ルカの福音書第13章第31節~第35節:イエスさまがエルサレムを嘆くルカの福音書第13章第18節~第21節:からし種のたとえ話、パン種のたとえ話

2015年10月19日

ルカの福音書第13章第22節~第30節:狭い扉

第13章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Narrow Door

狭い扉


22 Jesus went through the towns and villages, teaching as he went, always pressing on toward Jerusalem.

22 イエスさまは教えながらたくさんの町や村を通っていきました。イエスさまは常にエルサレムへの道を急いでいました。

23 Someone asked him, “Lord, will only a few be saved?” He replied,

23 誰かがイエスさまにたずねました。「主よ、ほんの数人だけが救われるのでしょうか。」 イエスさまは答えました。

24 “Work hard to enter the narrow door to God’s Kingdom, for many will try to enter but will fail.

24 「神さまの王国へ通じる狭い扉から入れるように努力しなさい。なぜならたくさんの人が入ろうと試みて失敗するのですから。

25 When the master of the house has locked the door, it will be too late. You will stand outside knocking and pleading, ‘Lord, open the door for us!’ But he will reply, ‘I don’t know you or where you come from.’

25 家の主人が扉に鍵をかけてしまったら、もう遅いのです。あなた方は外に立って扉を叩いて嘆願します。『主よ、私たちに扉を開いてください。』 しかし主人は答えます。『私はあなた方を、あなた方がどこから来たのかを知りません。』

26 Then you will say, ‘But we ate and drank with you, and you taught in our streets.’

26 するとあなた方は言うでしょう。『でも私たちはあなたと一緒に食べたり飲んだりしました。あなたは通りで私たちに教えてくださいました。』

27 And he will reply, ‘I tell you, I don’t know you or where you come from. Get away from me, all you who do evil.’

27 主人は答えます。『あなた方に言います。私はあなた方を、あなた方がどこから来たのかを知りません。私から立ち去りなさい。あなた方、悪を行うもの全員です。』

28 “There will be weeping and gnashing of teeth, for you will see Abraham, Isaac, Jacob, and all the prophets in the Kingdom of God, but you will be thrown out.

28 泣き声と歯ぎしりが聞こえて来るでしょう。なぜならあなた方は神さまの王国にいるアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たちを目にするからです。しかしあなた方は放り出されます。

29 And people will come from all over the world -- from east and west, north and south -- to take their places in the Kingdom of God.

29 それから人々は世界中からやって来ます。東からも西からも、北からも南からも。そして神さまの王国で自分の席に着くのです。

30 And note this: Some who seem least important now will be the greatest then, and some who are the greatest now will be least important then.”

30 そしてこれを覚えておきなさい。いま一番重要でない人が、そのときには最も偉大な人になります。いま一番偉大な人は、そのときには最も重要ではなくなるのです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第13章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

今回は「狭い扉」の話です。

イエスさまはガリラヤ地方からエルサレムへ約100キロの行程を進んでいきます。その途中で通り抜ける町や村で、機会があればイエスさまは人々に神さまの王国について教えますが、ここではエルサレムへ到達することがいまやイエスさまの目的であることが明確に書かれています。

第23節、途中でイエスさまに質問をする人がいました。「主よ、ほんの数人だけが救われるのでしょうか。」 この「救われる」と言うのは「天国へ行く」という意味でしょう。こういう質問をする人がいるということは、当時の人々は、人間が「救われて天国へ行く人」と「救われずに天国へ入れない人」の二つに分かれると信じていたことになります。そして「ほんの数人だけが救われる」という文脈から、救われて天国へ迎えられる人間は恐らく少数派であると考えられていたのでしょう。

第24節、イエスさまが答えます。「神さまの王国へ通じる狭い扉から入れるように努力しなさい。なぜならたくさんの人が入ろうと試みて失敗するのですから。」 これはつまり救われる人が多いとか少ないとか、そういうことが問題なのではなくて、あなた自身が天国へ入れるようにまず努力しなさい、という意味だと思います。「救われる人が多い少ない」という議論はなんだか他人事に聞こえますし、またこの人は恐らく自分はその救われる少数派の中に含まれると考えながら質問したのではないかと思われます。それに対してイエスさまは、そうではなくて、これはあなた自身に関わる最も大切な問題なのですよ、だから自分が天国へ入れるようにがんばりなさい、と言っているのだと思います。

誤解がないように書いておきますが、「天国」や「悟りの境地」を目指して努力する営みを一般的に「宗教」と呼びますが、キリスト教はそういう意味での「宗教」ではありません。キリスト教は神さまとの契約なのです。聖書の中で、神さまは天国へ入るための条件を一方的に提示していて、人間がその条件を受け入れるのであれば、人間の側では何の努力をしなくても、無償で天国へ招くと神さまは言っているのです。人間にとっては大変都合の良い話です。福音書は英語では「Gospel(ゴスペル)」と言いますが、その語源は「god spell=よい知らせ」です。「福音書」はもともと「大変都合の良い知らせ」の意味なのです。そして、神さまが提示している天国入りの条件とは、簡単に言えば自分が神さまに対して悪いことをしたと素直に認め、それについてごめんなさいと謝り、そんな自分でさえ天国へ招いてくださる神さまを褒め称えて感謝することです。誰にでもできる、とてもとても簡単なことです。が、人は年を重ねるほど「ごめんなさい」「もうしません」「ありがとうございます」と、きちんと口に出して言うことができなくなります。あまりにもプライドが高いからです。

神さまの王国へ通じる狭い扉。どうして扉は狭いのでしょうか。それはその扉があまりにもちっぽけでつまらなく見えるからです。「ごめんなさい」「もうしません」「ありがとうございます」と自分の口で言うだけだって?まさかそんなシンプルなことだけで天国へ行けると言うのか?まさかそんなちっぽけな扉が天国へ通じているとは信じられないのです。失うものはなにもありません。ただ自分の口で神さまに「ごめんなさい」「もうしません」「ありがとうございます」と言うだけです。ですがそんな狭い小さい扉から入ることを自分のプライドが許さないのです。なお、神さまとの契約について知りたいという方は、私の「英語で聖書を読もう!」のブログの中の「福音:一番大切な話」の項をお読みください。

今回の部分は「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、イエスさまの話を集めた「Q資料」から来ていると考えられますが、マタイではMatthew 7:13-14(マタイの福音書第7章第13節~第14節)に同じような記述が見つかります。「13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」([新改訳])。人はいのちへ至る狭い扉からは入ろうとせず、滅びに至る広い門を歩くのです。

天国へ入るのに努力は入りません。イエスさまが「努力しなさい」と言うのは、まずプライドを捨てて聖書の言葉に心を開くことです。そして自分の心がそれにどのように応じているか、自分の気持ちに素直になることです。そして自分の言葉で神さまを信じると告白するのです。それからもうひとつ、仮に神さまを信じる告白ができて、自分が狭い扉をくぐることができたとして、そこでプロセスを終了してはいけません。人はそこから神さまと歩むプロセスを開始しなければなりません。それまでの神さまをないがしろにしてきた生き方を改めて、神さまの目に正しく映る生き方を指向し、意識があるときには常に神さまの存在を感じて生活できるように努めなければなりません。イエスさまからはそういう努力が求められているのだと思います。

これができないとどうなってしまうのか、それが第25節以降に書かれています。

第25節、家の主人が扉に鍵をかけてしまったら、もう遅いのです。あなた方は外に立って扉を叩いて嘆願します。『主よ、私たちに扉を開いてください。』 しかし主人は答えます。『私はあなた方を、あなた方がどこから来たのかを知りません。』 狭い扉から入ることを選ばなければ、ある日、扉は閉じられてしまうのです。これは「終末論」につながる教えです。そうなればもう手遅れです。扉は二度と開きません。どれほど頼んでも入れてもらえません。同じ「Q資料」のイエスさまの言葉は、マタイではMatthew 25:1-13(マタイの福音書第25章第1節~第13節)の「十人の付き添いの女性のたとえ話」の中に登場しています。こちらの文脈は、扉はいつ閉まるかわからないのですよ、という警告の話になっています。

「1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』 9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」([新改訳])。 花婿の到来はイエスさまの再来です。「終末論」の「終わりの日」はイエスさまの再来からスタートし、最後の審判を経て、神さまの王国へと至ります。つまりイエスさまが再来するタイミングで扉は閉められてしまうのです。

第26節、いよいよ扉が閉められてしまうと人々は言います。『でも私たちはあなたと一緒に食べたり飲んだりしました。あなたは通りで私たちに教えてくださいました。』と。 「一緒に食べたり飲んだりした」「通りで私たちに教えてくれた」と言うのは、人々がイエスさまと交わる機会を持ったときのことを言っているのだと思います。イエスさまはたくさんの町や村を通り、人々の家で、会堂で、通りで、実に様々な場所で神さまの王国について話したのです。招かれれば人々の家で人々の家へ赴き、そこで飲食を共にする機会もたくさんありました。人々は「思い出してください」と嘆願します。

マタイでは似たような嘆願とイエスさまの回答が、Matthew 7:21-23(マタイの福音書第7章第21節~第23節)に見られます。「21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 」([新改訳])。 洗礼者ヨハネが荒野で人々に呼びかけたのと同様に、イエスさまはあらゆる機会に人々に神さまの王国について話し、そこでは自分の罪を認めなさい(つまり神さまに対して悪いことをしたと認めなさい)、そして神さまに向き直りなさい、と迫りました。さもなければあなた方は消えることのない炎の中へ投げ込まれるのですよ、あなた方をユダヤの根から切り離す斧は用意されているのですよ、と警告しました。

ここで『でも私たちはあなたと一緒に食べたり飲んだりしました。あなたは通りで私たちに教えてくださいました。』と嘆願している人たちは、その警告にもかかわらず神さまに向き直らなかった人たちなのです。第27節、その人たちに神さまが答えます。『あなた方に言います。私はあなた方を、あなた方がどこから来たのかを知りません。私から立ち去りなさい。あなた方、悪を行うもの全員です。』と。たとえ一緒に食べたり飲んだりしても、イエスさまの教えを聞いても、神さまに向き直るという決断を下さなかった人に対しては、神さまは「私はあなた方を知らない」と言い放ちます。それは「神さまに向き直らない」ということが「悪を行う」ことにあたるからです。イエスさまが十字架死から復活を遂げて天国へ帰った後の時代を生きる私たちついては、これは福音に触れる機会に置き換えて読んで良いと思います。私たちは教会でイエスさまの話を聞いたり、こうして福音に関するメールマガジンやブログ記事を読んだりして、神さまが提供する人類救済のプランがどのようなものかを知ることができます。そうやって神さまと向き合う機会は繰り返し用意されるのです。シンプルな「ごめんなさい」「もうしません」「ありがとうございます」の言葉を自分の口で言えるかどうか、それは私たちひとりひとりの選択に委ねられています。

第28節、人々の間から泣き声と歯ぎしりが聞こえて来ます。それはなぜか、それは人々が神さまの王国の中にいるアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たちを目にするからだ、とあります。 アブラハムはユダヤ人の祖です。旧約聖書には神さまが最初にアブラハムという個人と契約を結び、ここからユダヤ民族が始まる物語が書かれています。イサクはアブラハムの息子、ヤコブやイサクの息子です。当時のユダヤ人は自分の家系図がアブラハムへとさかのぼれる限り、つまりユダヤ民族としての血のつながりが、自分の天国入りを保証すると信じていたのです。ところが天国にいるアブラハムやイサクやヤコブが見えるのに、同じユダヤ人である自分は天国の外に放り出された状態でそれを見ています。ユダヤ人はその事実を知り、泣き声を上げ、歯ぎしりするのです。

旧約聖書の中で神さまはたくさんの預言者を送ります。預言者は神さまの言葉を預かって人々に伝えるようにと神さまが選んだ人のことです。預言者は福音書の中で洗礼者ヨハネやイエスさまがユダヤ人に伝えたのと同じように、その時代時代で人々に警告を発しました。ときには預言者の言葉に耳を傾けて神さまに向き直る人もいましたが、往々にして人々は耳に痛い警告をする預言者を迫害しました。イエスさまの時代のユダヤ人は、そんな預言者たちの名前も、その預言者たちが伝えた警告の内容もすべてよく知っているのです。そして自分はまさか過去の愚かなユダヤ人たちとは同じ過ちはしていないと信じているのです。まさか自分がユダヤの根から斧で切り離されて消えることのない炎の中へ投げ込まれる側に入るとは夢にも思っていないのです。だから扉の外に閉め出されたユダヤ人は泣き声を上げ、歯ぎしりするのです。

第29節には、「それから人々は世界中からやって来ます。東からも西からも、北からも南からも。そして神さまの王国で自分の席に着くのです。」と書かれています。東からも西からも北からも南からも、神さまの王国で自分の席に着くためにやって来るのはユダヤ人ではなくて、異邦人(ユダヤ人から見た外国人)のことです。ユダヤ人である自分が王国から締め出されて泣き声を上げて歯ぎしりしているというのに、王国で神さまの祝宴の席に着いているのは、あろうことかたくさんの異邦人なのです。 これも旧約聖書の中で繰り返し警告されていました。もしユダヤ人が悔い改めて神さまに向き直らないのなら、神さまの祝福はユダヤ人を離れて異邦人へ向かうことになると。だからこうして私たち日本人にも、こうやって日本語で聖書を読んで神さまを知り、神さまに向き直る機会が与えられているのです。すべて旧約聖書に予告されたとおりのことなのです。そうであれば大昔のユダヤ人が頑固であってくれたことによって訪れた、この幸運な機会に素直に感謝して、神さまに向き直り、天国に用意される神さまの祝宴の席に共に着こうではありませんか。

第30節はイエスさま得意の謎かけです。「いま一番重要でない人がそのときには最も偉大な人になり、いま一番偉大な人はそのときには最も重要ではなくなる。」 これに似た謎かけはこの後にも登場しますので、これについての解説は次の機会に譲ろうと思います。






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