ルカの福音書第10章第38節~第42節:イエスさまがマルタとマリヤを訪問するルカの福音書第10章第21節~第24節:イエスさまの感謝の祈り

2015年10月22日

ルカの福音書第10章第25節~第37節:もっとも重要な掟、善いサマリア人のたとえ話

第10章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Most Important Commandment

もっとも重要な掟


25 One day an expert in religious law stood up to test Jesus by asking him this question: “Teacher, what should I do to inherit eternal life?”

25 ある日、律法の専門家が立ち上がり、次のような質問をしてイエスさまをためそうとしました。「先生、永遠のいのちを受け継ぐために、私は何をすべきでしょうか。」

26 Jesus replied, “What does the law of Moses say? How do you read it?”

26 イエスさまは答えました。「モーゼの律法は何と言っていますか。あなたはそれをどう読んでいますか。」

27 The man answered, “‘You must love the Lord your God with all your heart, all your soul, all your strength, and all your mind.’ And, ‘Love your neighbor as yourself.’”

27 その人は答えました。「『あなたの主である神さまを心のすべてで、魂のすべてで、力のすべてで、意識のすべてで愛しなさい。』、そして『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』とあります。」

28 “Right!” Jesus told him. “Do this and you will live!”

28 イエスさまは言いました。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすればあなたは生きるのです。」

29 The man wanted to justify his actions, so he asked Jesus, “And who is my neighbor?”

29 その人は自分の行動を正当化したかったので、イエスさまにたずねました。「私の隣人とは誰でしょうか。」



Parable of the Good Samaritan

善いサマリヤ人のたとえ話


30 Jesus replied with a story: “A Jewish man was traveling from Jerusalem down to Jericho, and he was attacked by bandits. They stripped him of his clothes, beat him up, and left him half dead beside the road.

30 イエスさまは物語を使って答えました。「ユダヤ人がひとり、エルサレムからエリコへ旅をしていて、山賊に襲われました。山賊はユダヤ人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しの状態で道ばたに捨て去りました。

31 “By chance a priest came along. But when he saw the man lying there, he crossed to the other side of the road and passed him by.

31 偶然、祭司がひとり、その道をやって来ました。しかし祭司はユダヤ人が倒れているのを見ると、道の反対側へ横切り、通り過ぎました。

32 A Temple assistant walked over and looked at him lying there, but he also passed by on the other side.

32 寺院の手伝いをしている人が歩いてきて、ユダヤ人が倒れているのを見ました。しかしその人も道の反対側を通り過ぎて行きました。

33 “Then a despised Samaritan came along, and when he saw the man, he felt compassion for him.

33 それから嫌われ者のサマリヤ人がひとりやって来ました。サマリヤ人はユダヤ人を見て、同情しました。

34 Going over to him, the Samaritan soothed his wounds with olive oil and wine and bandaged them. Then he put the man on his own donkey and took him to an inn, where he took care of him.

34 サマリヤ人はユダヤ人のところまで行き、オリーブ油とぶどう酒で傷の痛みを和らげ、包帯をしました。それからユダヤ人を自分のロバに乗せて宿屋へ連れて行き、ユダヤ人を介抱しました。

35 The next day he handed the innkeeper two silver coins, telling him, ‘Take care of this man. If his bill runs higher than this, I’ll pay you the next time I’m here.’

35 翌日、サマリヤ人は宿屋の主人に銀貨を二つ渡して言いました。『この人の世話をしてあげてください。費用がこれを超えたら、次にここへ来るときに私が払います。』

36 “Now which of these three would you say was a neighbor to the man who was attacked by bandits?” Jesus asked.

36 さてこの三人のうち、だれが山賊に襲われた男の隣人だとあなたは言いますか。」 イエスさまがたずねました。

37 The man replied, “The one who showed him mercy.”  Then Jesus said, “Yes, now go and do the same.”

37 律法の専門家は答えました。「男にあわれみをかけてやった人です。」 するとイエスさまは言いました。「そうです。さぁ、あなたも行って同じことをしなさい。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第10章です。

イエスさまの一行は第9章の終わりにいよいよエルサレムに向けて出発しました。そこから第19章のエルサレムへの到着まではエルサレムへの旅の途中という構成になっています。

今回の前半は聖書の中の最も重要な教えの話です。類似の話はマルコにもマタイにも登場します。マルコはMark 12:28-34(マルコの福音書第12章第28節~第34節)、マタイはMatthew 22:35-40(マタイの福音書第22章第35節~第40節)です。

マルコです。「28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」 29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」 34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。」([新改訳])。

マタイです。「35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 38 これがたいせつな第一の戒めです。39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この箇所は「マルコ」からの採用となります。

なお今回、第25節で律法の専門家は「先生、永遠のいのちを受け継ぐために、私は何をすべきでしょうか。」とイエスさまに質問していますが、これと同じ質問はマルコとマタイの別の箇所に登場しています。マルコはMark 10:17-22(マルコの福音書第10章第17節~第22節)、マタイはMatthew 19:16-22(マタイの福音書第19章第16節~第22節)です。

マルコです。「17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」 18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」([新改訳])。

マタイです。「16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」([新改訳])。

こちらの質問者は「永遠のいのちを受け継ぐためには何をすべきでしょうか」とたずね、イエスさまが律法を代表するモーゼの十戒から回答を提示すると、質問者は「私はそれを守っています」と誇らしげに答えます。そこでイエスさまは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に通じる条件を提示して、質問者を落胆させます。今回のルカの部分は内容は異なりますが展開が同じなので、どうやらこの二つの話を組み合わせて作られているように読めます。

第25節、律法の専門家が立ち上がって、イエスさまをためすために質問をします。この律法の専門家とはファリサイ派のことで、ファリサイ派は聖書の中に定められた律法の掟は全部で600項目以上あり、それらのすべてを守ることが神さまの目に正しく映る方法であると決めています。そして実生活の中でそのすべてを遵守する生活を送って、人々の尊敬と支持を集めていたのです。ファリサイ派は自分たちの正しさを自負する人たちだったので、イエスさまをためすために上から目線で今回の質問をしたのです。

第26節、イエスさまは質問に対して質問で答えます。「モーゼの律法は何と言っていますか。あなたはそれをどう読んでいますか。」 「モーゼの律法」とはモーゼが書いたとされる旧約聖書の最初の5冊の本のことです。あなた方は律法の専門家なのだから、私にきくまでもなくそんなことは聖書に書いてあるでしょう、とイエスさまは言っているのです。そして「あなたはそれをどう読んでいますか」とその部分についての解釈をきいています。

質問をしたファリサイ派はまずDeuteronomy 6:4-5(申命記第6章第4節~第5節)を引用します。「4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」([新改訳])。それからもうひとつLeviticus 19:18(レビ記第19章第18節)の「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」([新改訳])をつけ加えます。この二つの教えが聖書全体を要約している、というのが当時のユダヤ人の聖書の理解のようで、これは私たちにも大変参考になります。

第一の教えはとにかく全身全霊で神さまを愛しなさい、という命令です。「全身全霊」を聖書では「heart」「soul」「mind(understanding)」「strength」の四つに分けています。四つめの「strength(力)」が肉体(「全身」の方)を表すとしたら、残りの三つが私たちの精神部分(「全霊」の方)を表しているのです。

最初の「heart」は『新英和中辞典』(研究社)では「感情・情緒を意味する心」と書かれています。私は「heart」は「その人の人物」「その人の正体」を表しているところなのだと思っています。英語の文章を読んでいると「heart」がウキウキしたり沈んだりするのに出会います。また「heart」は自分を裏切ったりもします。口に出してみて自分でも驚くような言葉や、追い込まれた場面で自分に信じられないような行動を取らせるのが「heart」なのです。ですから自分の中にあるのに自分でも全容や正体を知ることもできないような部分(たとえば深層心理のような部分)までもを含んだ「心」全体が「heart」なのです。

次の「soul」は「魂」とか「霊魂」などと訳されます。私は「soul」は人間ひとりひとりの存在そのものだと思っています。つまり神さまからいただいた私自身です。聖書によると「soul」は不滅の存在です。そしてひとりひとりの肉体に宿っているのです。

次の「mind(understanding)」は『新英和中辞典』では「思考・意志などの働きをする心」と書かれています。私は「mind」は私の肉体というハードウェアの中のモニターのようなもので、「heart」全体の中からそのモニター上に映し出されている部分なのだと思っています。精神的な活動の中で、私自身がいま把握できている意識の範囲です。

この理解に沿って「全身全霊」を構成する四つを合わせると、私という存在は神さまが私の「soul(魂)」を「strength(肉体)」に宿らせた存在であり、「heart(心)」の一部を「mind(意識)」というモニターに映しながら機能していることになります。イメージが伝わるでしょうか。第一の教えはこの四つのすべてで神さまを愛せよ、ということです。

第二の教えは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」なのですが、今回のルカの引用箇所では、この二つの答を質問したファリサイ派の本人が提供して、イエスさまから「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすればあなたは生きるのです。」と、永遠のいのちへのお墨付きをもらっています。しかし質問者は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」の意味を確認したくなったようで、第29節で「私の隣人とは誰でしょうか」とたずねています。この人が意味を確認したかった理由は「自分の行動を正当化したかったから」と書かれています。

ファリサイ派は自分たちの行動は神さまの目の中に正しいと自負していました。だから聖書の命令すべてに従うことで全身全霊で神さまを愛して生きているという自信がありました。ですが自分が本当に隣人を自分のように愛せているのか、それをイエスさまの言葉で確認したかったのかも知れません。そうすれば本当に自分の永遠のいのちが保証されることになる、この人はそのように考えたのかも知れません。上で取り上げたマルコとマタイの別の引用箇所では「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」の実践例として、質問者はイエスさまから「持ち物を全部売り払いなさい」と言われて悲しみのうちに立ち去りました。今回はイエスさまがたとえ話で回答します。

このたとえ話は大変わかりやすいと思います。ユダヤ人がひとり、エルサレムからエリコへ旅をします。エリコはエルサレムから東方へヨルダン川へ向かって直線距離で15キロほどのところにあります。イエスさまの時代より遡ること1500年ほど前に、ユダヤ人がヨシュアをリーダーとしていよいよパレスチナに入り、最初に攻略した城塞都市として有名です。エルサレムからエリコへ旅をする場合、イスラエルは山岳の国ですから、旅人は山道や荒野を旅することになります。 当時、山道や荒野には山賊が潜んでいました。町を離れると旅人は山賊の格好の標的となります。山賊の襲撃を避けるため、聖書には人々が往々にしてキャラバンを組んで旅をした様子が書かれていますが、今回、この人はひとりで旅をしていましたので、案の定、山賊に襲われてしまいます。山賊は旅人の身ぐるみを剥いだ上で、殴りつけるなどの暴力をふるい、半殺しの状態で道路脇に放置して去りました。このまま誰も通らなければきっと死んでしまったことでしょう。

そこに三人の人が通りかかります。最初の人も次の人もユダヤ人の中のレビ族に属する人たちです。レビ族は神さまから特別に寺院の仕事を任せられていた氏族で、そのうちモーゼの兄のアロンの子孫が世襲で祭司職を努めていました。二人は同胞のユダヤ人が瀕死の重傷で倒れているのに、見て見ぬふりをして通り過ぎていきます。イエスさまがたとえ話にレビ人を使ったのは、三人目に登場するサマリヤ人との対照をより際立たせる目的だと思います。レビ人はユダヤ教の寺院で仕事をしているのですから、いつも聖書の神さまに近いところにいる人たちだと言うことです。

三人目に通りかかったのはサマリヤ人で、イエスさまはこの人を隣人だと言います。これはユダヤ人にとっては二重のショックだと思います。

サマリヤ人が誰なのかについては何度か書いてきています。サマリヤはイスラエル南部のユダヤ地方と、北部のガリラヤ湖周囲のガリラヤ地方に挟まれた真ん中の地域です。イスラエル中部でヨルダン川の西側をサマリヤ地方と呼び、ここに住む人たちがサマリヤ人です。イスラエルの歴史上、ひとつだった王国があるとき南北の二つの王朝に分かれましたが、南朝ユダヤの首都はエルサレムのまま、北朝イスラエルの首都はやがてサマリヤになります(サマリヤは地方名であると同時にサマリヤという町もあります)。北朝のイスラエルは最終的にアッシリア帝国に滅ぼされてしまうのですが、アッシリアはこのとき植民地政策として上流階級、中流階級のユダヤ人を国外へ連れ去り、代わりに外国人を植民しました。そうやって植民地の国内に民族紛争を起こして揺さぶりをかけ、反抗の矛先が直接アッシリアに向かないように考えられているのだと思います。やがて時が経つとサマリヤ地方に残されたユダヤ人と植民された外国人の交流が始まり、結果としてサマリヤ地方は下流層のユダヤ人と異国人による混血種のユダヤ人の土地になったのです。純血を尊ぶユダヤ人はサマリヤ人を忌み嫌いました。そしてサマリヤ人の土地を通りサマリヤ人と接触すれば自分が宗教的に汚(けが)れてしまう、と考えました。なので通常イスラエルを南北に縦断する旅人は、わざわざヨルダン川を東側に渡って遠いルートを北上するなどの迂回をしていたのです。サマリヤ人は自分たちに宗教上の汚れをもたらす存在であるはずなのに、イエスさまはこのサマリヤ人を隣人だとします。これが最初のショックです。

歴史上イスラエルが南北朝に割れたのはダビデ王の息子であるソロモンの後継がうまくいかなかったことによります。 旧約聖書の「1 Kings(列王記第1)」の第12章あたりに書かれている話によると、ヤロブアムというソロモンの家臣がいて、この人はある日、預言者からユダヤの12の氏族のうち10の氏族を束ねる支配者となる、と予告されます。ソロモンはこのことを知るとヤロブアムを殺害しようとしますが、ヤロブアムは難を逃れてエジプトに逃亡します。ソロモンが死ぬと、ソロモンの子のレハブアムが王として即位しますが、レハブアムの悪政は人々の不満を呼び、人々はヤロブアムをエジプトから連れてきます。ヤロブアムはレハブアムに重税と重労働を軽減するように要請しますが、レハブアムは聞く耳を持たず、結果、預言のとおりに10の氏族がヤロブアムを王として立て、こうして北朝のイスラエル王国が宣言されるのです。

イスラエル王国はできたものの、王となったヤロブアムは、ユダヤ人の唯一の寺院があるエルサレムが南朝にある限り、律法に沿って人々がエルサレムの巡礼をすれば、人々の心はやがて南朝のユダ王国に帰属してしまうだろう、と考えます。そこでヤロブアムは人々をエルサレムから引き離すために、聖書の禁を破り、金の子牛の偶像を二体作ってベテルとダンの町に置いて神体とし、人々に礼拝させるための寺院も建造します。またレビ族でない人をこの寺院の祭司に任命します。ここからスタートして北朝のユダヤ教は聖書から乖離して、イエスさまの時代には参拝の地をゲリジム山としたサマリヤ教となっていました。つまりサマリヤ人はユダヤ人から見れば邪神を信仰する異教徒なのです。これが二つ目のショックです。

イエスさまはこのサマリヤ人こそが隣人だと言いました。それはこの人が他者を自分のように考えて介抱し、最後まで面倒を見て助けたからでしょう。最初に通り過ぎた二人はユダヤ人のレビ族です。ユダヤ人は神さまに選ばれた民族であり、アブラハムの子孫として無条件で神さまに受け入れられる民族だと考えられていました。ですがイエスさまが選んだのはサマリヤ人なのです。どうしてサマリヤ人が選ばれることになるのか、このたとえ話では神さまの善悪の判断基準が誰にでもわかりやすく表現されています。つまり神さまの目に正しく映るのは、聖書に書かれたことを表面的に守る人ではなくて、聖書の裏にある神さまの意図を正しく理解し、それを日々の自分の行動の中で実践する人のことなのです。それがユダヤ人であるか、サマリヤ人なのかは関係ないのです。






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