ヨハネの福音書第14章第15節~第31節:イエスさまが聖霊を約束するヨハネの福音書:第14章

2015年09月17日

ヨハネの福音書第14章第1節~第14節:イエスさまは父へ至る道

第14章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus, the Way to the Father

イエスさまは父へ至る道


1 “Don’t let your hearts be troubled. Trust in God, and trust also in me.

1 「心を騒がしてはなりません。神さまを信じなさい。そして私を信じなさい。

2 There is more than enough room in my Father’s home. If this were not so, would I have told you that I am going to prepare a place for you?

2 私の父の家には必要以上の部屋があるのです。もしそうでなかったとしたら、私はあなた方のために場所を準備しに行くなどと言ったでしょうか。

3 When everything is ready, I will come and get you, so that you will always be with me where I am.

3 すべての準備が整ったら、私はあなた方を迎えに来ます。あなた方がいつも私のいる所で私と共にいられるようにです。

4 And you know the way to where I am going.”

4 そしてあなた方は私の行く場所へ至る道を知っています。」

5 “No, we don’t know, Lord,” Thomas said. “We have no idea where you are going, so how can we know the way?”

5 トマスが言いました。「いいえ、私たちは知りません、主よ、あなたがどこへ行かれるのかがわからないのです。それでどうして私たちに道がわかりましょうか。」

6 Jesus told him, “I am the way, the truth, and the life. No one can come to the Father except through me.

6 イエスさまはトマスに言いました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰も父のところへ来ることはできません。

7 If you had really known me, you would know who my Father is. From now on, you do know him and have seen him!”

7 もしあなた方がすでに私を知っているのなら、私の父が誰なのかも知っているはずです。今の時点から、あなた方は父を知っており、すでに父を見たのです。」

8 Philip said, “Lord, show us the Father, and we will be satisfied.”

8 ピリポが言いました。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

9 Jesus replied, “Have I been with you all this time, Philip, and yet you still don’t know who I am? Anyone who has seen me has seen the Father! So why are you asking me to show him to you?

9 イエスさまが答えました。「私はずっとあなたと一緒にいたのではなかったですか、ピリポ。それなのにあなたはまだ私が誰なのかわからないのですか。私を見た者は誰でも父を見たのです。それなのにどうしてあなたは私にあなたに父を見せるように頼むのですか。

10 Don’t you believe that I am in the Father and the Father is in me? The words I speak are not my own, but my Father who lives in me does his work through me.

10 あなたは私が父の中にいて父が私の中にいることを信じないのですか。私が話す言葉は私自身のものではなく、私の中に住む父が私を通して父の仕事をしているのです。

11 Just believe that I am in the Father and the Father is in me. Or at least believe because of the work you have seen me do.

11 私が父の中におり、父が私の中にいるとただ信じなさい。あるいは少なくとも、あなた方が私が行うのを見た仕事によって信じなさい。

12 “I tell you the truth, anyone who believes in me will do the same works I have done, and even greater works, because I am going to be with the Father.

12 あなた方に本当のことを言います。私を信じる者は誰でも、私がしてきたのと同じ仕事、さらに大きな仕事さえ行ないます。それは私が父と共にいるようになるからです。

13 You can ask for anything in my name, and I will do it, so that the Son can bring glory to the Father.

13 あなた方は私の名によって何でも求めることができます。そうしたら私がそれを行います。そうやって子が父に栄光をもたらすことができるようにです。

14 Yes, ask me for anything in my name, and I will do it!

14 そうです。私の名によって何でも私に求めなさい。私はそれを行いますから。




ミニミニ解説

ヨハネの第14章です。

引き続き最後の晩餐の場面です。ユダが夜の闇の中へ出ていった後、イエスさまを取り囲んでいるのは、十二使徒からユダが抜けた11人です(「イエスさまが愛していた弟子」がゼベダイの息子のヨハネとは別人なら12人とすることもできます)。イエスさまが11人へ伝える話は第13章から第17章まで、まるまる4章以上続きます(第17章は「お祈り」です)。

第14章はイエスさまが父なる神さまへの道を示し、再び戻ってくることを約束する章です。

第1節~第3節、イエスさまは一度神さまのいる場所へ戻り、準備を整えたらもう一度迎えに戻ってくる、そしてその後はいつも一緒にいる、と言います。これはイエスさまによる確かな約束です。

第2節には「私の父の家には必要以上の部屋がある」と書かれていて、その規模は「more than enough」、つまり十分な量を上回るうんざりするほどの広さなのです。神さまの家なのですから想像できなほどの規模なのでしょうし、またクリスチャンはその家に住むことが出来るのです。

第4節~第6節、イエスさまは使徒たちに、使徒たちはすでに神さまの場所へ至る道を知っているのだと言いますが、トマスはこれに「知らない」と反論します。トマスの反論はイエスさまの話を聞いている使徒たちの気持ちを代表していたと思います。これは「知らない」と反論しているのではなくて、イエスさまが「道はもう知っているはずだ」と言ったのが、「道はもう知っているのだからあとは自分たちでも来られるでしょう」と聞こえて、とたんに不安になったのだと思います。

まるで小さな子供と親が話しているような雰囲気です。「これからお父さんとお母さんは出かけてくるからね。道はもうわかっているだろうから大丈夫だよね。」と言われて突然不安になり、「どこへ行くの?道なんてわからないよ。どこに行くのかもわからないのに、一人じゃ行けないよ。」と泣きそうになっているのです。これに対してイエスさまの答の第6節は「私が道であり、真理であり、いのちなのです」です。

「イエスさま」=「道」というのは聞いている使徒たちにも、読んでいる私たちにも理解しがたいです。その後に続く「イエスさま」=「真理」、「イエスさま」=「いのち」というのも同様にわかりません。少し考えてみましょう。

「イエスさま」=「道」というのは、神さまが、断絶した人間との関係を回復するために用意した手段が、救世主イエスさまによる十字架死だったので「イエスさま」=「手段」と言っているのではないかと解釈できます。神さまを裏切り続けた人間の罪の代償として、イエスさまが十字架にかかって死ぬことで私たちの罪が許されて神さまの元へ戻れるようになる、イエスさまは私たちが神さまと和解するための手段だ、ということです。「イエスさま」=「手段」=「道」ということです。信じるかどうかは別にして、論理的には筋道だっています。でもそう言うことなのだろうと理解したとしても、だから私たちがどうやって神さまの元へ至るのか、それはわかりません。そこは神さまの領域、霊(spirit)の領域なので、私たちには理解不能です。ここに書かれた「イエスさまが道である」と言う言葉だけを信じて、イエスさまが私たちを神さまとイエスさまのいるところへ連れて行ってくれるのを待つだけです。

「イエスさま」=「真理」もおかしな等式です。「イエスさまの言うこと」=「真理」なのだとしたら何となくわからなくもありませんが・・・。私は「ことば」って一体何なのだろう、とときどき考えます。私は誰かと話をするときに、わざわざ頭の中で作文を済ましてから口を開くことはありません。突然話し始めます。頭の中で思ったことがどのようなメカニズムで「ことば」として紡ぎ出されるのかはミステリーです。ときには自分では想像もしなかったことを口に出してしまうこともあります。

地球上で人間のように「ことば」を操る生き物は他にいません。聖書によれば、一番最初の人間は神さまの姿を映す特別な存在として造られたことになっています。私は「ことば」を紡ぎ出すメカニズムには霊(spirit)が介在していると思えて仕方ありません。この「ヨハネの福音書」の冒頭では、イエスさま自身が「ことば(Word)」と呼ばれています。ヨハネの福音書第1章第1節は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」で始まります([新改訳])。新約聖書の最後の本の「Revelation(ヨハネの黙示録)」では、地上に再来したイエスさまが口から鋭い両刃の剣を発して自分を信じない民を打つ場面があります。この「鋭い両刃の剣」はイエスさまが発する「ことば」なのだと書かれています。神さまは「ことば」を発しただけで天地を創造したのでしたし、この後で裏切り者のユダが兵を引き連れてイエスさまを逮捕しにくる場面では、イエスさまの発したことばで人々が押し倒されたりします。私はそもそも「ことば」というのが神さまの領域のもので、人間はそれをうまく使えないということなのではないかと思うのです。そして神さまの領域のことなのでよくわかりませんが、「イエスさま」=「ことば」=「真理」なのです。

「イエスさま」=「いのち」はどうでしょうか。「イエスさま」=「いのち(を司る存在)」というのならわからなくもないですが・・・。イエスさまは何度か、自分は神さまから宇宙の万物についての全権限を委ねられており、自分の与えたい人にいのちを与えることができると言うようなことを言います。そうして実際に死者をよみがえらせたりもします。だとしたら「イエスさま」=「いのち(を司る存在)」と言えるかも知れませんが、私には「イエスさま」=「いのち」というのはそれ以上の意味を持っていると思えてなりません。

もしも「いのち」の反対にある概念が「死」なのだとすると、実は聖書に書かれている「死」は私たちが一般に考えている「終わり」というような意味のものではありません。聖書の「死」は何かから「切り離されること」を指しています。たとえば「魂(Soul)」が「肉体(Flesh)」から切り離されることだったり、人間が神さまから切り離されることだったりです。だとしたら「いのち」って一体何なのでしょうか。

ひとりの生きている人間がいたとして、その人が心臓発作を起こして突然死んでしまったとしたら、この人の死の直前の身体と死んだ直後の身体を比べてみたら、心臓が動いているか止まっているかの違いだけで、他にはほとんど変わりはないでしょう。でも片方は生きていて片方は死んでいます。そして私たちの科学では死んだ人間を生き返らせることはできません。何だかわからないけれど、「イエスさま」=「ことば」そのもの(あるいは「正しいことば」)であるように、きっと「イエスさま」=「いのち」そのものなのです。「いのち」は「光」や「活力」や「エネルギー」のようなイメージなのかも知れません。そしてそれが失われるとき人は死によって切り離されてしまうのです。

第6節ではイエスさまはさらに「私を通してでなければ、誰も父のところへ来ることはできません。」と言っています。つまり「イエスさま」=「唯一の道」と言うことです。人間が「父のところへ行く」ためには霊的な汚(けが)れが取り除かれる必要があり、そのためには神さまと自分を切り離す原因となった「罪」を許していただく必要があります。聖書では「罪」に対する「罰」が「死」とあります。「死」は「切り離し」を意味しているので、人間は何かの罪を犯した結果、罰として神さまから切り離されていることになります。神さまとの関係を取り戻し、神さまの元へ戻る唯一の方法がイエスさまなのです。そのとき人間は罪を許されて、罰として宣告されていた死が免除され、「いのち」を得るのです。

第7節からイエスさまは「私を見た者は父も見た」「私は父の中にいて父は私の中にいる」という話をします。今度はピリポが「私たちに父を見せてください」と言って、イエスさまから「何を今さらそんなことを言っているのか」と言われてしまいます。ここも解釈は難しいです。「父」にあたる神さまは、全知全能で時間も空間も超越した無限の存在なのですから、きっとこんな感じなのだろうかと頭に思い浮かべることさえできないはずです。形やイメージを与えてしまったら、それはもう無限ではないからです。

聖書の中では、この神さまの「声」が聞こえる場面はいくつかありますが、神さまの「姿」が現れる場面というのはありません。いくつか「神さまの姿」と呼べるような何か、たとえば「炎」としての姿が見えるような場面などがありますが、実はこれらはすべて肉体を持つ前のイエスさまの姿であったのではないかと考えられています。イエスさまは人間の姿を持って地上に立った神さまです。イエスさまが人々に旧約聖書を教えるときには、その部分を記述した人の意図の視点から語り、これが聞き手にそれまで聞いたことのないような権威や知恵を感じさせました。イエスさまはたくさんの人々の前で超自然的な奇跡を次々と行い、そうやって何百年も前から聖書に書かれてきた預言を次々と実現していきました。人々の不信仰を嘆き、偽善や見せかけの信仰を叱りました。神さまを疑うことを微塵もせず、いつも祈り、自分の意志を捨てて神さまの意志を常に優先しました。そうやって神さまに対する愛と人間に対する愛を示しました。

きっとこれらが体現しているものが神さまの姿そのものなのです。イエスさまを知り理解した者は、神さまを理解したに等しいのです。だから「私を見た者は父も見た」になるのだし、「父を見せて下さい」と言うピリポはイエスさまを理解していないということになります。第11節では、どうしても信じられないのなら、自分の目で目撃した超自然的な奇跡の技を見て信じなさいとイエスさまは言います。

第12節でイエスさまが言う、自分の弟子たちがやるようになるさらに大きな仕事とは、イエスさまに関する福音をイスラエルの国境を越えて、世界各地の人々へと伝えていくことなのではないかと思います。

第13節~第14節、イエスさまは弟子たちが「イエスさまの名によって」求めることは何でも行うと言います。クリスチャンがお祈りを捧げるときに、お祈りを最後を「主イエスの名によってお祈りします」とか、英語では「I pray in the name of Jesus Christ」などと締めくくりますが、その理由はこのイエスさまの約束にあります。

全知全能の神さまが、願い事は「何でもする」と言うのですからこれは強力な約束です。「お金が欲しい」「あの人を殺したい」など、魔法のように願えば何でも実現するかのように聞こえます。この点について「神さまはクリスチャンの願いのうち、神さまの意図に合致することだけを行う」と教える人は多いですが、私の解釈は少し違います。それだと「聞き届けられる願い」と「聞き届けられない願い」が出てきてしまいます。「お祈りに対する答が来ないなぁ。私の願いは神さまの意図に沿っていなかったのだろうか。」と悩むことになります。

私はすべての願いは神さまによって聞き届けられている(それが神さまの目に善と映っても悪と映っても)と思っています。そしてさらに神さまはそれらの願いすべてに「応えている」と思います。ただし神さまの「応え方」は、その結果がそのクリスチャンにとって最善の結果につながるように、いつも周到に練られ組み立てられていると思うのです。

たとえば「お金が欲しい」と願う人には、「お金を得る」ことよりも「他者にお金を与える」ことを教え、その人が「与える」ことを学んだときには本当に信じられないほどの富を与えたり、とか。「人を殺したい」と願う人には「人を殺す」ことよりも「他者を愛する」ことの意味を教え、その人が「愛する」ことを学んだときに「殺したい」と思っていた人と自分との間に思ってもいなかった何かが起こる、とか。

そうやってイエスさまはクリスチャンが願うことを「何でも行っている」のだと思います。祈っている人には実はそれが「応え」になっていると気づかないかも知れません。でもある日「もしかしてこれが応えなのではないか」と気づくとき、自分の想像や期待を完全に超越するような神さまの「応え」に触れるとき、クリスチャンは打ちのめされ、自分の小ささを知り、心の底から神さまを褒め称え、イエスさまを褒め称えます。これが「そうやって子が父に栄光をもたらすことができるように」の意味だと思うのです。






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