ルカの福音書:第17章ルカの福音書第16章第1節~第18節:抜けめのない管理人のたとえ話

2015年10月16日

ルカの福音書第16章第19節~第31節:金持ちとラザロのたとえ話

第16章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Rich Man and Lazarus

金持ちとラザロのたとえ話


19 Jesus said, “There was a certain rich man who was splendidly clothed in purple and fine linen and who lived each day in luxury.

19 イエスさまは言いました。「ひとりの金持ちがいました。紫色と上質の亜麻布の衣を壮麗に着飾り、毎日をぜいたくに暮らしていました。

20 At his gate lay a poor man named Lazarus who was covered with sores.

20 門のところにラザロと言ういう貧しい人が寝ていて、その全身は腫れ物に覆われていました。

21 As Lazarus lay there longing for scraps from the rich man’s table, the dogs would come and lick his open sores.

21 ラザロが金持ちの食卓から落ちる食べ物のくずを待ち焦がれて横たわっていると、犬が何匹かやって来て腫れ物の開いた傷口をなめました。

22 “Finally, the poor man died and was carried by the angels to be with Abraham. The rich man also died and was buried,

22 ついに貧しいラザロは死んで、天使たちによってアブラハムと共にいられるように連れて行かれました。金持ちもやはり死んで埋葬されました。

23 and his soul went to the place of the dead. There, in torment, he saw Abraham in the far distance with Lazarus at his side.

23 金持ちの魂は死者の地へ行きました。そこで金持ちは苦しみながら、遠い彼方にアブラハムと、その傍らにラザロがいるのが見えました。

24 “The rich man shouted, ‘Father Abraham, have some pity! Send Lazarus over here to dip the tip of his finger in water and cool my tongue. I am in anguish in these flames.’

24 金持ちは大声で呼びました。『父なるアブラハムさま、私を憐れんでください。ラザロをここへ送り、指先を水に浸して私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中で苦悶しています。』

25 “But Abraham said to him, ‘Son, remember that during your lifetime you had everything you wanted, and Lazarus had nothing. So now he is here being comforted, and you are in anguish.

25 ところがアブラハムは金持ちに言いました。『息子よ、あなたは生きている間に欲しい物はすべて持っていました。ラザロは何も持っていませんでした。だからラザロはいまここで慰められ、あなたは苦しみ悶えているのです。

26 And besides, there is a great chasm separating us. No one can cross over to you from here, and no one can cross over to us from there.’

26 そのうえ私たちの間には大きな淵があって、私たちを隔てているのです。ここからあなたのところへ渡れる人はいません。そこから私たちのところへ渡れる人もいないのです。』

27 “Then the rich man said, ‘Please, Father Abraham, at least send him to my father’s home.

27 すると金持ちは言いました。『父なるアブラハムさま、どうか少なくともラザロを私の父の家へ送ってください。

28 For I have five brothers, and I want him to warn them so they don’t end up in this place of torment.’

28 なぜなら私には兄弟が五人いるのです。ラザロを行かせて兄弟たちに警告させ、彼らがこんな苦しみの場所へ来ないで済むようにしたいのです。』

29 “But Abraham said, ‘Moses and the prophets have warned them. Your brothers can read what they wrote.’

29 しかしアブラハムは言いました。『モーゼと預言者たちが彼らに警告しました。あなたの兄弟たちはモーゼと預言者たちが書いた物を読むことができます。』

30 “The rich man replied, ‘No, Father Abraham! But if someone is sent to them from the dead, then they will repent of their sins and turn to God.’

30 金持ちは答えました。『だめなのです、父なるアブラハムさま。でももし誰かが死者の中から送られれば、彼らは自分たちの罪を悔いて、神さまに向き直るでしょう。』

31 “But Abraham said, ‘If they won’t listen to Moses and the prophets, they won’t listen even if someone rises from the dead.’”

31 しかしアブラハムは言いました。『もし彼らがモーゼと預言者たちの言葉を聞かないのなら、たとえ誰かが死者の中から生き返っても、彼らは聞こうとしないでしょう。』」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第16章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

ルカの福音書を特徴付ける第15章と第16章のたとえ話の最後を飾るのは「金持ちとラザロのたとえ話」です。これはルカだけに登場するたとえ話ですので、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ルカの「独自の資料」からの編集となります。

このたとえ話では「終わりの日」の最後の裁きで、私たちひとりひとりの魂の行き先が決定されるまでの間、それを待つ場所について少し知ることができます。つまり私たちが「天国」や「地獄」と呼ぶ場所は、私たちの最終的な到達地点であり、私たちが知っている「死」の後で、魂が最初に行く場所は「天国」や「地獄」ではなくて、途中にある「中間地点」なのです。

聖書には「地獄」と訳される原語が二つ登場します。「ゲヘナ」と「ハデス」です。

「ゲヘナ」はヘブライ語の「ゲヒンノム(ヒノムの谷)」に基づくギリシア語だそうです。ヒノムの谷はエルサレムの城外の南方にある谷で、長くゴミ捨て場に使われていました。長年にわたって放置されて来たゴミの集積や、ところどころでそれを焼く炎と煙が悪臭を放つ最悪の場所です。旧約聖書の南北朝の時代には、ここで異教(モレク神)を拝む儀式が行われ、いけにえに幼児を捧げていたとされる場所でもあります(旧約聖書の中ではユダヤ人は何度も繰り返し異教に心を奪われて、預言者から「神さまに向き直りなさい。悔い改めなさい」との警告を受け続けます)。ここから転じて「ゲヘナ」は最後の裁きで有罪宣告を受けた魂が堕とされる終着地点とされていて、魂が永遠に消えることのない炎に焼かれ続ける場所です。ここが私たちが一般に「地獄」と呼ぶ場所です。[新改訳]聖書ではこの二つの言葉の混同を避けるために「ゲへナ」が用いられている場所にはそのまま「ゲヘナ」と書いているようです。

もう一方の「ハデス」は、へブライ語の「シェオル」にあてられた言葉で、死者の魂が最後の裁きを待つ中間地点です。今回のたとえ話で金持ちが送られた場所がハデスのようです。金持ちはハデスに於いてすでに炎の中で苦悶していますから、ここに送られた人は最後の裁きを待つ間もずっと悶え苦しまなければならないし、ハデスに送られたと言う時点で最後の裁きを待つまでもなく、自分の最終到達地点がゲヘナであることがわかると言うことなのかも知れません。あるいはハデスにいる間の何かによって、最後の裁きの判決に影響が及ぼされるのか、つまり本当に最後の悔い改めのチャンスが残されているのか、それは明らかにされません。

もう一方のラザロが送られた場所は聖書で「アブラハムのふところ」とか「パラダイス」と呼ばれる場所です。こちらは最終的に「天国」へ行くであろう人たちの魂が、やはり最後の裁きを待つ中間地点とされています。最初の人間のアダムが置かれた場所は「エデンの園」ですが、そこは神さまがデザインした地上の楽園でした。アダムは神さまの期待に背いて楽園から追放されてしまい、以降人間は二度とそこに戻ることはできないようにされているのですが、「パラダイス」はもしかすると「エデンの園」か、それと似た場所なのかも知れないなと思っています。

今回のたとえ話からわかるのは、同じ死後の魂が行く場所であっても、「ハデス」と「パラダイス」の間には決して越えることのできない深い谷があると言うことと、それから「ハデス」で炎に焼かれる人からは、どういう仕掛けか、「パラダイス」の様子が見えると言うことです。これは炎に焼かれることが現実となった人の目には本当に悔しく映ることでしょう。

金持ちはハデスに送られて、炎に焼かれて、初めて自分が失敗したことを知りますが、どうやら手遅れのようです。自分の苦悶を少しでも癒すために、自分の元にラザロを送って欲しいと言う願いはアブラハムにより却下されます。アブラハムは金持ちに「息子よ」と呼びかけています。これはアブラハムが最初のユダヤ人であり、あらゆるユダヤ人の父祖にあたるので、自分の子孫はすべて息子であり、娘だからです。ユダヤ人は自分たちがアブラハムの子孫であるという理由だけで、天国行きが約束されていると考えていたようです。Matthew 3:9-10(マタイの福音書第3章第9節~第10節)で洗礼者ヨハネが次のように言っています。「9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」([新改訳])。 ヨハネが言ったように良い実を結ばなかった人はユダヤ人であってもなくても、斧で切り倒されて火に投げ込まれてしまうのです。

「そうであれば」と金持ちの願いは自分の家族の救済へと向かいます。ハデスに落とされて初めて神さまの裁きの現実と向き合った金持ちは、なんとしても自分の家族に警告を伝えなければと思うのです。しかしこれに対するアブラハムの回答は、その警告はモーゼと預言者たちがすでに行っているし、それについてあなたの家族はいつでも聖書で読むことができるでしょう、でした。金持ちは誰かが死からよみがえって警告すれば話を聞くはずだと食い下がりますが、アブラハムは「彼らがモーゼと預言者たちの言葉を聞かないのなら、たとえ誰かが死者の中から生き返っても聞こうとしないでしょう。」と突き放します。

そのとおりだと思います。福音書の中のイエスさまは必要かつ十分な回数だけしか奇跡の業を行いません。それを見て信じるか、「インチキだ、信じて欲しければもう一度ここでやって見せろ」と言うかは、私たちひとりひとりに委ねられた判断なのです。イエスさまは何が何でも自分のことを信じて欲しいわけではありません。全知全能の神さまが創造者として宇宙を支配していること、自分がその神さまの元から来たことは自分自身が知っている事実なのですから、それはそれでいいのです。

私たちが信じるべき神さまや、神さまが行ったとんでもない奇跡の数々や、自分の罪を認め、神さまに謝罪して神さまに向き直れというメッセージは、イエスさまが地上に来る1500年も前から(つまりいまから3500年も前から)旧約聖書に記述されて、地球上に存在していたのです。何も新しい話ではありません。すべては私たちの前にあります。聖書を読んで、福音の話を聞いて、それでもアクションを起こせないのなら、たとえ誰かが死者の中から生き返って警告しても人は聞こうとしないのです。聖書ではそれは人の心がかたくなで頑固だからだと書かれています。しかしそうやってかたくなに自分を貫いて、その結果、永遠に消えることない炎への道を選んでどうすると言うのでしょうか。






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