2015年10月18日

ルカの福音書第14章第15節~第24節:盛大な祝宴のたとえ話

第14章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Parable of the Great Feast

盛大な祝宴のたとえ話


15 Hearing this, a man sitting at the table with Jesus exclaimed, “What a blessing it will be to attend a banquet in the Kingdom of God!”

15 この話を聞いていて、イエスさまと一緒に食卓に着いていた男が大きな声で言いました。「神さまの王国で祝宴に参加できるとは何と幸福なことでしょう!」

16 Jesus replied with this story: “A man prepared a great feast and sent out many invitations.

16 イエスさまはこのたとえ話をして答えました。「ある人が盛大な祝宴を準備し、たくさんの招待状を送りました。

17 When the banquet was ready, he sent his servant to tell the guests, ‘Come, the banquet is ready.’

17 宴会の準備が整うと、その人は招待客に次のように伝えさせるために使用人を送り出しました。『さぁ、いらしてください。祝宴の準備が整っています。』

18 But they all began making excuses. One said, ‘I have just bought a field and must inspect it. Please excuse me.’

18 ところが客たちはみな言い訳をし始めました。ある者は言いました。『ちょうど畑を買ったところなので、検分しなければなりません。どうかご容赦ください。』

19 Another said, ‘I have just bought five pairs of oxen, and I want to try them out. Please excuse me.’

19 他の者が言いました。『ちょうど牛を五組買っので、それをためしたいのです。どうかご容赦ください。』

20 Another said, ‘I now have a wife, so I can’t come.’

20 他の者が言いました。『私は結婚しました。行くことができません。』

21 “The servant returned and told his master what they had said. His master was furious and said, ‘Go quickly into the streets and alleys of the town and invite the poor, the crippled, the blind, and the lame.’

21 使用人が戻ってきて、主人に彼らが言ったことを伝えました。主人は怒り狂って言いました。『急いで町の通りや路地へ出て行って、貧しい者や身体の不自由な者、目の不自由な人や、足の不自由な者たちを招待しなさい。』

22 After the servant had done this, he reported, ‘There is still room for more.’

22 使用人がこれを済ませてしまって報告しました。『まだ多くの者を招く余裕があります。』

23 So his master said, ‘Go out into the country lanes and behind the hedges and urge anyone you find to come, so that the house will be full.

23 そこで主人は言いました。『地方の小道や垣根の裏へ行って、見つけた者は誰でもいいから来るように執拗に勧めなさい。そうやって家を満杯にするのです。

24 For none of those I first invited will get even the smallest taste of my banquet.’”

24 なぜなら私が最初に招いた者たちの中に、私の祝宴を味わう者はたったひとりもいないのだから。』」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第14章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

今回の第15節の出だしの部分は「この話を聞いていて」と始まっていて、これは前回の、祝宴に招待されたときに自分が最初に座るべき席次の話のことを言っています。 前回の話を聞いていたこの人は「神さまの王国で祝宴に参加できるとは何と幸福なことでしょう!」とイエスさまの話を賛美しました。つまりこの人はイエスさまの前回のたとえ話を単なる宴会マナーの話として受け取るのではなく、「神さまの王国で開かれる祝宴」についての話だと適切に理解したのです。 そこでイエスさまは、神さまの王国の宴会への招待がどのような状況にあるのか、それを表すたとえ話をします。

第16節、イエスさまは「ある人が盛大な祝宴を準備し、たくさんの招待状を送りました」と話し始めます。前の節で「神さまの王国での祝宴」の話だとわかっているのですから、ここで盛大な宴会を催しているのは神さまであり、終末論の「終わりの日」に天国で開かれる盛大な宴会へ、たくさんの招待状を送って神さまが招待した相手とはユダヤ人のことでしょう。神さまは最終的な祝宴を共に祝うためにアブラハムを祖とするユダヤ民族をスタートし、育て、招いたのです。

第17節、いよいよ宴会の準備が整うと、神さまは使用人を送り出します。ここで神さまが送り出す使用人は「his servant」と単数になっています。神さまが送り出すたった一人の使者とはイエスさまのことでしょう。 イエスさまはユダヤ人に告げます。『さぁ、いらしてください。祝宴の準備が整っています』と。これは洗礼者ヨハネもイエスさまも告げた福音のメッセージそのものです。つまり「悔い改めよ、神さまの王国は近づいた!」です。

するとどうでしょうか。ユダヤ人たちはイエスさまの招待のメッセージに素直に応じようとしません。「ちょうど畑を買ったところだ」「ちょうど牛を買ったところだ」「ちょうど結婚したところだ」などと自分勝手な理由をつけて宴会への出席を拒絶します。ユダヤ人たちは旧約聖書の預言を成就する形で表れた待望の救世主イエスさまの呼びかけに対し、神さまの期待するような神さまへの賛美や、悔い改めで応じようとせず、そればかりか自分たちの勝手な都合を言って自分たちの用事をすましに出かけます。

第21節、神さまはユダヤ人のために用意した盛大な祝宴であり、自ら送り出したたった一人の使者であったはずなのに、それが拒絶されたことで怒り狂います。そして『急いで町の通りや路地へ出て行って、貧しい者や身体の不自由な者、目の不自由な人や、足の不自由な者たちを招待しなさい』と招待の先を、イスラエル社会の中で虐げられてきた人たちに移します。それは目をかけてきたユダヤ人が神さまの祝福を拒絶したので、神さまは祝福を与える先を、わざわざユダヤ人が歯ぎしりをして悔しがる方向へ向けようとしているのです。

第22節、これらの人たちを祝宴へ招待して戻ってきた使者が、神さまに『まだ多くの者を招く余裕があります』と告げると、神さまは第23節で『地方の小道や垣根の裏へ行って、見つけた者は誰でもいいから来るように執拗に勧めなさい』と命じます。使者がユダヤの町を抜けて、地方の小道や垣根の裏にまで行って祝宴への招待客を探しに行くというのは、ユダヤ人たちをさらに悔しがらせるために、神さまが祝福を与える先をユダヤ人を通り越して異邦人にまで拡げることを言っているのだと思います。それはなぜか。第24節にあるように、神さまはそうやって自分の家を満杯にしてしまうことで、最初に招待したユダヤ人たちが失敗に気づいて祝宴に駆けつけても、もはや入れる余地をなくしてしまいたいのです。

前回と今回は婚礼の祝宴の話を使ったたとえ話の二部構成になっていましたが、今回の後半の部分についてはマタイに類似の話が見つかります。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」こ同様の話が見つかるのですから、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用と言うことになります。

マタイを読んでみましょう。Matthew 22:1-14(マタイの福音書第22章第1節~第14節)です。「1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』 5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』 10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12 そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」([新改訳])。

マタイでは第7節、神さまは祝宴への招待を拒んだユダヤ人に激怒して「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った」とさらに過激な書き口になっています。福音書が最初に作られ読まれたのは、イエスさまの十字架の後で、西暦70年のローマ帝国のエルサレム陥落が近づき、いよいよイスラエルも終わりか、という暗い雰囲気がユダヤ人の心を支配していたときです。こうやって神さまの期待に背いたユダヤ人が異民族に滅ぼされるのは旧約聖書に書かれてきた同じ歴史の繰り返しなのです。今回も異邦人であるローマ人が出兵してイスラエルを滅ぼし、エルサレムの町と寺院を焼き払って、ユダヤ人をパレスチナの地から追放してしまいました。

第8節では神さまが「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった」と言っています。ユダヤ人は花婿としてのイエスさまの婚礼の相手としてはふさわしくない、と言うのです。そして第9節で、「だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」と宣言し、ユダヤ人でない異邦人たちを祝宴へ呼び始めます。

第10節、こうして宴会場は多数の異邦人たちが招かれて客でいっぱいになりますが、第11節で神さまは祝宴にふさわしくない身なりの男をひとり見つけます。男は婚礼の礼服を着ていないのです。神さまは「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」とたずねますが、男は黙して答えません。神さまは第12節、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言ってこの男を追放します。「そこでは泣き声と歯ぎしりが聞こえる」は福音書に登場する地獄の暗闇の描写なので、男が天国から追放された先は地獄です。

放り出されてしまったこの人はいったい誰なのでしょうか。ユダヤ人に代わって王国への招待を受けたからと言って、誰でも彼でもイエスさまとの婚礼に参加できるわけではない、そうやって選ばれる人たちの中にも実はふさわしくない人たちが紛れ込んでいて、それでもその人たちはこうして神さまに見つけられて外の暗闇へと放り出されてしまうと言っています。これはマタイの教会(あるいは教会群)の中で、教義についての意見の対立があったことの裏返しなのではないかと思います。マタイの教会はユダヤ人の保守派層を母体とする教会と考えられています。保守派ということは、たとえばファリサイ派のように儀式や慣習を形式的に守ることを重視した人たちと近いはずで、イエスさまが福音書の中で教えていることと対立する要素をたくさん感じさせます。マタイの教会が、教会としてのまとまりを維持するために教義の確立と共有はとても大切なことなので、マタイはこのような戒め的な一節をここに入れて編集したのかも知れません。






english1982 at 20:00│ルカの福音書