ルカの福音書:第15章ルカの福音書第14章第15節~第24節:盛大な祝宴のたとえ話

2015年10月18日

ルカの福音書第14章第25節~第35節:弟子になることの代償

第14章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Cost of Being a Disciple

弟子になることの代償


25 A large crowd was following Jesus. He turned around and said to them,

25 大ぜいの群衆がイエスさまについて歩いていました。イエスさまは振り返り、群衆に向かって言いました。

26 “If you want to be my disciple, you must hate everyone else by comparison -- your father and mother, wife and children, brothers and sisters -- yes, even your own life. Otherwise, you cannot be my disciple.

26 「もしあなた方が私の弟子になりたいのなら、他のすべての人を嫌わなければなりません。あなた方の父、母、妻、子、兄弟、姉妹をです。そうです。あなた方自身のいのちでさえもです。さもなければ私の弟子にはなれません。

27 And if you do not carry your own cross and follow me, you cannot be my disciple.

27 そしてあなた方自身の十字架を背負って私について来るのでなければ、私の弟子にはなれません。

28 “But don’t begin until you count the cost. For who would begin construction of a building without first calculating the cost to see if there is enough money to finish it?

28 ですが代償を計算するまで始めてはいけません。なぜなら建物の建築で、完成させるのに十分な金があるかどうか、最初に費用を計算しないで開始する人がいますか。

29 Otherwise, you might complete only the foundation before running out of money, and then everyone would laugh at you.

29 さもないとお金が底をつくまでの間に建物の基礎部分だけしか完成できないかも知れません。そうしたらみながあなた方を笑います。

30 They would say, ‘There’s the person who started that building and couldn’t afford to finish it!’

30 みなは言うでしょう。『あの建物の建築を始めたが、完成させるだけの費用が出せなかった人がいますよ。』

31 “Or what king would go to war against another king without first sitting down with his counselors to discuss whether his army of 10,000 could defeat the 20,000 soldiers marching against him?

31 あるいは他の王と戦争をするのに、自分に向かって行軍してくる二万人の兵を、はたして自分の一万人の軍が打ち負かせるかどうか、自分の相談役と一緒に腰を下ろして相談せずに開戦する王がいますか。

32 And if he can’t, he will send a delegation to discuss terms of peace while the enemy is still far away.

32 そしてもし打ち負かせないならば、敵がまだ遠くにいる間に使者を送って、和平の条件を話し合わせるでしょう。

33 So you cannot become my disciple without giving up everything you own.

33 そういうわけであなた方は自分の所有するものすべてを捨てなければ、私の弟子にはなれません。

34 “Salt is good for seasoning. But if it loses its flavor, how do you make it salty again?

34 塩は味付けには良いものです。ですが塩が味をなくしたら、あなた方はどうやって塩に再び塩気を与えるのですか。

35 Flavorless salt is good neither for the soil nor for the manure pile. It is thrown away. Anyone with ears to hear should listen and understand!”

35 味を失った塩は土地にも肥料にも使えません。捨てられてしまいます。聞く耳のある人は誰でも聞いて理解しなさい。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第14章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

イエスさまのまわりにはたくさんの群衆がついて歩いています。イエスさまは群衆を振り返り、厳しい言葉を投げかけます。「もしあなた方が私の弟子になりたいのなら、他のすべての人を嫌わなければなりません。あなた方の父、母、妻、子、兄弟、姉妹をです。そうです。あなた方自身の命でさえもです。さもなければ私の弟子にはなれません。」

これと同様の記述はマタイに見つかります。Matthew 10:37(マタイの福音書第10章第37節)です。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」に同様の記述が見つかるのですから、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用と言うことになります。「ルカ」では自分自身のいのちよりもイエスさまを優先せよ、という言葉が最後に加えられ、言葉の厳しさを増しています。

この一節はとても残酷な響きを持ち、またカルト的に聞こえます。しかし神さまは救世主イエスさまを通じて人類を救済しようとされているのです。その計画、つまり福音を信じること、宇宙を支配し、宇宙の運行を司る神さまを愛し信じることが、自分が愛する家族と平安な人生を歩むことの前提なのですから、適切に読めばこの言葉に矛盾はありません。ただし順序を間違えてはいけないのです。まず主であり王である神さまを第一義に考えること、すべてはここから始まるのです。

この句で信者にはイエスさまを選ぶことの覚悟が求められているのだと思います。聖書は2000年の歴史を持つ書物で、その歴史上、世界各地で厳しい迫害に合いましたがそれでも滅することなく、今日でも世界でもっとも読まれている書物として存在しています。世界には歴史上、あるいは今日でも「イエスさまを選ぶこと」に対して、投獄や拷問や処刑など、本当に厳しい覚悟を求める場所がたくさんあるはずで、信者になりたい人たちに、生半可な覚悟でイエスさまを選ぶことなどできないのだよ、と教えているのでしょう。それに比べれば現代の日本でキリスト教を選ぶこと、イエスさまを信じるとみなの前で公言することの覚悟は、どれほど軽いものかと思います。

新興宗教やカルト教団は聖書のこの句を歪めて利用しています。イエスさまはマタイの句の中で「『わたし』よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また『わたし』よりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言っているのであって、イエスさまは「『教会』よりも父や母を愛する者」「『教会』よりも息子や娘を愛する者」と言っているのではありませんから、信者の忠誠はあくまでも神さま(あるいはイエスさま)ただ一人に置かれ、決して教会や団体に置かれるものではありません。信者は自分の行いが神さま(あるいはイエスさま)の目に正しく映っているかをいつも心にかけて生きるべきなのであって、自分の行いが教会の代表者や教会のメンバーの目に正しく映ることは第一義ではないのです。

続いてイエスさまは「そしてあなた方自身の十字架を背負って私について来るのでなければ、私の弟子にはなれません。」と言います。 現代の日本に生きる私たちは「十字架を背負う人」を目にすることはまずありません。ですが福音書が書かれた時代のパレスチナでは、人々は「十字架を背負う人」をときどき目にしていました。「十字架」はローマ帝国が反逆者に科した死刑で、十字架刑を宣告された罪人は自分の十字架を背負って、刑場までの道を歩かなければなりませんでした。 ローマ帝国は見せしめとして、帝国への反逆を企む者に何が起こるかを、支配民たちに知らしめるために十字架刑を行ったので、刑場への道は通常、往来の多い大通りが選ばれ、刑場もよく人目につく場所に作られました。罪人は大勢の人にやじられ、ののしられながら、これから自分自身を掛けて殺すための重い十字架を担いで刑場までの道を歩かされたのです。これもやはりイエスさまが私たちに覚悟を問う句です。前の句にルカで追加された「自分自身のいのちよりもイエスさまを優先せよ」がつながります。つまりイエスさまを選ぶと言うのは「十字架を背負う」のと同じ位の覚悟、罪人として家族や友人を含むすべての人に嘲笑され、ののしられながら、最終的には自分のいのちを失う覚悟までを求めるのですよ、と言っているのです。

その後に二つのたとえ話が続きます。覚悟のないままに選択をしてしまうとどういうことになるか、それを説明するたとえ話です。どれくらいの費用がかかるのかを見積もることなく建築を始めてしまう人、勝算のないままに自分の倍の兵力を持つ相手と戦争を始めてしまう王、弟子になることの代償を考えずにイエスさまを選択すれば、そういう結果になるのですよ、と教えています。第33節にはまとめとして、そういうわけで私たちは、自分の所有するものすべてを捨てる覚悟を持たなければ、イエスさまの弟子にはなれない、と書かれています。

第34節、第35節の「地の塩」の話はマルコにもマタイにも見つかります。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用と言うことになります。 マルコはMark 9:50(マルコの福音書第9章第50節)の「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」、マタイはMatthew 5:13(マタイの福音書第5章第13節)の「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」です(共に[新改訳])。

ここには塩が塩味をなくしてしまったら塩であることの価値がなくなって捨てられてしまう、と書かれています。つまり塩は塩辛いから塩としての価値があるのであって、塩辛くない塩には存在価値がなく、結果として捨てられてしまう、と言っています。ユダヤ人にとっての「塩」は私たち日本人にとっての塩と似ています。Leviticus 2:13(レビ記第2章第13節)には次のように書かれています。「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。」([新改訳])。 つまり「塩」は神さまとの契約と密接に結びついていて、捧げ物に塩で味付けをしたり、すべての捧げ物に「塩」を添えることが義務づけられているのです。ユダヤ人にとって「塩」は「清め」の意味を持ちます。私たち日本人も「塩」でさまざまな「お清め」を行いますし、「塩」が食物を腐敗から防ぎ、保存に有効であることを知っています。

イエスさまはそんな「塩」をたとえにして、まず「あなた方は地の塩です」と言って、イエスさまに従う人たちが世の中に対して「塩の役割を果たす」と言っているのでしょう。そして塩は塩辛いから塩なのであって、塩であるはずの弟子たちが塩気をなくしてしまったら、まったく意味がないと言います。イエスさまを信じる人は世の中に対して「清め」の役割を果たし、世の中を腐敗から防ぐことを期待されているのです。Leviticus 19:2(レビ記第19章第2節)では神さまはモーゼに「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主である私が聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」([新改訳])と言っています。神さまが清いのだから、神さまを信じるユダヤ人も清くなければならない、と言うのです。イエスさまの「あなた方は地の塩です」はこれに通じる言葉だと思います。






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