ルカの福音書:第10章ルカの福音書第9章第51節~第56節:サマリヤ人の敵対

2015年10月23日

ルカの福音書第9章第57節~第62節:イエスさまに従うことの代償

第9章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Cost of Following Jesus

イエスさまに従うことの代償


57 As they were walking along, someone said to Jesus, “I will follow you wherever you go.”

57 一行が歩いて行く途中で、ある人がイエスさまに言いました。「私はあなたがどんな所へ行こうとも、ついて行きます。」

58 But Jesus replied, “Foxes have dens to live in, and birds have nests, but the Son of Man has no place even to lay his head.”

58 しかしイエスさまが答えました。「キツネにはねぐらがあり鳥には巣があります。しかし人の子には頭を横にする場所さえありません。」

59 He said to another person, “Come, follow me.” The man agreed, but he said, “Lord, first let me return home and bury my father.”

59 イエスさまは別の人に言いました。「私について来なさい。」 その人は承知しましたが、言いました。「主よ、まず最初に家に帰って私の父を葬ることをお許しください。」

60 But Jesus told him, “Let the spiritually dead bury their own dead! Your duty is to go and preach about the Kingdom of God.”

60 しかしイエスさまはその人に言いました。「自分たちの死人は霊的な死者に葬らせればよいのです。あなたの仕事は行って神さまの王国について伝えることです。」

61 Another said, “Yes, Lord, I will follow you, but first let me say good-bye to my family.”

61 他の人が言いました。「そうです、主よ、あなたに従います。ですが最初に家族にさよならを言わせてください。」

62 But Jesus told him, “Anyone who puts a hand to the plow and then looks back is not fit for the Kingdom of God.”

62 しかしイエスさまはその人に言いました。「誰でも鋤に手をつけてから後ろを振り返る者は神さまの王国にはふさわしくありません。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第9章です。

イエスさまは第9章第51節より、いよいよエルサレムへ向けて出発しました。エルサレムへの到着が書かれるのは第19章ですので、この間の10章分はエルサレムへの旅の途中という構成になっています。前回はエルサレムへの途上にあるサマリヤの村で拒絶された話でした。 今回の部分は弟子との対話です。話は三つ載っていますが、最初の二つは「マタイ」にも見つかります。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「Q資料」から書かれた部分ということになります。

マタイはMatthew 8:18-22(マタイの福音書第8章第18節~第22節)です。「18 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」 20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」 22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」」([新改訳])。

三つとも弟子の言葉に対して、イエスさまの言葉は冷たく突き放す感じになっています。それぞれどのような意図で話されているのか考えてみましょう。

まず、一つ目の話では「どこへでもついて行きます。」と言う弟子を「キツネにはねぐらがあり鳥には巣がありますが、人の子には頭を横にする場所さえありません。」と突き放します。 「どこへでもついて行きます。」と言っている弟子は、イエスさまがこれからエルサレムで体験する苦難のことを念頭に置いて言っているのではなく、この頃の弟子たちはイエスさまはユダヤ人待望のメシアであり、これからいよいよエルサレムに入城して立ち上がり、ローマ帝国の支配を打ち破って強いイスラエル王国を再建すると思っているのです。きっとこの弟子は王となるイエスさまが住むであろう王宮や宮殿を夢見て、そこでイエスさまに仕える自分の姿を想定して語っているのでしょう。イエスさまはこれに対して現実を突きつけています。キツネや鳥には帰る住みかがあるだろうけれど、イエスさまはこれからユダヤの共同体に敵対する道を歩み、結果としてすべてのユダヤ人から拒絶されて追い立てられ、どこを探しても頭を横にする場所さえ見つけられない、そういう苦難の道を歩むのですよ、と言っています。

二つ目の話は「私について来なさい」と呼びかけた人が、「まず最初に家に帰って私の父を葬ることをお許しください」と答えています。この人は最近父親が亡くなったのでしょう。だからまず父親の葬儀を済ませてからイエスさまに従いたいのです。これに対してイエスさまは「死人は霊的な死者に葬らせればよい」と言い、「あなたの仕事は王国について伝えることだ」と話しています。 この「霊的な死者」は[NLT]の「the spiritually dead」を私が訳したものですが、原文に近い[KJV]ではここは単に「the dead」となっていて、[KJV]を訳すと「死者は死者に葬らせよ」となります。[NLT]は解釈をわかりやすくするために「spiritually」という単語を挿入したのです。

聖書に書かれている「死」については何度か書いてきていますが、イエスさまの説く「死」は私たちの考えている「死」とは異なります。イエスさまから見れば死んだ父親を葬るべきとされる人は、父親と同じレベルで死んでいるのです。これはつまり私たちの考える「死」はイエスさまから見れば「死」ではなく、永遠に続くいのちの途中に訪れる単なるステージの変換点のようなものであり、私たちの知らない本当の「死」は、実は「この世の終わり」に訪れる「最後の審判」の結果、人が神さまから切り離されて地獄へ落とされるイベントを指すのです。

そうなると死んだ父親も、その父親を葬るべきとされている人も、私たちの考える「死」の前にいるか後ろにいるかだけで、どちらも同じ「霊的な死者」として最終的に神さまから切り離されることに変わりはないのです。イエスさまは「死者は死者に葬らせて」おいて、「あなたは王国について伝えなさい」と言っています。大切なのは比べられている二つの行動です。イエスさまは葬儀など出すな、と言っているのではなくて、対比された「王国について伝えること」が、まったく別次元の重要度や優先度を持つ大切な仕事なのだと言いたいのだと思います。

イエスさまのもたらす「良い知らせ」(福音)を受け入れることで、人は神さまからいのちを受けて霊的に生きた人となるのです。私たちは神さまの期待を裏切ってガッカリさせたことで霊的に汚(けが)れてしまっています。しかし福音により自分を汚してきた「罪(sin)」はすっかり洗い流されて、神さまのいる神聖な天国へ入れる清い存在になるのです。これがどれほど大切なことか。すべてに優先して一番大切なことなのではないでしょうか。「葬儀」と言うのは私たちが日々自分たちを煩わせる世俗的な行事の例でしょう。そういう世俗的なことは横に置いて、あなたはまず福音を伝えることを第一に考えなさい、それが一番大切なことなのだから、とイエスさまは言っているのだと思います。

三つ目の話は「ルカ」だけに登場する話です。この人はイエスさまについていく前に家族に別れを告げたいのです。イエスさまはこの人に「鋤に手をつけてから後ろを振り返る者は神さまの王国にはふさわしくない」と言っています。 農作業を始めようと「鋤(すき)」を手にしておきながら、すぐに作業にかからずに後ろを振り返ってぐずぐずする、そういう態度を戒めているようです。これはユダヤのことわざか何かかも知れませんが、言わんとしていることは二つ目の話と同じでしょう。福音を伝えることは何よりも大切で緊急度の高いことなのですから、やると決めたら躊躇しないですぐに取りかかりなさい、と言っているのだと思います。






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