ルカの福音書第6章第27節~第36節:敵への愛ルカの福音書第6章第12節~第16節:イエスさまが十二人の使徒を選ぶ

2015年10月26日

ルカの福音書第6章第17節~第26節:群衆がイエスさまについて行く、幸福の教え、悲しみが予告される

第6章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Crowds Follow Jesus

群衆がイエスさまについて行く


17 When they came down from the mountain, the disciples stood with Jesus on a large, level area, surrounded by many of his followers and by the crowds. There were people from all over Judea and from Jerusalem and from as far north as the seacoasts of Tyre and Sidon.

17 一行が山から下りてくると、弟子たちはイエスさまと共に広くて平らなところに立ちました。まわりをたくさんの弟子と群衆が取り囲みました。人々はユダヤ全体から、そしてエルサレムから、さらにははるか北方のツロやシドンの沿岸から来ていました。

18 They had come to hear him and to be healed of their diseases; and those troubled by evil spirits were healed.

18 人々はイエスさまの教えを聞き、病気を癒してもらうために来たのでした。そして邪悪な霊に悩まされていた人たちも癒されました。

19 Everyone tried to touch him, because healing power went out from him, and he healed everyone.

19 みながイエスさまに触れようとしていました。と言うのは癒やしの力がイエスさまから出て、すべての人を癒したからです。



The Beatitudes

幸福の教え


20 Then Jesus turned to his disciples and said, “God blesses you who are poor, for the Kingdom of God is yours.

20 それからイエスさまは弟子たちの方を向いて言いました。「神さまは貧しいあたなたちを祝福します。なぜなら神さまの王国はあなた方のものだからです。

21 God blesses you who are hungry now, for you will be satisfied. God blesses you who weep now, for in due time you will laugh.

21 神さまはいま飢えているあなたたちを祝福します。なぜならあなた方は満たされるからです。神さまはいま泣くあなた方を祝福します。なぜなら時が満ちてあなた方は笑うからです。

22 What blessings await you when people hate you and exclude you and mock you and curse you as evil because you follow the Son of Man.

22 あなた方が人の子に従ったことで邪悪であるとされ、人々があなた方を憎むとき、除名するとき、あざけり笑うとき、ののしるとき、どれほどの祝福があなた方を待ち受けていることか。

23 When that happens, be happy! Yes, leap for joy! For a great reward awaits you in heaven. And remember, their ancestors treated the ancient prophets that same way.

23 それが起こるときには喜びなさい。そうです喜びで跳び上がりなさい。なぜなら天に大いなる報酬が待っているからです。覚えておきなさい。彼らの父祖たちも古来の預言者たちを同じようにあしらったのです。



Sorrows Foretold

悲しみが予告される


24 “What sorrow awaits you who are rich, for you have your only happiness now.

24 富んでいるあなた方を、どれほどの悲しみが待ち受けることか。なぜならあなた方は唯一の幸せをいま手にしているからです。

25 What sorrow awaits you who are fat and prosperous now, for a time of awful hunger awaits you. What sorrow awaits you who laugh now, for your laughing will turn to mourning and sorrow.

25 いま肥えて繁栄しているあなた方をどれほどの悲しみが待ち受けていることか。なぜなら恐ろしい飢餓があなた方を待ち受けているからです。いま笑うあなた方をどれほどの悲しみが待ち受けていることか。なぜならあなた方の笑いは嘆きと悲しみに変わるからです。

26 What sorrow awaits you who are praised by the crowds, for their ancestors also praised false prophets.

26 群衆に賛美されるあなた方をどれほどの悲しみが待ち受けることか。なぜなら彼らの父祖たちも偽の預言者たちを賛美したからです。




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第6章です。

前回の部分でイエスさまは祈るために山に登り、一晩中、神さまにお祈りをしてから弟子たちを呼び集め、十二人を使徒として選び出しました。第17節は一行が山から下りて来るところから始まりますが、これは十二人の使徒を選んだ後の出来事ということでしょう。すぐにたくさんの人たちがイエスさまのところへ集まってきます。人々は相当な遠方から来ており、イエスさまの話やイエスさまの癒やしの奇跡を求めているのです。

この後に続くイエスさまの話はマタイの第5章~第7章に記された「山の上の説教」を思い起こさせますが、必ずしも対応関係にあるわけではないようです。ルカが自分なりの解釈でまとめあげたものという説や、あるいは同様の説教はあちこちで行われたのだろうから、マタイとルカはそれぞれ別の機会の説教を収録したのだという説もあります。マタイに記されているのは「山の上の説教」ですが、ルカの説教は第17節にあるように「広くて平らなところ」で行われています。

マタイにもある「神さまは~の人を祝福します」の言葉の連なりは特に「Beatitudes」(「ビアティチュード」と発音)と呼ばれています。ただし一般的に「Beatitudes」と言えばそれはマタイの「山の上の説教」の言葉を指すようです。研究社の新英和中辞典第6版でも「Beatitudes」を「八福」と訳した上で、これを「キリストが山上の垂訓中に説いた八つの幸福の教え;「マタイによる福音書」第5章第3節~第12節」と説明しています。

「祝福します」の「bless」と言う単語は新和英中辞典には「〈神が〉〈人などに〉恵みを授ける、祝福する」の意味だと書かれています。一般的には[新改訳]にあるように「~は幸いです」と訳されますが、それだとその「幸い」がどこから来ているのかが不明瞭です。実は「幸い」と言うのは、そもそも神さまが人を祝福するところから来ているのだ、と言うことがこれだと伝わらない気がするのです。極端な話をすれば、主観的に自分で「私は幸いです」と思ったら、それがすなわち「幸い」と言う解釈をされてしまいかねません。なので個人的には「神さまは~の人を祝福します」と言う訳の方が文意が適切に伝わって良いのではないかと思っています。

第20節、神さまが祝福する最初の人たちは「God blesses you who are poor」、つまり神さまは「poor」であるあなた方を祝福する、とあります。「poor」と言う単語は新和英中辞典には「I 1 貧しい、貧乏な(中略)、II 2 〈体・記憶など〉弱い; 〈健康・気力など〉悪くした、害した(中略)、V 1 哀れな、不幸な、気の毒な(後略)」などと書かれています。

実はこの部分はマタイとは書き方が異なっていて、マタイでは「those who are poor and realize their need for him」(「poor」で神さまを必要とする気持ちをはっきりと意識する人たち)となっています。つまりこの「poor」は金銭的、経済的に「貧しい」ことを言っているのではなくて、「霊」のレベルで「弱々しく」「哀れ」な状態を言っているのです。きっとルカに書かれているシンプルな言葉がイエスさまが実際に言った言葉で、マタイは誤解を避けるためにここに適切な解説を加えたのだと思います。聖書を読んでも金銭的に貧しいだけで神さまの祝福を受けられるとはどこにも書かれていません。自分は弱い状態にあるから神さまがいないとダメなんだ、自分にはどうしたって神さまが必要なんだ、という神さまに対する霊的な渇き、お金や物質ではなくて霊のレベルでの弱さや貧しさを自覚している人がいたとしたら、神さまはそう言う人に恵みを授け、祝福を与えるのだと言うのです。

イエスさまのまわりに集まってきているのはそういう人たちです。もう他に頼る術がなくて最後の一縷の望みをイエスさまにかけようという人たちです。これはキリスト教の考え方の本質だと思います。キリスト教では神さまを絶対視して神さまに依存するところで、一般的に「宗教」と呼ばれる活動から区別されます。一般的な「宗教」では信者は自分の力で苦行や修行や精神や肉体の鍛錬を通して道を切り拓き、最終的に「悟り」などの境地や「高み」に達しようとしますが、キリスト教は自分の無力を認めて唯一神さまだけを崇拝する教えなのです。「私は神さまがいないとダメなんです」「だから神さまの助けが必要なんです」と神さまに頼りきってオロオロとすがるような人がいたら、神さまはそういう人間を祝福すると言っているのです。これがキリスト教が求める人間像です。

逆に言うと「もう大丈夫です。ありがとうございました。ご心配をおかけしました。ここから先は私は神さまなしでもしっかりやっていけます」などと言う「自立」の言葉はキリスト教では求められていないのです。いろいろなことがうまく行ったと感じるとき、クリスチャンが神さまに言うべき言葉は「ありがとうございました。私のような者のために恵みをいただき心から感謝します。どうかこれからも私を守り導いてください。何しろ私は神さまなしではやっていけないのですから」なのです。

誤解してはいけないのは、「クリスチャンは神さまに頼りきりで自分では何も努力をしなくてもよい人」と言っているのではないところです。クリスチャンが追求するのは「神さまの目に正しく映る人」です。自分のエゴの実現ではなく、ただひとつ、神さまを喜ばせるための努力をするのです。どのようにすれば自分の言動が神さまの目にかなうのか、どうすれば神さまは喜ばれるのか、それを追求します。そのヒントは旧約聖書から新約聖書まで聖書を通してあちこちに繰り返し書かれていて、イエスさまはそれを実践した私たちのお手本なのです。だから私たちはイエスさまが何を教えたか、イエスさまが何をしたかを聖書から学ぶのです。すべては自分の言動が神さまの目に正しく映り、神さまに喜んでいただくためです。

私はどのような人も「心の闇」を持っていると思います。誰にも見せられない、誰にも言えない、周囲から隠している何かです。「隠している」と言うことはそれが「悪」だと自覚しているということです。また私はどのような人にも「自分で自分をコントロールできる」という自負があると思います。食欲や性欲などの肉欲、プライドやエゴなどの自分だけを大切に思う欲求について、「きっと自分は大丈夫」「自分で自分を制御できる」と思っているとしても、本当にどんなときでも自分の良心に照らして正しい行動を選択できるでしょうか。このときの「正しさ」の評価については、程度とか重要度で計る問題ではなく、本当にどんな局面でも自分の行動は神さまの目に正しく映っていると言いきれるでしょうか。人間は厳しい修行を積めばある日「ぜったいに大丈夫」という境地に到達できるのでしょうか。福音書の中で「自分は神さまの目に正しく映っている」と主張したのはファリサイ派です。彼らはそのためにイエスさまから厳しい批判を受けるのです。

この節の後半には「for the Kingdom of God is yours」(なぜなら神さまの王国はあなた方のものだからです)と書かれています。つまり、自分は弱くてダメなので、神さまなしではやっていけない、とはっきりと自覚する人たちには、その見返りに「神さまの王国」が与えられるのです。ここで注目したいのは「神さまの王国」を受け取るための条件として、「自分の言動が神さまの目に正しく映ること」が求められているのではないと言うことです。必要なのは「自分は神さまなしではやっていけない」という自覚だけなのです。その自覚さえあれば「神さまの王国」はもらえるのです。

ではその受け取ることのできる「神さまの王国」と言うのはいったい何なのだろうとか、という話になりますが、それはここには具体的に書かれていません。ですが新約聖書を読めば「神さまの王国」を受け取ると言うのが自分が最終的に「天国に入る」という意味であり、それはつまり「永遠のいのちを得る」ことだとわかります。たとえば、Matthew 19:16(マタイの福音書第19章第16節)には「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」」という質問がされて、イエスさまがこれに解答していますが、人々の関心は自分が神さまの王国へ入れるか、そこで永遠のいのちがもらえるか、なのです。 自分が天国へ入れていただくためには自分の無力を認めて、自分は神さまなしではやっていけないと自覚する、それだけなのです。自分は弱いと正直に認められる人、神さまはそういう人を祝福し王国を与えるのです。

第20節には「神さまは貧しいあたなたちを祝福します。なぜなら神さまの王国はあなた方のものだからです。」とありますが、第24節にはこれに対応させて「富んでいるあなた方をどれほどの悲しみが待ち受けることか。」と書かれています。その理由はその富がもたらす幸せはその人たちが手に入れる唯一の幸せであり、もうそれを手にしてしまっているからと書かれています。ここも貧しい人たちが受け取ることのできる「神さまの王国」を考えさせます。地上で富を得てそれでいま幸せを味わっている人たちはどうやら天国に入ることがかなわないので、貧しい人たちが後に天国で味わう幸せは、富んだ人たちには用意されていないのです。

第21節には神さまは「飢えている人」を祝福しますと言う言葉と、「泣く人」を祝福しますとの言葉が書かれています。またこれに対応させて第25節には「肥えて繁栄している人」と「いま笑う人」を悲しみが待ち受けると書かれています。上で「貧しい人」が金銭的に困難な状態にある人の意味ではないと説明しました。金銭的に困っている人が自動的に天国に行くのでは聖書の中でつじつまが合いません(そもそもどのくらいのレベルが「困ってる」にあてはまるのかがわかりません)。ルカが記述したように、イエスさまは実際の説教の中でシンプルに「貧しい人」と表現したのかも知れませんが、それが1世紀の教会では「霊的に貧しい人」のことだと、つまり自分の無力を認め、自分は救世者としての神さまが必要だと認めている人のこととして解釈されていて、マタイはその部分をきちんと補って福音書を書いたのではないかと推測できると説明しました。

ここも解釈は同じだと思います。「飢えている人」と言うのは自分の無力を知り、霊的に飢えている人、神さまを捜し求めている人のことでしょう。そして「泣く人」と言うのは自分の無力さや神さまの目に映る自分の姿の汚(けが)れを神さまに対して申し訳なく思い嘆く人のことでしょう。 これに対して「肥えて繁栄している人」「いま笑う人」というのは自分の力で成し遂げた地上の富や名声を喜び、成功に幸せを感じて笑っている人のことでしょう。

神さまに飢えている人は「満たされる」ことが約束されています。つまり霊的な飢えは満たされるのです。それはつまり神さまと出会える、ということでしょう。またいまは泣いていても時が満ちて笑う日が来るのです。それは具体的には「終わりの日」のことなのかも知れませんが、聖書には「神さまの王国」はそれに先だって、人がイエスさまを救世主と認めたときから、その人の中でスタートするのだと書かれています。一方の肥えている人、いま笑う人が行く場所(そこは天国ではありません)ではどうやら飢餓が待ち受けていて、そこで自分が逃すことになった天国行きの機会を思うとき、笑いは嘆きと悲しみに変わるのです。

第22節と第23節には迫害について書かれています。イエスさまに従ったことで邪悪とされ、憎まれ、共同体から除名され、あざけり笑われ、ののしられるとき、天国には大いなる報酬が待っていると書かれています。また父祖のユダヤ人たちも旧約聖書の預言者たちを同じように迫害したのだと。

対応する第26節には人々から賛美される人を待ち受ける悲しみが予告されています。旧約聖書の父祖の時代に賛美されたのは偽の預言者だったからだと言うのです。この部分はマタイにも類似の記述があります。Matthew 5:11-12(マタイの福音書第5章第11節~第12節)です。「11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」([新改訳])。

マタイで使っていた「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式が成り立つのであれば、この部分は「Q資料」に含まれていた部分なのだろうと考えられます。ここで言われているのは「人の子」、つまりイエスさまを信じることで世の中から被る迫害は、旧約聖書の中で預言者たちが受けた迫害と同じなのですよということです。つまりイエスさまは旧約聖書の預言者たちと同じ派遣元、神さまから来ていると言っているのです。

ちなみにユダヤ人にとって共同体から除名されることは、いままでと同じようにユダヤの社会では生きていけないことを意味していました。実際に葬儀まで出して、その人を死んだ扱いにする場合もあったようですから、当時のユダヤ社会でイエスさまを信じると告白することは命がけだったのです。






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ルカの福音書第6章第27節~第36節:敵への愛ルカの福音書第6章第12節~第16節:イエスさまが十二人の使徒を選ぶ