ルカの福音書第15章第11節~第32節:失われた息子のたとえ話ルカの福音書:第15章

2015年10月17日

ルカの福音書第15章第1節~第10節:失われた羊のたとえ話、失われた硬貨のたとえ話

第15章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Lost Sheep

失われた羊のたとえ話


1 Tax collectors and other notorious sinners often came to listen to Jesus teach.

1 取税人や他の悪名高い罪人たちは、しばしばイエスさまの教えを聞くためにやって来ました。

2 This made the Pharisees and teachers of religious law complain that he was associating with such sinful people -- even eating with them!

2 ファリサイ派や律法学者たちはこれを見て、イエスさまが罪深い人たちと交際している、一緒に食事さえしていると文句を言いました。

3 So Jesus told them this story:

3 そこでイエスさまは彼らにこのようなたとえ話をしました。

4 “If a man has a hundred sheep and one of them gets lost, what will he do? Won’t he leave the ninety-nine others in the wilderness and go to search for the one that is lost until he finds it?

4 「百匹の羊を飼っている人がいて、そのうちの一匹がいなくなったら、その人はどうするでしょうか。その人は九十九匹を野原に残し、いなくなった一匹が見つかるまで、捜しに行かないでしょうか。

5 And when he has found it, he will joyfully carry it home on his shoulders.

5 そしてその一匹を見つけたら、彼は大喜びでその羊を肩にかついで、家に連れ帰ることでしょう。

6 When he arrives, he will call together his friends and neighbors, saying, ‘Rejoice with me because I have found my lost sheep.’

6 家に着くと、彼は友だちや近所の人たちを呼び集めて言います。『私と一緒に喜んでください。いなくなった私の羊を見つけたのです。』

7 In the same way, there is more joy in heaven over one lost sinner who repents and returns to God than over ninety-nine others who are righteous and haven’t strayed away!

7 同じように天国では、九十九人の正しくて迷い出たことのない人たちよりも、ひとりの罪人が後悔して神さまの元へ戻ることをより喜ぶのです。



Parable of the Lost Coin

失われた硬貨のたとえ話


8 “Or suppose a woman has ten silver coins and loses one. Won’t she light a lamp and sweep the entire house and search carefully until she finds it?

8 あるいは銀貨を十枚持っている女性がいて、彼女はそのうち一枚をなくしてしまいます。女性は明かりをつけて、家を全部掃いて、銀貨を見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

9 And when she finds it, she will call in her friends and neighbors and say, ‘Rejoice with me because I have found my lost coin.’

9 そして銀貨を見つけたら、女性は友だちや近所の人たちを呼び集めて言います。『私と一緒に喜んでください。なくした私の硬貨を見つけたのです。』

10 In the same way, there is joy in the presence of God’s angels when even one sinner repents.”

10 同じように天国では、たったひとりの罪人が後悔するだけで、神さまの天使たちに喜びが起こるのです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第15章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

第15章にはたとえ話が三つ収録されていて、どれも一度失われた何かが取り戻される話になっています。ルカの中でも私の大好きな章です。

最初の「失われた羊のたとえ話」はマタイに似た話が見つかります。Matthew 18:12-14(マタイの福音書第18章第12節~第14節)です。

「12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」に見つかるこのたとえ話は、イエスさまの語録集である「Q資料」からの採用と言うことになります。残りの二つのたとえ話はルカだけに見つかりますので、これらはルカの「独自の資料」からです。

さてルカでは最初に「取税人」や「悪名高い罪人たち」がしばしばイエスさまの話を聞きに来ることが書かれていて、このことについてファリサイ派や律法学者たちが文句を言います。主に律法学者で構成されるファリサイ派は、旧約聖書のモーゼ五書と呼ばれる律法書に精通し、これらを実際の生活で実践するためにユダヤ社会で口頭で伝承されてきた慣習法の中にある、600項目以上に及ぶ細則のすべてを守りながら生活していることを自負し、またそのことで民衆の支持を集めている人たちです。ファリサイ派は特に宗教上の「汚(けが)れ」を嫌っていて、細則の中にも含まれる「清めの儀式」に代表されるような、「汚れ」を避ける行いを欠かさないことで自分たちを清く保ち、そうやって神聖な天国に入る資格を維持しようとしていました。

「取税人」はローマ帝国がユダヤ人に請け負わせた徴税の役人で、彼らは敵国のローマ帝国のために同胞のユダヤ人から税金を取り立てる仕事をしていました。特に取税人とローマ帝国との間の契約では、取税人は決められた金額をローマ帝国に納めさえすれば、それを超えて徴収した税金を自分個人の収入にできるように定められていましたから、取税人はユダヤ人から必要以上に税金を集めて私腹を肥やし、そうやってユダヤ人から忌み嫌われていたのです。これはローマ帝国の植民地戦略の一つで、こうやって民衆の怒りが直接ローマ帝国に向かわず、支配民族の内部で分裂や争いが誘発するようにして、巧みに国力をそげるように考えられているのです。ファリサイ派はこういう取税人や娼婦を、自分たちに汚れをもたらす「罪人」と呼んで遠ざけ、日常生活では決して関わりや接触を持たないようにしていました。ですのでイエスさまがこういう人たちを招き、ときには食事を共にする様子を見て声高に批判していました。第15章の三つのたとえ話は、そのファリサイ派の人たちに向けて語られたという構成になっています。


最初の話は「失われた羊の話」です。

飼っていた百匹の羊のうちの一匹が群れから迷い出ていなくなってしまったので、九十九匹を野原に残して探しに行き、その一匹を見つけた羊飼いが大喜びするという話です。ユダヤの民を羊の群れにたとえるのは旧約聖書では「Ezekiel(エゼキエル書)」などに見つかります。王や指導者は羊の群れを束ねる羊飼い(牧者)として描かれ、神さまは羊の群れを牧者に委ねるのですが、往々にして牧者は神さまの期待に背きます。

この話で迷い出た一匹の羊を探しに行く男とはイエスさまご自身のことです。イエスさまは九十九匹を残して、迷い出た一匹を捜しに行きます。そしてその一匹が見つかるまで捜し続けます。その一匹が見つかったときの喜びはたとえようがありません。男は羊を肩に担いで家まで連れ帰ります。羊飼いは前足二本と後ろ足二本をそれぞれ束ねておいて、羊を自分の首の後ろに引っかけるように載せて、前足二本と後ろ足二本を左右の手で持って運ぶようです。これはいいですね。見つけてもらった羊はもう一度迷い出すことを心配しなくてもいいのです。見つけられた羊はイエスさまの肩に載せられ、両手両足をイエスさまにがっちりと掴んでもらっています。自分が落ちないように気をつけるのではなくて、イエスさまが放さないのです。イエスさまは全知全能の神さまです。羊を失う心配はほんの少しもありません。家に着くと友人や近所の人たちを呼んで、みなにその喜びを語ります。

第7節には「同じように天国では、九十九人の正しくて迷い出たことのない人たちよりも、ひとりの罪人が後悔して神さまの元へ戻ることをより喜ぶ」と書かれていて、失われた一匹のために後ろに残された九十九匹のことが対比されています。ここにはそれが「正しくて迷い出たことのない人たち」と書かれていて、つまりこれがファリサイ派のことではないでしょうか。聖書を読めば世の中には「正しくて迷い出たことのない人たち」など、一人もいないことはすぐにわかります。自分たちを「正しくて迷い出たことのない」と信じ、誇りに思っているのはファリサイ派です。そういう九十九人より、取税人でも娼婦でも、たとえファリサイ派から罪人呼ばわりされ、世間では肩身の狭い思いをしている人たちであっても、自分に罪があることを認め、どれほど自分が神さまをガッカリさせたかを知って激しく後悔し、神さまの元へ戻ろうと考え直した人の方がはるかに喜ばれるのです。

このたとえ話を聞くと、ユダヤ人は「Ezekiel(エゼキエル書)」の第34章を思い浮かべるかも知れません。ここには神さまの期待を裏切った牧者に代わり、自ら羊の群れを捜しに行く神さまの決意が描かれていて、大変感動します。Ezekiel 34:1-16(エゼキエル書第34章第1節~第16節)です。

「1 次のような主のことばが私にあった。2 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。4 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。5 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。7 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。8 わたしは生きている、-- 神である主の御告げ -- わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。9 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。-- 神である主の御告げ -- 16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」([新改訳])。


次の「失われた硬貨のたとえ話」は、羊が硬貨に変わっただけで、「失われた羊の話」とまったく同じ内容です。

当時のユダヤの風習で、女性は結婚のお祝いに10枚の銀貨を受け取ったようです。そしてその10枚を紐で通して首から下げて首飾りにしていたようです。銀貨は一枚が一デナリ相当で、一デナリは労働者の一日分の賃金ですから、10枚だと日当10日分、つまり月収の三分の一程度の金額になります。ですが結婚のお祝いにもらった10枚の銀貨の価値は額面だけにあるのではなく、そこにはたとえば結婚指輪と同じようなセンチメンタルな思い入れがあるのでしょう。もしかするとこのとき古くなった紐がすり切れるか何かして、銀貨が床にバラバラと散らばり、いくつかはころころと転がって女性の視界から消えてしまったのかも知れません。女性は慌てて銀貨を探します。なんとか九枚は見つかりますが、最後の一枚がどうしても見つかりません。女性は失われた大切な一枚を探します。どうしても見つけたいのです。当時の住宅にはいまのような大きな窓はなくて内部は常に薄暗いので、だから明かりを灯して探します。きっと油だって高価だったはずですが、なんとしても見つけたいのです。捜し忘れのないように隅々まで床を掃き、とにかく見つかるまで必死に探します。そしてついに見つけたときの喜びは、それはもううれしくて、友人や近所の人たちに話さずにいられないほどなのです。


失われた羊や、失われた硬貨のように、神さまの期待から外れて神さまの庇護の下から出て行く人たちは、神さまの側から見ると「失われた」状態なのです。その失われていた人が、神さまの元へ戻ってくる。そのときに天国で起こる喜びは本当に大きいのです。それは神さまにとって、ひとりひとりの人間が同じように大切で愛おしい存在だからです。神さまはたったひとりの人間が失われることを嘆かれ、またたったひとりの人間でも、その人が取り戻されて天国へ来ることを喜ばれるのです。

『Amazing Grace(アメイジング・グレイス)』は、このことを歌った賛美歌です。

Amazing grace. How sweet the sound.(驚くべき恵み。なんと甘美な調べ。)
That saved a wretch like me.(私のような恥知らずを救って下さった。)
I once was lost but now am found.(私はかつて失われていたが、いまは見つけていただいた。)
Was blind, but now I see.(以前は見えなかったが、いまは見える。)






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