ヨハネの福音書:第21章ヨハネの福音書:第20章第11節~第18節:イエスさまがマグダラのマリヤに現れる

2015年09月11日

ヨハネの福音書:第20章第19節~第31節:イエスさまが弟子たちに現れる、イエスさまがトマスに現れる、この本の目的

第20章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Appears to His Disciples

イエスさまが弟子たちに現れる


19 That Sunday evening the disciples were meeting behind locked doors because they were afraid of the Jewish leaders. Suddenly, Jesus was standing there among them! “Peace be with you,” he said.

19 その日曜日の夜、弟子たちはユダヤの指導者たちを恐れて、戸に鍵を掛けて集まっていました。すると突然イエスさまが弟子たちの中に立っていました。「平安があなた方にあるように。」 イエスさまは言いました。

20 As he spoke, he showed them the wounds in his hands and his side. They were filled with joy when they saw the Lord!

20 イエスさまは話しながら弟子たちに手とわき腹の傷を見せました。弟子たちは主を見て喜びに満たされました。

21 Again he said, “Peace be with you. As the Father has sent me, so I am sending you.”

21 もう一度イエスさまは言いました。「平安があなた方にあるように。父が私を送り出したように私もあなた方を送り出します。」

22 Then he breathed on them and said, “Receive the Holy Spirit.

22 それからイエスさまは弟子たちに息を吹きかけて言いました。「聖霊を受け取りなさい。

23 If you forgive anyone’s sins, they are forgiven. If you do not forgive them, they are not forgiven.”

23 あなた方が誰かの罪を許せば、その罪は許されます。あなた方が許さなければ、その罪は許されません。」



Jesus Appears to Thomas

イエスさまがトマスに現れる


24 One of the twelve disciples, Thomas (nicknamed the Twin), was not with the others when Jesus came.

24 十二弟子のひとりのトマス(双子のニックネームを持つ)はイエスさまが来たときに弟子たちと一緒にいませんでした。

25 They told him, “We have seen the Lord!”  But he replied, “I won’t believe it unless I see the nail wounds in his hands, put my fingers into them, and place my hand into the wound in his side.”

25 弟子たちはトマスに言いました。「私たちは主を見ました!」 しかしトマスは答えました。「私はイエスさまの手に釘の傷を見て、そこに私の指を差し入れ、私の手をイエスさまの脇腹の傷に差し入れてみなければ、それを信じようとは思いません。」

26 Eight days later the disciples were together again, and this time Thomas was with them. The doors were locked; but suddenly, as before, Jesus was standing among them. “Peace be with you,” he said.

26 八日後、弟子たちは再び集まっていました。今回はトマスも彼らと一緒にいました。戸には鍵が掛けられていましたが、突然、前回と同様にイエスさまが彼らの中に立っていました。イエスさまは言いました。「平安があなた方にあるように。」

27 Then he said to Thomas, “Put your finger here, and look at my hands. Put your hand into the wound in my side. Don’t be faithless any longer. Believe!”

27 それからイエスさまはトマスに言いました。「あなたの指をここにつけて私の手を見なさい。あなたの手を私の脇腹の傷に差し入れなさい。もう信仰を持たないのはやめなさい。信じなさい。」

28 “My Lord and my God!” Thomas exclaimed.

28 トマスは叫びました。「私の主よ。私の神よ。」

29 Then Jesus told him, “You believe because you have seen me. Blessed are those who believe without seeing me.”

29 イエスさまはトマスに言いました。「あなたは私を見たから信じたのです。私を見ることなく信じる人は幸いです。」



Purpose of the Book

この本の目的


30 The disciples saw Jesus do many other miraculous signs in addition to the ones recorded in this book.

30 この本に書かれている奇跡のしるしに加えて、弟子たちはイエスさまが他にもたくさんの奇跡のしるしを行うのを見ました。

31 But these are written so that you may continue to believe that Jesus is the Messiah, the Son of God, and that by believing in him you will have life by the power of his name.

31 ですがこれらのことが書かれたのは、あなた方がイエスさまが神さまの息子、救世主であることを信じ続けられるようにです。そしてイエスさまを信じることでイエスさまの名前の力による、いのちを得られるようにです。




ミニミニ解説

ヨハネの第20章です。

イエスさまは金曜日の正午頃、他の二人の罪人と共に十字架に掛けられ、午後三時頃に息を引き取りました。それからアリマタヤのヨセフとニコデモがイエスさまの死体の引き取りを申し出て、日没前にイエスさまの死体を刑場の近くにあった誰にも使われたことのない新しい墓に納めました。安息日が開けた日曜日の朝、マグダラのマリヤが墓に来ると、墓の入り口を塞ぐ石がどけられていて墓の中に死体はありませんでした。それをペテロとイエスさまが愛した弟子の二人が確認しました。前回はペテロとイエスさまが愛した弟子の二人が墓を去った後、そこに残っていたマグダラのマリヤにイエスさまが現れた場面でした。

第19節に「その日曜日の夜」と書いてあるのはその日の夜のことです。つまりイエスさまが十字架に掛けられた金曜日の次の次の日、数えて三日目の夜です。「弟子たちはユダヤの指導者たちを恐れて戸に鍵を掛けて集まって」いたのでした。金曜日の夜にイエスさまが逮捕されたとき、弟子たちは散り散りになって逃げてしまいました。逮捕されたイエスさまはむち打ちを経て残酷な十字架刑で反逆者として処刑されましたから、イエスさまの弟子たちは自分たちにも同じような迫害が及ぶのではないかと気が気でなかったのです。そこで弟子たちは一カ所に集まり、戸に鍵を掛けて話をしていたのでした。場所はエルサレム市内にある「マルコの福音書」を書いたマルコの家の二階ではないかとされています。

集まっていたのは使徒たちのみならず十字架を見ていた女性たちなどガリラヤからずっとイエスさまについてきていた人たちも含め数十人の人たちと思われます。弟子たちは何を話していたのでしょうか。「自分たちにも迫害はあるだろうか」「これからいったいどうしようか」という話もあったでしょうが、マグダラのマリヤがもたらしたイエスさまの死体消失と、さらには復活したイエスさまに会ったという話や、ペテロやヨハネが見た不思議なサナギの殻のような亜麻布の話もしていたことでしょう。ちなみにこうやって弟子たちが「日曜日」に集まっていたことが、今日、キリスト教会が礼拝を日曜日に行うことの始まりになっているようです。

「すると突然イエスさまが弟子たちの中に立っていました。」 戸には鍵がかかっていたのに弟子たちの中にイエスさまが立っていたのです。推理小説で言えば密室トリックです。これは復活したイエスさまが普通の肉体を持った状態ではなく、霊体であったことを伝えているのでしょう。イエスさまは「平安があなた方にあるように(Peace be with you)」と言いました。心が安心していてそこに何の不安も疑問も恐れもない状態、そういう「平安」がいつも弟子たちの心にあるように、とイエスさまは言ったのです。これはイエスさまが常に弟子たちについて思い、願うことですし、そういう平安はイエスさまを信じることで得られるのです。

弟子たちの前にイエスさまが現れたことで、イエスさまが最後の晩餐で話していた内容が実現したのです。John 16:16-22(ヨハネの福音書第16章第16節~第22節)です。

「16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」 17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」 18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」と言った。19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」([新改訳])。

第20節、「イエスさまは話しながら、弟子たちに手とわき腹の傷を見せました。」とありますが、[NLT]で「傷」にあてられた英単語は「wound」です。「wound」は刃物や銃による傷のことですが、大切なのはこれが「傷跡(scar)」ではないことです。「wound」はまだ治癒していない血のしみ出してきそうな生傷のことです。三日前に太い釘で貫かれた手首と槍で突き刺された脇腹の傷は、まだ開いたままで血がしみ出ていたのです。それを見せるイエスさまの様子から「弟子たちは主を見て喜びに満たされた」のでした。つまり弟子たちはそれが紛れもなくイエスさま本人であり、自分たちの目の前に死から復活して存在していることを確認できたから「喜びに満たされた」のです。

第21節、「父が私を送り出したように、私もあなた方を送り出します。」の言葉は、イエスさまが自分が父なる神さまから来たことを再度繰り返し、自分も神さまとして弟子たちを世に送り出す、と言っているのです。そしてそのために最初に起こらなければならないのが、第22節の「聖霊を受け取りなさい。」です。実際に聖霊がやってくる様子はルカが記述した「Acts(使徒の働き)」では第2章に書かれていますが、ヨハネではこれがイエスさまが「弟子たちに息を吹きかける」ことで実現しています。これもイエスさまと神さまを同一視させます。神さまは天地の創造の際に土から作った最初の人間アダムに息を吹き込みました。神さまの息にはいのちがあるのです。「聖霊を受けること」はいのちを得ることと深い関係があるのです。

第23節の「あなた方が誰かの罪を許せば、その罪は許されます。あなた方が許さなければ、その罪は許されません。」は議論を呼ぶ節かも知れません。ここは読み方によっては弟子たちが人間の罪を許すことができるようにも読めるからです。聖書は一貫して人の罪を許すことができるのは神さまだけとしています。そもそも聖書に言う「罪」とは人間が神さまの期待を裏切って神さまをガッカリさせることの総称なのですから、それを許すとか許さないとかは、すべて神さまの視点でのことなのです。

弟子にこのような権限が与えられる記述は「マタイ」の中に二箇所ありました。一つ目はMatthew 16:18-19(マタイの福音書第16章第18節~第19節)でイエスさまがペテロに言った言葉です。「18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」([新改訳])。もうひとつはMatthew 18:18(マタイの福音書第18章第18節)にあるイエスさまの語録の一つです。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」([新改訳])。

最初の方はペテロがイエスさまに「あなたはメシアです」「あなたはキリストです」と宣言したことに対するイエスさまの言葉なのですが、ペテロがこの時点でイエスさまに関する奥義を理解していたとは考えられません。考えられるのはペテロを賞賛するような記述をマタイがここで独自に加えることでペテロの立場を擁護して確立し、初期の教会のリーダーとしてのペテロに多大な権威を与え、そうやって教会を運営していこうとしていたからではないかと言うことです。二つ目は同じような言葉がマタイとヨハネの両方に登場していることから、これは実際のイエスさまの言葉で、それがイエスさまの語録集のようなものの中に存在していた可能性があります。そして当時のイエスさまの信じる教会では、これを根拠に弟子たちが天国のイエスさまの下す判決の代行権を授かっている、と考えていたのかも知れません

第24説~第29節はトマスの話です。このエピソードからトマスは「doubting Thomas(ダウティング・トマス:疑り深いトマス)」などと揶揄されます。第26節、トマスを含む弟子たちが再度集まっていたのは最初の日曜日から「八日後」、やはり日曜日でした。月曜日から金曜日にはみなが仕事をしているし、土曜日は安息日なのであらゆる作業がユダヤの法律で禁じられています。必然的に仲間と集まって何かをしようと思えば日曜日になったのでしょうが、今回もやはり弟子たちが集まっていたのが日曜日で、そこへ二週に渡って連続してイエスさまが現れたことから、キリスト教会の礼拝を日曜日とする慣習の始まりにつながります。

第29節でイエスさまがトマスに言います。「私を見ることなく信じる人は幸いです。」 イエスさまが十字架に掛けられる前、自分は神さまから来たと言うイエスさまに対し、人々は「そうであれば奇跡のしるしを見せなさい。」と言います。それまでにイエスさまは数々の奇跡をすでに行ってきているのに、それでは不十分だと言います。こういう人たちはどれだけ奇跡を見ても「トリックだ」「もう一度やってみろ」と言うのです。

現代でもイエスさまを信じない人に福音の話をすると、どこにそれが事実であるという証拠があるのか、証拠を示して欲しい、と言う方がいます。しかし神さまはそういう方々のためにわざわざ奇跡を示すことはしません。神さまが全知全能の創造者であることは、神さまご自身がご存じなのですから、その方々が信じようと信じまいとその事実は変わりません。神さまには自分の存在を信じてもらうためにわざわざ何かをする必要はありません。神さまが人を創造したのです。どちらが偉いのでしょうか。どうして創造主が被造物に対して媚びる必要があるのでしょうか。イエスさまに関する出来事を真実として証明する材料は、必要かつ十分な量が私たちの前に示されています。第30節に書かれているようにイエスさまは聖書に書かれていることの他にもたくさんの奇跡を行ったのですが、その中から必要かつ十分な量のエピソードがこうして選ばれたのには目的があって、それは第31節に書かれているように「あなた方がイエスさまが神の子、救世主であることを信じ続けられるように」、「そしてイエスさまを信じることで、イエスさまの名前の力による、いのちを得られるように」です。

聖書を読まなくとも自分の周りを見渡せば、この世の中は「偶然の産物」では説明できないことだらけです。この世が「偶然」できたのだとしたらその確率は天文学的な数字になります。これは宇宙にデザイナーがいたことを十分に裏付けると私は思います。私は議論の焦点は創造主としてデザイナーとしての神さまがいるかどうかではなくて、果たして宇宙のデザイナーは聖書に書かれている神さまと同一かどうかだと思うのです。

聖書を読んでイエスさまに関する出来事を文字通りに信じるかどうかは受け手の判断に委ねられています。イエスさまは第29節で「私を見ることなく信じる人は幸いです。」と言っています。ひとつだけ付け加えると、神さまは自分を信じようとしない人たちのためにわざわざ奇跡を起こすことはしませんが、自分を信じる人に対しては次々と奇跡を起こしてくださいます。信じる人に神さまの実在を示してくださるのです。「神さまはすごい。すごすぎる」と何度も何度も繰り返し実感させられます。これは私だけでなく、クリスチャンであれば誰でも体験することです。

トマスのエピソードはときどき教会の説教でも登場します。トマスは最初の日曜日に弟子たちと一緒にいなかったから、こうやって「doubting Thomas」などと呼ばれてしまう羽目になったのだ、だから自分たちもトマスと同じ運命に陥らないように、毎週の礼拝には休まずに出席しましょう、などと参列者の出席を促すメッセージで使われたりします。しかしこのときのトマスはイエスさまが弟子たちに「私を見ることなく信じる人は幸いです。」のメッセージを伝えるために用いられたのですから、このような使い方だと聖書の意図を取り違えてしまうのではないか、と感じます。






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