ヨハネの福音書:第16章ヨハネの福音書第15章第1節~第17節:イエスさまは本当のぶどうの木

2015年09月16日

ヨハネの福音書第15章第18節~第27節:世の中の憎しみ

第15章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The World’s Hatred

世の中の憎しみ


18 “If the world hates you, remember that it hated me first.

18 もし世の中があなた方を嫌うなら、世の中は最初に私を嫌ったことを思い出しなさい。

19 The world would love you as one of its own if you belonged to it, but you are no longer part of the world. I chose you to come out of the world, so it hates you.

19 もしあなた方が世の中に属していたのなら、世の中はあなた方を自分自身のものとして愛するでしょう。しかしあなた方はもう世の中のものではないのです。私はあなた方が世の中から出て来るようにと、あなた方を選んだのです。だから世の中はあなた方を嫌うのです。

20 Do you remember what I told you? ‘A slave is not greater than the master.’ Since they persecuted me, naturally they will persecute you. And if they had listened to me, they would listen to you.

20 私があなた方に言ったことを覚えていますか? 『しもべは主人には及ばない』と。彼らは私を迫害したのですから、当然あなた方をも迫害します。もし彼らが私の話に耳を傾けていたなら、あなた方の話も聞くでしょう。

21 They will do all this to you because of me, for they have rejected the One who sent me.

21 彼らがこれらのことすべてをするのは、私が理由なのです。それは彼らが私を遣わした方を拒絶したからです。

22 They would not be guilty if I had not come and spoken to them. But now they have no excuse for their sin.

22 もし私が来て彼らに話さなかったのなら、彼らに罪はありません。しかしいまとなっては彼らは自分たちの罪について弁解の余地はありません。

23 Anyone who hates me also hates my Father.

23 私を憎む者は誰でも私の父をも憎んでいるのです。

24 If I hadn’t done such miraculous signs among them that no one else could do, they would not be guilty. But as it is, they have seen everything I did, yet they still hate me and my Father.

24 もし私が他の誰にも行うことのできない奇跡のわざを彼らの前で行なわなかったのなら、彼らに罪はありません。しかしいま、彼らは私がしたことをすべて見たのです。それなのに彼らは相変わらず私と私の父を嫌うのです。

25 This fulfills what is written in their Scriptures: ‘They hated me without cause.’

25 これは聖書に書かれている言葉を成就します。『彼らは理由もなく私を憎んだ。』

26 “But I will send you the Advocate -- the Spirit of truth. He will come to you from the Father and will testify all about me.

26 ですが私はあなた方に助け主を送ります。それは真理の霊です。その霊は父から来て、私についてすべてのことを証言します。

27 And you must also testify about me because you have been with me from the beginning of my ministry.

27 そしてあなた方も私について証言しなければなりません。なぜならあなた方は私の伝道活動の初めから私と共にいたからです。




ミニミニ解説

ヨハネの第15章です。

第13章から始まった最後の晩餐の場面は、ユダが夜の闇の中へ出ていった後、イエスさまを取り囲んでいるのは、十二使徒からユダが抜けた11人となり(「イエスさまが愛していた弟子」がゼベダイの息子のヨハネとは別人なら12人とすることもできます) 、第14章の最後は「来なさい。さぁ、行きましょう。」と結ばれました。イエスさまの話は第17章まで続くので、どうやらここから先はイエスさまがオリーブ山への道を歩きながら使徒たちに話した事柄として構成されているようです。

今回はイエスさまを信じる人がどうして嫌われるか、という話です。イエスさまは、イエスさまを信じる人を嫌う人は、その人を嫌う以前にイエスさま自身を嫌っていると言います(第18節)。イエスさまの教えたことを実践しようと努める人たちが嫌われるのは、イエスさま自身が嫌われているからだと言うのです。

イエスさまの教えは、俗な世の中とは一線を画し、正しく神聖な姿、それは神さまが人間を創造したときに「こうあって欲しい」と神さまが人間に期待した姿をいつも指向しなさいと教えます。そのお手本として示されたのが人間の姿をとったイエスさまです。俗な世の中では誰もが心の中に闇を持ち、イエスさまのもたらす光よりも闇を愛し、お互いに隠し事をして、それを暗黙のうちに認め合いながら、表面だけを装って生きています。イエスさまを信じる人は、そういう世の中にありながら、俗で汚(けが)れた自分と決別し、神さまを信じ、神さまの期待に沿って生きられるように、神さまに少しでも喜びをもたらせるように、そうやって生きていくようにと選び出されたのです(第19節)。そう言う人を世の中は嫌うのです。イエスさまを信じる人を拒絶する人は、イエスさま自身を拒絶する人、イエスさまを拒絶する人は、イエスさまを地上へ遣わした神さまを拒絶する人なのです(第21節)。

第22節では、イエスさまは「もし私が来て彼らに話さなかったのなら、彼らに罪はありません。しかしいまとなっては彼らは自分たちの罪について弁解の余地はありません。」と言い、第24節では「もし私が他の誰にも行うことのできない奇跡のわざを彼らの前で行なわなかったのなら、彼らに罪はありません。しかしいま、彼らは私がしたことをすべて見たのです。」と言います。

イエスさまが伝道活動を行った間、ユダヤの各町にある会堂や街角で、あるいはエルサレムの寺院で、あるいはガリラヤ湖の湖畔や丘の上で、イエスさまの話を聞いた人はたくさんいました。イエスさまはあたかも自分が聖書の著者であるかのように聖書の記述を著者の意図の視点から話し、福音書にはその話ぶりが、いままでに聞いたことのないような権威に満ちていたと書かれています。またイエスさまはたくさんの人々の前で数々の奇跡を行っています。病気を治して欲しいと集まってきた人を残らず完全に治癒させ、何年も歩けなかった人を立ち上がらせ、目の不自由だった人の目を開き、耳の不自由だった人の耳を開き、死者をよみがえらすという究極の奇跡も行いました。そして救世主がこういう奇跡を行うことは聖書の中にあらかじめ予告されていたのです。イエスさまは、もし人々がイエスさまの話を一度も聞いたことがなかったのなら、もし人々がイエスさまの奇跡を一度も自分の目で見たことがなかったのなら、「私は信じない」と言うことはできたでしょうが、自分の耳でイエスさまの話を聞き、自分の目で奇跡のわざを目撃した以上、それでもイエスさまを否定し憎むことには罪がある、と言うのです。

第25節の『彼らは理由もなく私を憎んだ。』の引用はPsalm(詩編)からの引用と思われます。神さまを全身全霊で愛し崇拝したダビデは、そのことで周囲から様々な攻撃を受けました。それがダビデが詩編に「彼らは理由もなく私を憎んだ。」と書いている理由です。該当箇所は何カ所かあると思いますが、たとえば第69章にはダビデが神さまに助けを求める次の記述があります。Psalm 69:1-4(詩編第69章第1節~第4節)です。「1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、入って来ましたから。2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。3 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」([新改訳])。

第26節、イエスさまは再度聖霊の話をします。イエスさまは聖霊を「助け主(Advocate)」と「真理の霊(Spirit of truth)」の二つの名前で呼んでいます。 前者は[NLT]の前の版では「相談相手、カウンセラー(Counselor)」という単語が使われていました。[KJV]では「慰める人(Comforter)」と書かれています。これらは原語のギリシア語の持つニュアンスにふさわしい単語を選ぼうとしているわけですが、つまり聖霊とは「助け主、擁護する人(Advocate)」であり「相談相手」であり「慰める人」である、そういう心強い存在なのです。しかも聖霊は後者「真理の霊(Spirit of truth)」ですので常に「正しい」のです。そしてその正しさは人間の考える正しさではなく、神さまの視点での正しさです。聖霊は三位一体のひとつを構成する神さまであり、イエスさまが自分の代わりとしてイエスさまを信じる人ひとりひとりに宿らせるために神さまのもとから送り、一度宿ったらその人に封印されて決してその人を離れないと書かれています。つまりクリスチャンひとりひとりの中には神さまが宿り、その人を決して離れず、その人を守り、その人を慰め、その人を正しい方向へと導くのです。






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