ヨハネの福音書:第18章ヨハネの福音書:第17章

2015年09月14日

ヨハネの福音書:第17章第1節~第26節:イエスさまの祈り

第17章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Prayer of Jesus

イエスさまの祈り


1 After saying all these things, Jesus looked up to heaven and said, “Father, the hour has come. Glorify your Son so he can give glory back to you.

1 これらのことすべてを話すとイエスさまは天を見上げて言いました。「父よ、その時が来ました。あなたの子に栄光を与えてください。そうすることで子もあなたに栄光を返すことができるように。

2 For you have given him authority over everyone. He gives eternal life to each one you have given him.

2 なぜならあなたは子にすべての人に対する権限を与えたからです。子はあなたが子に与えた人、ひとりひとりに永遠のいのちを与えます。

3 And this is the way to have eternal life -- to know you, the only true God, and Jesus Christ, the one you sent to earth.

3 そしてこれが永遠のいのちを得る方法です。唯一の真の神さまであるあなたと、あなたが地上に送ったイエス・キリストを知ることです。

4 I brought glory to you here on earth by completing the work you gave me to do.

4 私はここ地上であなたが私に行なうようにと与えてくださった仕事を成し遂げることで、あなたに栄光をもたらしました。

5 Now, Father, bring me into the glory we shared before the world began.

5 さぁ父よ、世界が始まる前にふたりで分かち合っていた栄光の中へ、私を連れて行ってください。

6 “I have revealed you to the ones you gave me from this world. They were always yours. You gave them to me, and they have kept your word.

6 私は、あなたがこの世から私に与えて下さった人々にあなたを明らかにしました。彼らはずっとあなたのものでした。あなたは彼らを私に下さいました。彼らはあなたの言葉を守りました。

7 Now they know that everything I have is a gift from you,

7 いま彼らは私が持っているものはすべてあなたからいただいた贈り物だと知っています。

8 for I have passed on to them the message you gave me. They accepted it and know that I came from you, and they believe you sent me.

8 それはあなたが私に下さったメッセージを私が彼らに伝えたからです。彼らはそれを受け入れ、私があなたから来たことを知っています。彼らはあなたが私を送り出したことを信じています。

9 “My prayer is not for the world, but for those you have given me, because they belong to you.

9 私の祈りはこの世のためにではなく、あなたが私に下さった人たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。

10 All who are mine belong to you, and you have given them to me, so they bring me glory.

10 私の人たちはすべてあなたのものです。あなたは彼らを私に下さいました。そうやって彼らが私に栄光をもたらすことができるようにと。

11 Now I am departing from the world; they are staying in this world, but I am coming to you. Holy Father, you have given me your name; now protect them by the power of your name so that they will be united just as we are.

11 いま私は世の中から旅立とうとしています。彼らは世の中にとどまりますが、私はあなたのところへ行きます。神聖なる父よ、あなたは私にあなたの名前を下さいました。いまあなたの名前の力で彼らをお守り下さい。そうやって彼らが私たちと同じように一つとなるようにです。

12 During my time here, I protected them by the power of the name you gave me.  I guarded them so that not one was lost, except the one headed for destruction, as the Scriptures foretold.

12 この場所での私の時間の間は、あなたが私に下さった名前の力で私が彼らを守りました。誰も失われないようにと私が彼らを守りました。聖書があらかじめ預言していた破滅へと向かった一人を例外にして。

13 “Now I am coming to you. I told them many things while I was with them in this world so they would be filled with my joy.

13 いま私はあなたのもとへ行きます。私がこの世の中で彼らと一緒にいた間、私は彼らにたくさんのことを話しました。それは彼らが私の喜びで満たされるようにです。

14 I have given them your word. And the world hates them because they do not belong to the world, just as I do not belong to the world.

14 私は彼らにあなたの言葉を与えました。そして世の中は彼らを憎みます。それは私が世の中に属さないのと同じように彼らもまた世の中に属さないからです。

15 I’m not asking you to take them out of the world, but to keep them safe from the evil one.

15 私は彼らを世の中から連れ出してくれるようにお願いしているのではありません。ですが彼らを邪悪な者から守ってください。

16 They do not belong to this world any more than I do.

16 私と同じように彼らもこの世の中には属しません。

17 Make them holy by your truth; teach them your word, which is truth.

17 あなたの真理によって彼らを清めてください。真理であるあなたの言葉を彼らに教えてください。

18 Just as you sent me into the world, I am sending them into the world.

18 あなたが私を世の中に送り出したように、私も彼らを世の中に送り出します。

19 And I give myself as a holy sacrifice for them so they can be made holy by your truth.

19 そして私は彼らのために私自身を聖なるいけにえとして捧げます。そうすることで彼らがあなたの真理によって清くされるためです。

20 “I am praying not only for these disciples but also for all who will ever believe in me through their message.

20 私はこれらの弟子たちだけのためにお祈りしているのではありません。彼らのメッセージによって私を信じるようになるすべての人々のためにもお祈りしています。

21 I pray that they will all be one, just as you and I are one -- as you are in me, Father, and I am in you. And may they be in us so that the world will believe you sent me.

21 あなたと私が一つであるように、彼らが一つとなるようにお祈りします。それは父よ、あなたが私の中にいて、私があなたの中にいるように。そして彼らが私たちの中にいるように。そうやって世の中が、あなたが私を送り出したと信じるようにです。

22 “I have given them the glory you gave me, so they may be one as we are one.

22 私はあなたが私に下さった栄光を彼らに与えました。それは私たちが一つであるように彼らも一つであるようにです。

23 I am in them and you are in me. May they experience such perfect unity that the world will know that you sent me and that you love them as much as you love me.

23 私は彼らの中にいて、あなたは私の中にいます。あなたが私を送り出したこと、またあなたが私を愛するのと同じようにあなたが彼らを愛していること、それを世の中が理解するような、そんな完璧な一体感を彼らが経験できますように。

24 Father, I want these whom you have given me to be with me where I am. Then they can see all the glory you gave me because you loved me even before the world began!

24 父よ、私は、あなたが私に下さった彼らを、私のいる場所で私と一緒にいさせたいのです。そうすれば、世の中が始まる前からあなたが私を愛してくださったので、あなたが私に下さった栄光のすべてを彼らは見ることができるのです。

25 “O righteous Father, the world doesn’t know you, but I do; and these disciples know you sent me.

25 あぁ、正しい父よ、世の中はあなたを知りません。しかし私は知っています。そしてこの弟子たちはあなたが私を送ったと知っています。

26 I have revealed you to them, and I will continue to do so. Then your love for me will be in them, and I will be in them.”

26 私は彼らにあなたを明らかにしました。そして私はそれを続けます。そうすれば、私に対するあなたの愛が彼らの中にあるようになります。そして私が彼らの中にいるようになります。」




ミニミニ解説

ヨハネの第17章です。

第13章から始まった最後の晩餐の場面は、ユダが夜の闇の中へ出ていった後、イエスさまを取り囲んでいるのは、十二使徒からユダが抜けた11人となり(「イエスさまが愛していた弟子」がゼベダイの息子のヨハネとは別人なら12人とすることもできます)、第14章の最後は「来なさい。さぁ、行きましょう。」と結ばれました。イエスさまの話は第17章まで続くので、どうやら第15章から先はイエスさまがオリーブ山への道を歩きながら使徒たちに話した事柄として構成されているようです。そして今回の第17章は全体がイエスさまが神さまに捧げるお祈りです。弟子たちに話を終えたイエスさまが神さまと話をします。

第1節、イエスさまは「Glorify your Son(あなたの子に栄光を与えてください)」とお祈りします。「あなたの子」はもちろんイエスさまのことです。

聖書には「栄光を与える」「栄光をもたらす」という言い回しがよく出てきますが、「glory(栄光、 誉れ、名誉)」は、賞賛・賛美・褒め言葉で表されるような「本当の素晴らしさ」のことです。では何が賞賛や賛美に値する「本当の素晴らしさ」なのでしょうか。それは神さまの属性(性質)のすべてです。神さまは全知全能です。過去や未来と言う時間を超越して、存在するものすべてについて知っており、また神さまの能力に限界はありません。つまり神さまにできないことはないのです。神さまはそれほどの情報と力を何に使うのでしょうか。神さまは神聖です。神さまは正しい方、善い方で、それと同時に愛する気持ちに溢れています。あらゆる知識と圧倒的な力を遠大な時間軸の上で使って、宇宙に本当の正しさと本当の愛を実現されます。こういう存在は神さまの他には存在しません。これほど素晴らしいことはありません。この神さまのすべてを大きな声で全身全霊、心の底から賞賛し、賛美し、褒め称えることで、神さまに栄光をもたらすのです。

たとえば自分に何か素晴らしいことが起こったとき、それを自分の努力や誰かのおかげであるとか、偶然とか幸運であるとか考えずに、すべては神さまが計画されたとおりに実現したのだと信じ、そうやってそのことについてただ神さまひとりを褒め称えるなら、そうやって自分が神さまを賛美して褒め称える言葉や気持ちや考えが、神さまに栄光をもたらします。自分たちにもたらされるすべての「素晴らしさ」は神さまから来たのだとして、栄光を神さまに返す(帰す)のです。だとすると「Glorify your Son(あなたの子に栄光を与えてください)」は、「すべての素晴らしさはあなたの子供から発するのだから、だからあなたの子供をすべての意味で褒め称えてください。」と言うような意味になります。 続いて「そうすることで子もあなたに栄光を返すことができるように。」とありますから、神さまがそうして下さることで、イエスさまも神さまに栄光をもたらすのです。

第2節、これは福音書の中で何度も書かれてきたことですが、「あなた(神さま)は子(イエスさま)にすべての人に対する権限を与えた」のです。すべての人がどのような人生を経てどこへ至るかを決める権限は神さまからイエスさまに与えられているのです。 続いて「子(イエスさま)は、あなた(神さま)が子(イエスさま)に与えた人、ひとりひとりに永遠のいのちを与えます。」とあります。つまり「すべての人」の中には「神さまがイエスさまに与えた人」というグループに属する人がいるのです。イエスさまが永遠のいのちを与える人というのは、あらかじめ神さまが持っていて、ある時点でイエスさまに委ねたそのグループの人たちということになります。つまりイエスさまが永遠のいのちを与える人というのはあらかじめ神さまによって決められていると言うことになります。

第3節には永遠のいのちを得る方法が書いてあります。これも繰り返しになりますが、それは「唯一の真の神さまであるあなたを知ること」と「あなた(神さま)が地上に送ったイエス・キリストを知ること」の二つです。ここで「知る」というのは「情報として知っている」というよりも、「真実として受け入れている」「信仰を告白して個人的に契約を結んでいる」と言う意味です。

第5節には「世界が始まる前にふたりで分かち合っていた栄光」とあります。かつては神さまとイエスさまは、ある栄光(本当に素晴らしい状態)を二人で分かち合っていたのです。そしてそれは世界が始まる前、つまり天地創造が行われる前のことで、その後イエスさまは神さまと栄光を分かち合っていた状態から分離して神さまと別々の存在となり、その後人間の肉体を得て地上に降り立った、ということになります。いまイエスさまは第4節にあるように神さまが「与えてくださった仕事を成し遂げ」ようとしていますから、それが完了したら、以前の状態、つまり栄光を分かち合っていた状態に戻して下さい、とお願いしています。

第6節からお祈りは弟子たちのためのお祈りに移ります。「あなたがこの世から私に与えて下さった人々」がイエスさまの弟子のことで、「彼らはずっとあなた(神さま)のものでした。」が、「あなた(神さま)は彼らを私(イエスさま)に下さいました。」となった、とあります。

第7節~第8節に書かれているのは、第3節に書かれていた永遠のいのちを得るための方法を弟子たちにあてはめて言い換えていて、弟子たちが神さまとイエスさまを信じていることを話しています。

第9節、「私の祈りはこの世のためにではなく、あなたが私に下さった人たちのためにです。」とあります。このイエスさまの祈りは「世の中」全般のために捧げられたものではなく、神さまがイエスさまに委ねた弟子たちだけのことについてだと言っています。その理由は、「なぜなら彼らはあなたのものだから」とあります。

第10節には、神さまがイエスさまに与えた人たちが「私(イエスさま)に栄光をもたらす」と書かれています。神さまの素晴らしさ、神さまの力や知恵、正しさ、そして神さまの愛、これら神さまの属性を知った弟子たちは、少しでも神さまの意図に沿おうと務め、神さまの目に正しく映ろうと努めます。そういう弟子たちの言動が、世の中に対して神さまとイエスさまの素晴らしさを明らかにし、それがイエスさまに栄光をもたらすのです。

第11節、イエスさまの神さまに対するお願いは、「彼ら(弟子たち)をお守り下さい。」ですが、その理由は「そうやって私たち(神さまとイエスさま)と同じように彼ら(弟子たち)が一つとなるように。」とあります。 神さまとイエスさまが一つである状態がどれほどの結びつきなのか、それが純粋で正しく、強力な結びつきであることは確かですが、それがどれほどのものかを私たち人間が知ることは不可能です。ですがイエスさまの願いは、それと同じように「弟子たちが一つになる」ことをお願いしています。イエスさまの願いは必ずかないますから、イエスさまの弟子は、全知全能の神さまによって今日も一つとなることを目的に守られています。これは大変心強いことです。

第12節によると、イエスさまが地上にいる間、弟子たちはイエスさまに守られていたのです。ここに書かれている、聖書で預言されていたとおりに破滅へと向かった一人とは、この後でイエスさまを裏切るイスカリオテのユダのことです。一般的に「誰も失われないように守りました。」と書かれているのを読むと、それは「誰も死ぬことのないように守りました。」と解釈されます。ところが「誰も失われないようにと私が彼らを守りました。」の英文は、「I guarded them so that not one was lost」と書かれていて、「not one was lost」は過去形です。ということは例外の一人(イスカリオテのユダ)は、過去形で「すでに失われた状態」と表現されいることになります。この場面の少し前にユダは最後の晩餐の席から一人で出て行き、この時点ではどこかでイエスさまを裏切る準備を整えているはずです。つまりユダは生きています。と言うことは「失われた」というのは私たちが考える「死んだ」状態とは違うのです。人は生きている状態でも過去形で「失われた(lost)」状態になるのです。

と言うことは、イエスさまが弟子たちを守った理由の「誰も失われないように」は、私たちが考える「死なないように」とは異なります。神さまの目から見た「失われた人」は、私たちが考える「死んだ人」ではなく、神さまの目から見た「死んだ人」のことです。聖書に書かれている「死」は、いつも「分離」を意味しています。聖書によるとその「分離」は二段階で来ます。私たちが考える「死」は、聖書で言えば「魂(soul)」が肉体から分離する、死の第一段階にあたります。ですが聖書によると魂は不滅で死ぬことがありません。肉体から分離した魂は、神さまの元へ戻るか、神さまから切り離されるか(つまり分離するか)、のどちらかの道をたどります。魂が神さまの元へ戻る唯一の道として私たちに示されたのがイエスさまであり、「イエスさま」の道を選ばない人の魂は神さまの元へ戻れません。この人は神さまから見れば「失われた人」、最終的に神さまから切り離されてしまう人ということです(死の第二段階)。イスカリオテのユダはこの時点ですでに失われた存在、このままでは最終的に神さまから切り離される方の道を選んだ存在なのです。

第13節には、イエスさまが弟子たちにたくさんのことを話したのは、「彼らが私の喜びで満たされるように」だと書かれています。これも簡単に読み飛ばしてしまいそうでいて、とても勇気づけられるメッセージです。なぜなら「福音」の本当の意味を知った人は、他の人には説明不可能な「喜び」に満たされるからで、これはこの喜びを知った人にしかわからないのです。ですがこのようにイエスさまが「彼らが私の喜びで満たされるように」話をしたと書いてある箇所を見つけると、「やっぱりそうだったのか」と思い当たるわけです。クリスチャンは他のクリスチャンの人が表現する「喜び」の証言を聞くと、あぁ、それってわかるなぁと思ったりします。

第14節には、世の中の人たちがクリスチャンを憎む、と書かれています。ヨハネの福音書が書かれた当時のユダヤ社会はいまの日本とはまったく異なり、厳しい戒律が縛る社会でした。その戒律を根本から否定する弟子たちの言動を受け入れる余地はありません。ルールを守らない者は即座に共同体から追放されます。追放された者は生活のあらゆる基盤を失います。場合によっては逮捕され裁かれ殺されてしまいます。

クリスチャンはいまの世の中でも嫌われます。人間はどんな人にも心の闇があります。自分のエゴを制御できない局面になって、それに負けてしまうと、人は「闇」の中へ逃げ込もうとします。John 3:19-20(ヨハネの福音書3章第19節~第20節)には次のように書かれています。「19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」([新改訳])。

イエスさまという「光」が来たとき、光へ近づくことよりも闇の中にとどまることを選ぼうとするのは人間の心の闇によるものです。ここでクリスチャンは神さまの期待を裏切る罪を憎み、罪から遠ざかろうとしますから、闇の中にとどまろうとする側から見れば鼻につくし、独善的に見えるし、なんともいけすかない感じです。だから嫌われるのです。ですがここで誤解してはいけないのは、クリスチャンは特別に偉いとか、天国行きを約束された特権階級であるとか、そういう存在ではありません。救世主イエスさま抜きで神さまの元へ戻れないのは、すべての人間にとって同じことです。クリスチャンになることを選んだ人間が偉いのではなくて、偉いのはただひとり、無償で救いの手を差し伸べてくださる神さまなのです。神さまへの道はすべての人に平等に無償で開かれています。

第17節にある「あなたの真理によって彼らを清めてください。」「真理であるあなたの言葉を彼らに教えてください。」も、すごい一節です。「あなたの言葉」=「真理」であり、それが弟子たちを清めるのです。「清める」は日本語で読むと「きれいな水を掛けて清める」とか「塩をまいて清める」とか、なんだか一時的に清浄な状態にするようなイメージに読めますが、英語では「Make them holy」と書かれています。 「holyな状態」とは「罪による汚(けが)れのない清浄な状態」のことで、「holy」であれば人間は天国で神さまと一緒にいられるのです。私たち人間は誰もが罪で汚れているので、救世主イエスさま抜きでは誰も「holy」にはなれません。ここでは「真理であるあなたの言葉」が弟子たちを「holy」にする、と書かれています。「God's Word(神さまの言葉)」は「聖書」の別称ですので、「聖書」が弟子たちをholyにすると読めます。これは本当のことで「聖書は難しいからきっと理解できないだろう。」と心配するよりも、聖書に触れる機会を少しでも多く繰り返し持つことを強くおすすめします。聖書には特別な力があるからです。人に福音を伝えるときもそうです。自分の言葉で伝える自信がない場合には一緒に聖書を読むのが最良と思います。それからこのヨハネの福音書の冒頭では、イエスさま自身が「Word(ことば)」と呼ばれていました。そして聖書を構成するのは「旧約聖書」と「新約聖書」ですが、「旧約聖書」は救世主であるイエスさまを指し示す本と言われ、「新約聖書」はイエスさまその人を記述した本です。つまり「神さまの言葉」=「聖書」=「イエスさま」=「真理」であり、この真理には人をholyにする力があるのです。

第18節、イエスさまは「あなたが私を世の中に送り出したように、私も彼らを世の中に送り出します。」と言います。神さまがイエスさまを送り出したように、イエスさまも弟子たちを世の中へ送り出すのです。イエスさまはこの後、逮捕されて十字架へ掛けられますが、イエスさまはその直前のお祈りで、もし可能ならばそれを避けたいが自分の意志よりも神さまの意志を尊重する、と言います。たとえばMatthew 26:39(マタイの福音書第26章第39節)に次のように書かれている部分です。「39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」([新改訳])。神さまは愛する人間を救済するために必要な仕事のすべてをイエスさまに委ね、仕事を委ねられたイエスさまは苦しみを避けたいという気持ちよりも、神さまの意志を尊重してその任務と期待に応えたのです。

イエスさまはこれと同じように弟子たちを世の中に送り出す、と言っています。イエスさまは神さまと一体であり、と言うことはイエスさま自身が全知全能の神さまなのですから、すべての人間を天国へ連れて行こうと思えば自分の力の範囲でそれが実現できるはずです。ですがイエスさまはその一番大切な仕事を弟子たち、私たち人間にわざわざ委ねます。私たちは自分の尊敬し信頼する大切な人から、その人にとっての重要で大切な仕事を任されるとき、大きな喜びと大きな責任を感じます。あぁ、自分はこの人からそれほど信頼されているのだという喜びと同時に、これは失敗できないぞ、というひしひしと心に迫る責任感です。

人を愛し信頼するということを示すひとつの方法は、その人に自分の一番大切なことを任せることです。その人がその仕事をきっとやり遂げると信じるし、その結果の如何にかかわらず、その人を受け入れてその人と共に歩む、ということです。イエスさまが私たち人間に委ねる仕事は人間を神さまのいる天国へ連れて行くという、人間にとって最も大切で重要な任務です。イエスさまは私たち人間がこの任務を果たすと信じてくれているし、それを私たちがどれほど下手くそにやったとしても、イエスさまは私たちを受け入れて一緒に歩んでくださいます。しかも私たちはそれをたった一人でやるわけではありません。神さまはいつも私たちと一緒にいて必要な知恵や力はすべて与えて下さいます。全知全能の神さまが味方についていて下さるのですから失敗するはずがないのです。イエスさまは私たち人間に、もし「カラシの種」ほどの信仰があれば、山よ動けと祈ったときに、その山は動くと言いました。もちろん山を動かすのは全能の神さまです。神さまが山を動かして下さると信じることができ、それを微塵も疑わなければ山は動くのです。

第19節でイエスさまは「 そして私は彼らのために私自身を聖なるいけにえとして捧げます。そうすることで彼らがあなたの真理によって清くされるためです。」と決心を語ります。イエスさまが自身をいけにえとして捧げるのは、「彼ら(弟子たち)」のためであり、イエスさまの血によって清められる、つまり罪がまったくない状態とされるのも「彼ら(弟子たち)」です。

第20節からイエスさまのお祈りは、弟子たちの伝える福音のメッセージによってイエスさまを信じるようになるすべての人々についてに移ります。すべての人間にはイエスさまの弟子となる選択肢が示されています。何度も書かれているように、神さまを信じ、人間を救済する手段として神さまがイエスさまを送ったと信じる人はだれでもイエスさまの弟子になれるのです。

第21節でイエスさまが再度一つとなるようにとお祈りする弟子たちには、実際にイエスさまの時代に弟子たちだった人たちばかりではなく、弟子たちが伝えた福音を信じてイエスさまの信者になる人たち全員を含んでいます。

第23節には「May they experience such perfect unity(そんな完璧な一体感を彼らが経験できますように)」と書かれています。それがどんな一体感なのかと言うと、それは「私(イエスさま)は彼らの中にいて、あなた(神さま)は私(イエスさま)の中にいます。」であり、「あなた(神さま)が私(イエスさま)を送り出したこと、またあなた(神さま)が私(イエスさま)を愛するのと同じようにあなた(神さま)が彼ら(弟子たち)を愛していること。」です。

「クリスチャン」というのは教会に通い、聖書を読む人のことではありません。「クリスチャン」は宗教ではないからです。「クリスチャン」とは自分がクリスチャンであることを知っている人のことです。その人はイエスさまがここでお祈りされたような一体感を感じているのです。イエスさまは自分がクリスチャンだと知っている、そういう一体感を感じている人たちに、そのことを理由にして一つになってもらいたいと願い、祈っているのです。さらにその理由は「それを世の中が理解するような」です。イエスさまを信じる人たちがそれを理由に一体となっている様子を見て、世の中の人たちがそのことを認知するようにです。世の中の人の中にはそれを見てうらやましく思い、自分もその仲間に加わりたい、その人たちが持っている素敵なものを自分も手に入れたい、と思うかも知れないからです。

第24節、イエスさまは「父よ、私は、あなたが私に下さった彼らを、私のいる場所で私と一緒にいさせたいのです。」と言います。「私のいる場所」とは霊的には神さまと一体感を持っている場であり、物理的には「神さまの国」、つまり天国です。イエスさまはイエスさまを信じる人たちと一緒にいたいと祈ります。その場所で私たちは「あなた(神さま)が私(イエスさま)に下さった栄光のすべて」を見るのです。霊的にはイエスさまとの一体感を感じる人は地上にいながらにして栄光を見始めるでしょうし、物理的にクリスチャンが後に天国で見ることになる「栄光」がどれほど素晴らしいものなのか、それは想像することさえできません。






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