ルカの福音書第9章第28節~第36節:変容ルカの福音書第9章第18節~第20節:イエスさまに関するペテロの宣言

2015年10月23日

ルカの福音書第9章第21節~第27節:イエスさまが自分の死を予告する

第9章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Predicts His Death

イエスさまが自分の死を予告する


21 Jesus warned his disciples not to tell anyone who he was.

21 イエスさまはイエスさまがだれかと言うことを誰にも話してはいけないと、弟子たちに注意を与えました。

22 “The Son of Man must suffer many terrible things,” he said. “He will be rejected by the elders, the leading priests, and the teachers of religious law. He will be killed, but on the third day he will be raised from the dead.”

22 イエスさまは言いました。「人の子は多くの酷い事柄を受けなければならないのです。人の子は長老たち、祭司長たち、律法学者たちから拒絶されます。人の子は殺されるのです。しかし三日目に人の子は死者の中からよみがえらされます。」

23 Then he said to the crowd, “If any of you wants to be my follower, you must turn from your selfish ways, take up your cross daily, and follow me.

23 それからイエスさまは群衆に言いました。「だれでも私の信者になりたいのなら自分本位のやり方をやめて、日々自分の十字架を取り、私について来なさい。

24 If you try to hang on to your life, you will lose it. But if you give up your life for my sake, you will save it.

24 もしあなた方が自分のいのちにしがみつこうとすれば、あなた方はそれを失います。しかしあなた方が私のために自分のいのちを手放すのなら、あなたはそれを救うのです。

25 And what do you benefit if you gain the whole world but are yourself lost or destroyed?

25 あなた方が全世界を手に入れたとして、自分自身を失ったり、殺されたりしたら、あなた方は何を得るのですか。

26 If anyone is ashamed of me and my message, the Son of Man will be ashamed of that person when he returns in his glory and in the glory of the Father and the holy angels.

26 だれでも私と私のことばとを恥じるのなら、人の子も、自分の栄光と、父と聖なる天使たちの栄光の中に戻るとき、その人のことを恥じます。

27 I tell you the truth, some standing here right now will not die before they see the Kingdom of God.”

27 私はあなた方に本当のことを言います。たったいま、ここに立っている人々の中には神さまの王国を見るまでは死なない人がいます。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第9章です。

第7章以降、イエスさまはガリラヤ地方で伝道活動を行っています。

前回、イエスさまは弟子たちに「人々は私のことをだれだと言っていますか」とたずね、弟子たちは人々がイエスさまを洗礼者ヨハネやエリヤ、あるいは他の預言者のよみがえりだと言っていると伝えました。イエスさまは弟子たちに「ではあなた方は私をだれだと言いますか」とたずね、これにペテロが「あなたは神さまから遣わされた救世主です」と答えます。今回はこの続きです。

今回の部分はマルコとマタイに類似箇所が見つかります。Mark 8:30-9:1(マルコの福音書第8章第30節~第9章第1節)とMatthew 16:20-28(マタイの福音書第16章第20節~第28節)です。

マルコです。「30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。1 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」」([新改訳])。

マタイです。「20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」 23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」」([新改訳])。

いつものように「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この部分は「マルコ」からの採用です。

イエスさまはまず弟子たちにイエスさまが誰なのかを人に明かしてはいけない、と戒めます。そして自分の死についての予告を始めます。イエスさまが自分の死について予告をする場面は福音書の中に全部で三箇所あり、これは最初の予告です。

イエスさまは予告の中で自分を「人の子」と呼び、「人の子」が「多くの酷い事柄を受け」、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから拒絶され」、「殺される」と言います。しかし「人の子」は「三日目に死者の中からよみがえらされる」とも言います。「人の子(the Son of Man)」はイエスさまが自分のことを指すときに「自分は」と言う代わりに最もよく使った呼称です。この言葉は旧約聖書の預言書の中に登場します。「Ezekiel(エゼキエル書)」に多数登場する「人の子」は神さまが預言者エゼキエルに「エゼキエルよ」と呼びかける代わりに使った言葉です。これは「人の子」が「一人の人間」を指す呼称として使われた例です。

これに対して「Daniel(ダニエル書)」の第7章第13節~第14節(Daniel 7:13-14)に登場する「人の子」は趣が異なります。「13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」([新改訳])。 これは預言者ダニエルが見た幻です。イエスさまの時代から600年も前のことです。その中では「人の子のような方」が天の雲に乗って来て、「年を経た方」の前に導かれ、主権と光栄と国が与えられます。つまり「人の子」は天の雲に乗ってやって来て、それから王に任命されるのです。そしてその王国は滅びることがないとされています。

「人の子」はここでは「天の雲に乗って来る」のですが、このフレーズは神さまを想起させます。旧約聖書の中で「雲」が登場するシーンは神さまが顕現するときだからです(モーゼが十戒を授かったときシナイ山が雲に包まれていたように)。つまりイエスさまは旧約聖書を引用して自分を「人の子」と呼んだのです。ユダヤ人は「人の子」と言われたときにはダニエル書のこの部分を思い出します。「人の子」は一人の人間でありながら、雲に乗って天界から現れて神さまから王として油を注がれる存在でもあるのです。

前回、ペテロが「あなたは神さまから遣わされた救世主です」と告白した場面で、これはイエスさまは政治的なリーダーとして立ち、イスラエルをローマ帝国の支配から解放して、ダビデの頃のような偉大な王国を打ち立てるべく、神さまから遣わされた方です、と言っているのだと説明しました。ところがイエスさまはここで、自分は「多くの酷い事柄を受け」、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから拒絶され」、「殺される」と言い出しました。イエスさまはこれからしばらく後にエルサレムで実際に起こる出来事を予告して言っているのですが、これはペテロたちが想定しているシナリオとはまったく異なります。そこでマルコとマタイでは弟子たちの中では年長者でリーダー格のペテロがイエスさまを横へ連れ出し、あなたはこれからイスラエルの王となる方なのですから、そんなばかげたことを言ってはいけませんとイエスさまをいさめます。イエスさまはこれに反駁して「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱責します。ルカではこの部分がすっぽりと抜け落ちています。

このペテロに対する叱責の後にはイエスさまの説教が続きます。

まず一つ目は第23節の「だれでも私の信者になりたいのなら自分本位のやり方をやめて、日々自分の十字架を取り、私について来なさい」です。 ここでイエスさまの信者になる条件として書かれているのは「自分本位のやり方をやめて日々自分の十字架を取る」です。これはどういう意味でしょうか。ここで言われているのは「十字架にかかって死ぬ」ではなくて、[NLT]で使われている表現は「take up your cross」であり、これはマルコ、マタイでは「自分の十字架を負う」と表現されています。またマルコ、マタイには「日々(daily)」と言う言葉はありませんので、これはルカが追加した言葉と理解できます。

「自分の十字架を負う人」は比喩的な言葉ではありません。この当時「自分の十字架を負う人」と言われれば、誰の心の中にもその姿は明らかでした。「十字架刑」はローマ帝国が考案した死刑であり、歴史上、もっとも残虐な死刑と言われています。十字架にかけられるのはローマ帝国が支配する領土に住む異邦人(外国人)で、特にローマ帝国への反逆を企てた人(政治犯・反逆者・煽動者)です。

十字架刑を言い渡された罪人は、自分自身がかけられて処刑されることになる十字架を背負って、処刑地まで運ばなければなりませんでした。これはローマ帝国に対して反逆を企てた者の末路がどうなるか、反逆者に対する残虐な刑の執行を被征服民の間での見せしめとするためです。十字架へのはりつけは人の目に付く大通りに面した場所で行われましたから、重い十字架を背負った死刑囚はたくさんの人々に見られる中、ひとり大通りを歩かされたのです。そのときには死刑囚に向けて周囲の人たちの中から非難やからかいの声が容赦なく浴びせられます。まわりを見ると自分に怒号を浴びせる人々の中には自分の家族も、親戚も、友人たちも含まれているのです。

つまり「自分の十字架を負う人」とは世の中のあらゆる人々から拒絶され、侮蔑され、非難されながら自分の死地へと向かう最悪の「死刑囚」のことです。ローマ帝国から十字架刑を宣告された死刑囚には、ほんの些細なことでさえ自分本位のやり方を選択する余地などありません。イエスさまは、もし自分の信者になりたいと思うのなら、十字架を背負う死刑囚のように、自分本位のやり方をすべて奪われた上、世の中のすべての人からの拒絶を受けるような、そんな覚悟で来なさい、と言っているのです。これはイエスさまの弟子たちの覚悟とはまったく異なります。弟子たちはこれからイスラエルの王となる人の最も近くに仕えることで、イエスさまが王となった暁には高い地位に取り立ててもらおうと目論んでいるのです。

二つ目は第24節の「もしあなた方が自分のいのちにしがみつこうとすれば、あなた方はそれを失う」、「しかしあなた方が私のために自分のいのちを手放すのなら、あなたはそれを救う」です。これはイエスさまの言葉に特有の謎掛けのような言葉です。

まず「自分のいのちにしがみつく」生き方というのは私たちになじみのある生き方です。私たちはいつも「死」を意識し、「死」に脅かされて生きています。人生とは「死」という「最後の瞬間」までに与えられた限られた時間なのだからと、死ぬまでに何を達成するかを計画し、とにかく「死」までに与えられた「いのち」を最大化するために「いのち」にしがみついて生きています。ところがどれだけ「いのち」を最大化しても、最終的には私たちは「それを失う」のです。 しかしイエスさまはそれはアプローチが違うからだと言います。私たちがいのちにしがみつこうとするから、私たちはいのちを失うのだと。そうではなくて、もし私たちがイエスさまのためにいのちを手放すと言う方法を取るなら、私たちはそれを救うことになる、と言うのです。つまりもし私たちが「死」を意識するのではなくて、代わりに神さまに向き直り、神さまの存在をいつも意識して、自己本位のやり方を捨てて、神さまに喜ばれる道を指向し、その目的のために神さまから与えられた「いのち」を使うのなら、「いのち」は失われないと言うのです。それはつまり、神さまが私たち人類を救済するために遣わしたイエスさまを信じ、イエスさまのために自分の「いのち」を使うと言うことになるでしょう。

当時のイスラエルでこの道を選択することは本当に大変でした。いまの日本で「私はイエスさまを信じる」と宣言したとしてどんなリスクがあるでしょうか。しかし当時のイスラエルで同じことをする人が覚悟しなければならなかったのは、自分の暮らすユダヤ社会との決別なのです。旧約聖書の権威を代表する律法学者たちはイエスさまをメシアとは認めずに公然と議論を仕掛け、最後にはイエスさまの殺害を計画します。そんな状況下で自分はイエスさまを信じると宣言すれば、それは律法学者の権威に反抗することになります。そして律法学者と対立すると言うことは、完全に社会から追放されることを意味するのです。同胞のユダヤ人と一緒に住むことも食べ物を買うことも話をすることさえできなくなるのです。ときにはそういう人たちを死んだ人として扱うために葬式まで出したそうです。また「私はイエスさまを信じる」と宣言すれば、それはローマ帝国への反逆者として捕らえられても仕方のないことなのでした。もしイエスさまが逮捕されて反逆者として十字架刑に処せられるのであれば、その人を師として集まる弟子たちはイエスさまの一派としてどのような処罰が待っているかわかりません。だから「私はイエスさまを信じる」と宣言することは、二重の意味で自分の命を捨てることと同じだったのです。

三つ目は第25節の「あなた方が全世界を手に入れたとして、自分自身を失ったり、殺されたりしたら、あなた方は何を得るのですか」です。 二つ目の話と同じです。「死」までの間の「いのち」を最大化しようと努力して、その結果もし「全世界を手に入れたとして」も、最後には「いのち」は失われ、自分自身を失ったり、殺されたりするのです。だとしたらそこに何の意味があるのでしょうか。これはたとえ話ではなくて、結果的に全世界を手に入れられないとしても、そうやって「全世界を手に入れる」ような自分本位の生き方のために「いのち」を使う人、「いのち」の最大化を志す人には、一番最後に「自分自身を失い」「殺される」、そういう最後、つまり「死」が用意されている、と言うことではないでしょうか。自分の「罪(sin)」を認めて神さまに許しを乞わない人は、イエスさまの血による購いが受けられず天国に入ることがかないません。聖書ではそういう人は永遠に消えることのない炎の中に投げ込まれるとされているのです。それが「自分自身を失い」「殺される」、そんな結末を指しているのかも知れません。

四つ目は第26節の「だれでも私と私のことばとを恥じるのなら、人の子も、自分の栄光と、父と聖なる天使たちの栄光の中に戻るとき、その人のことを恥じます」です。ここで注目したいのはまず「人の子」、つまりイエスさまが「戻る」と言っているところです。「戻る」と言うことは、一度どこかに行ってしまうということです。イエスさまはこのときイスラエルの地上に立っていますが、そのイエスさまが一度どこかへ消えてしまうタイミングが来て、それから再びこの地へ「戻る」のです。

そのときイエスさまがどのように「戻る」かと言うと、まず「自分の栄光と、父と聖なる天使たちの栄光の中に」戻ると書かれています。「父」は神さまのことでしょうし、「聖なる天使たち」は天国で神さまを褒め称えるために造られた霊的な存在ですから、「自分の栄光と、父と聖なる天使たちの栄光の中に戻る」と言うのは、イエスさまが、天国に住む神さまと天使たちが持っているのと同じ栄光、つまりは神さまとしての栄光を帯びた形で神さまと天使たちと共に戻って来る、の意味でしょうか。だとするとこれは神さまとしてのイエスさまが再び地上へ戻って来るときの話です。このイエスさまの再来は、今の時点でまだ実現していませんが、イエスさまは、イエスさまの再来を待つこの時代に、誰かがイエスさまやイエスさまの言葉を恥じるようなことをするのなら、自分が戻るときには自分がその人のことを恥ずかしいと思う、と言います。

五つ目は第27節の「たったいま、ここに立っている人々の中には神さまの王国を見るまでは死なない人がいます」です。ここは「死なない」と言う言葉が入っているだけに、いったいイエスさまは、どういう場合に誰が死なないと言っているのか、議論を呼ぶ箇所です。ここで「死なない」の英語は[NLT]では「will not die」となっていて、これは確定している未来の語法でしょう。と言うことは「ここに立っている人々の中」にいるその「死なない人」たちによって、この時点では「神さまの王国」はまだ目撃されていないのです。

では目撃されるまでその人たちが死なない「神さまの王国」とは何か、と言うことになります。ここはオリジナルのマルコではもう少し詳しく「神の国が力をもって到来しているのを見る」と書かれています。では「神の国が力をもって到来する」出来事とは何を指しているのでしょうか。新約聖書の中でこの後に控えている大きなイベントは、時系列で「イエスさまの十字架死」「イエスさまの復活」「イエスさまの昇天」「聖霊の訪れ」、そして「イエスさまの再来」です。このうち終わりの日に起こる「イエスさまの再来」は、この世でまだ起こっていません。何かが力をもって到来する様子を、この場所にいる誰かが身をもって目撃できるとしたら、それは「イエスさまの復活」であり、「聖霊の訪れ」のことでしょう。どちらも神さまの王国の支配の実現を力強く感じさせてくれるイベントです。私は個人的には「聖霊の訪れ」のことなのではないか、と思っています。






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