ルカの福音書第17章第20節~第37節:王国の到来ルカの福音書第17章第1節~第10節:許しと信仰についての教え

2015年10月15日

ルカの福音書第17章第11節~第19節:ハンセン病を癒された十人

第17章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Ten Healed of Leprosy

ハンセン病を癒された十人


11 As Jesus continued on toward Jerusalem, he reached the border between Galilee and Samaria.

11 イエスさまがエルサレムに向けて引き続き上って行くと、ガリラヤ地方とサマリヤ地方の境界に着きました。

12 As he entered a village there, ten lepers stood at a distance,

12 そこでイエスさまがある村に入ると、十人のハンセン病の患者が遠くに立っていました。

13 crying out, “Jesus, Master, have mercy on us!”

13 十人は叫んでいました。「イエスさま、先生、私たちを憐れんでください。」

14 He looked at them and said, “Go show yourselves to the priests.” And as they went, they were cleansed of their leprosy.

14 イエスさまは十人を見て言いました。「行って祭司に自分たちを見せなさい。」 そして十人が向かう途上で、ハンセン病が清められました。

15 One of them, when he saw that he was healed, came back to Jesus, shouting, “Praise God!”

15 十人のうちのひとりは、自分が癒されたのを見て、大声で言いながらイエスさまのところへ戻ってきました。「神さまを褒め称えよ!」

16 He fell to the ground at Jesus’ feet, thanking him for what he had done. This man was a Samaritan.

16 彼はイエスさまのしたことに感謝しながらイエスさまの足もとにひれ伏しました。この人はサマリヤ人でした。

17 Jesus asked, “Didn’t I heal ten men? Where are the other nine?

17 イエスさまはたずねました。「私は十人を癒したのではなかったですか。他の九人はどこですか。

18 Has no one returned to give glory to God except this foreigner?”

18 この異邦人を別にすると、神さまに栄光を与えるために戻って来た人はいないのですか。」

19 And Jesus said to the man, “Stand up and go. Your faith has healed you.”

19 そしてイエスさまはその人に言いました。「立って行きなさい。あなたの信仰が、あなたを癒したのです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第17章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

今回の話はルカだけに登場する話なので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ルカの「独自の資料」からの編集となります。構成上、ずいぶんと長く「エルサレムへの旅程」が続いていますが、第11節にはイエスさまがガリラヤ地方とサマリヤ地方の境界に着いたと書かれています。イエスさまの出発地がガリラヤ地方で、ヨルダン川の西側をエルサレムに向けて南下すると、やがてサマリヤ地方に入りますから、ここでこの記述は何だかおかしな感じを受けます。 この部分、原文に忠実な[KJV]を見ると「he passed through the midst of Samaria and Galilee(拙訳:彼はサマリヤとガリラヤの真ん中を通った)」となっていてずいぶんニュアンスが違います。地名が登場する順番もサマリヤが先になっています。どうしてここにこの一文がこのような形で登場するのか、学者の間ではいろいろと議論がされているようですが、これから話す話にはサマリヤ人とユダヤ人のハンセン病患者が登場するのですよ、そういう土地柄の話なのですよ、との前置きになっていると理解すればすんなりと読めそうです。

第12節、イエスさまがある村に入ると遠くにハンセン病の患者が十人立っていて、「イエスさま、私たちを憐れんでください。」と大きな声で呼びかけてきます。「leper(ハンセン病患者)」は「leprosy(ハンセン病)」にかかった人のことです。ハンセン病は「らい菌」がもたらす重い皮膚病の感染症で、病名は1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンにちなみます。「ハンセン氏病」「らい風」とも呼ばれます。らい菌の発見以前はハンセン病に似た症状の皮膚病を広く「らい病」と呼んでいたため、聖書に書かれた「leprosy」が今日のハンセン病かどうかは正確にはわかりません。今日では治療法が確立しており、日本での新規患者数は年間で一人いるかいないかと非常に稀な病気になっていますが、アフリカ、南米、東南アジアなどではまだ新規患者が多数発生しています。適切な治療を受けない場合には皮膚に重度の病変が生じることがあるので、患者が古くから差別の対象となってきた歴史があります。このため「らい病」という言葉は差別用語になっているようです。私は昭和40年代の小学生のとき、道徳の時間にらい病に関する教育映画を見たのを覚えています。

適切な治療法の存在しなかったイエスさまの時代にはハンセン病に感染して発症して病気が進行すると、患者は末梢神経が侵され、知覚障害、運動障害、自律神経障害が出ました。病気のタイプにもよりますがやがて皮膚症状が現れて独特の奇怪な外観になります。皮膚の構造破壊が進むと鼻、耳、指などの末端部分が欠損して失ってしまうこともあるのでした。旧約聖書の「Leviticus(レビ記)」には祭司がハンセン病患者を診察して、それがハンセン病であると判断を下すための症例がたくさん書かれていますが、その中でLeviticus 13:45-46(レビ記第13章第45節~第46節)には次のように書かれています。「45 患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。46 その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」([新改訳])。[新改訳]は差別用語を避けるため、また厳密に「leprosy」が今日のハンセン病かどうかがわからないため、ハンセン病に「ツァラアト」というヘブライ語の原語をあてています。ここに書かれた内容によるとハンセン病であると祭司に宣言された者は、共同体から離れて一人で住み、もし他の人に近づく必要があるときには自分が来ることについて遠くの方から警告を発する目的で、口をおおって「汚れている、汚れている」と叫ばなければならないのでした。今回の十人のハンセン病患者が遠く離れたところに立ち、イエスさまの一向に近づかないようにしていたのはこの理由によるのです。が、本来なら患者は複数名が一緒にいてはいけないし、村に入ることも許されなかったはずです。ところが彼らは強力な癒やしの奇跡を行うというイエスさまの噂を聞きつけ、エルサレムへ向かうイエスさまの一行が村を通過すると聞くと、藁にもすがる気持ちで一向に近づき、それでも遠くから「イエスさま、私たちを憐れんでください。」と大きな声で叫びました。

ここでイエスさまはいつものように患者に触れて病を癒すことをせず、ただ遠くから十人を見て、そして言いました。「行って祭司に自分たちを見せなさい。」 これはやはり旧約聖書の「Leviticus(レビ記)」に沿った命令なのです。Leviticus 14:1-32(レビ記第14章第1節~第32節)は長いので今回は引用を割愛しますが、祭司がハンセン病患者を診察して幹部が癒されているかどうかを判断し、癒されていると判断されたときに行う儀式の詳細が書かれています。イエスさまがここで「行って祭司に自分たちを見せなさい」と言ったと言うことは、つまり「あなたたちは癒されている」と言っているに等しいのです。「だから行って祭司に自分たちを見せなさい」と言っているのです。

どうでしょうか。重度になると鼻、耳、指などの末端部分が欠損してしまうような病気なのです。知覚障害、運動障害、自律神経障害が出る病気なのです。自分の手を見れば、あるいはまともに立つことや歩くことのできない自分の弱々しさを感じれば、自分が癒されているかどうかはすぐにわかるのです。まったく症状が変わることのない自分を見て、「待ってください。私はまだ癒されていません。このまま祭司のところへ行くことはできません。どうかお願いします。奇跡の力で私を癒してください。」と引き続き訴えたくなるのが自然な姿ではないでしょうか。ところがこの十人はイエスさまに言われるがままに、何も疑うことなくそのまま祭司の居所を目指すのです。そしてなんとその途上で病気が癒されてしまいます。これは大変な驚きの光景だったでしょう。十人は場合によると鼻や耳や指を欠損し、運動障害を引き起こしてまともに歩くことさえできなかったような状態なのです。その症状が、歩いている途中でウソのように消えてなくなってしまったのです。イエスさまによる治癒はいつも完治です。たとえば何十年も寝たきりで床に伏せていた人が立ち上がり、自分の寝床をもってスタスタ歩けるほどに完全な健康体になるのです。と言うことは今回は、欠損していた鼻や耳や指が、まるで映画のフィルムを高速で逆回転させたかのように元通りの形へと再生し、全身の皮膚は瞬時に健康なピンク色の張りを取り戻し、ヨロヨロとしか歩けなかった足が力強く地面を踏みしめ始め、丸まっていた背筋もピンと伸びてきっと周囲の誰よりも健康体になったのです。

第15節、すると十人のうちの一人はその場でくるりと反転し、イエスさまの元を目指します。とにかくイエスさまに感謝しなければ、神さまを褒め称えなければ、という気持ちが起こした行動です。イエスさまは戻ってきた一人を目にして、第17節で言います。「私は十人を癒したのではなかったですか。他の九人はどこですか。」 残りの九人はどうしたのでしょうか。長い間苦しみ続けた病気から瞬時に回復した喜びから、そのまま走ってどこかへ行ってしまったか、あるいはイエスさまから言われたとおりに、まずは祭司の元を目指したのでしょうか。いずれにしても行き先はわかりません。

そして第18節、イエスさまは続けます。「この異邦人を別にすると、神さまに栄光を与えるために戻って来た人はいないのですか。」 ここで特別に言われているのは、戻ってきたのが、あろうことか、ユダヤ人に忌み嫌われるサマリヤ人だったと言うことです。神さまは旧約聖書でアブラハムを召してそこからユダヤ人と言う民族を興しました。これはユダヤ人という民族を特別に選び出して大いに祝福し、神さまのメッセージを運ぶ器として用いるためでした。しかしユダヤ人は神さまの期待に背き、神さまを繰り返し繰り返しガッカリさせ続けます。旧約聖書はユダヤ人のありとあらゆる裏切りの歴史を綴った本と言っても過言ではありません。神さまは怒り、嘆き、預言者を次々と遣わして警告させます。「自らの罪を認め、悔い改め、神さまに向き直らなければ、ユダヤ人はイスラエルの地を追われ、ユダヤ人が享受するはずだった祝福は異邦人へ向かうことになるぞ。」と。 これはユダヤ人に嫉妬の気持ちを起こさせるために神さまが用意したシナリオなのでした。ユダヤ人から見て異邦人にあたる私たち日本人が、こうして聖書を通じてイエスさまの福音を知ることができるのも、元はと言えばユダヤ人が神さまを裏切ったことに起因することですし、また旧約聖書の中で遠い昔に予告されていたことの実現なのです。イエスさまが言う「この異邦人を別にすると神さまに栄光を与えるために戻って来た人はいないのですか。」の言葉は、まさしくこの部分を言っているのです。戻ってこなかった九人の中に果たして何人のユダヤ人が含まれていたのかはわかりませんが、こうしてイエスさまの元へ戻ってきて神さまを褒め称えるという、神さまの目に正しく映る行動で自身の信仰の姿勢を証明できたのは、ユダヤ人ではなく異邦のサマリヤ人だったのです。

第19節、イエスさまは言います。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを癒したのです。」 私が癒したのではありませんよ、あなたの信仰が癒したのです、と言うイエスさまの言葉です。前回読んだように、からし種ほどの信仰があれば私たちには山さえ動かせるのでした。この十人は自分の中に信仰を持っていたから、その信仰が自分の病気を劇的に治す奇跡をもたらしたのです。その信仰を証明したのは、イエスさまの「行って祭司に自分たちを見せなさい」の言葉を受けて、自分たちの症状が何ひとつ変わらないことに疑問を一つも挟まず、そのまま即座に行動に移した姿です。また律法に禁じられた禁を犯してまでイエスさまに一目会おうと村の中に入り、遠くから「イエスさま、私たちを憐れんでください。」と叫んだ姿にも信仰は表れていたのでしょう。イエスさまは私たちと神さまをつなぐ道であり、触媒なのです。神さまが私たちのために送り出したイエスさまを信じてそれを具体的に行動に結びつけることが、神さまに栄光と喜びをもたらし、神さまの持つ全知全能の力の恩恵が私たちの上に祝福として降り注ぐのです。






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