ルカの福音書:第9章ルカの福音書第8章第26節~第39節:イエスさまが悪魔に取り憑かれた男を癒す

2015年10月24日

ルカの福音書第8章第40節~第56節:イエスさまが信仰に応えて癒す

第8章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Heals in Response to Faith

イエスさまが信仰に応えて癒す


40 On the other side of the lake the crowds welcomed Jesus, because they had been waiting for him.

40 湖の反対側では群衆がイエスさまを歓迎しました。群衆はイエスさまを待っていたのです。

41 Then a man named Jairus, a leader of the local synagogue, came and fell at Jesus’ feet, pleading with him to come home with him.

41 すると地元の会堂の管理者でヤイロという名の人が来てイエスさまの足もとにひれ伏し、一緒に家へ来て欲しいと願いました。

42 His only daughter, who was about twelve years old, was dying. As Jesus went with him, he was surrounded by the crowds.

42 ヤイロの十二歳ぐらいのひとり娘が死にかけていたのです。イエスさまが一緒に行くと、イエスさまは群衆に取り囲まれました。

43 A woman in the crowd had suffered for twelve years with constant bleeding, and she could find no cure.

43 群衆の中に女性がひとりいて、この女性は十二年の間、出血が止まらずに苦しんでいました。女性は治療法を見つけられませんでした。

44 Coming up behind Jesus, she touched the fringe of his robe. Immediately, the bleeding stopped.

44 女性はイエスさまの後ろに近寄ってイエスさまの着物の房飾りに触りました。するとたちどころに出血が止まりました。

45 “Who touched me?” Jesus asked. Everyone denied it, and Peter said, “Master, this whole crowd is pressing up against you.”

45 「私に触ったのは誰ですか」とイエスさまがたずねました。みなが否定しました。そしてペテロが言いました。「先生、これだけの群衆が先生のところへ押しかけているのです。」

46 But Jesus said, “Someone deliberately touched me, for I felt healing power go out from me.”

46 しかしイエスさまは言いました。「誰かが意図的に私に触ったのです。私から癒やしの力が出て行くのを感じました。」

47 When the woman realized that she could not stay hidden, she began to tremble and fell to her knees in front of him. The whole crowd heard her explain why she had touched him and that she had been immediately healed.

47 女性は秘密にしたままではいられないと理解して震え始めました。そしてイエスさまの前にひざまずきました。群衆の全員が女性がどうしてイエスさまに触ったのかの説明と、瞬時に癒されたと言うことを聞きました。

48 “Daughter,” he said to her, “your faith has made you well. Go in peace.”

48 イエスさまは女性に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。安心して行きなさい。」

49 While he was still speaking to her, a messenger arrived from the home of Jairus, the leader of the synagogue. He told him, “Your daughter is dead. There’s no use troubling the Teacher now.”

49 イエスさまがまだ女性に話している間に、会堂管理者のヤイロの家から使いが到着しました。使いはヤイロに言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もはや先生を煩わしても意味はありません。」

50 But when Jesus heard what had happened, he said to Jairus, “Don’t be afraid. Just have faith, and she will be healed.”

50 しかしイエスさまは何が起こったかを聞くとヤイロに言いました。「恐れてはいけません。ただ信じなさい。そうすれば娘は治ります。」

51 When they arrived at the house, Jesus wouldn’t let anyone go in with him except Peter, John, James, and the little girl’s father and mother.

51 一行が家に着くと、イエスさまはペテロとヨハネとヤコブ、それと娘の父と母を除いては誰も一緒に中へ入らせませんでした。

52 The house was filled with people weeping and wailing, but he said, “Stop the weeping! She isn’t dead; she’s only asleep.”

52 家は涙を流し泣き叫ぶ人でいっぱいでしたが、イエスさまは言いました。「泣くのをやめなさい。娘は死んでいません。眠っているだけです。」

53 But the crowd laughed at him because they all knew she had died.

53 しかし人々はイエスさまを笑いました。みな娘が死んだことを知っていたからです。

54 Then Jesus took her by the hand and said in a loud voice, “My child, get up!”

54 それからイエスさまは娘の手を取って大きな声で言いました。「私の子供よ、起きなさい。」

55 And at that moment her life returned, and she immediately stood up! Then Jesus told them to give her something to eat.

55 その瞬間、娘の命が戻り、娘は即座に立ち上がりました。イエスさまは娘に何か食べるものを与えるように彼らに命じました。

56 Her parents were overwhelmed, but Jesus insisted that they not tell anyone what had happened.

56 娘の両親は圧倒されてしまいましたが、イエスさまは何が起こったかを二人が誰にも話さないようにと命じました。




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第8章です。

第7章以降、イエスさまはガリラヤ地方で伝道活動を行っています。前回の最後で一行はガリラヤ湖の反対側から舟で帰ってきました。群衆はイエスさまの帰りを待ちわびていて、到着するとすぐにイエスさまのまわりに集まってきました。

前半部分、第48節までの箇所はMark 5:21-34(マルコの福音書第5章第21節~第34節)、及びMatthew 9:18-22(マタイの福音書第9章第18節~第22節)とほぼ同じです。

マルコです。「21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」 24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」」([新改訳])。

マタイです。「18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」 19 イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。20 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。21 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。22 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、このたとえ話は「マルコ」からの採用となります。今回の箇所は「マルコ」を読むと場面の様子がよくわかります。「マタイ」はかなり簡略化しています。

イエスさま一行は再びガリラヤ湖を渡り、出発地点(おそらくカペナウム)へ戻ってきました。するとすぐにたくさんの群衆がイエスさまを取り囲みます。

第41節、そこへヤイロという人物が現れます。英語ではこの人物の名前は「Jairus」で、「ジャイラス」と発音されます。「ヤイロ」とはかなり異なります。 ヤイロは「地元の会堂の管理者」です。会堂(シナゴーグ)はユダヤ民族の町や村にある施設で、週末の安息日(土曜日)にはすべての男性がそこに集まって祈りを捧げ、聖書の勉強のために律法の先生から話を聞きました。平日は年少者のための学校として使われていました。揉め事や争いごとがあれば、律法に沿って解決する場所はやはり会堂でした。会堂はユダヤ民族の生活の中心だったと思います。日本の「お寺」のようなイメージではありますが、ユダヤ教では寺院はエルサレムにひとつだけしかありません。

ヤイロはおそらく、ある共同体で会堂の管理を任されていた人ですから、人々の尊敬を集める誇り高い仕事に就いていた人です。会堂は聖書を教える場所ですから、「死」に関する理解も、聖書の教えに基づいて誰よりもよくわかっていたはずです。が、実際に自分の娘が死にかけると、それを宗教的に素直に受け入れることを拒み、娘の命を救うためにイエスさまのところへ出てきました。

当時、会堂に招かれて聖書の朗読や解説を担当していた律法の先生はほとんどがファリサイ派の所属でしたから、ヤイロのような会堂指導者はファリサイ派と強い結びつきを持っていたのが常でした。しかしこの場面ではファリサイ派がイエスさまを危険視し始めている状況下で、大勢の人たちが目撃している前でヤイロはイエスさまの足もとにひれ伏し、一緒に家へ来て欲しいと乞うています。これは自分の会堂管理者としての立場はもちろんのこと、共同体の一員としての立場までもを危うくする行動なのです。勇気ある行動と呼ぶよりも、自分の死にかけた娘を助けたい一心で藁にもすがる気持ちで行動に踏み切ったのではないでしょうか。なお、「マルコ」「ルカ」では、ヤイロは死にかけた娘を救うために来ていますが、「マタイ」では「たったいま私の娘が死にました」と死んでから出てきたことになっています。

第42節、イエスさまはヤイロの信仰を見てとって、ヤイロと一緒に行くことにします。

第43節、ヤイロの家に向かい始めた一行のまわりに押し寄せた群衆の中に、12年間も出血が止まらずに苦しんでいる女性が登場します。恐らく月経か子宮の機能障害ではないかと思われます。女性のこのような症状について旧約聖書に定めがあり、実はこの女性は律法によると人と接触してはいけないのです。律法では女性の生理は「汚(けが)れ」にあたり、生理の期間でないのに出血がある場合にも、それは同じように「汚れ」になります。少し長いですが、Leviticus 15:19-27(レビ記第15章第19節~第27節)を引用します。

「19 女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。20 また、その女の月のさわりのときに使った寝床はすべて汚れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。21 また、その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。22 また、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。23 その女の床であっても、すわった物であっても、それにさわった者は夕方まで汚れる。24 また、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる。彼が寝る床もすべて汚れる。25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。27 これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。」([新改訳])。

この女性はまさしくここに書かれているように月経の期間でもないのに出血が続いていたのですから律法上は常に「汚れた」存在として扱われ、共同体の他の人と交わることがほとんどできないのでした。女性はその状態が12年も続いているのです。女性はこの律法をよく知っていながら、押し合いへし合いする群衆の中を進み、イエスさまの後ろへ迫ります。「もしあの方の着物に触りさえすれば私の病は癒される」という信念だけが女性を動かしているのです。イエスさまに到達するまでの間、群衆の中をかき分けて進んだために、女性はたくさんの人に触れたことでしょう。これらの人々は律法では同じように「汚れ」の状態となったのです。

そしてついに女性はイエスさまに追いついて、イエスさまの着物の「房飾り(ふさかざり)」に触れました。「ふさ(fringe)」は、やはり律法で身につけることが義務づけられている装飾です。たとえば、Numbers 15:38(民数記第15章第38節)には、「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。」([新改訳])と書かれているように、当時のユダヤ人の着物の端には房飾りがついていたのです。ちなみにファリサイ派は、この房飾りを必要以上に大きくして、人々の注目を集めようとしていました。Matthew 23:5(マタイの福音書第23章第5節)です。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」([新改訳])。

女性がイエスさまのふさ飾りに触れた瞬間、女性の12年の病気は癒されてしまいました。女性にはその治癒が体感できたのです。12年間患い苦しんできた病が、瞬時に治るのを感じる、これはきっととんでもなく素晴らしい体験だと思います。

ところがあろうことか第45節、目の前のイエスさまが突然振り向き、「私に触ったのは誰ですか?」とたずねました。 弟子たちは、自分たちの師はいったい何を言い出すのだろうといぶかります。ペテロは「先生、これだけの群衆が先生のところへ押しかけているのです。」と言っています。たくさんの人が押し合いへし合い、イエスさまにぶつかっているのです。それなのに「だれがわたしの着物にさわったのですか」の質問はないでしょう。質問の意味がわかりません。

しかし第46節、イエスさまは言い続けます。「誰かが意図的に私に触ったのです。私から癒やしの力が出て行くのを感じました。」 イエスさまはたくさんの人が押し合いへし合いしていく中で、自分の中から癒しの力が出ていくのを感じました。イエスさまに本当に「触れる」という行為、それはただイエスさまに物理的に接触することとは異なる、イエスさまから治癒の力を引き出す「真の接触」なのです。女性はイエスさまの着物の縁に着いているふさ飾りに、ほんのちょっとだけ触れるだけで良かったのです。他の人たちがドスンドスンと乱暴にぶつかっていく中で、イエスさまはこの女性の「触れる」ことにだけは特別な意味で気づいたのでした。私たちもこの女性のように神さまに触れることを追求しめなければなりません。神さまからの祝福や守りや導きを求めるのなら、神さまからそれらを引き出すような真の接触をしなければなりません。

第47節、一方の女性はイエスさまの言葉を聞いて怖くなります。自分はとにかく必死の思いでイエスさまに到達し、房飾りに触れたことで病が治癒したけれど、冷静に考えてみれば自分は律法で禁じられているタブーを犯したのですから罰せられても当然です。周辺からたくさんの群衆が集まっていましたから、きっとこの女性の病のことを知っていた人も何人かは含まれていたでしょう。女性は突然振り向いたイエスさまに驚愕し、「私に触ったのは誰ですか」と言う言葉に観念し、恐れおののきながらその場にひざまずいて真実を告げました。その話は群衆の全員が聞いたのです。

第48節、観念して足下で震えている女性にイエスさまは言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。安心して行きなさい。」 イエスさまを信じる気持ち、ただひとりイエスさまに希望を託してすがりつこうとする気持ち、自分を律法違反さえ気にもとめない大胆な行動にまで結びつけたもの、イエスさまの背中を追いかけて、この女性を突き動かし続けたたもの、それが信仰なのです。その信仰があったから、あなたの病は治ったのだ、とイエスさまは告げます。

さて娘が死にかけている会堂管理者のヤイロは、遅々として進まないイエスさま一行にヤキモキしていたのに、途中で後ろからイエスさまに触れる女性が現れて、これでしばらくの間、群衆の前進が止まってしまいました。ヤイロは、あぁ、早くしてくれ、早くしてくれと、居ても立ってもいられないような状態だったことでしょう。

後半の第49節以降の箇所はMark 5:35-43(マルコの福音書第5章第35節~第43節)、及びMatthew 9:23-26(マタイの福音書第9章第23節~第26節)とほぼ同じです。

マルコです。「35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」 40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。) 42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。」」([新改訳])。

マタイです。「23 イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、24 言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。25 イエスは群衆を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。26 このうわさはその地方全体に広まった。」([新改訳])。

前半部分では、12年間も苦しんできた出血の病が癒された女性にイエスさまが「娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。安心して行きなさい」と話したところで終わりました。第49節はそこへ会堂管理者のヤイロの家から使者が到着するところから始まります。使者は告げます。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もはや先生を煩わしても意味はありません。」  これを聞いたヤイロはどう思ったでしょうか。自分の人生をなげうってでも救いたいと思っていた娘なのです。ところがその娘は死んでしまいました。間に合わなかったのです。ヤイロは深い悲しみと失望に襲われ、どうしようもなくてやりきれない気持ちで満たされたことでしょう。身体の力が抜けてがっくりと膝をつくヤイロの姿が目に浮かぶようです。

ところが第50節、イエスさまはそれを近くで聞いていてヤイロに告げます。「恐れてはいけません。ただ信じなさい。そうすれば娘は治ります。」 これは恐れている人、失望している人、迷っている人、悩んでいる人、すべての人に向けられたメッセージだと思います。がっくりと膝をついて泣きたい気持ちになっている自分にイエスさまは「恐れるな。ただ信じなさい」と言っています。でもいったい何を信じるのでしょうか? それは全知全能の神さまです。私たちがどんな状況にあっても、神さまはいつも変わらずに正しく、時間も空間も超越してそこに存在し続け、惜しみなく私たちのことを考えて愛してくださいます。そして神さまは神さまを信じる人ひとりひとりに最良の計画を用意してくださっているのです。だから私たちは恐れずにただ神さまだけを信じればいい、とイエスさまは言うのです。

第51節、一行がヤイロの家に到着すると、イエスさまは家の中へ同行させる弟子をペテロとヨハネとヤコブの三人に絞ります。この三人は十二使徒の中でも側近の三人です。三人はこの他にも数々のイエスさまの奇跡に立ち会っています。

第52節、ヤイロの家は娘の死を嘆き悲しむ人々で満ちています。家全体が涙と泣き声に包まれています。しかしイエスさまは「泣くのをやめなさい。娘は死んでいません。眠っているだけです。」と言います。これは第53節で人々の失笑を買っています。

第54節、イエスさまは側近の三人と少女の両親だけを連れて少女のいる部屋へ入り(マルコより)、娘の手を取ります。旧約聖書の律法では死者に触れたものは宗教上の汚れを受けるとなっていますから、イエスさまが自身の手を伸ばして娘の手に触れる行為は三人の弟子と両親には大変な衝撃だったはずです。

イエスさまはかまわず娘に呼びかけます。「私の子供よ、起きなさい。」 すると第55節、イエスさまが呼びかけた瞬間に娘は息を吹き返し、即座にその場に立ち上がりました。第56節で両親は目の前の光景に圧倒されて言葉も出ません。確かに死んだはずの娘が生き返り、その場に立ち上がったのです。死の間際の少女はきっと病気で死にかけて弱々しい姿だったはずです。ところがマルコによれば立ち上がった少女は人々の目の前を健康な姿で生き生きと歩いているのです。 さっきまでの嘆きや悲しみや涙はいったいなんだったのでしょうか。自分たちが「ああ死が訪れた」「これでもう終わりだ」と思った絶望感が、実は間違いだったと知ったのです。もしかしたら自分たちはもう死の恐怖に怯える必要はないのかも知れません。人々はイエスさまの中に光や希望を見たのです。

死者の復活ほど衝撃的な奇跡の場面はないでしょう。確かに死者の蘇りそのものは旧約聖書の中にも書かれていますから、聖書を取り扱う会堂管理者のヤイロやその家族がそれを知らないわけはありません。ですがそれが実際に目の前で起これば、その事実は圧倒的な力を持ちます。イエスさまは死者に呼びかけて生き返らせることができるのです。福音書に書かれているイエスさまによる死者復活の奇跡は、この他にはナインの村の未亡人の息子とベタニアのラザロの例だけで、今回と合わせてたった三カ所だけです。

イエスさまは死者をよみがえらせることができるのに、死者を次々とよみがえらせることはしませんでした。つまり死者をよみがえらせることはイエスさまにとって最優先の課題ではないのです。私たちにとって「死」は深刻な問題です。いえ、「死」こそが私たちにとってのもっとも深刻な問題だと言ってもいいでしょう。ところがイエスさまは「死」に重要な意味を与えていません。私たちが「すべてのおしまい」「完全なる終わり」と思っていた未亡人の息子や、ヤイロの娘や、ベタニヤのラザロをイエスさまはいとも簡単にこの世へ呼び戻してしまうのです。イエスさまから見ると「死の後」を「死の前」へつなげ直すことはいともたやすいことなのです。神さまから見た「死」と私たちの考える「死」は違うのです。

だとするとイエスさまが人々の前で死者をよみがえらせる奇跡を行った理由はなんでしょうか。それは自分が神さまの元から来ていることを人々に証明するためのデモンストレーションの目的だと思います。そうであれば三回行えば十分と言うことでしょう。同じ奇跡を三回再現して見せれば、証拠能力としては十分です。そして死者復活の奇跡ほど自分が神さまの元から来たことの裏付けとして説得力を持つ奇跡はないでしょう。

イエスさまにとって死者をよみがえらせることよりも大切なこと、イエスさまの伝道活動の主題は他にあります。イエスさまには人々に伝えなければいけないもっと大切なことがあるのです。聖書にも「死」はあります。聖書によると「死」の意味は「分離」なのです。たとえば私たちの考える「死」は、「肉体」と言う仮の宿に住んでいた「魂」が、「肉体」から分離するイベントを指すようです。いのちを司るイエスさまは一度分離した魂を再度、元の肉体へ宿らせることができるのです。聖書には本当の「死」が書かれています。これはは私たちの考える「死」よりも、もっともっとずっと後に訪れるのです。聖書に書かれている本当の「死」は、私たちひとりひとりの存在そのものである私たちの「魂」が「神さま」から分離されるタイミングを言うのです。

神聖な存在である神さまは天国にいて、私たち人間を最終的にそこへ迎えようとしています。しかし汚(けが)れのある魂は、その汚れゆえに神聖な天国へ入ることができません。ここで分離が起こるのです。つまり人間の魂は汚れをすっかり浄化されて天国入りを許される魂と、汚れゆえに天国へ入ることが許されない魂に二分されるのです。そして天国入りが許可されない魂は神さまから分離されて地獄へ落とされるのです。天国へ入る魂は神さまの元へ行くのですから神さまとの分離は起こりません。つまり「死なない」ということです。地獄へ落とされる魂だけが「本当の死」を経て神さまから切り離されるのです。

魂は永遠を生きる存在のようです。つまり私たちが考える「死」までの「人生」とか「寿命」と言う限られた時間とは比べることのできないほどの長い長い時間がその先に待っていると言うことです。その長い長い時間を神さまと天国で過ごすのか、あるいは地獄の苦しみの中で過ごすのか、それを決めるのは神さまなのであり、そのイベントが「最後の裁き」です。 イエスさまが私たちに伝えたい大切なことはこれです。私たちが真に畏れなければならないのは私たちが考える「死」ではなくて、最終的に魂の行き先を決めることができる神さまなのです。

イエスさまは娘の両親に、起こったことを誰にも伝えないようにと告げていますが、死んだはずの娘がみなの前を元気に歩いているのですから、何が起こったかは推して知るべしです。いったい「死」とは何なのか。聖書に基づく「死」の考え方は日頃から聖書に親しんでいるユダヤ人にさえも、きっと正しく伝わることはないのでしょう。少女に対してイエスさまが行ったことは死者を復活させる奇跡の蘇生術として、その部分だけが誇張されて伝えられていくのが関の山なのです。だからイエスさまはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じたものと思います。






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