言葉です。 ここは明らかに「マルコ」からの引用なのですが、マルコではイエスさまが自分の死を予告する文脈の中に登場していますので、ルカはまったく違う文脈に用いています。

第37節でイエスさまが「ハゲワシの集まるところが近くに死体があると示す。」の言葉は、Matthew 24:28(マタイの福音書第24章第28節)に「死体のある所には、はげたかが集まります。」([新改訳])とありますから、ここは「Q資料」からの採用です。

そうそう書き忘れました。気になっている人がいるかも知れません。旧約聖書に登場する死を迎えることなく神さまのところへ連れ去られたもうひとりの人物は預言者のエリヤです。2 Kings 2:8-14(列王記第二の第2章第8節~第14節)を引用します。エリヤと弟子のエリシャはヨルダン川のほとりに立っています。エリヤの言葉の中に「取り去られる」と言う言葉が二回登場しています。

「8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」 11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。12 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14 彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。」([新改訳])。

弟子のエリシャと一緒にいたエリヤは自分の来ていた外套を取り、それを丸めて目の前のヨルダン川の水面を打ちます。すると水が割れて乾いた地面が現れました。ちょうどモーゼが紅海を割ったときのようです。乾いた地面を歩いてヨルダン川を渡ると、エリヤが弟子のエリシャに、自分が「取られる」前に願いを言えと言います。エリシャは「あなたの霊の二つの分け前が私のものになりますように。」と、何やらエリヤの霊力が欲しいと言うようなことを言いますが、エリヤは自分が「取られる」ときに自分を見ることができればその願いはかなう、と言います。すると突然、一台の火の戦車と火の馬とが現われてふたりの間を分け隔ててしまい、エリヤは竜巻に乗って天へ運び去られます。すごい。エリシャはなんとか取り去られるエリヤを自分の目で見てやろうとしますがもう見えません。悔しさの余り、エリシャは自分の着物を引き裂きますが、エリヤの外套を取って同じようにヨルダン川の水面を打つと、水が同じように二つに割れるではありませんか。エリシャはエリヤの霊力獲得に成功したようですが、その理由は「エリヤの神、主はどこにおられるのですか。」と言う、神さまを信じるエリシャの言葉の中に現れているのではないかと思います。






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