ルカの福音書第17章第11節~第19節:ハンセン病を癒された十人ルカの福音書:第17章

2015年10月15日

ルカの福音書第17章第1節~第10節:許しと信仰についての教え

第17章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Teachings about Forgiveness and Faith

許しと信仰についての教え


1 One day Jesus said to his disciples, “There will always be temptations to sin, but what sorrow awaits the person who does the tempting!

1 ある日イエスさまは弟子たち言いました。「罪への誘惑は常にあるでしょう。しかしその誘惑を行う人には、どれほどの悲しみが待ち受けることか。

2 It would be better to be thrown into the sea with a millstone hung around your neck than to cause one of these little ones to fall into sin.

2 この小さい者たちのひとりを罪に落とすようなことをするよりは、首に石臼をつるされて海に投げ込まれる方がましです。

3 So watch yourselves! “If another believer sins, rebuke that person; then if there is repentance, forgive.

3 だから自分たちに気をつけなさい。もしだれか信者が罪を犯したなら、その人を叱りなさい。そして悔い改めがあれば許しなさい。

4 Even if that person wrongs you seven times a day and each time turns again and asks forgiveness, you must forgive.”

4 仮にその人が一日に七回、あなたに悪を行っても、その都度向き直って許しを求めるなら、あなたは許さなければなりません。」

5 The apostles said to the Lord, “Show us how to increase our faith.”

5 使徒たちは主に言いました。「私たちの信仰を増やす方法を示してください。」

6 The Lord answered, “If you had faith even as small as a mustard seed, you could say to this mulberry tree, ‘May you be uprooted and thrown into the sea,’ and it would obey you!

6 主は答えました。「もしあなた方にからし種ほどの信仰があったなら、あなた方はこのクワの木に『根こそぎ抜かれて海中に投げ込まれよ』と言って、するとクワの木はあなたに従うのです。

7 “When a servant comes in from plowing or taking care of sheep, does his master say, ‘Come in and eat with me’?

7 使用人が耕作か羊の世話から戻って来ると、主人は『ここに来て私と一緒に食事をしなさい。』と言うでしょうか。

8 No, he says, ‘Prepare my meal, put on your apron, and serve me while I eat. Then you can eat later.’

8 いいえ。主人は言います。『私の食事の支度をしなさい。前掛けをつけなさい。私が食べる間、給仕しなさい。あなたはそのあとで食べなさい。』

9 And does the master thank the servant for doing what he was told to do? Of course not.

9 使用人がするように言われたことをやったら、主人は使用人に感謝しますか。もちろんしません。

10 In the same way, when you obey me you should say, ‘We are unworthy servants who have simply done our duty.’”

10 同様に、あなた方も私に従うときには『私たちは価値のない使用人です。ただ自分たちのするべき仕事をしただけです。』と言いなさい。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第17章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

今回の第1節~第2節の部分については、マルコとマタイに類似の記述が見つかります。

マルコはMark 9:42(マルコの福音書第9章第42節)です。「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」([新改訳])。

マタイはMatthew 18:6-7(マタイの福音書第18節第6節~第7節)です。「6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用となります。一部、誘惑を行う人を悪しく言うところ、つまずきは避けられないと言うところはマタイとルカだけに共通と感じさせるので、おそらく「Q資料」からの採用部分と合わせて編集しているのだと思います。

聖書に言う「罪」とは、神さまの期待を裏切ること、神さまをガッカリさせること全般を指すとは繰り返し書いてきています。イエスさまは最初に「罪への誘惑は常にある」として、神さまの期待を裏切らずに生きることが私たちにとってどれほど難しいことかを言っています。しかしキリスト教は宗教ではありません。つまり信者には、自分が罪に陥らぬように自分を厳しく戒めて努力したり、修行したり、あるいは罪に落ちた自分を卑下して嘆いたり、そうやって生きることが求められているのではありません。イエスさまの言うように、自分が罪に誘われる、そして罪に落ちる状態を避けられないことを素直に認め、自分の罪を神さまに謝罪し、助けを求め、さらに福音という素晴らしい救済の手段が、私たちの努力の結果ではなく、神さまの側から無償で与えられたことに感謝すべきなのです。その上でここでイエスさまが特に言っているのは、「人に罪を犯させるようにしむけるような人」のことです。そういう人については、計り知れないほど大きな悲しみが待ち受けていると書かれています(マタイではそういう人は「わざわい」だとされています)。

ではいったいどのような人が「人を罪に落とさせる人」や「誘惑を行う者」なのでしょうか。いったい自分のどのような行動が、人を罪へと誘ってしまうのか、それはここには書かれていません。ですが自分は人を罪に落としているのではないかとビクビクして生きていても仕方ありません。私が大切だと思うのは、いつも神さまの目を意識して生きることです。自分の言動は、果たしていま神さまの目に正しく映っているだろうか、できるだけその意識を絶やすことなく生きるのです。そのためにはいつも神さまと会話ができるようにしておくと良いと思います。「どうでしょうか。いまの私は神さまの目にどのように映っていますでしょうか。どうか私が神さまをガッカリさせることのないように私を導き助けてください。私のすることや言うことが神さまに栄光をもたらすことができるように、私をたくさん祝福してください。」 このように心の中で神さまと会話しながら毎日を生きるのです。少なくともこのような姿勢で生きようとする自分が、神さまにとって少しでも喜びであるとうれしいと思います。

第3節と第4節は教会で信者同士で行うべきことのようで、似たような記述がMatthew 18:15-17(マタイの福音書第18章第15節~第17節)に見つかります。「15 また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」に共通なので、ここは「Q資料」からの採用となります。

これは信者が他の信者の言動に触れて、「これは神さまの目に正しく映らない」と感じたときに踏むべきステップです。まず最初は自分一人でその人のところに行ってそのことを告げるのです。その人がそれで自分が悪かったと気がついて、神さまに向き直ったらその人を許します。ルカに書かれているのはここまでです。マタイはその人が自分の罪を認めない場合の続きを書いています。そのときには教会のメンバーを一人か二人連れて行って、その人に同じことを言うのです。この方法は旧約聖書の考え方に基づいているのではないかと思われます。たとえば殺人を犯した者を死刑にせよ、と言う記述が、Numbers 35:30(民数記第35章第30節)にあります。「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。」([新改訳])。このようにたとえ聖書の律法に基づいて人を死刑にするとしても、そのときには必ず複数の証人が必要なのです。複数の証人を伴ってその人の非を咎めても、その人がそれでも自分の非を認めなかった場合はいよいよ教会の出番です。そして教会がその人に有罪を告げるのです。判決は「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」です。これはつまりその人を共同体から追放せよ、ということです。

罪を認めて神さまに向き直る人を果たして何回まで許すべきかについては、やはりマタイに記述があります。Matthew 18:21-22(マタイの福音書第18章第21節~第22節)です。「21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」([新改訳])。 ルカが七回までにとどめたところを、マタイは七の七十倍の四九十回だとしています。もちろん490回を数えるのではなくて何回でも許しなさい、と言っているのです。ただこれを逆手にとって何度でも許されることを念頭に置いて言い訳をしたり、反省の色を見せないのでは話が逆です。いつも自分の罪を認めるところからスタートしなければなりません。

第5節以降と同様の話はマタイに見つかります。Matthew 17:19-21(マタイの福音書第17章第19節~第21節)は、弟子たちが悪霊を追い出せなかった後の場面です。「19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」 20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「Q資料」からの編集となります。

第5節では弟子がイエスさまに「私たちの信仰を増やす方法を示してください。」とお願いします。これに対してイエスさまの回答は、「もしあなた方にからし種ほどの信仰があったなら、あなた方はこのクワの木に『根こそぎ抜かれて海中に投げ込まれよ』と言って、するとクワの木はあなたに従うのです、でした。 弟子たちは「信仰を増やす方法」を教えて欲しいとお願いしたのですが、イエスさまの答は「もしあなた方にからし種ほどの信仰があったなら」となっています。それにしても信仰の力によって、命令をすると、命令を受けた木が根こそぎ空中へ引っこ抜かれて海の方へとすっ飛んで行くとか、命令を受けた山がゴゴゴゴと動き出すとか、そういうことのできる人をいま地球上で想像できるでしょうか。

イエスさまは「もしあなた方にからし種ほどの信仰があったなら」と言っています。以前も書いたように、からし種というのは数ミリほどの小さな種で、福音書の中では本当に小さな物のたとえとして使われています。ですからイエスさまの回答は、裏返せば、私たちの中にはほんの小さな信仰さえないのですよ、と教えているのです。「なにやら信仰を増やしたい」とか言っているようだが、あなた方にはからし種ほどの信仰だってないのですよ、と言うところでしょうか。クリスチャンの中にも、あの人の信仰は強くてうらやましいとか、自分の信仰は弱くて情けないとか言う人はいますが、イエスさまの言葉を借りれば、からし種くらいの量の信仰があれば山だって動かせるのです。もし地球上の誰にもそうやって山が動かせないのなら、私たちは等しく、ほんの小さな信仰さえ持っていないことになります。自分の信仰が弱くて悲しいとか、なんとかして信仰を強くしたい、と考えるのは、「信仰」が修行とか苦行のような特別な作業によって強化される何か、そうやって育つ物のように思っているからではないでしょうか。そうではなくて、イエスさまは信仰とは弱いとか強いとか、そういう尺度で測れるものではなくて、ほんのからし種くらいの大きさのもので良いので、持つか持たないか、YESかNOか、1か0か、ONかOFFか、そういう判断が下されるものだと言っているようです。

続く第7節~第10節は信仰を持つ者のとるべき態度についてのたとえ話と理解するのがよいのではないでしょうか。これはルカだけに登場する話なので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ルカの「独自の資料」からの編集となります。想定は話に登場する「主人」が神さまで、「使用人」は神さまに仕える私たち人間と考えます。使用人は主人に言われた仕事をするのが当然で、そのことについて感謝されたり、ほめてもらったりそんなことを期待してはいけない、と書かれています。だから使用人はただもくもくと言われたことを謙虚にやり続ければ良いとされます。第10節にあるように、主人に命じられた作業を「私たちは価値のない使用人です。ただ自分たちのするべき仕事をするだけです。」という態度で行うのです。

イエスさまから手厳しく非難されるファリサイ派は、「自分たちはこれほどまでに神さまの意図に沿って生活をしている」「他の者たちは神さまの意図に背いている」と、これを大きな声で言い、儀式を大げさに行って、人々の関心と視線を集め、尊敬され支持を受けています。これは間違いで、「偉大なのは神さまただひとりです。神さまを褒め称えます。私は価値のない使用人です。ただ自分たちのするべき仕事をするだけです。こうして神さまのために仕事ができることを感謝します。」という姿勢で私たちは生きるべきと教えているのではないでしょうか。

イエスさまは信仰を持っているからとんでもない奇跡の業を行えるのです。モーゼやエリヤやエリシャのように、旧約聖書の中で大きな奇跡の業を行った預言者たちもやはり信仰を持っていたのです。きっと偉大な預言者たちもそういう奇跡を行いながら、「偉大なのは神さまただひとりです。神さまを褒め称えます。私は価値のない使用人です。ただ自分のするべき仕事をするだけです。こうして神さまのために仕事ができることを感謝します。」とお祈りしていたことでしょう。






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