ルカの福音書:第6章ルカの福音書第5章第27節~第32節:イエスさまがレビ(マタイ)を呼ぶ

2015年10月27日

ルカの福音書第5章第33節~第39節:断食に関する議論

第5章



 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


A Discussion about Fasting

断食に関する議論


33 One day some people said to Jesus, “John the Baptist’s disciples fast and pray regularly, and so do the disciples of the Pharisees. Why are your disciples always eating and drinking?”

33 ある日、イエスさまに言う人がいました。「洗礼者ヨハネの弟子たちは定期的に断食とお祈りをします。ファリサイ派の弟子たちも同じです。あなたの弟子たちはどうしていつも食べたり飲んだりしているのですか。」

34 Jesus responded, “Do wedding guests fast while celebrating with the groom? Of course not.

34 イエスさまは答えました。「婚礼の客たちが花婿と一緒にお祝いをしているときに断食しますか。もちろんしません。

35 But someday the groom will be taken away from them, and then they will fast.”

35 しかしいつの日か、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのとき彼らは断食するのです。」

36 Then Jesus gave them this illustration: “No one tears a piece of cloth from a new garment and uses it to patch an old garment. For then the new garment would be ruined, and the new patch wouldn’t even match the old garment.

36 それからイエスさまは、彼らにこのたとえ話をしました。「誰も新しい着物から布切れを引き裂いて、それで古い着物に継ぎあてをするようなことはしません。なぜなら新しい着物が台なしになるし、そもそも新しい継ぎあては古い着物には合いません。

37 “And no one puts new wine into old wineskins. For the new wine would burst the wineskins, spilling the wine and ruining the skins.

37 それから誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。なぜなら新しいぶどう酒が皮袋を張り裂いて、ぶどう酒はこぼれて皮袋はだめになります。

38 New wine must be stored in new wineskins.

38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。

39 But no one who drinks the old wine seems to want the new wine. ‘The old is just fine,’ they say.”

39 ですが古いぶどう酒を飲む人で、新しいぶどう酒を欲する者はいないようです。彼らは『古い物で十分だ』と言うのです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第5章です。

「断食(fasting)」は旧約聖書にたびたび登場する苦行です。ユダヤ人は神さまにどうしてもかなえてもらいたい願いごとがあるとき、粗布をまとい、頭から灰をかぶり、断食をして祈りました。また神さまの怒りを買うような、あるいは神さまを悲しませるような大きな過ちを犯したと自覚したときにも、人々は嘆き悲しみ、粗布をまとい、頭から灰をかぶり、そして断食をして神さまに許しを乞いました。つまりユダヤ人は全知全能の創造主である神さまの前で、自分たち人間がどれほど小さくて卑しい存在であるかを自覚して謙遜するために、そのへりくだった姿を象徴するしるしとして、粗布をまとって頭から灰をかぶり断食をしたのです。それが神さまにお願いをしたり、許しを乞うときの標準的なスタイルだったのです。

第33節でイエスさまにたずねた人が言っているのはこの断食のことです。この場面が前回の続きだと考えると、マタイが開いた宴会の席での問答と言うことになります。

この人は洗礼者ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派が断食をしているのに、と言っています。

まずファリサイ派ですが、この人たちは週に二回、月曜日と木曜日に必ず断食をしていたそうです。木曜日はモーゼが神さまから律法を受け取るためにシナイ山に登ったといわれる日、月曜日がシナイ山から下山したといわれる日だそうです。ファリサイ派は自分たちだけが神さまの目の中に正しく映っていると信じていた人たちで、そこにプライドを持ち人々に自分たちの正しさを誇示していました。週に二回の断食もやはり周囲の人たちに見せる目的で行っていました。

Luke 18:10-12(ルカの福音書第18章第10節~第12節)にはエルサレムの寺院に参拝したファリサイ派と取税人の様子が次のように書かれています。「10 ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』([新改訳])。ファリサイ派は自分が週に二回断食することと、律法どおりに税金を納めていることを誇りに思っているのです。

ファリサイ派のこのような態度はイエスさまから痛烈に批判されます。Matthew 6:16-18(マタイの福音書第6章第16節~第18節)です。「16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」([新改訳])。イエスさまによると断食は人に知られないように行うものなのです。きっとファリサイ派は週に二回の断食の折には、わざとやつれた顔をして、いかにも断食がつらそうに振る舞っていたのでしょう。

洗礼者ヨハネの弟子たちはどうでしょうか。洗礼者ヨハネは旧約聖書に予告された預言者エリヤの再来として救世主のための道を整えるために現れて、荒野で禁欲的な生活を送り、「悔い改めよ。自分の罪を認めて神に向き直れ」という強烈なメッセージを送りました。ヨハネの弟子たちはこのヨハネのメッセージに心打たれて従った人たちです。自分たちが犯した罪を知り、悔い改める必要を深く認識した人たちです。きっと自分たちの過ちを嘆き悲しんで、改心の証として断食をしたのでしょう。またヘロデ王によってヨハネが投獄され最終的に殺されたときには深い悲しみの中で断食をしたかも知れません。こちらの断食は旧約聖書の正しい動機に基づく断食だと言えるでしょう。

そしてなんとイエスさまの弟子たちは断食をしなかったのです。そのように人々の目に映っていただけでひっそりと断食をしていたのではないことも第34節のイエスさまの答えからわかります。「婚礼の客たちが花婿と一緒にお祝いをしているときに断食しますか。もちろんしません。」 人々に道を説きながら伝道の旅をしているにもかかわらず、酒宴の席に招かれて人々と共に飲み食いをして見せるイエスさまや弟子たちの姿は、断食の苦行を日常に取り入れているファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちを知る人々には奇異に映ったのです。

「花婿」「婚礼」「お祝い」などと書かれているのはイエスさま特有のたとえ話です。イエスさまはこうやってたとえ話を多用します。わかりやすく真相をずばり述べないのは、イエスさまはメッセージをわざわざ分かりづらくしているのです。その理由は別の場所で語られます。ここでイエスさまが「花婿」と言っているのは自分自身のことで、このたとえ話の中でイエスさまの弟子たちは花婿であるイエスさまと一緒に婚礼のお祝いをしている人たちと言うことになります。イエスさまは人間の罪を許す権限を持って人類を救済する使命を持って地上の人間のところへ降りて来た救世主です。救世主が人間と共にいるのですから、それは人々がむしろ婚礼のように喜び祝うべきタイミングであって、悲しみに暮れて断食をする場合ではないのです。ちなみにユダヤ人の婚礼は人生の一大イベントであり、地域の全員が参加して一週間も途切れることなく宴会の席が続くような重要で大切な儀式なのです。

ただしこれに付け加えて第35節では、「しかしいつの日か、彼らから花婿が取り去られる日」が来るとされています。イエスさまの弟子たちには断食をしなければならないほど悲しみ、自分たちの罪を悔いたり、どうしてもかなえて欲しい願いを持って神さまの前に座る日が待っているのです。

第36節からはもうひとつのたとえ話が書かれています。「古いもの」と「新しいもの」の話が「布」と「ぶどう酒」を題材に繰り返されます。わざわざ新しい布を使って、古い服に継ぎを当てることはしないし(新しい布が縮むと古い服が裂けてしまう)、新しいぶどう酒は熟成するに従って体積が増えるので、古くて硬くなった革袋に入れると破けてしまう、と言うのです。ちなみにイエスさまの時代にはワインの運搬には山羊の革袋が使われていたのです。

このたとえ話はファリサイ派の実践している古い信仰の方法と、イエスさまが世の中に見せている新しい信仰の方法の比較です。ファリサイ派の側には、イエスさまが説く新しい方法を受け入れる余地はないと言っているのです。ファリサイ派の古い方法とは旧約聖書に書かれたモーゼの律法と、さらに長い年月を経てユダヤ文化の中で口頭伝承されてきた慣習法のすべてをひとつ残らず間違いなく守ることで、神さまの目に正しく映ろうとする方法です。しかしそうやって律法の遵守を実践していながら、ファリサイ派の動機は純粋な神さまへの信仰ではなく、自身のプライドや欲望なのでした。イエスさまは神さまへの信仰は表面的で偽善的な行動で示すものではないと痛烈に批判します。人は創造者としての神さまの力と意図を正しく理解し、神さまひとりを信じて、謙虚に感謝して生きることを説きます。イエスさまの新しい話を無理やりファリサイ派の古い教えにつぎはぎすることはできないのです。






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