ルカの福音書:第13章ルカの福音書第12章第35節~第48節:主の到来に備えなさい

2015年10月20日

ルカの福音書第12章第49節~第59節:イエスさまが分裂を引き起こす

第12章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Causes Division

イエスさまが分裂を引き起こす


49 “I have come to set the world on fire, and I wish it were already burning!

49 私は世に火をつけるために来ました。私はその火がすでに燃えていたらどんなによかったかと思います。

50 I have a terrible baptism of suffering ahead of me, and I am under a heavy burden until it is accomplished.

50 私の前にはある恐ろしい苦しみの洗礼が待っています。そしてそれが達成されるまで私は大きな重荷に耐えているのです。

51 Do you think I have come to bring peace to the earth? No, I have come to divide people against each other!

51 あなた方は私が地に平和をもたらすために来たと思っているのですか。違います。私は人々を互いに仲違いさせるために来たのです。

52 From now on families will be split apart, three in favor of me, and two against -- or two in favor and three against.

52 今から家族はばらばらに分裂します。三人は私を支持し、二人は私に逆らいます。あるいは二人が私を支持し、三人が逆らいます。

53 ‘Father will be divided against son and son against father; mother against daughter and daughter against mother; and mother-in-law against daughter-in-law and daughter-in-law against mother-in-law.’ ”

53 父は仲違いして息子に対抗し、息子は父に対抗します。母は娘に逆らい、娘は母に対抗します。義母は嫁に逆らい、嫁は義母に対抗します。」

54 Then Jesus turned to the crowd and said, “When you see clouds beginning to form in the west, you say, ‘Here comes a shower.’ And you are right.

54 それからイエスさまは群衆の方を向いて言いました。「あなた方は西に雲が起こるのを見ると『にわか雨が来るぞ』と言います。あなた方に間違いはありません。

55 When the south wind blows, you say, ‘Today will be a scorcher.’ And it is.

55 南風が吹くと、あなた方は『今日は焼けつくように暑い日になる』と言い、そのとおりになります。

56 You fools! You know how to interpret the weather signs of the earth and sky, but you don’t know how to interpret the present times.

56 愚か者たち。あなた方は地や空の天候の兆候を判断する方法を知っていますが、今の時代を判断する方法を知りません。

57 “Why can’t you decide for yourselves what is right?

57 なぜ自分たちのために何が正しいかを決められないのですか。

58 When you are on the way to court with your accuser, try to settle the matter before you get there. Otherwise, your accuser may drag you before the judge, who will hand you over to an officer, who will throw you into prison.

58 あなた方が自分たちを告発する者と一緒に法廷へ行くとき、法廷に到着する前に和解しようと努めなさい。さもないとあなた方の告発人はあなたを裁判官の前に引き出し、裁判官はあなた方を役人に引き渡し、役人はあなた方を牢へ投げ込むかも知れないのです。

59 And if that happens, you won’t be free again until you have paid the very last penny.”

59 そしてそれが起こると、あなた方は最後の一ペニーを支払うまで、再び自由にはなれないのです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第12章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

今回の前半の第53節までの部分は福音書の中では「ルカ」だけに見つかる話です。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ルカの「独自の資料」ということになります。

前回の部分から、イエスさまの話は「終わりの日」についての、あるいは「終わりの日」に対する備えの話になっています。 イエスさまは第49節で「私は世に火をつけるために来た。私はその火がすでに燃えていたらどんなによかったかと思う。」と言っています。救世主であるイエスさまの先駆けとして、洗礼者ヨハネが荒野に現れて人々に道を説いたとき、人々はヨハネこそが待望の救世主なのではないかと期待しました。そのときの様子はルカの第3章に書かれていました。Luke 3:15-17(ルカの福音書第3章第15節~第17節)です。

「15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」([新改訳])。

ヨハネは、自分が神さまの期待を裏切ったと認めて悔いの改めを表明した人に、ヨルダン川に水没させるような方法で「水の洗礼」を施していましたが、ヨハネは自分の後に来る「さらに力のある方」は、「聖霊と火の洗礼」を授けるのだ、と言っています。 この「聖霊による洗礼」が実現した様子は、新約聖書の「Acts(使徒の働き)」の第2章に書かれています。これはイエスさまが十字架死から復活を遂げ、天に戻った後で起こった出来事で、信者たちはその日、エルサレムで集会を開いていました。Acts 2:1-4(使徒の働き第2章第1節~第4節)です。「1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」([新改訳])。

最初に地上に現れた聖霊はここに書かれているように「炎のような分かれた舌」の姿となって現れ、信者ひとりひとりの上にとどまります。この日以降、イエスさまを救世主として受け入れると表明した信者には、ひとりひとりに聖霊が宿って封印されるようになるのですが、聖霊の姿は炎であり、信者のうちで燃えるのです。だとするとイエスさまの「私は世に火をつけるために来た。私はその火がすでに燃えていたらどんなによかったかと思う。」の言葉は、まずイエスさまによる「聖霊の洗礼」を指していて、自分がここに来た目的は、聖霊という炎を神さまを信じるひとりひとりに授けるためなのだが、その炎がすでに人々の中で燃えていたらどれほどよかったかと思う、と言っているのだと解釈することができます。

なぜイエスさまが「その炎がすでに人々の中で燃えていたらどれほどよかったか」と思うかと言うと、それは第50節にあるようにイエスさまは「私の前にはある恐ろしい苦しみの洗礼が待っていて、それが達成されるまで私は大きな重荷に耐えている」からです。つまりイエスさまが「聖霊の洗礼」を施すまでもなく、すでに聖霊の炎が人々の内で燃えていたら、イエスさまは恐ろしい苦しみの洗礼、つまり十字架死の使命を受け入れる必要はなく、そのことがイエスさまにもたらす大きな重荷・憂鬱に耐える必要もないのです。

イエスさまが十字架を受け入れなければならない理由は何だったでしょうか。それは私たち人間の神さまに対する「罪(sin)」です。私たちが神さまの期待を裏切り、神さまをガッカリさせてばかりいるから、その罰として私たちには「死」が宣告されました。聖書に言う「死」とは「切り離し」であり、私たちは「罪」の「汚(けが)れ」により神聖な天国に入ることが許されず、神さまから切り離されて霊的に死ぬことが運命づけられているのです。イエスさまはそんな私たちのために、自らの血で人間の罪を洗い流し、私たちの汚れを清めて、人間が神聖な神さまとの関係を再び取り戻せるように、人間と神さまの間の橋渡しの役目を帯びて地上に派遣されたのです。地上に立ったイエスさまは神さまを100%信じる存在であり、神さまの命令であればそれがどんなものでもすべてを受け入れて実行する覚悟ではありますが、十字架にかかることがイエスさまにとって嫌なことで、可能であれば避けたいイベントであることにかわりはありません。

「Acts(使徒の働き)」では聖霊が訪れた場面の後で、使途のペテロが驚いた人々に、この出来事は旧約聖書の「Joel(ヨエル書)」に書かれた預言の実現なのだと説明しています。その部分はJoel 2:28-32(ヨエル書第2章第28節~第32節)です。 「28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」([新改訳])。このヨエルの預言は前半部分が聖霊の訪れの様子を予告した預言となっていますが、後半部分はおそらく洗礼者ヨハネが「火の洗礼」として言及した「終わりの日」の様子を予告した預言です。「わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」 これは世界の終わりの日、「大いなる恐るべき日」に起こる出来事と、その後に続く「最後の裁き」についての予告なのです。

洗礼者ヨハネは先ほどの第17節で、この「火の洗礼」の様子を「小麦」と「もみ殻」を類別する話でわかりやすく説明しています。ヨハネの後に来る「さらに力のある方」は「小麦」から「もみ殻」を選び分けておいて、「小麦」は大切に納屋にしまいますが、「もみ殻」は「消えない火」で焼くのです。第17節に登場した「箕(み、みの)」という道具は、木の皮や竹を編んで作った平たいバスケット状の農具です。バスケットの中に穀物を入れておいて、バスケットをあおるようにして内容を空中へ放り上げ、落ちてきた穀物を再びバスケットに受けるという動作を繰り返します。このとき自然の風や放り上げる動作自体が引き起こす風で、穀物の中に混在する軽いもみ殻や小片が飛ばされて、重い穀物だけがバスケットの中に残るのです。

イエスさまの「私は世に火をつけるために来た。私はその火がすでに燃えていたらどんなによかったかと思う。」の言葉は、「終わりの日」に地上に再来するイエスさまが行う「火の洗礼」の開始を指していて、「小麦」と「もみ殻」の類別作業が、いよいよ地上で始まることを指している、と解釈することができます。イエスさまは第50節で、「あなた方は私が地に平和をもたらすために来たと思っているのか。違う。私は人々を互いに仲違いさせるために来た。」と言っています。つまり「火の洗礼」の開始は、私たちの間では「仲違い」として現れると言うことなのでしょう。五人の家族はイエスさまを受け入れるか受け入れないかで、三人と二人に分かれ、父と息子も、母と娘も、義母と嫁も、イエスさまに対する信仰の表明をするかしないかで対立します。聖書によると地上には最終的に神さまの平和な王国が実現します。が、その前には「終わりの日」が訪れ、そこで「最後の裁き」が行われる「火の洗礼」のイベントがあるのです。そこではこれまで地上に生きた、またその時点で地上に生きているすべての人間が、ヨハネのたとえに沿えば「小麦」と「もみ殻」に分けられます。すべての人間を二つに分けて、「小麦」として大切に納屋に納るか、「もみ殻」として消えることのない炉の炎に投げ込むか、それが決定される日が来るのです。これはすべての人に避けられない選択なのです。このためイエスさまの言葉も厳しくなっています。

第54節以降の箇所と類似の記述は、Matthew 16:1-4(マタイの福音書第16章第1節~第4節)に見つかります。「1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」に類似の記述が見つかりますから、イエスさまの語録集である「Q資料」からの採用ということになります。

マタイとルカでは同じ資料を別の方法で編集していることがわかります。マタイでは同じ資料がMark 8:11-8:12(マルコの福音書第8章第11節~第12節)に合わせて編集されているようです。「11 パリサイ人たちがやって来て、イエスさまに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスさまをためそうとしたのである。12 イエスさまは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなた方に告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」([新改訳])。 ルカでは文脈を分けてまったく別の箇所に編集しています。

今回の後半のルカの箇所でイエスさまは、人々が天候の兆候を見てこれから何が起こるかを読み解くことができるのに、世の中についてこれから何が起こるかを読み解くことができないのかと嘆いています。ユダヤ人は神さまから選ばれて神さまの言葉を預かった民であり、世の中に起こる出来事は聖書の中にすべて予告されているのです。イエスさまはいま、聖書に書かれた救世主に関する預言をことごとく実現する形でユダヤ人の前に登場しているのに、人々はイエスさまが誰なのか、イエスさまの出現が何を意味しているのか、それを適切に読み解くことができません。

もし世の中の兆候を読み解くことができないと何が起こってしまうのか、それが告発者と共に法廷へ向かう人のたとえ話で描かれます。「法廷」は言うまでもなく「最後の裁き」のことです。私たちひとりひとりは等しく、いま「最後の裁き」と言う同じ法廷へ向かう途上にいるのです。最後の裁きが行われる前に告発者と和解しなければ、もし告発されたままの状態で法廷に到達してしまえば手遅れになるのですよ、とイエスさまは警告しています。だからイエスさまは「法廷に到着する前に和解しようと努めなさい」と命じています。「終わりの日」や「最後の裁き」はひとりひとりの死後に用意された出来事ではありません。地球上にたった一度、今日にも起こるかも知れない、差し迫った出来事なのです。英語では「imminent(いまにも起こりそうな、差し迫った)」という単語があてられます。

「最後の裁き」の前に神さまと和解し、天国へ至る道を開いてもらう方法、ひとりひとりの人間に判断と決断が委ねられた方法とは、自分がイエスさまという救世主を必要としていることを認めることです。まず天地の創造主である神さまを認め、神さまの善悪の判断基準を知り、自分の生き方がどれほど神さまをガッカリさせてきたかを自覚することです。その神さまの善悪の判断基準は聖書に書かれているのですが、聖書には、その判断基準についてはそれを人間の心にも書いておいたと書かれている箇所もあります。これはつまり地球上で人間だけが持つ「良心」のことでしょう。自分がどれほど神さまをガッカリさせてきたか(それを「罪(sin)」と言います)、それを認めることができたら、神さまに向き直り、自分が神さまの元に戻るためには救世主が必要であると知らなければいけません。それがイエスさまです。神さまに自分の「罪(sin)」を謝罪し、自分のような愚か者のためにわざわざ神さまの側から救世主を送って下さったことに感謝し、救世主イエスさまを受け入れて、これからは神さまの意図に沿って生きると言うことを自分の口で宣言します。これが法廷へ至る前に行われていなければ、私たち人間は二度と自由になることはできないのです。






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