ルカの福音書第12章第13節~第21節:裕福な愚か者のたとえ話ルカの福音書:第12章

2015年10月20日

ルカの福音書第12章第1節~第12節:偽善に対する警告

第12章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


A Warning against Hypocrisy

偽善に対する警告


1 Meanwhile, the crowds grew until thousands were milling about and stepping on each other. Jesus turned first to his disciples and warned them, “Beware of the yeast of the Pharisees -- their hypocrisy.

1 そうしている間に群衆はふくれあがり、数千人があてもなく歩き回り、互いに足を踏み合うほどになりました。イエスさまはまず弟子たちに向き直って警告しました。「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

2 The time is coming when everything that is covered up will be revealed, and all that is secret will be made known to all.

2 隠されているものすべてが明らかにされるときが近づいています。秘密にされていることのすべてが、あらゆる人に知らされます。

3 Whatever you have said in the dark will be heard in the light, and what you have whispered behind closed doors will be shouted from the housetops for all to hear!

3 あなた方が暗やみの中で言ったことは何もかも光の中で聞かれます。戸の内側でささやいたことが、みなに聞こえるように屋根の上から叫ばれるのです。

4 “Dear friends, don’t be afraid of those who want to kill your body; they cannot do any more to you after that.

4 友人たち、あなたの肉体を殺そうとする人たちを恐れてはいけません。その人たちはその後で、あなた方にそれ以上のことをすることはできません。

5 But I’ll tell you whom to fear. Fear God, who has the power to kill you and then throw you into hell. Yes, he’s the one to fear.

5 ですがあなた方に恐れなければならない方について教えましょう。神さまを恐れなさい。神さまはあなた方を殺し、それから地獄へ投げ込む力を持っているのです。そうです。神さまこそがあなた方が恐れるべき方です。

6 “What is the price of five sparrows -- two copper coins? Yet God does not forget a single one of them.

6 五羽の雀の値段はいくらですか?銅貨、二枚分ですか?神さまはそのうちの一羽だって忘れることはありません。

7 And the very hairs on your head are all numbered. So don’t be afraid; you are more valuable to God than a whole flock of sparrows.

7 あなた方の頭の髪の毛もすべて数えられているのです。だから恐れてはいけません。あなた方は雀の群れ全体よりも、神さまにはずっと価値があるのです。

8 “I tell you the truth, everyone who acknowledges me publicly here on earth, the Son of Man will also acknowledge in the presence of God’s angels.

8 あなた方に本当のことを言います。私をこの地上で認める者はだれでも、人の子もまたその人を、神さまの天使たちの前で認めましょう。

9 But anyone who denies me here on earth will be denied before God’s angels.

9 しかし私をこの地上で否定する者はだれでも、神さまの天使たちの前で否定されます。

10 Anyone who speaks against the Son of Man can be forgiven, but anyone who blasphemes the Holy Spirit will not be forgiven.

10 人の子に反論する人はどのような人でも許されますが、聖霊を冒涜する者は許されません。

11 “And when you are brought to trial in the synagogues and before rulers and authorities, don’t worry about how to defend yourself or what to say,

11 あなた方が会堂の中や、支配者や権力者の前で裁かれるとき、どのように自分を守ろうか、何を言おうかと心配することはありません。

12 for the Holy Spirit will teach you at that time what needs to be said.”

12 そのときに言うべきことは聖霊があなた方に教えてくださいます。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第12章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

第11章はイエスさまがファリサイ派を激しく批判する言葉で終わりました。イエスさまはファリサイ派は表面ばかりを取り繕い、それで神さまの目に正しく映っていると主張するが、内面はドロドロに汚れている。神さまは人の外面ばかりでなく内面も作ったのではないか、と批判しました。

第12章は「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」の言葉で幕を開けます。この「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」の言葉はマルコにもマタイにも見られますから、「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」に基づけば「マルコ」からの採用と考えられます。

マルコはMark 8:13-16(マルコの福音書第8章第13節~第16節)です。「13 イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」 16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。」([新改訳])。

マタイはMatthew 16:5-7(マタイの福音書第16章第5節~第7節)です。「5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」 7 すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、議論を始めた。」([新改訳])。

マルコとマタイでは弟子たちがイエスさまの「パン種に気をつけなさい」の言葉について、イエスさまがパンを忘れたことを怒って言っているのだと勘違いする展開なのですが、ルカはこれを明確に「それは彼らの偽善のことです」の一文をつけ加えて完結させ、イエスさまの論点を明確にした上で、このエピソードを第11章の終わりから第12章への導入として使っているようです。

続く第2節には「隠されているものすべてが明らかにされる」、「秘密にされていることのすべてが知らされる」とあります。この言葉はマルコに登場しました。Mark 4:21-23(マルコの福音書第4章第21節~第23節)です。「21 また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。22 隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。23 聞く耳のある者は聞きなさい。」([新改訳])。 マルコではこの言葉は明かりを灯して枡の下に置く人はいない、という文脈の中で登場したのでした。神さまは「全知」の存在なのですから、知らないことは何もありません。イエスさまを救い主として受け入れた人のひとりひとりには聖霊が封印され、その聖霊の力で神さまの計画に沿って徐々に変えられて行きます。感謝と後悔の念の中で、自分を知り、自分を全知全能の神さまに向けて開いていきます。マルコではそのような文脈の中で使われていたはずの言葉でしたが、ルカはこの部分だけを抜き出して、全知の神さまによって「隠された偽善は必ず暴かれる」というようなニュアンスで用いているようです。

第3節~第9節の「だれを恐れるべきか」の類似箇所はマタイに見つかります。Matthew 10:26-33(マタイの福音書第10章第26節~第33節)です。「26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「マタイ」と「ルカ」がほぼ類似の記述となっていますから、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」から採用と考えられます。

ほぼ類似の内容ですが興味深いのはマタイの第27節です。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」となっていて、ルカでは「あなた方」だった話者が、マタイでは「わたし」、つまりイエスさまとなっています。マタイでは話者がイエスさまなのですから、イエスさまが話されることとはすなわち「福音」に他ならないでしょうが、ルカでは話者が「あなた方」に入れ替わり、人が神さまから隠そうとする秘密になっています。

その続き、ルカの第4節以降は「終わりの日」に対する心構えの話になります。第4節と第5節では「あなたの肉体を殺そうとする人たちを恐れてはいけません」とあり、その理由が「その人たちはその後で、あなた方にそれ以上のことをすることはできない」と書かれています。逆に言えば「殺す」「殺される」ことはすべての終わりではなくて、もっと肝心なのは「その後」だと言うことです。それはなぜか。その理由は第5節によると「神さまはあなた方を殺し、それから地獄へ投げ込む力を持っている」からで、だからこそ「神さまこそがあなた方が恐れるべき方だ」と言うのです。

この、人を「地獄へ投げ込む」イベントは聖書では「終わりの日」に起こるとされています。「終わりの日」には十字架死から復活して一度天へ戻ったイエスさまが地上へ再来します。が、そのときのイエスさまは救世主としてではなく、最後の審判を下し、ひとりひとりの人間の天国行きと地獄行きを選り分ける裁判官として再来するのです。だから本当に私たちが恐れるべきは、私たちの魂の永遠の行き先を決める最後の審判の判決であり、その判決を下すイエスさまなのです。これが地上で私たちの肉体を痛めつけることしかできない人たちを恐れる必要はない、と言う根拠です。

ところで[NLT]でも[KJV]でも「hell」と書かれている「地獄」の部分には、[新改訳]では代わりに「ゲヘナ」という聞き慣れない言葉が使われています。これは聖書の原典に死後の世界を示す場所として「ハデス」と「ゲヘナ」の二つの言葉が登場することに由来するようです。「ハデス」はヘブライ語で書かれた旧約聖書がギリシア語に翻訳されたとき、へブライ語の「シェオル」にあてられた言葉のようです。これは日本語では「冥界」とか「黄泉(よみ)」などと呼ばれることもある場所です。イメージは、どこか私たちの下方(地面の下?)にある広い空間です。新約聖書に登場する「地獄」もこの「ハデス」に結びつけられているようで、これを合わせて解釈すると「ハデス」はどうやら地上で死んだ人間が、最後の審判までの時間を費やす場所とされているようです。つまり最終的に天国へ行く人も地獄へ堕とされる人も、同じようにハデスという場所で最後の審判の日を待つのです。ただし地獄行きの人とそうでない人がいる場所の間には、決して越えることのできない深い谷があるとの記述もあり、と言うことは「ハデス」に下りた時点で、地獄へ堕とされるかどうかが決まっているようでもあります。

死後の世界を示すもうひとつの言葉が、ここで登場する「ゲへナ」です。ゲヘナはヘブライ語の「ゲヒンノム(ヒノムの谷)」に基づくギリシア語だそうです。ヒノムの谷はエルサレムの城外の南方にある谷で、長くゴミ捨て場に使われていました。旧約聖書の南北朝の時代には、ここで異教(モレク神)を拝む儀式が行われ、いけにえに人間の幼児が捧げられていた場所でもあります(旧約聖書の中ではユダヤ人は何度も繰り返し神さまを離れて異教に心を奪われ、預言者から「神さまに向き直りなさい。悔い改めなさい」との警告を受け続けます)。ここから転じて「ゲヘナ」は最後の審判で有罪宣告を受けた魂が堕とされる終着地点とされていて、人間の魂が永遠に消えることのない炎に焼かれる場所なのです。ここが私たちが通常「地獄」と呼ぶ場所です。[新改訳]聖書ではこの二つの言葉の混同を避けるために、「ゲへナ」が用いられている場所にはそのまま「ゲヘナ」と書いているようです。

第6節の「五羽の雀の値段はいくらですか?銅貨二枚ですか?」と問われている部分は、マタイでは「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう」となっています。これはイスラエルでは雀二羽がセットにされて、いけにえのための動物として売られていたからです。いけにえのための動物はエルサレムの寺院で、旧約聖書の律法書の定めに従って使うのです。清めの儀式の中でまず二羽のうちの一羽を殺してその血を「清め」のために使い、残りの一羽は生きたまま野に放ちます。

第8節~第9節の「あなた方に本当のことを言います。私をこの地上で認める者はだれでも、人の子もまたその人を、神さまの天使たちの前で認めましょう。しかし私をこの地上で否定する者はだれでも、神さまの天使たちの前で否定されます。」が、ルカの今回の部分の主題でしょう。 これは福音を信じてイエスさまを救い主として受け入れた人が、イエスさまを世の中に告知するかどうかについての言葉です。迫害を恐れて「イエスさまを知らない」と言う者は、天国で神さまの前に居並ぶ天使たちの前に立つとき、あるいは最後の審判者として再来するイエスさまと天使の大軍勢の前に立つときに、イエスさまから「私はあなたのことは知らない」と言われてしまうと言う、恐ろしい言葉です。

これと類似の記述はマルコにも見られます。Mark 8:38(マルコの福音書第8章第38節)です。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」([新改訳])。イエスさまが「父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき」と言うのは、「終わりの日」にイエスさまが再来する時のことです。大切なのはこの言葉が紛れもなくイエスさまの口から出ていると言うことです。クリスチャンであることを世の中に知られることが、そのまま社会からの追放や投獄や死に直結するような場所や時代に生きるクリスチャンには大変重い言葉だったはずです。宗教の自由が憲法に保障され、クリスチャンであることを公言しても特別な迫害を受けることのない日本のいまの時代は、クリスチャンには大変恵まれた環境だと思います。

第10節の「人の子に反論する人はどのような人でも許されますが、聖霊を冒涜する者は許されません。」の言葉はマルコとマタイに見つかります。マルコはMark 3:28-30(マルコの福音書第3章第28節~第30節)です。「28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」([新改訳])。マタイはMatthew 12:31-32(マタイの福音書第12章第31節~第32節)です。「31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マルコ」からの採用と考えられます。

「人の子」はイエスさまですから、「イエスさまへの反論は許されるが、聖霊を冒涜する者は許されない」となります。この部分の解釈は難解ですが、オリジナルの「マルコ」の文脈を見てみると、この部分は宗教学者たちがイエスさまが行う奇跡の事実を認めながらそれを「サタンの力」だとして批判している話からの展開です。イエスさまは人間の肉体を得て地上に降りた神さまです。人間へのお手本として、神さまを100%信じて微塵も疑わない強い信仰があれば、人間でありながら神さまの意志と力を実現できることを実演し、それを奇跡の業として見せているのです。それなのにその力をサタンから得ていると批判する行為は、神さまの力や権威や栄光をわざわざおとしめて、人々の気持ちを神さまから他へそらそうとする行為です。ましてや宗教学者は旧約聖書に精通し、人々に神さまについて正しく教える立場にある人たちなのですから、イエスさまはこういう行為は決して許されないと言っているのだと思います。

第11節~第12節の「あなた方が会堂の中や、支配者や権力者の前で裁かれるとき、どのように自分を守ろうか、何を言おうかと心配することはありません。そのときに言うべきことは聖霊があなた方に教えてくださいます。」の言葉はやはりマルコとマタイに見つかります。

マルコはMark 13:9-13(マルコの福音書第13章9~13節)です。「9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。11 彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。12 また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」([新改訳])。

マタイはMatthew 10:17-20(マタイの福音書第10章第17節~第20節)です。「17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」([新改訳])。

実はルカにもこの後、第21章で再び登場します。Luke 21:12-19(ルカの福音書第21章12~19節)です。「12 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。14 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。15 どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」([新改訳])。

これらを「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると「マタイ」と「ルカ」がほぼ類似の記述となっていますが、「マルコ」からの引用が含まれることもわかりますから、この部分は「マルコ」に、イエスさまの語録集である「Q資料」から採用の資料を組み合わせて独自の編集を行っていると考えられます。

マタイの福音書はイエスさまの十字架死~復活を経て天に戻ったイエスさまに代わって、ひとりひとりの信者に聖霊が与えられ、その聖霊に導かれた信者たちが集う教会(あるいは教会群)のひとつで編集され成立した本です。 マタイを残した教会では世の中の迫害に苦しみながら、日々、イエスさまの福音を広める伝道活動をしていて、その活動の拠り所として「マタイの福音書」と言う本を成立させたのです。この部分のオリジナルの「マルコ」では、この言葉はイエスさまが十二人の使徒を選び、世に送り出す場面で送られています。イエスさまが十二人を世に遣わす場面は、イエスさまの福音を伝えるために世に出て行く初期の教会の信徒の姿と重なる部分が大きいのでしょう。なので「マタイ」のこの部分は教会に集う信者たちを鼓舞する目的で編集されたのではないかと考えることができます。と言うのもイエスさまの信者が「議会に引き渡され、会堂でむちで打たれる」ような迫害に会うのはイエスさまの十字架の後の出来事だからです。十二人がイエスさまから派遣された時点で使徒たちが人々に伝えていたのは「神さまに向き直れ。自分たちの罪を自覚して悔い改めよ。なぜなら神さまの王国が近いからだ」のメッセージであり、彼らはこれを伝えながら、イエスさまから与えられた力を使って、病人を癒し、悪霊を追い出し、皮膚病に冒された者を治すと言うような奇跡を次々と行っていたのです。これだけでは「議会に引き渡され、会堂でむちで打たれる」ような迫害には発展しません。ですから今回の最後の部分は十二人に語られた言葉と言うよりも、マタイやルカが書かれた時点での教会の信者たちに向けられた鼓舞と警告の言葉なのだと思います。ただ語られた言葉自体は、「マルコ」と「Q資料」からほぼそのままの形で採用されていますから、これがイエスさまの口から出た言葉そのものであることもわかります。当時の信者たちはイエスさまの予告したエルサレムの崩壊や、終末論で予告された「終わりの日」がいよいよ近づいたとの予感の中で、これらの言葉は臨場感を持って語られていたはずです。






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