ルカの福音書第1章第26節~第38節:イエスさまの誕生が予告されるルカの福音書第1章第1節~第4節:はじめに

2015年10月31日

ルカの福音書第1章第5節~第25節:洗礼者ヨハネの誕生が予告される

第1章


 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Birth of John the Baptist Foretold

洗礼者ヨハネの誕生が予告される


5 When Herod was king of Judea, there was a Jewish priest named Zechariah. He was a member of the priestly order of Abijah, and his wife, Elizabeth, was also from the priestly line of Aaron.

5 ヘロデがユダヤの王だったときにザカリヤというユダヤ人の祭司がいました。ザカリヤは祭司の中ではアビヤの組に所属し、妻のエリサベツもやはり祭司のアロンの家系でした。

6 Zechariah and Elizabeth were righteous in God’s eyes, careful to obey all of the Lord’s commandments and regulations.

6 ザカリヤとエリサベツは神さまの目に正しく映り、主のすべての戒めと規則を注意深く守っていました。

7 They had no children because Elizabeth was unable to conceive, and they were both very old.

7 二人には子どもがありませんでした。それはエリサベツが妊娠できなかったからです。ふたりともとても年をとっていました。

8 One day Zechariah was serving God in the Temple, for his order was on duty that week.

8 ある日ザカリヤは寺院で神さまのための仕事をしていました。それはザカリヤの組がその週の当番だったからです。

9 As was the custom of the priests, he was chosen by lot to enter the sanctuary of the Lord and burn incense.

9 祭司の習慣により、ザカリヤはくじ引きで選ばれて、主の聖域に入って香を焚くことになりました。

10 While the incense was being burned, a great crowd stood outside, praying.

10 香が焚かれる間、大ぜいの群衆が外にいて祈っていました。

11 While Zechariah was in the sanctuary, an angel of the Lord appeared to him, standing to the right of the incense altar.

11 ザカリヤが聖域の中にいると、主の天使が彼に現われて、香壇の右に立っているのでした。

12 Zechariah was shaken and overwhelmed with fear when he saw him.

12 天使を見るとザカリヤは動揺し、恐怖で圧倒されました。

13 But the angel said, “Don’t be afraid, Zechariah! God has heard your prayer. Your wife, Elizabeth, will give you a son, and you are to name him John.

13 しかし天使は言いました。「恐れてはいけません、ザカリヤ。神さまがあなたの願いを聞きました。あなたの妻のエリサベツはあなたに男の子を産みます。あなたはその子をヨハネと名付けなさい。

14 You will have great joy and gladness, and many will rejoice at his birth,

14 あなたは大きな喜びとうれしさを味わい、多くの人が男の子の誕生を喜びます。

15 for he will be great in the eyes of the Lord. He must never touch wine or other alcoholic drinks. He will be filled with the Holy Spirit, even before his birth.

15 なぜなら彼は主の目の中にすぐれた者となるからです。彼はぶどう酒にも他のアルコールにも決して触れてはいけません。彼は誕生の前から聖霊に満たされます。

16 And he will turn many Israelites to the Lord their God.

16 そして彼は多くのイスラエル人を神さまである主に向かわせます。

17 He will be a man with the spirit and power of Elijah. He will prepare the people for the coming of the Lord. He will turn the hearts of the fathers to their children, and he will cause those who are rebellious to accept the wisdom of the godly.”

17 彼はエリヤの霊と力を持つ人となります。彼は主の到来のために人々を用意するのです。彼は父たちの心を子どもたちに向けさせ、反抗的な人たちには信仰の厚い人たちの知恵を受け入れさせるのです。」

18 Zechariah said to the angel, “How can I be sure this will happen? I’m an old man now, and my wife is also well along in years.”

18 ザカリヤは天使に言いました。「それが起こることをどうやって私は確信できるでしょうか。私は今は一人の年老いた男です。妻もずいぶん年をとっています。」

19 Then the angel said, “I am Gabriel! I stand in the very presence of God. It was he who sent me to bring you this good news!

19 すると天使が言いました。「私はガブリエルです。私は神さまの面前に立つ者です。私を遣わして、この良い知らせをあなたに届けさせたのは神さまなのです。

20 But now, since you didn’t believe what I said, you will be silent and unable to speak until the child is born. For my words will certainly be fulfilled at the proper time.”

20 ですがいいですか、あなたは私の言ったことを信じませんでした。あなたは子どもが生まれるときまで沈黙し、話すことができなくなります。なぜなら私の言葉は時が来れば確実に実現されるからです。」

21 Meanwhile, the people were waiting for Zechariah to come out of the sanctuary, wondering why he was taking so long.

21 そうしている間、人々はザカリヤが聖域から出てくるのを待っていました。人々はなぜそんなに長くかかるのか不思議に思っていました。

22 When he finally did come out, he couldn’t speak to them. Then they realized from his gestures and his silence that he must have seen a vision in the sanctuary.

22 ザカリヤがとうとう出て来ると、彼は人々に話すことができませんでした。ザカリヤの身振りと沈黙から、彼らはザカリヤが聖域で幻を見たのだとわかりました。

23 When Zechariah’s week of service in the Temple was over, he returned home.

23 寺院でのザカリヤの務めの週が終わると、ザカリヤは家へ帰りました。

24 Soon afterward his wife, Elizabeth, became pregnant and went into seclusion for five months.

24 その後すぐに妻のエリサベツは妊娠し、五か月の引き籠もりの期間に入りました。

25 “How kind the Lord is!” she exclaimed. “He has taken away my disgrace of having no children.”

25 エリサベツは叫びました。「主はなんと思いやりのある方なのでしょうか。私に子どもがいないという不名誉を取り除いてくださいました。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第1章です。

第5節のヘロデは「ヘロデ大王」とも呼ばれる人物で、イエスさまが生まれた時代にローマ帝国下のイスラエルを支配していた王です。ユダヤ人ではなくて政治的に巧みに活動して、ローマ帝国からユダヤ地域の王に封じられた異邦人です。エルサレムの寺院を大改築した建築マニアとして有名で、政治的に自分の地位を確立しておくために身内を含めて多くの人を殺害したことでも知られています。

同第5節に「ザカリヤというユダヤ人の祭司がいました。」とあります。「祭司」という職業はユダヤの十二氏族の中でヤコブの子レビを祖とする「レビ族」に特別に与えられた仕事のことです。旧約聖書によるとユダヤ民族は預言者モーゼに率いられて奴隷状態にあったエジプトから脱出し、40年間も砂漠をさまよった後に最終的に約束の地イスラエルに入り、先住の異民族を打ち破って建国しました。そのときに占領地の中から各氏族に対して住むべき土地が割り当てられましたが、レビ族だけはエルサレムの寺院を守る氏族として特別な仕事が与えられたのです。エジプト脱出でユダヤ人をリードしたモーゼとアロンの兄弟はレビ族の出身です。

同第5節に「ザカリヤは祭司の中ではアビヤの組に所属し」とありますが、この「組」はレビ族の中を24に分けている「組み分け」で、各組が一週間ずつ交代で寺院の仕事を行っていました。この組み分けについては旧約聖書の「1 Chronicles 24:1-19(歴代誌第1の第24章第1節~第19節)」に記述があります。「1 アロンの子らの組分け。アロンの子らは、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。2 ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。3 ダビデは、エルアザルの子孫のひとりツァドク、およびイタマルの子孫のひとりアヒメレクと協力して、彼らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。4 エルアザルの子孫のほうが、イタマルの子孫よりも一族のかしらが多かったので、エルアザルの子孫は、父祖の家のかしらごとに十六組に、イタマルの子孫は、父祖の家ごとに八組に分けられた。5 彼らはくじを引いて互いにそれぞれの組に分かれた。聖所の組のつかさたち、神の組のつかさたちは、エルアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたからである。6 レビ人の出の書記、ネタヌエルの子シェマヤが、王とつかさたち、および祭司ツァドクとエブヤタルの子アヒメレク、それに祭司とレビ人の一族のかしらたちの前で、それらを書きしるした。エルアザルの父祖の家を一つ一つ、イタマルのを一つ一つ。7 第一のくじは、エホヤリブに当たった。第二はエダヤに、8 第三はハリムに、第四はセオリムに、9 第五はマルキヤに、第六はミヤミンに、10 第七はコツに、第八はアビヤに、11 第九はヨシュアに、第十はシェカヌヤに、12 第十一はエルヤシブに、第十二はヤキムに、13 第十三はフパに、第十四はエシェブアブに、14 第十五はビルガに、第十六はイメルに、15 第十七はヘジルに、第十八はピツェツに、16 第十九はペタフヤに、第二十はエヘズケルに、17 第二十一はヤキンに、第二十二はガムルに、18 第二十三はデラヤに、第二十四はマアズヤに当たった。19 これは主の宮に入る彼らの奉仕のために登録された者たちで、彼らの先祖アロンがイスラエルの神、主の彼に命じられたところによって、定めたとおりである。」([新改訳])。 ザカリヤが所属したアビヤの組は第八の組だったことがわかります。

同第5節には「妻のエリサベツもやはり祭司のアロンの家系でした。」とありますように、ザカリヤの妻のエリサベツもやはりレビ族の出身で、しかもエリサベツはモーゼの兄のアロンの家系です。血縁を重んじるユダヤ人はこうして同じ氏族の中で婚姻をしていたようです。

第6節には二人について「ザカリヤとエリサベツは神さまの目に正しく映り、主のすべての戒めと規則を注意深く守っていました。」と書かれています。この部分はさらっと読んでしまってはいけなくて、ここでは「神さまの目に正しく映り」(righteous in God’s eyes)という記述が大変重要だと思います。なぜなら「神さまの目に正しく映る人」というのは世の中にはまずいないからです。何かしらの形で神さまの期待を裏切ってしまって、神さまをガッカリさせているのが私たち人間だからです。そして二人は「主のすべての戒めと規則を注意深く守っていました。」とありますから、少なくとも神さまの目に正しく映るためには聖書に定められた戒めや規則を注意深く守る必要があったことがわかります。私自身も神さまの目に正しく映りたいと願う一人ですが、実際は「あぁ、今の自分の行動は神さまの目には正し映っていないのだろうなぁ。」「きっとイエスさまはガッカリしているだろうなぁ。」と考えさせられる出来事が連続する毎日です。

第7節によると二人は老齢なのに子どもがありませんでした。理由は妻のエリサベツが妊娠できなかったからなのでした。

第8節、年に二度まわってくるアビヤの組が寺院の仕事をする当番の週に、ザカリヤはくじによって聖域に入ることになります。これは大変な名誉な仕事です。当時はイスラエル全体で2万人程度の祭司がいたとされていて、これを24の組に分けていたのですから各組には千人近い祭司がいたはずで、ザカリヤはその中から選ばれたわけです。生涯の間、一度も選ばれない祭司もたくさんいたはずです。ザカリヤ自身も高齢まで待ち続けてついに選ばれたのかも知れません。

くじで選ばれた祭司は朝夕の儀式でひとりだけ寺院の中の聖域に入り、香を焚きます。香を焚くための祭壇は、大祭司だけが入ることを許される寺院の最深部(「至聖所」(the holy of holies)などと呼ばれます)の手前の部屋にあります。

この香のための祭壇については旧約聖書のExodus  30:1-8(出エジプト記第30章第1節~第8節)に書かれています。「1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。」([新改訳])。

どのような香を焚いたのか、特別な香の焚き方も旧約聖書に記載されています。Exodus  30:34-38(出エジプト記第30章第34節~38節)です。「34 主はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。35 これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」([新改訳])。

第10節、ザカリヤが聖域で香を焚く間、大ぜいの群衆は建物の外で静かに待っていました。外からは建物の内部で焚かれた香の煙が見えるのです。人々はその煙を見て祈ります。立ち上る煙は天の神さまの王座へ届く人々の祈りの象徴なのです。

聖域の祭壇で香を焚くザカリヤの前に天使が出現しました。「天使」というと私たちは背中に羽の生えた小さな子供の姿を思い浮かべますが、聖書の中の天使は天国にいて神さまのための仕事をする霊的な存在です。旧約聖書の中では人の姿ばかりでなく、火や光などのさまざまな姿をとって表れます。たとえば旧約聖書のIsaiah 6:2(イザヤ書第6章第2節)に登場する上位の天使「セラフィム」は人に近い形をしているようですが「彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり」([新改訳])と書かれています。

第12節、天使を見たザカリヤは恐怖で圧倒されています。聖書の中で神さま側の存在に遭遇する人間は必ず恐怖で圧倒されます。きっとその存在の神聖さや畏れ多さがすぐに理解できて、人間としての小さくて汚れた自分が、その存在の前に立つことや近くにいること自体が怖くて仕方なくなるのです。第13節で天使は「恐れてはいけません。」と話し始めます。これも聖書の中ではお決まりの言葉です。神さま側の存在は、まず「恐れるな」と言って話し始めます。

その話の内容は「神さまがあなたの願いを聞きました。あなたの妻のエリサベツはあなたに男の子を産みます。」でした。ザカリヤとエリサベツの夫婦は神さまの戒めと規則を注意深く守り、神さまの目に正しく映る存在であると書かれていました。そして二人は老齢で子どもがいないとも書かれていました。天使はここで「神さまがあなたの願いを聞きました。あなたの妻のエリサベツはあなたに男の子を産みます」と言っているのですから、ザカリヤはいつも神さまに「子どもが欲しい」「子どもを授けてください」と祈っていたことになります。

ザカリヤとエリサベツの夫婦は神さまの戒めと規則を注意深く守り、神さまの目に正しく映る存在であったはずなのに、どうして「子どもが欲しい」というザカリヤの願いは長い間叶えられずに放置され続けたのでしょうか。それは多分に神さまがエリサベツの受胎の「奇跡」としての意味を、より印象的に人間に知らしめるためだったりするのです。まさかと思われている女性が妊娠して子どもを授かる、そこに神さまの「すごさ」を感じさせるのです。

老齢で子どもの産めない女性が妊娠して子どもを産む、という出来事は実は旧約聖書に登場する「奇跡」の形のひとつなのです。ユダヤ人の祖とされるアブラハムの妻のサラも高齢で子どもの産めない存在でした。旧約聖書の最初の本、「Genesis(創世記)」の第17章第15節~第17節は神さまがアブラハムに表れて伝えた言葉の一部です。「15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」 17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」([新改訳])。アブラハムに息子のイサクが生まれたとき、アブラハムは100歳、サラは90歳だったのです。

エリサベツに子どもができたとき、ザカリヤとエリサベツの夫婦のみならず、二人を知るすべての人々が旧約聖書に書かれたこの奇跡の物語を思い出し、神さまの実在を本当の意味で改めて確認します。サラが子どもを授かったのは90歳のときというのは、ユダヤ人なら誰でも知っている話です。しかしそれと同じことがまさか自分たちの間でも起こるとは。神さまは本当にいるのだと確信し、神さまの素晴らしさを褒め称え、神さまの祝福と喜びを仲間と存分に分かち合うのです。

第13節の最後は「あなたはその子をヨハネと名付けなさい。」と書かれています。このヨハネはこの後で「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになる人のことで、イエスさまに先駆けてイスラエルに表れてイエスさまのための道を整えたとされる人です。「ヨハネの福音書」を書いたヨハネとは別人です(こちらのヨハネはイエスさまの弟子で、十二使徒の一人に選ばれた人です)。

第15節、天使が生まれてくる子どもについて説明します。「彼は主の目の中にすぐれた者となるからです。彼はぶどう酒にも他のアルコールにも決して触れてはいけません。彼は誕生の前から聖霊に満たされます。」 ヨハネと名付けられるその子どもは「主の目の中にすぐれた者となる」のです。すごいことです。神さまを裏切ってばかりの私たち人間の中にあって、いったいどのような人間が神さまの目の中ですぐれた者となり得るのでしょうか。それはきっとこれから私たちがヨハネについて読んでいけばわかるのでしょう。

「彼はぶどう酒にも他のアルコールにも決して触れてはいけません。」は旧約聖書の「Numbers(民数記)」に登場する「ナジル人の誓願」を思い出させます。Numbers 6:1-8(民数記第6章第1節~第8節)です。「1 主はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、3 ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。4 彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。6 主のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。8 彼は、ナジル人としての聖別の期間は、主に聖なるものである。」([新改訳])。「ナジル人の誓願」はこの後も第28節まで続くのですが、「ナジル人」とは特別な誓いを立てて神さまのための存在となる人のことのようで、ナジル人となるための要件がここに書かれています。ザカリヤ夫婦に生まれるヨハネも「主の目の中にすぐれた者となる」ということは神さまのために働く存在となるのでしょうから、ナジル人と同様に特別に聖別される必要があるのでしょう。

第15節の最後の「彼は誕生の前から聖霊に満たされます。」もすごい記述です。「聖霊」は「父なる神さま」と「子なるイエスさま」と共に「三位一体」説にある神さまの位相のひとつです。「三位一体」説は「神さま」「イエスさま」「聖霊」は三つのようで一つ、一つのようでいて三つ、神さまとはそのような存在だ、という考え方です。

ヨハネは誕生の前から、そのうちのひとつ「聖霊」に満たされているのです。「聖霊」はイエスさまの十字架のイベントを境にして聖書の中で役目が変わっています。聖霊はイエスさまが十字架死~復活を経て天へ戻るとき、イエスさまがもう一度地上に戻ってくる日まで、イエスさまの代わりとして地上に降りてきて、神さまを信じる人ひとりひとりの中に宿るようになりました。が、ヨハネはイエスさまが誕生する前から聖霊に満たされるのです。何と言う特別な存在なのでしょうか。

第16節~第17節ではヨハネについて、「そして彼は多くのイスラエル人を神さまである主に向かせます。彼はエリヤの霊と力を持つ人となります。彼は主の到来のために人々を用意するのです。彼は父たちの心を子どもたちに向けさせ、反抗的な人たちには信仰の厚い人たちの知恵を受け入れさせるのです。」と結ばれます。この部分は旧約聖書の最後の本、「Malachi(マラキ書)」の一番最後の部分、つまり当時のユダヤ人たちが神さまの言葉として書き留められた「預言書」の一番最後の言葉と考えている部分を想起させます。これはイエスさまの時代から約400年前に書かれた言葉です。Malachi 4:5-5(マラキ書第4章第5節~第6節)です。「5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])。

マラキは「主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」と書いていて、ルカの第17節には「彼はエリヤの霊と力を持つ人となります。」とあります。つまりヨハネは、400年前にマラキ書の最後の部分で「遣わす」と予告された「預言者エリヤ」のことなのです。エリヤは旧約聖書に登場するモーゼに並ぶ最強の預言者です。旧約聖書についてモーゼが「律法」を象徴しているとすれば、エリヤは「預言」部分を象徴しています。エリヤは数々の奇跡の業を行いましたが、最後には火の馬が引く火の戦車によって死を体験することなく天へと迎えられました。旧約聖書の中で死を体験することなく天へ迎えられたのは、預言者エリヤと、ノアの曾祖父であるエノクの二人だけです。洗礼者ヨハネは預言者エリヤ本人ではなく、エリヤの霊と力を持つ存在としてイスラエルに現れるのです。これがマラキの予告の実現となります。

なぜ洗礼者ヨハネはイスラエルに現れなければならなかったのでしょうか。それはマラキの預言によれば「それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」ということになります。つまりもしヨハネが来なければ、最終的に「わたし=神さま」が呪いで地上を打ち滅ぼすような事態になったと言うことです。ヨハネはイエスさまの先駆者として道を整え、イエスさまが世の中に登場します。そのイエスさまは神さまの意図に沿って十字架にかかり、イエスさまの流した血によって神さまと人間の間の不和は完全に和解します。事態はまったくマラキの預言どおりに運んだのです。

第18節、ザカリヤは天使の言葉を素直に受け入れることができません。自分たち夫婦はすでに老齢で、妻のエリサベツはもう長い間子どもができなかったのです。だから天使に告げられた言葉はうれしかったのですが、ザカリヤは、何かの手段でそれを確証できないか、何か証拠のようなものはもらえないかと、ついきいてしまったのでしょう。

すると第19節、天使が言います。「私はガブリエルです。私は神さまの面前に立つ者です。私を遣わして、この良い知らせをあなたに届けさせたのは神さまなのです。」 旧約聖書に個人名で登場する天使は二人だけです。共に「Daniel(ダニエル書」)に登場するミカエルとガブリエルです。ここに表れたのはそのうちのひとり、ガブリエルということになります。ガブリエルは「私は神さまの面前に立つ者です。私を遣わして、この良い知らせをあなたに届けさせたのは神さまなのです。」と言いました。神聖である神さまは嘘をつくことはできません。だから神さまの言うことはすべてそのまま実現します。神さまがこうだ、と言えば、それ以上もそれ以下もないのです。ガブリエルが告げたことは「明日の朝、日が昇ります。」と言われたのと同じ位確かなことなのです。

実は神さまを信じる、信仰を持つ、というのはそういうことです。神さまが存在すること、神さまが自分を愛してくださることを「明日の朝、日が昇る」とか「月は地球を回る」のと同じレベルで信じることなのです。これができない人を見て神さまはガッカリされますから、きっと神さまは四六時中、ガッカリのし通しです。人が神さまをガッカリさせることを「罪(sin)」と言います。果たして「罪」を犯さない人が世の中にどれだけいるでしょうか。

もうひとつ。自分の信仰の弱いことを嘆く人がいます。もし神さまと自分の関係が、自分が神さまを信じる気持ちに依存するのだとしたらそれほど恐ろしいことはありません。でも聖書に書かれている「救い」や「契約」は、いつも神さまが人間に対して一方的に行うものです。全知全能であり、変わることのない神さまが、私たちを一方的に愛し、無条件で私たちに救いの手を差し伸べてくださるのです。なんとありがたいことでしょうか。神さまは私たちの信仰の弱さを、グラグラと揺れる私たちを見て悲しみ嘆くかも知れませんが、だからといってそれによって神さまとの私たちの関係が絶たれてしまうことはありません。福音書の中でも十二使徒の中のリーダー格のペテロはグラグラと不安定に揺れ動きます。イエスさまはそれを見て嘆き、ときに叱責さえしますが、それによってイエスさまの愛が失われたり、差し引かれるようなことはありません。私たちを愛し、私たちをガッチリと捕まえていてくださるのは神さまなのです。

ザカリヤは求めてはならない確証を求めたので、ガブリエルの怒りを買い、子どもが生まれるまでの間、罰としてしゃべれなくされてしまいます。

第21節、表ではたくさんの人々がザカリヤが出てくるのを待っていました。その間、人々は伝統的に旧約聖書の「Number 6:22-26(民数記第6章第22節~第26節)」に書かれている祝福の言葉を唱えていたようです。「22 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。24 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』」([新改訳])。

第22節でようやく出てきたザカリヤは口をきくことができません。人々はザカリヤの様子から、ザカリヤが聖域で「幻(vision)」を見たのだと考えます。「vision」を英和辞典で引いてもあまり良い訳が見つかりませんが、たとえばMerriam Websterの英英辞典を引くと一番最初の項目が「something seen in a dream, trance, or ecstasy; especially : a supernatural appearance that conveys a revelation(拙訳:夢、トランス状態、法悦状態の中で見るもの。啓示をもたらす超自然的な出現)」となっています。日本語で「幻を見た」というと「非現実的なものを見た」みたいなイメージに受け取られがちですが、英英辞典を使って解釈すると英語圏の人はここを読んで「トランス状態(=入神状態・恍惚状態)に陥って何か神がかった存在を見た」と受け取っていることになります。

ザカリヤが一週間の寺院での勤めを終えて家に帰ると、天使の予告どおりに妻のエリサベツが妊娠します。エリサベツが子どもを授かるタイミングは神さまが計画されたものです。私たちは自分に巡ってくる運命をときに「早い」とか「遅い」とか評価しますが、神さまの計画はいつも深淵で完璧なのです。早すぎることも遅すぎることもありません。

なぜ私たちは「早い」とか「遅い」とか、そういう評価をするのでしょうか。それは私たちが「期限」を決めて生きているからです。20歳になるまでにはこうしたい。学校を出るまでにはこうしたい。30歳になるまでにはこうしたい。これは全部、「死ぬ」ことを前提にした寿命の中での「期限」です。神さまは時間も空間も超越した存在です。神さまにはどんな意味に於いても始まりも終わりもありません。エリサベツが子どもを授かったタイミングは果たして「遅い」のでしょうか。もしザカリヤもエリサベツも「死なない」のだとしたらどうでしょうか。ザカリヤもエリサベツも、私たちの考える意味で、ある日「死」を迎えるのかも知れません。しかしもしそれですべてが終わりではなくて、「その後」があったらどうでしょうか。聖書には私たちが「死なない」という想定で読むと意味を持ち始めることがたくさん書かれています。聖書は「これってもしかして人間は死なないってことじゃない?」と思わされることだらけなのです。

第25節でエリサベツが言います。「主はなんと思いやりのある方なのでしょうか。私に子どもがいないという不名誉を取り除いてくださいました。」 つまり子どもができない、ということは当時、いまから2000年ほど前のユダヤ人の間では「不名誉」なことだったのです。女性の社会的な地位が確立したのはつい最近のできごとです。当時のイスラエルでは女性の立場は大変低いものでした。日本でも慣習的に長い間、不妊の原因は女性の側にあるとして長期間妊娠できない女性が夫や家族から離縁されることを容認する歴史を持っています。そのような話を本で読んだり映画で見ることは珍しいことではありませんから、2000年前のイスラエルに似たような文化があったと想像することは難しくないかも知れません。子どものできないエリサベツは社会的に差別される立場にあったのです。






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