ルカの福音書第11章第29節~第32節:ヨナのしるしルカの福音書第11章第1節~第13節:お祈りについての教え

2015年10月21日

ルカの福音書第11章第14節~第28節:イエスさまと悪霊の王子

第11章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus and the Prince of Demons

イエスさまと悪霊の王子


14 One day Jesus cast out a demon from a man who couldn’t speak, and when the demon was gone, the man began to speak. The crowds were amazed,

14 ある日、イエスさまは口がきけなかった男の人から悪魔を追い出しました。悪魔が去ると男の人は話し始めました。群衆は驚きました。

15 but some of them said, “No wonder he can cast out demons. He gets his power from Satan, the prince of demons.”

15 しかし群衆の中には次のように言う人もいました。「彼が悪魔を追い出せるのには何の不思議もない。彼は悪魔の王子のサタンから力を得ているのだ。」

16 Others, trying to test Jesus, demanded that he show them a miraculous sign from heaven to prove his authority.

16 他の人たちはイエスさまをためそうとして、イエスさまの権威を証明するために、天からの奇跡のしるしを見せるようにと要求しました。

17 He knew their thoughts, so he said, “Any kingdom divided by civil war is doomed. A family splintered by feuding will fall apart.

17 イエスさまはその人たちの考えがわかっていました。そこでイエスさまは言いました。「どんな王国でも内戦で割れれば運の尽きです。内輪もめで割れた家はばらばらになります。

18 You say I am empowered by Satan. But if Satan is divided and fighting against himself, how can his kingdom survive?

18 あなた方は私がサタンから力を得ていると言います。しかしサタンが割れて、自分自身に戦いを挑んでいるのなら、サタンの王国はどうやって生き残るのですか?

19 And if I am empowered by Satan, what about your own exorcists? They cast out demons, too, so they will condemn you for what you have said.

19 そしてもし私がサタンから力を得ているのなら、あなた方の悪魔払いはどうなのですか。彼らも悪魔を追い出すのですから、あなた方が言ったことについては彼らがあなた方を裁くでしょう。

20 But if I am casting out demons by the power of God, then the Kingdom of God has arrived among you.

20 しかし私が神さまの力で悪魔を追い出しているのなら、神さまの王国はあなた方の内に到来しているのです。

21 For when a strong man like Satan is fully armed and guards his palace, his possessions are safe --

21 それはサタンのように強い人が十分に武装して自分の宮殿を守っているときには、その人の持ち物は安全です。

22 until someone even stronger attacks and overpowers him, strips him of his weapons, and carries off his belongings.

22 しかしそれはもっと強い者が襲って来てその人に打ち勝ち、彼の武器を奪い取り、持ち物を運び去るまでの話です。

23 “Anyone who isn’t with me opposes me, and anyone who isn’t working with me is actually working against me.

23 誰でも私の味方でない者は私と争う者であり、誰でも私とともに働かない者は、実際のところは私に対抗して活動しているのです。

24 “When an evil spirit leaves a person, it goes into the desert, searching for rest. But when it finds none, it says, ‘I will return to the person I came from.’

24 悪霊が人から去ると、悪霊は休息を求めて砂漠へ出て行きます。ですが休息が得られなければ、悪霊は『私は出て来た人のところへ戻ろう。』と言います。

25 So it returns and finds that its former home is all swept and in order.

25 悪霊が戻ってみると、以前の住処はきちんと掃除がされて片付いています。

26 Then the spirit finds seven other spirits more evil than itself, and they all enter the person and live there. And so that person is worse off than before.”

26 そこでその悪霊は自分よりも邪悪な他の霊を七つ見つけて来て、その悪霊たちすべてがその人に入り込んでそこに住むのです。そうなるとその人の状態は以前よりもさらに悪くなります。」

27 As he was speaking, a woman in the crowd called out, “God bless your mother -- the womb from which you came, and the breasts that nursed you!”

27 イエスさまが話していると群衆の中の女性がひとり、叫びました。「神さまはあなたの母親を祝福します。それはあなたが来た子宮であり、あなたに授乳した乳房です。」

28 Jesus replied, “But even more blessed are all who hear the word of God and put it into practice.”

28 イエスさまは答えました。「ですがもっと祝福されるのは神さまのことばを聞き、それを実行する人たち全員です。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第11章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。ルカの構成は長い「エルサレムへの旅程」の中に様々な出来事やイエスさまの話を時間や場所の整合をあまり重視することなしにちりばめて作っているようです。

第23節までと同じ話はマルコとマタイに見つかります。Mark 3:20-30(マルコの福音書第3章第20節~第30節)とMatthew 12:22-32(マタイの福音書第12章第22節~第32節)です。

マルコです。「20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。」([新改訳])。

マタイです。「22 そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。23 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」 24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」 25 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。26 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。27 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。29 強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。30 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここまでの部分は「マルコ」からの採用と言うことになります。

ある日、イエスさまが悪魔を追い出す奇跡を行うと、ある人が「彼が悪魔を追い出せるのには何の不思議もない。彼は悪魔の王子のサタンから力を得ているのだ。」と批判し、他の人たちはイエスさまがこれを否定するのなら、悪魔払いの権威が天から来ていることを証明するために、奇跡のしるしを見せろ、と要求したのでした。ルカには書いてありませんが、マルコにはこの批判を行った人が「エルサレムから下って来た律法学者たち」であり、マタイは「パリサイ人」と言っています。 イスラエルの最高議決機関であるサンヘドリンにも議席を持つ政治結社のファリサイ派は主に律法学者で構成され、ローマ帝国支配下でサンヘドリンに与えられた限定的な統治権の既得権益の維持や、偽善的な宗教儀式で民衆の支持を守ることが第一義のようで、ガリラヤ地方から出て来てこのところたくさんの人の人気と支持を集めているイエスさまを監視するために人を派遣しているのです。 ファリサイ派はイエスさまの奇跡は「悪魔の王子のサタンから力を得ている」と批判し、反論するのなら奇跡のしるしを見せろ、と迫ります。

[NLT]では「Satan(サタン)」と書かれていますので私の訳では「サタン」としていますが、この単語は[KJV]では「Beelzebub(ベルゼバブ)」、マルコやマタイの[新改訳]の引用では「ベルゼブル」となっています。ここから福音書のこのエピソードは一般に「ベルゼブル論争」と呼ばれます。「ベルゼブル」(あるいは「ベルゼバブ」「ベルゼブブ」などとも表記される)はヘブライ語で「ハエの王(蝿の王)」の意味です。もともとの単語は「ベル・ゼブル」と前半の「ベル」と後半の「ゼブル(気高い・高い館)」に分かれます。「ベル」はもともとパレスチナ周辺の異国の民族が崇めていた「バアル神」から来ていて、つまり「バアル・ゼブル」で「気高き王」または「高き館に住む王」の意味になり、つまりこれは「バアル神」を褒め称えて呼んだ名前のひとつのようです。「バアル神」は旧約聖書に何度も登場します。「バアル神」はユダヤ人の周辺に住む異民族が信仰していた邪教の神なのです。旧約聖書ではユダヤ人が周辺の民族と交流し、その結果バアル神を信仰するようになると、神さまはそれを嘆き怒って預言者を遣わし、ユダヤ民族を激しく非難させるのです。「バアル神」を褒め称えて呼ぶ「バアル・ゼブル(気高き王)」ですが、ユダヤ人は「ゼブル」の部分に、発音の似た「ゼブブ(ハエ)」を当てはめて「ハエの王」と呼んでバカにしたようで、旧約聖書ではその呼び名が定着したようです。

旧約聖書を読むとサタンはもともと神さまに仕えていた高位の天使でしたが、野望を抱いて神さまの怒りを買って天から追放されたと解釈できます。サタンが天から追放されるときにすべての天使の三分の一がサタンに従ったとされていて、サタンに追従して地上に堕とされた天使が悪霊や悪魔となりました。ですのでイエスさまは自分がサタンの力を得て悪魔を追い出したら、サタンがサタンを追い出していることになり、内輪もめになってしまうと反論します。極めて客観的かつ論理的な主張です。また第19節では「あなた方の悪魔払い」が言及されていますから、ここから当時は「悪魔払い」がユダヤ人の間で広く行われていたことがうかがえます。イエスさまはもし自分の悪魔払いがサタンの力によるものなら、そのように主張する自分たちの悪魔払いはどうなのか、と反論しているのです。ファリサイ派は権威の証明のために「天からの奇跡のしるし」を見せるように要求していますから、自分たちの側の悪魔払いは正当であると、何かしらの権威の証明を示したのかも知れません。

第21節と第22節では、サタンのように強力な存在が守る宮殿に押し入り、サタンに打ち勝つ者がいるのだとしたら、第20節、そしてそれをイエスさまが神さまの力で実行しているのだとしたら、「神さまの王国はあなた方の内に到来している」とイエスさまは言います。この部分、[KJV]は「the kingdom of God is come upon you」、[NLT]は「the Kingdom of God has arrived among you」と共に完了形で書かれていて、「到来している」という言葉の実現の度合いがありありとうかがえます。

「神さまの王国」とは「神さまの支配が行き届き、神さまの意志が隅々にまで実現している場所」のことでしょう。全知全能の神さまは宇宙の創造者であり、時空を超越して、あらゆる事柄の最初から宇宙のすべてを支配されています。ですがそのことを日々意識して生きている人がこの地球上にどれほどいるでしょうか。神さまの王国が「あなた方の内に到来している」と言うのは、ひとりひとりの人間が神さまの存在の意識を持つことです。そして人間の犯した「罪(sin)」を取り除く目的で神さまが遣わした救世主としてのイエスさまを私たちが信じるのなら、私たちと神さまを隔てる壁はすべて取り除かれ、私たちには神さまの名前を直接呼んで堂々と褒め称える準備が整っていることになります。私たちが「神さまの計画を受け入れる」と宣言するだけで、私たちの心の中には神さまの支配が行き届き、そこには神さまの意志が実現していることになります。こうして「神さまの王国」はひとりひとりの心の中からスタートさせることができるのです。

なおマルコとマタイではこの「ベルゼブル論争」のエピソードの最後に「聖霊に逆らう冒涜」の話が続きますが、ルカでは第23節で「誰でも私の味方でない者は私と争う者であり、誰でも私とともに働かない者は、実際のところは私に対抗して活動しているのです。」という言葉で締めくくられています。 この部分[KJV]は「He that is not with me is against me: and he that gathereth not with me scattereth.」となっていて、[新改訳]の対応箇所は「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」となっています。

聖書はイエスさまを通じた人間の「罪(sin)」の購(あがな)い、つまり失敗や損失の埋め合わせを伝える本です。そして人間の「罪(sin)」を誘発して人間を神さまから離反させた張本人がサタンです。イエスさまは人間を神さまと和解させるために派遣され、十字架によってサタンとの戦いに勝利します。聖書にはこれから将来のどこかに到来する「最後の日」に起こる「神さまの最後の裁き」までが書かれています。私たちには最終的にイエスさまの側につくか、サタンの側につくか、二つに一つの選択肢しかないのです。だから「誰でも私の味方でない者は私と争う者であり、誰でも私とともに働かない者は、実際のところは私に対抗して活動している。」と言うことになります。[新改訳]の「わたしとともに集めない者は散らす者」で、イエスさまが神さまのところへ集めようとしているのは神さまの子供としての人間のことでしょう。イエスさまと共に集めようとしない人は、神さまの計画に同意しない人、つまり神さまのところから人間を散らす側にいる人と解釈されるのです。

第24節以降と同じ話は前半部分についてマタイに見つかります。Matthew 12:43~45(マタイの福音書第12章第43節~第45節)です。「43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「マタイ」と「ルカ」に見つかるのでイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用と言うことになります。

悪魔払いで追い出された邪悪な霊が七つの霊を引き連れて戻ってくると言う話は、当時よく行われていた「除霊」の話なのだと思います。つまり病気になるのはその人が悪霊に取り憑かれたからだとして、権威ある先生を招き、悪魔払いの祈祷で悪霊を追い出してもらうことにします。ところが症状は必ずしも改善しない、そんなことは当時はよくあったのでしょう。そのときに祈祷師は、「一度は私の祈祷で出て行った悪霊が、しばらくしてたくさんの霊をつれて戻ってきたのだ。」と説明したのです。ルカではこの語録が「悪霊」関連の話として、前回の「ベルゼブル論争」の次に挿入されたのだと思います。マタイでは最後に「邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」の一節が挿入されていて、これは悪魔払いでよく使われるこの説法を、イエスさまの十字架後に起こる西暦70年のイスラエル滅亡へ向けて国内がますます荒れていく様子に結びつけているのだと思います。

最後のイエスさまの母親を讃える女性の話は福音書の中ではルカだけに登場する話です。よってルカの「独自の資料」ということになります。 イエスさまの行う奇跡の業を見て、あるいはイエスさまの話を聞いて、周囲の群衆の中からはたくさんの称賛の声が上がっただろうと思います。今回の女性はイエスさまを生み、育てた母親を称賛しました。子供を産み、その子供に授乳して育てることはイエスさまの母親でなくてもたくさんの女性がしていることです。イエスさまはこの女性の称賛に対し、女性の懐胎、出産、育児の仕事を認めながらも、そういう立派な仕事をしている女性たちではあるが、もっと祝福されるのは神さまのことばを聞き、それを実行する人たちだと言っています。神さまのことばを聞き、それを実行することは、子供がいてもいなくても、どのような女性にでもできることです。まず神さまの言葉に耳を傾けること、そしてそれを実行することが神さまから祝福される行動なのです。






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