ヨハネの福音書第11章第45節~第57節:イエスさま殺害の企てヨハネの福音書第11章第1節~第16節:ラザロをよみがえらせる

2015年09月20日

ヨハネの福音書第11章第17節~第44節:ラザロをよみがえらせる(続き)

第11章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


17 When Jesus arrived at Bethany, he was told that Lazarus had already been in his grave for four days.

17 イエスさまがベタニヤに到着すると、ラザロはもう墓に入って四日もたっていると告げられました。

18 Bethany was only a few miles down the road from Jerusalem,

18 ベタニヤはエルサレムから、ほんの数マイル下ったところにありました。

19 and many of the people had come to console Martha and Mary in their loss.

19 大ぜいの人たちが、死を悲しむマルタとマリヤを慰めに来ていました。

20 When Martha got word that Jesus was coming, she went to meet him. But Mary stayed in the house.

20 マルタはイエスさまが来ると聞かされると、イエスさまに会うために出て行きました。しかしマリヤは家にとどまりました。

21 Martha said to Jesus, “Lord, if only you had been here, my brother would not have died.

21 マルタはイエスさまに言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。

22 But even now I know that God will give you whatever you ask.”

22 でもたった今も、あなたがお求めになることは、何でも神さまがあなたにお与えになると私は知っています。」

23 Jesus told her, “Your brother will rise again.”

23 イエスさまはマルタに言いました。「あなたの兄弟は生き返ります。」

24 “Yes,” Martha said, “he will rise when everyone else rises, at the last day.”

24 マルタは言いました。「そのとおりです。最後の日に、他のみなが生き返るとき、ラザロも生き返るのです。」

25 Jesus told her, “I am the resurrection and the life. Anyone who believes in me will live, even after dying.

25 イエスさまはマルタに言いました。「私がよみがえりであり、いのちなのです。私を信じる者は、たとえ死んだ後でも生きるのです。

26 Everyone who lives in me and believes in me will never ever die. Do you believe this, Martha?”

26 私の中に生きる者、私を信じる者は、決して死ぬことがありません。マルタ、このことを信じますか?」

27 “Yes, Lord,” she told him. “I have always believed you are the Messiah, the Son of God, the one who has come into the world from God.”

27 マルタはイエスさまに言いました。「はい、主よ。私はいつもあなたが神さまの子、救い主であると、神さまの元からこの世に来た方であると信じています。」

28 Then she returned to Mary. She called Mary aside from the mourners and told her, “The Teacher is here and wants to see you.”

28 それからマルタはマリヤのところへ帰りました。マルタはマリヤを弔問者たちの横へ呼び出して告げました。「先生がここにいらしています。あなたに会いたいと言っています。」

29 So Mary immediately went to him.

29 そこでマリヤはすぐにイエスさまのところへ行きました。

30 Jesus had stayed outside the village, at the place where Martha met him.

30 イエスさまは村の外、マルタと会った場所にとどまっていました。

31 When the people who were at the house consoling Mary saw her leave so hastily, they assumed she was going to Lazarus’s grave to weep. So they followed her there.

31 家にいてマリヤを慰めていた人々は、マリヤが慌てて出て行くのを見て、マリヤが泣くためにラザロの墓に行くのだろうと思いました。そこで彼らはマリヤについて行きました。

32 When Mary arrived and saw Jesus, she fell at his feet and said, “Lord, if only you had been here, my brother would not have died.”

32 マリヤが到着してイエスさまに会うと、イエスさまの足もとにひれ伏して言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」

33 When Jesus saw her weeping and saw the other people wailing with her, a deep anger welled up within him, and he was deeply troubled.

33 イエスさまはマリヤが泣くのを見て、また他の人たちもマリヤと共に声をあげて泣くのを見ると、自分の中に深い怒りがこみ上げて来ました。そしてイエスさまは深く悩みました。

34 “Where have you put him?” he asked them.  They told him, “Lord, come and see.”

34 イエスさまは人々にたずねました。「ラザロをどこに置きましたか。」 人々はイエスさまに言いました。「主よ、来てご覧ください。」

35 Then Jesus wept.

35 それからイエスさまは涙を流されました。

36 The people who were standing nearby said, “See how much he loved him!”

36 近くに立っていた人々は言いました。「ご覧なさい。彼がどれほどラザロを愛していたことか。」

37 But some said, “This man healed a blind man. Couldn’t he have kept Lazarus from dying?”

37 しかし中には次のように言う人もいました。「この人は目が不自由な人の目を開いたのです。彼にはラザロを死なせないでおくことはできなかったのでしょうか。」

38 Jesus was still angry as he arrived at the tomb, a cave with a stone rolled across its entrance.

38 墓に着いたたときにも、イエスさまはまだ怒っていました。墓はほら穴で、入り口には岩を転がして塞いでありました。

39 “Roll the stone aside,” Jesus told them.  But Martha, the dead man’s sister, protested, “Lord, he has been dead for four days. The smell will be terrible.”

39 イエスさまは人々に言いました。「岩を横へ転がしなさい。」 しかし死んだラザロの姉妹のマルタが反対しました。「主よ、ラザロは死んで四日になります。臭いが酷いはずです。」

40 Jesus responded, “Didn’t I tell you that you would see God’s glory if you believe?”

40 イエスさまが答えました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神さまの栄光を目撃する、と私はあなたに言いませんでしたか。」

41 So they rolled the stone aside. Then Jesus looked up to heaven and said, “Father, thank you for hearing me.

41 そこで人々は岩を横へ転がしました。それからイエスさまは天を見上げて言いました。「父よ、私の声を聞いてくださってありがとうございます。

42 You always hear me, but I said it out loud for the sake of all these people standing here, so that they will believe you sent me.”

42 あなたはいつも私の声を聞いてくださっています。ですが私は声を大きくして言いました。それはここに立っているこれらの人々皆のため、彼らが、あなたが私をお遣わしになったと信じるように、です。」

43 Then Jesus shouted, “Lazarus, come out!”

43 それからイエスさまは大声で叫びました。「ラザロよ、出て来なさい。」

44 And the dead man came out, his hands and feet bound in graveclothes, his face wrapped in a headcloth. Jesus told them, “Unwrap him and let him go!”

44 すると死んでいた人が出てきました。両手と両足は長い布で巻かれたままでした。顔は布で包まれていました。イエスさまは人々に言いました。「布をほどいて自由にしてあげなさい。」




ミニミニ解説

ヨハネの第11章です。

前章の第10章の最後は季節は冬、イエスさまはハヌカーと呼ばれる宮清めの祭事でエルサレムにいて、寺院のソロモンの廊を歩いているときにファリサイ派を含む人たちと議論になり、議論の途中でイエスさまが冒涜にあたる発言をしたとして、人々はイエスさまを石打ちの刑で殺そうとしました。イエスさまは逮捕を逃れてヨルダン川を東に渡り、しばらくそこに滞在していました。おそらくそれはヨルダン川が死海へ注ぐあたり、エルサレムからは30kmほど離れたペレア地方に滞在していたと思われます。

イエスさまを信じ慕う、マリヤとマルタの兄弟ラザロが病であると聞かされたイエスさまはすぐには出発せず、滞在していたペレアのあたりに意図的に2日の間とどまり、それからマリヤたちの住むベタニヤの町へ出かけたのでした。マリヤ、マルタ、ラザロが住んでいたベタニヤの村はエルサレムの東3kmほどの場所にあります。東からベタニヤへ近づけば少なからず危険があることになります。


下の地図はGoogle Mapから切り取って作ったものです  。

Jerusalem-2-Bethany


第17節、到着したイエスさまは、ラザロが四日前に死んでいたことを知らされます。当時のユダヤ人による埋葬は、山腹のような場所を掘って人の入れるくらいの横穴をくりぬいて墓を用意し、この中に細長い布でエジプトのミイラのようにぐるぐる巻きにした遺体を横たえて行いました。ラザロの死体はその状態で既に四日間、墓の中に横たわっていたことになります。

第18節~第19節、三人を知る人たちが、弔問のためにエルサレムからも多数やって来て、兄弟の死を悲しむマリヤとマルタを慰めていました。

第21節、到着したイエスさまを迎えに出たマルタは、イエスさまに「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と告げます。マルタはイエスさまが病人を癒す奇跡を見ているので、ラザロが死ぬ前にイエスさまが到着していたら、イエスさまがラザロの病気を癒してしまったでしょうに、と言うのです。

第23節、イエスさまはマルタに「あなたの兄弟は生き返ります。」と告げます。これを聞いたマルタは、第24節で「そのとおりです。最後の日に、他のみなが生き返るとき、ラザロも生き返るのです。」と答えました。これは旧約聖書の預言書に基づいて当時のユダヤ人が共有していた解釈で、「最後の日」には、それまでに地球上に存在したすべての人が生き返るとされているので、マルタは、もちろんラザロも(自分も)そのときには生き返る、自分はそれを知っている、信じている、という意味で言ったのです。

するとイエスさまは第25節~第26節で、「私がよみがえりであり、いのちなのです。私を信じる者は、たとえ死んだ後でも生きるのです。私の中に生きる者、私を信じる者は、決して死ぬことがありません。マルタ、このことを信じますか?」と言います。何という力強い言葉でしょうか。キリスト教はこれを信じます。イエスさまはよみがえりであり、いのちなのです。そしてイエスさまを信じる人、イエスさまの中に生きる人は、死んだ後も生きます。そして決して死ぬことがありません。

ここの最初の部分を英語で見ると、「I am the resurrection and the life」となっています。「私がよみがえりを司る」「私がいのちを管理している」などではなくて、「I am the resurrection」「I am the life」ですから、「私=よみがえり」「私=いのち」なのです。 これは私たち人間には理解が難しいところですが、「I am」は福音書の中で何度か登場するイエスさまが自分を神さまと同格に語るときに登場するフレーズでもあります(ユダヤ人の指導者たちはこれを神さまに対する冒涜と考えます。) いずれにしても私たちの誰もが予期し恐れる死を克服し、人間に永遠のいのちを与えるのは「よみがえり」であり「いのち」であるイエスさまなのです。

イエスさまを信じる人が死ぬことがなく永遠に生きることについては、その根拠を第3章でイエスさまがニコデモに語っていました。John 3:3-5(ヨハネの福音書第3章第3節~第5節)です。

「3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」([新改訳])。

第3節で「人は新しく生まれなければ」と言われた部分の内容が、第5節では「人は水と御霊によって生まれなければ」と言い直されています。これはおそらく「水によって生まれる」が、人が普通にこの世に生を受けるいのちのことを言い、「御霊によって生まれる」が、イエスさまへの信仰を自分の口で告白し、聖霊を自分の身体に受けることで生じる新しいいのちのことを言っているのだと思います。人であれば誰もが持つ水によるいのちは死によって終わりますが、御霊によって生まれる新しいいのちは永遠に生きるのです。そしてこの新しいいのちを持つか持たないかの違い、人が「死によって終わる」か「永遠に生きる」かの違いは、「神の国に入る」こと、つまり人が天国に至ることができるかどうかの違いなのです。

「最後の日」には地上に存在したすべての人が、神さまの前に立ち、ひとりひとりが裁きを受けます。そこでは「御霊によって生まれる新しいいのち」を持つ人が、神さまのいる天国へ入ることを許され、そうでない人は消えることのない炎の中へ投げ込まれます。消えることのない炎の中に投げ込まれた人はそこで永遠に焼かれ続けます。こちらにも終わりがありません。聖書に言う「死」とは「終わり」ではなく「分離」を意味します。最初の死では水によるいのちが肉体と分離します。そして最後の死による「分離」とは神さまとの完全な分離です。イエスさまを信じると告白して、そうすることでイエスさまが十字架で流した血を受けて、自分の犯した「罪(sin)」による汚(けが)れを洗い流してもらわなければ、人は神聖な天国に入り、神さまと合流することができません。これが最後の審判の後に起こる、人と神さまの完全な分離なのです。

話は少し戻りますが、第22節ではマルタが、いみじくも「でもたった今も、あなたがお求めになることは、何でも神さまがあなたにお与えになると私は知っています。」と言っています。「よみがえり」であり「いのち」であるイエスさまに対し、父なる神さまは、イエスさまが望むことは何でも与える、と言っているのです。そういうイエスさまを前にして、マルタは第21節で「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と告げていたのでした。イエスさまが望むなら、神さまはラザロを死からよみがえらせるいのちを与えたであろうに、マルタの発想はそこまで及びません。

第28節から、マルタが今度はマリヤを呼びに行くと、慌ててイエスさまを迎えに出て行くマリヤに、弔問の人たちが多数ついていきます。

第32節、イエスさまに会ったマリヤの言葉は、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と、マルタの言った言葉の繰り返しです。

第33節、マリヤの嘆き悲しんでいる様子、マリヤに着いてきた多数の弔問者がやはり嘆き悲しんでいる様子を見たイエスさまは、自分の中に深い怒りがこみ上げて来るのを感じ、そして深く悩んだのでした。イエスさまの中には怒りがこみ上げてきたのです。ラザロの死に際して嘆き悲しむ人々を見て、イエスさまはどうして怒り、うめき苦しみ、悩んだのでしょうか。

第34節、イエスさまはラザロの死体の所在をたずね、続く第35節で涙を流します。ここまでの展開から、イエスさまの涙は、「怒り」と「悩み」によるものと推測できます。マリヤやマルタや弔問者と同等の「悲しみ」ではなく、この人たちが嘆き悲しみ泣くのを見ているうちに、こみ上げてきた「怒り」と「悩み」で涙を流したのです。

第36節、周囲の人々はイエスさまの涙を見て「彼がどれほどラザロを愛していたことか。」と言いますが、これは誤解でしょう。人々はイエスさまもやはり自分たちと同じように嘆き悲しんでいる、と思っているのです。イエスさまはこの後、「ラザロよ、出てきなさい。」の言葉ひとつで、ラザロを死から呼び戻してしまいます。それだけの力を持っているイエスさまが、ラザロの死を嘆き悲しむ理由はありません。ではイエスさまは、何に怒り、何に悩んで、涙を流したのでしょうか。

第25節で、イエスさまはマルタに「私がよみがえりなのであり、いのちなのです。私を信じる者は、たとえ死んだ後でも生きるのです。」と言い、「私の中に生きる者、私を信じる者は、決して死ぬことがありません。マルタ、このことを信じますか?」とたずねました。マルタは「はい。主よ。私はいつもあなたが神さまの子、救い主であると、神さまの元からこの世に来た方であると信じています。」と答えました。さらにマルタはこの会話の前に、イエスさまに「私はたった今も、あなたがお求めになることは、何でも神さまがあなたにお与えになると知っています。」とさえ告げています。

マルタは、よみがえりであり、いのちであるイエスさまを前にし、イエスさまが神さまの元から来たと信じる、と告げています。それならばマルタは、どうして嘆き悲しむ必要があったのでしょうか。イエスさまはマリヤやマルタの、自分に対する信仰の言葉とは裏腹の行動を見て怒りを覚えました。また自分が愛する人間が、救世主としての自分を信じようとしながら、信じる気持ちと自分の感情を100%一致させることのできない状況を見て、深く悩んだのでしょう。そして、そういう人間に対する「怒り」と「哀れみ」と「悲しみ」の感情から、涙を流されたのではないでしょうか。

第38節、イエスさまは墓へ向かいますが、まだ怒っています。当時の墓は、石灰岩の露出した山腹や崖の岩肌を掘って作った洞窟などが多く、中を人が歩き回れるくらいのサイズにくり抜きました。死体は土に埋めるのではなく、当時のユダヤ民族の習慣ではエジプトのミイラのように細長い布でグルグルと巻いて、中に横たえました。ひとつの洞窟の中に、複数の死体を並べることもあったようです。通常洞窟の入り口は緩い坂の下に来るように作られていて、葬儀が終わると、数人で大きな丸い岩を転がしてきて入り口を塞ぎます。

第39節で、イエスさまはこの岩をどかすようにと告げます。マルタは臭いが酷いだろうから、と反対しますが、イエスさまは譲りません。死後、四日の日数がすぎれば死体の腐敗はかなり進行しています。周囲の人はラザロの死体が墓の中でどのようなことになっているか、想像できるのです。

第40節、イエスさまはマルタに「もしあなたが信じるなら、あなたは神さまの栄光を目撃する、と私はあなたに言いませんでしたか。」とききます。しかしイエスさまが第25節と第26節でマルタに言ったのは、「私がよみがえりであり、いのちなのです。私を信じる者は、たとえ死んだ後でも生きるのです。私の中に生きる者、私を信じる者は、決して死ぬことがありません。マルタ、このことを信じますか?」です。これはつまりイエスさまの中では「自分を信じる者は決して死ぬことがない」が、「神さまの栄光の目撃」と同じ意味だと言うことです。つまりイエスさまを通じた福音を信じる人が死を克服し超越して神さまの国に至り、そこで不死となることが、神さまによる人間救済の計画の成就であり、それが神さまにとっての喜びであり、誇りなのです。私たちは誰もが、その神さまの栄光の目撃者になれると言うことです。

第41節~第42節、入り口を塞いでいた岩がどかされると、イエスさまが神さまにお祈りします。「父よ、私の声を聞いてくださってありがとうございます。あなたはいつも私の声を聞いてくださっています。」と言った後で、「ですが私は声を大きくして言いました。それはここに立っているこれらの人々皆のため、彼らが、あなたが私をお遣わしになったと信じるように、です。」と言います。これによるとどうやらイエスさまは、いつも心で(あるいは人に聞こえないような小さな声で)神さまと会話されているようです。しかもその会話は「always(いつも)」行われているのです。ただし今回だけは、わざわざその会話を大きく声を出して言いました。その理由は、周囲に立っている人たちが神さまがイエスさまを遣わした、と信じられるように、とのことです。

そして第43節、イエスさまは大きな声でラザロを呼び出します。「ラザロよ、出て来なさい。」

第44節、すると墓の中からラザロが出て来ます。墓から出てくるラザロは埋葬されたときのままの状態です。ミイラのように全身を細い布でグルグルと巻かれ、頭部にはもう一本、別の布がグルグルと巻かれています。両足が二本まとめて巻かれていたとしたら、ラザロは両足を揃えてピョンピョンと跳びながら出てきたのかも知れません。四日前に死んで埋葬された男、誰もが墓の中で腐臭を放っていることを疑わなかった男が、イエスさまの「出て来なさい。」の言葉で、細い布でグルグル巻きにされたまま、墓の穴からピョンピョンと跳ねて出てきたのです。これほどの衝撃の瞬間があるでしょうか。これを目撃したら、イエスさまを信じる他、選択肢はないのではないでしょうか。

当時のユダヤの人たちは、「死者の魂は死後三日目に肉体を離れる」と信じていたそうです。これは聖書に書かれていることではなく、一般的にそう信じられていたということなのです。イエスさまはベタニヤへ来るのを二日間遅らせて、わざわざラザロの放置の期間を四日にしたのではないでしょうか。聖書ではこういう場面がたくさん見られるのです。あるとき目の前の状況が悪化して来て、人が神さまに助けを求めると、神さまの答はすぐにはやって来ません。人はいつも待たされるのです。状況はどんどん悪化していき、もうどう考えても取り返しのつかないところへ追い込まれます。その間、人は落胆し、疑問を持ち、思いつく手段を何もかも試し、絶望の淵から泣き叫ぶように神さまを求めます。そしてついに神さまの答がもたらされますが、その答は人が期待していたレベルを完全に超越した形でやって来るのです。

ちなみに死者の身体に巻かれた細い布は、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたイエスさまが包まれていた布と同じものです。つまりイエスさまは、生まれたときから死者を埋葬する布で包まれていたということになります。






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