ルカの福音書第14章第7節~第14節:イエスさまが謙遜について教えるルカの福音書:第14章

2015年10月18日

ルカの福音書第14章第1節~第6節:イエスさまが安息日に癒す

第14章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Heals on the Sabbath

イエスさまが安息日に癒す


1 One Sabbath day Jesus went to eat dinner in the home of a leader of the Pharisees, and the people were watching him closely.

1 ある安息日にイエスさまはあるファリサイ派の指導者の家で食事をするために出かけました。人々はイエスさまをじっと見ていました。

2 There was a man there whose arms and legs were swollen.

2 そこには両腕と両足が腫れてしまった人がいました。

3 Jesus asked the Pharisees and experts in religious law, “Is it permitted in the law to heal people on the Sabbath day, or not?”

3 イエスさまはファリサイ派と律法の専門家の人たちにたずねました。「律法では安息日に人を癒やすことは許可されていますか、いませんか。」

4 When they refused to answer, Jesus touched the sick man and healed him and sent him away.

4 彼らが答えることを拒むと、イエスさまはその病人に触れて癒やしました。そしてその人を帰しました。

5 Then he turned to them and said, “Which of you doesn’t work on the Sabbath? If your son or your cow falls into a pit, don’t you rush to get him out?”

5 それからイエスさまは彼らに言いました。「あなた方のうち誰が安息日に働かないと言うのですか。もしあなた方の息子や牛が穴に落ちたら、急いで行って出してあげないのですか。」

6 Again they could not answer.

6 彼らは再び答えることができませんでした。




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第14章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

今回はイエスさまが安息日に癒やす話ですが、イエスさまが安息日に癒やす話は、ルカの中ではすでに二回登場しています。一度目は第6章、二度目は第13章です。

第6章はLuke 6:6-11(ルカの福音書第6章第6節~第11節)です。「6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」 10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。」([新改訳])。

第13章はLuke 13:10-17(ルカの福音書第13章第10節~第17節)です。「10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。14 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」 15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」 17 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。」([新改訳])。

イエスさまが安息日に癒やす話はマルコとマタイには一回ずつ登場します。

マルコはMark 3:1-6(マルコの福音書第3章第1節~第6節)です。「1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。」([新改訳])。

マタイはMatthew 12:9-14(マタイの福音書第12章第9節~第14節)です。「9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」 13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」([新改訳])。

他のすべての話は会堂(シナゴーグ)の中で起こっていますが、今回だけはファリサイ派の人の家で起こっています。ユダヤ人は安息日には会堂へ出かけて礼拝の儀式や聖書の学びを行い、そのひととおりが終わると誘い合って食事をしたようです。イエスさまのように地域を巡回して会堂で教えるラビを、礼拝の後で自宅の食事に招くことは名誉なことでしたから、イエスさまは今回、そのようにしてファリサイ派の人に招かれて食事に行ったのだと思われます。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、安息日に癒やす話のオリジナルは「マルコ」からの採用ということになるでしょう。いくつかバリエーションがありますから、そこにはイエスさまの語録集である「Q資料」や「独自の資料」からの補足があるのかも知れません。

ルカでは安息日に癒やす話はこれで三回目です。今回はファリサイ派の人の家に両手、両足の腫れた病人がいます。人々はこの病人を前にしてイエスさまが何をするかじっと見ています。イエスさまは「律法では安息日に人を癒やすことは許可されていますか、いませんか。」とたずねます。ファリサイ派は律法の専門家を中心に構成されている結社なので、イエスさまは癒やしの行為が律法に抵触するかをファリサイ派に確認して、人々に聞かせようとしているのです。

ユダヤ人は旧約聖書のモーゼ五書に書かれている律法と同じレベルで、口頭で伝承されてきた慣習法を重んじていました。慣習法には何をしたら律法を犯したことになるのか、一日に何歩まで歩いて良いかや、どのくらいの荷物を持ち上げて良いかなど、何が安息日違反の労働に当たるかの細則が定められているのです。その中では癒やしの行為は労働に当たるとして禁止されていました。上でルカの第13章の中から引用した部分に書かれていた、次のような会堂管理者の発言のとおりです。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」 ファリサイ派はこれらの細則のすべてを守っていることを誇りにして、人々からの尊敬や支持を集めていました。人々はイエスさまの問いにファリサイ派がどのように回答するかに注目しますが、ファリサイ派は回答を拒否します。

するとイエスさまは病人に触れて癒やしてしまいます。そしてイエスさまはその理由として「あなた方のうち誰が安息日に働かないと言うのですか。もしあなた方の息子や牛が穴に落ちたら、急いで行って出してあげないのですか。」と論じます。 穴に落ちた人を救うような緊急を要する救助行為は、もちろん律法も禁じていません。イエスさまの話は、あたかもこれを理由にして手足の腫れた病人を癒やしたように聞こえます。しかし、この病人はその日にすぐ癒やさなければならないほどの緊急性のある病人ではなかったように読めますから、わざわざ安息日に癒やさなくとも、働いてよい六日の間に癒やせばよいのではないでしょうか。ファリサイ派はそのように反論しても良かったのかも知れませんが、ファリサイ派は沈黙を守ります。どうしてでしょうか。それはきっと目の前にいたこの病人にイエスさまが触れた瞬間、それまでは醜く腫れていた両手、両足がみるみるしぼんで正常で健康な状態となり、完治してしまったからでしょう。そのような奇跡を目の前で見せつけられては、緊急性がどうこうという反論ができなくなってしまったのではないでしょうか。

イエスさまがこのような奇跡を行えるのは、それが神さまの意図に沿っているからです。そしてイエスさまが安息日について人々に伝えたいのも、安息日が定められた神さまの意図についてです。安息日はモーゼの十戒に中に含まれているのですが、そこにはたしかに「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」と書かれています([新改訳])。 慣習法は十戒のこの部分を自分たちの実生活にあてはめるにあたり、この中の「あなたはどんな仕事もしてはならない。」の部分に着目して、それではどのような行為が「仕事」にあたるのかを細則として定めたわけです。しかしそれが本当に十戒に安息日が定められた理由、意図に沿ったことなのでしょうか。どうして神さまは七日目の労働を禁じたのでしょうか。

十戒の安息日の部分は次のように続きます。「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」([新改訳])。つまり安息日は神さまが天地創造を行ったときの様子から、神さまが六日の間、創造の作業をして、七日目に作業を休んだことに由来しているのです。だとしたら神さまを信じる私たちが安息日にするべきことは、神さまの天地創造の偉業を褒め称えること、それに尽きると思います。私たちは日々の雑事に心を奪われて六日間を過ごすのです。だから週に一日は不必要な労働の優先順位を下げて、ただただ神さまを褒め称えるための日を持ちなさい、というのが安息日が定められた意図だと思います。

実はそもそも安息日を定めることだって間違ったことなのです。神さまは聖書の中で、ユダヤ人があまりに頑固だから仕方なく律法を授けたと言っています。神さまは主であり王なのですから、神さまを褒め称えることは毎日、意識がある間は、いつだって全力でしていなければならないのです。でもあなた方は愚かだからきっとそれができないでしょう、だったら週に一日を特別な日に定めて、その日を神さまを思い出して神さまを礼拝する日にあてることにしなさい、それくらいならできるでしょう、と神さまは言っているのです。それなのに頑固なユダヤ人は、ここにも頑固な解釈を適用して、安息日の意図を歪めるような慣習法を作り上げてしまったのです。イエスさまは自分の100%を神さまの意図の中に生きる私たちのお手本として、人の姿をとって地上に立った神さまご本人なのですから、律法の細則にも、律法そのものにもとらわれることなく、神さまの意図をなしていきます。






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