ルカの福音書:第8章ルカの福音書第7章第18節~第35節:イエスさまと洗礼者ヨハネ

2015年10月25日

ルカの福音書第7章第36節~第50節:イエスさまが罪深い女性により油を注がれる

第7章




(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Anointed by a Sinful Woman

イエスさまが罪深い女性により油を注がれる


36 One of the Pharisees asked Jesus to have dinner with him, so Jesus went to his home and sat down to eat.

36 ファリサイ派の人がひとり、イエスさまと一緒に食事をしたいと頼みましたので、イエスさまはその人の家へ行き、食べるために席に着きました。

37 When a certain immoral woman from that city heard he was eating there, she brought a beautiful alabaster jar filled with expensive perfume.

37 その町に身持ちの悪い女性がひとりいて、イエスさまがそこで食事をしていると聞くと、高価な香料で一杯の美しい石膏のつぼを持って来ました。

38 Then she knelt behind him at his feet, weeping. Her tears fell on his feet, and she wiped them off with her hair. Then she kept kissing his feet and putting perfume on them.

38 そして女性はイエスさまの後ろの足下に涙を流しながらひざまずきました。女性の涙がイエスさまの足に落ち、女性はそれを髪でぬぐいました。女性はイエスさまの足に何度も口づけをして、香料を塗り続けました。

39 When the Pharisee who had invited him saw this, he said to himself, “If this man were a prophet, he would know what kind of woman is touching him. She’s a sinner!”

39 イエスさまを招いたファリサイ派の人はこれを見て独り言を言いました。「もしこの人が預言者だとしたら、どんな女が自分に触っているかがわかるだろう。この女は罪人なのだから。」

40 Then Jesus answered his thoughts. “Simon,” he said to the Pharisee, “I have something to say to you.” “Go ahead, Teacher,” Simon replied.

40 するとイエスさまはファリサイ派の想念に答えて彼に言いました。「シモンよ、あなたに言うことがあります。」 シモンは答えました。「先生、どうぞお話しください。」

41 Then Jesus told him this story: “A man loaned money to two people -- 500 pieces of silver to one and 50 pieces to the other.

41 イエスさまはこの話をしました。「ある人が二人の人に金を貸しました。ひとりには銀貨を500枚、もうひとりには50枚です。

42 But neither of them could repay him, so he kindly forgave them both, canceling their debts. Who do you suppose loved him more after that?”

42 ですがどちらも彼に返すことができませんでしたので、彼は親切にも負債を帳消しにして二人とも許してあげたのです。あなたはその後、どちらがより金貸しを愛したと思いますか。」

43 Simon answered, “I suppose the one for whom he canceled the larger debt.” “That’s right,” Jesus said.

43 シモンが答えました。「私はより多くの負債を帳消しにしてもらった方だと思います。」 イエスさまは言いました。「そのとおりです。」

44 Then he turned to the woman and said to Simon, “Look at this woman kneeling here. When I entered your home, you didn’t offer me water to wash the dust from my feet, but she has washed them with her tears and wiped them with her hair.

44 それからイエスさまは女性の方を向いてシモンに言いました。「ここにひざまずいているこの女性を見なさい。私があなたの家に入って来たとき、あなたは足の土を洗う水をくれませんでしたが、この女性は涙で私の足を洗い、髪でぬぐってくれました。

45 You didn’t greet me with a kiss, but from the time I first came in, she has not stopped kissing my feet.

45 あなたはあいさつの口づけをしてくれませんでしたが、この女性は最初に私が入って来たときから私の足に口づけすることをやめませんでした。

46 You neglected the courtesy of olive oil to anoint my head, but she has anointed my feet with rare perfume.

46 あなたは私の頭に油を塗る礼儀を怠りましたが、彼女は私の足に高価な香料を塗ってくれました。

47 “I tell you, her sins -- and they are many -- have been forgiven, so she has shown me much love. But a person who is forgiven little shows only little love.”

47 私はあなたに言います。彼女の罪は、それはたくさんあるのですが、許されました。それで彼女は私に多くの愛を示してくれたのです。しかし少ししか許されない者は、ほとんど愛を示さないのです。」

48 Then Jesus said to the woman, “Your sins are forgiven.”

48 そしてイエスさまは女性に言いました。「あなたの罪は許されています。」

49 The men at the table said among themselves, “Who is this man, that he goes around forgiving sins?”

49 食卓にいた人たちは心の中で言いました。「罪を許して回るこの人はいったい誰なのか。」

50 And Jesus said to the woman, “Your faith has saved you; go in peace.”

50 イエスさまは女性に言いました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第7章です。

第7章からイエスさまはガリラヤ地方で伝道の活動を行っています。

今回の部分は「ルカ」だけに見つかります。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはルカ独自の資料と言うことになります。

ある日、ファリサイ派の人がイエスさまを食事に招きます。ファリサイ派は当時存在した政治結社の名前で、イスラエルの最高議決機関であるサンヘドリンにも議席を持っていました。福音書に「律法の先生」として登場する人たちはほぼファリサイ派に所属していると思われます。と言うのもファリサイ派は旧約聖書に記載された律法と、口頭で伝承されて来ている慣習法の権威とされ、合計で600件以上あるとされる律法上のルールをすべて遵守していると自負する保守的な派閥の人たちなのです。庶民は厳格に律法を守るファリサイ派を尊敬のまなざしで見ますが、イエスさまは「偽善者め」と公然と批判します。

イスラエルはローマ帝国支配下の属領のひとつですから、最高議決機関とは言ってもローマ帝国から限定的な範囲で自治権の一部を託されている立場です。これはローマ帝国流の属国支配のやり方のひとつで、征服民の怒りや不満の矛先が直接ローマ帝国に向かないようにいろいろと工夫しているのです。限定的とはいえ、それなりの権威ある立場がローマ帝国から約束されている状況なので、ファリサイ派は既得権益を守るために国内の安定に目を配ります(ローマ帝国の思うつぼです)。国のどこかで誰かが人を集めているという噂を聞けば、現場へ人を派遣して様子を見させます。もし武装蜂起などに発展して、これをローマ軍が出動して鎮圧するなどという事態になれば、治安管理能力なしと判断されて、せっかくの自治権を取り上げられてしまうかも知れません。なので危険な芽は早めに摘み取っておきたいのです。

荒野で警告の声を発して人を集めた洗礼者ヨハネのところにもファリサイ派は現れました。ガリラヤでイエスさまのまわりに人が集まり始めると、周囲をファリサイ派やサドカイ派がウロウロし始めます。今回イエスさまを食事に招いたファリサイ派の人も、イエスさまの人物を見定めるための行動の一貫なのでしょう。なお、安息日に会堂で行われる集会で説教をした巡回のラビ(先生)を自宅に招いて食事を共にするのは名誉なことだったようですので、これはおそらく安息日の集会の後の出来事ではないでしょうか。

イエスさまはこのファリサイ派の人に「シモン」と呼びかけています。これはユダヤ人の一般的な名前のひとつで、旧約聖書ではシメオンと表記されます。イエスさまの弟子のペテロも、イエスさまからペテロと命名される前の名前はシモンです。そのファリサイ派のシモンの家で食事をしているところへ、町で噂になっている身持ちの悪い女性が入ってきます。シモンはこの人を「罪人」と呼びますが、女性で「罪人」と呼ばれるのは娼婦だろうと思われます。女性は高価な香油の入った壺を持ってきていて油をイエスさまの足に塗ります。後でイエスさまがコメントしていますが、相手の身体に香油を塗るという行為は敬意の表明にあたるようです。

第39節、シモンは「もしこの人が預言者だとしたら、自分に触れているのが罪人だとわかるはずだ」と言っています。これは修辞表現で、本当のところは「だからこの人は預言者ではない」と言いたいのです。ファリサイ派はあらゆる律法を厳密に守ることで自分たちは神さまの目に正しく映っていると、つまり自分たちには神さまの視点での汚(けが)れはまったくなく、だからこそ確実に天国に迎えられると信じている人たちです。そしてこの理由からもファリサイ派はとにかく汚れることを忌み嫌います。娼婦のような汚れた罪人に触れることなど言語道断なのです。そんなことをしたら自分まで汚れてしまうからです。同じユダヤ人であればイエスさまも同様に汚れを嫌うはずとシモンは考えます。それなのにこの女性が娼婦であることさえ見抜けないのなら、イエスさまが預言者であるという噂はきっと嘘なのだな、と独り言を言っているのです。

イエスさまはファリサイ派の独り言を察知して、たとえ話をします。イエスさまはいつもずばり真実を告げるのではなく、たとえ話をするのです。今回は銀貨500枚分の借金と銀貨50枚分の借金をそれぞれ帳消しにしてもらった人たちの話です。負債を帳消しにした金貸しは神さまのことでしょう。私たち人間には神さまに対して「罪」という負債があるのです。どうやら人間が抱える負債の大きさは、ひとそれぞれで違うようです。神さまに許してもらわなければいけないことがたくさんある人もいれば、少しある人もいる、そういう状態のようです。ただ汚れの量に多少の違いがあったとしても、汚れていることに変わりはありませんから、どの人もそのままの状態では神聖な天国に入ることができないのは同じです。

この話では負債の大きさが問題になっています。大きな負債を帳消しにしてもらった人と、小さな負債を帳消しにしてもらった人、どちらが神さまをより多く愛するだろうか、という話です。たとえば殺人の罪を許してもらった人と、万引きの罪を許してもらった人、どちらが神さまを愛するだろうか、というような話です(注意:これは私があくまでもたとえ話をわかりやすく書こうと試みただけで、神さまが本当に殺人の罪を万引きの罪よりも重く評価するかどうかはわかりません)。シモンはイエスさまの問いに多額の借金を帳消しにしてもらった方だと回答し、イエスさまはそれが正解だと言います。

ここからイエスさまはどれほどこの女性が自分への愛を示してくれたか、逆にどれほどシモンは敬意の行為を怠ったかを説明します。シモンがイエスさまに敬意を表明しなかったのは当然です。シモンは敬意からイエスさまを食事に招いているのではなく、イエスさまの人物を確認するための調査が目的だからでしょう。もともとイエスさまを疑ってかかっているのですから、そんなイエスさまをもてなす理由がありません。

イエスさまは第47節ですごいことを言われます。「彼女の罪は。それはたくさんあるのですが、許されました。それで彼女は私に多くの愛を示してくれたのです。しかし少ししか許されない者は、ほとんど愛を示さないのです。」  なんと神さまに許してもらった罪が大きければ大きいほど、その人は多くの愛を示すと言うのです。世の中で大きな声で神さまを褒め称えて、神さまへの愛をたくさんたくさん示している人、自分を愛するのと同じように他者への愛をたくさん示している人、こういう人は神さまから許していただいた罪がとても大きいということになります。これはなんだか不思議な感じです。クリスチャンであることを大々的に実践できている人ほど、神さまから許していただいた罪が大きい、ということですから。これは先に「神さまが本当に殺人の罪を万引きの罪よりも重く評価するかどうかはわかりません」と書きましたが、罪の大小をどのように評価するかは神さまが決めるものですし、またそれは許していただいた本人と神さまとの関係で決まるもののような気もします。

ですがここで何よりも大切なのは、第47節の「彼女の罪は許されました」の部分は「her sins have been forgiven」と現在完了形で書かれているところで、つまり罪の許しはこの時点ですでに完了、完結しているのです。イエスさまが女性に「あなたの罪は許された」と言うので、第49節、食卓にいた人たちは心の中で「罪を許して回るこの人はいったい誰なのか」と言います。聖書の世界では罪を許せるのは神さまだけです。なのでこの部分は「罪を許す」などと公然と言って自分を神さまと同格に扱うとは、この人はなんという罪深い冒涜を働くのか、と言う意味で憤っているのです。イエスさまはたとえ話の中でも借金を棒引きにする寛大な金貸しを登場させ(これは神さまのことだと書きました)、その後で女性が愛を示した対象として自分を引き合いに出して話を続けているのですから、ここでも自分を神さまと同格に扱っているようなものです。ですがファリサイ派はたとえ話の意味を理解できていません。

第50節、イエスさまが女性に言います。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」 聖書では信仰を行動に結びつけた人が救われます。そしてその人には神さまから「peace(安心・平安)」が送られます。 ここでも「あなたの信仰があなたを救った」の部分は「Your faith has saved you」と現在完了形になっていますから、つまり女性の罪の許しが実行されたのは、女性が自身の信仰を行動につなげた瞬間だったのかも知れません。これは大変興味深い点です。

さて最後に余談をひとつ。最初に今回の部分は「ルカ」だけに見つかる話だと書きましたが、高価な香料をイエスさまに注ぐ女性の話は四つの福音書すべてに登場するのです。

マルコはMark 14:1-9(マルコの福音書第14章第1節~第9節)です。

「1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」([新改訳])。

マタイはMatthew 26:6-13(マタイの福音書第26章第7節~第13節)です。

「6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、7 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」 10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」([新改訳])。

ヨハネはJohn 12:1-8(ヨハネの福音書第12章第1節~第8節)です。

「1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」([新改訳])。

いかがでしょうか。「マルコ」と「マタイ」の話はほぼ同じ話なので、「マタイ」は「マルコ」から引用されたのでしょう。話には共通点が多いです。時期はイエスさまが十字架に掛けられる直前ですし、場所はエルサレムのすぐ近くのベタニヤの村です。また香油はイエスさまの埋葬の目的で注がれていて、高価な香油を無駄にしたと憤慨する人が登場しています。おそらく同じひとつの話から分離してそれぞれの話ができたのでしょう。そうなるとガリラヤ地方のファリサイ派の人の家を舞台にした「ルカ」だけが独自の構成になっている形です。が、「マルコ」と「マタイ」の話の舞台が「ツァラアトに冒された人シモンの家」と、ルカと同じシモンの名前が出ていたりしますから、「マタイ」を読んだルカが、別に「Q資料」から見つけた「借金を帳消しにするたとえ話」と合体させて、ひとつの話に構成した結果なのかも知れません。だとするとルカの構成力と言うのはすごいし、素晴らしいです。医者であり、歴史家であったルカが聖霊の導きを得て、自身の能力を最大限に発揮して行った預言と言うことなのでしょう。






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