2015年09月21日

ヨハネの福音書第10章第22節~第42節:イエスさまが神さまの息子であると言う

第10章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Jesus Claims to Be the Son of God

イエスさまが神さまの息子であると言う


22 It was now winter, and Jesus was in Jerusalem at the time of Hanukkah, the Festival of Dedication.

22 季節は冬になり、イエスさまはハヌカー祭、別名で宮清めの祭りで、エルサレムにいました。

23 He was in the Temple, walking through the section known as Solomon’s Colonnade.

23 イエスさまは寺院の中の、ソロモンの廊として知られる場所を歩いていました。

24 The people surrounded him and asked, “How long are you going to keep us in suspense? If you are the Messiah, tell us plainly.”

24 人々はイエスさまを取り囲んでたずねました。「あなたは、いつまで私たちを宙ぶらりんの状態にしておくつもりですか。もしあなたが救世主なら、私たちにはっきりと言ってください。」

25 Jesus replied, “I have already told you, and you don’t believe me. The proof is the work I do in my Father’s name.

25 イエスさまは答えて言いました。「私はすでにあなた方に話しました。しかしあなた方は私を信じません。その証拠は私が父の名前によって行うわざです。

26 But you don’t believe me because you are not my sheep.

26 しかしあなた方は信じません。それはあなた方が私の羊ではないからです。

27 My sheep listen to my voice; I know them, and they follow me.

27 私の羊たちは私の声を聞きます。私は彼らを知っています。そして彼らは私について来ます。

28 I give them eternal life, and they will never perish. No one can snatch them away from me,

28 私は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがありません。誰も私から彼らを奪い取ることはできません。

29 for my Father has given them to me, and he is more powerful than anyone else. No one can snatch them from the Father’s hand.

29 なぜなら私の父が彼らを私に与えてくださったからです。父は誰よりも強いのです。誰も父の手から彼らを奪い去ることはできません。

30 The Father and I are one.”

30 父と私は一つです。」

31 Once again the people picked up stones to kill him.

31 人々はイエスさまを殺そうとして、また石を取り上げました。

32 Jesus said, “At my Father’s direction I have done many good works. For which one are you going to stone me?”

32 イエスさまは言いました。「父からの命令によって、私はたくさんの良いわざを行ってきました。その中のどれを理由にして、あなた方は私を石打ちにしようというのですか。」

33 They replied, “We’re stoning you not for any good work, but for blasphemy! You, a mere man, claim to be God.”

33 人々は答えました。「我々は良いわざのためにあなたを石打ちにするのではない。冒涜のためです。あなたは、ただの人間でありながら、神だと言うからです。」

34 Jesus replied, “It is written in your own Scriptures that God said to certain leaders of the people, ‘I say, you are gods!’

34 イエスさまは答えました。「あなた方の聖書に書いてあります。神さまが人々のある指導者たちに『私は言う。おまえたちは神々だ』と言ったと。

35 And you know that the Scriptures cannot be altered. So if those people who received God’s message were called ‘gods,’

35 あなた方も知っているように聖書は書き換えることはできません。と言うことは、もし神さまのメッセージを受け取ったこれらの人々が、『神々』と呼ばれたのだとすれば、

36 why do you call it blasphemy when I say, ‘I am the Son of God’? After all, the Father set me apart and sent me into the world.

36 私が『私は神さまの息子です』と言ったからといって、どうしてあなた方はそれを冒涜と言うのですか。どちらにしても父が私を別にして、この世に遣わしたのです。

37 Don’t believe me unless I carry out my Father’s work.

37 もし私が、私の父のわざを行なっていないのなら、私を信じるのはやめなさい。

38 But if I do his work, believe in the evidence of the miraculous works I have done, even if you don’t believe me. Then you will know and understand that the Father is in me, and I am in the Father.”

38 ですがもし私が父のわざを行なっているのなら、たとえ私を信じられないとしても、私が行ってきた奇跡のわざの証拠を信じなさい。そうすればあなた方は父が私の中におられ、私が父の中にいることを知り、理解します。」

39 Once again they tried to arrest him, but he got away and left them.

39 彼らは再びイエスさまを捕らえようとしましたが、イエスさまは逃れて彼らを後にしました。

40 He went beyond the Jordan River near the place where John was first baptizing and stayed there awhile.

40 イエスさまはヨルダン川を越えてヨハネが初めに洗礼を施していた場所に行き、しばらくの間そこにとどまりました。

41 And many followed him. “John didn’t perform miraculous signs,” they remarked to one another, “but everything he said about this man has come true.”

41 そしてたくさんの人々がイエスさまについて行きました。彼らはお互いに言いました。「ヨハネは奇跡のしるしを行なわなかったが、ヨハネがこの方について言っていたことは、ことごとく実現した。」

42 And many who were there believed in Jesus.

42 そしてそこにいた多くの人々がイエスさまを信じました。




ミニミニ解説

ヨハネの第10章です。

第9章はイエスさまが生まれつき目の不自由な人を癒やす話で、第10章は唐突に羊飼いの話で始まりました。しかし前回の第19節~第21節を読むと、羊飼いのたとえ話が終わった後で再び人々の意見が割れたと書かれていることから、羊飼いの話は引き続き、生まれつき目の見えない人を癒やした話の続きとして、同じ聞き手、すなわちイエスさまと対立するファリサイ派と、その対立を見ている人々に対して話されたことがわかりました。

そして今回の部分にも羊飼いが登場しています。

第22節に書かれている、ハヌカー祭(別名:宮清めの祭り)は、旧約聖書に律法として定められている祭事ではなく、紀元前164年に当時エルサレムを支配していたシリア(セレウコス朝)とユダヤ民族の間に起こった「マカバイ戦争」で、ユダヤ民族がエルサレムを奪回し、事実上の独立王国となったことを記念する祭りです。「宮清め」と言うのは、異邦人であるシリア人が寺院に持ち込んだ異教の偶像(ゼウス像など)を取り除き、寺院を清めたことにちなみます。

第23節にある「ソロモンの廊」はエルサレムの寺院の中にある、太い石柱に支えられた屋根のある回廊です。

第24節で、人々はこのソロモンの廊でイエスさまを取り囲み、イエスさまが救世主であることの証明を求めます。話の流れからこの人々とはファリサイ派であると推察できます。 人々の質問の意図は、イエスさまを救世主として確認して信仰に入るためではなく、イエスさまに自分が救世主だと証言させて、その証言を証拠として利用してイエスさまを逮捕しようとしているのです。

第25節~第26節、イエスさまは自分は指導者たちとは何度も話したし、自分の言うことが正しいことは自分が行った数々の奇跡のわざが証明している、証拠は明確なのに信じようとしないのは人々の方だ、と言います。

第28節~第29節、イエスさまは自分を信じる人について、「永遠の命を与え」、そして「誰も私から彼らを奪い取ることはできません」と言います。それは「私の父が彼らを私に与えてくださったから」で、「父は誰よりも強い」から、「誰も私の父の手から彼らを奪い去ることはできません」と言います。 私たちが住むこの宇宙、この世の中は、神さまが創造した世界です。イエスさまを信じ、信仰に入る人というのは、その創造主の神さまがイエスさまに「与えた人」の位置づけなので、誰もその人をイエスさまの手から奪い取ることはできない、と言うのです。これは何とも心強い言葉です。イエスさまを信じる人は自分の信仰の弱さや、神さまの庇護を失うことを心配する必要はないのです。イエスさまを信じる人をしっかりと掴まえて離さないのは、全能の神さまだからです。

第30節の「父と私は一つです」は、大変強力な発言です。イエスさまは神さまである父と、自分が一つだと言っています。これは自分の言動の一つ一つが神さまの意志を100%実現している、そういう意味で神さまと自分は一つであるとも取れますし、シンプルに神さまと自分は一体だ、と言っていると取ることもできます。 後者と解すると、これほど明確に自分の神性を言い切った発言はこれまではなかったのではないかと思います。自分は単なる聖書の先生でも預言者でもなく、自分は神さまと一つだ、と言っていることになります。

第31節、これを聞いたファリサイ派の人々は、イエスさまの発言を冒涜と受け止めて、イエスさまを打ち殺そうと石を拾います。彼らの信じる律法に沿えばは、自分を神だと言う人は死ぬべきとされているからです。たとえば、Leviticus 24:16(レビ記第24章第16節)には「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される」とあります([新改訳])。だから人々は石を拾い上げたのです。

第34節でイエスさまが引用したのは、Psalm 82:6(詩編第82章第6節)の「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。』」の部分です。これは神さまが、イスラエルの指導者や「士師」と呼ばれるリーダを指して、「おまえたちは神々だ」と言った場面です。これは指導者やリーダを、神さまの仕事を代行する人、として言ったものと思われます。 たとえばExodus 4:16(出エジプト記第4章第16節)では、同じように神さまはモーゼを神の代わりとしています。「彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」([新改訳])。「彼」はモーゼの兄アロンのことで、「あなた」がモーゼです。あるいはExodus 7:1(出エジプト記第7章第1節)では、「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる』」([新改訳])とし、モーゼはエジプトの王に対して、神さまの代わりを務めると記述しています。

イエスさまは旧約聖書にこのような記述があるのだとしたら、神さまの意志を純粋に遂行するイエスさまが、自分を「神さまの息子」と呼んだところで、どうして冒涜となるのか、と言うのです。 イエスさまを問い詰めているファリサイ派は律法学者、つまり聖書の先生です。その人たちに対して、イエスさまは聖書に基づく反論をします。イエスさまが聖書を隅々まで知り抜き、また聖書に書かれた文言そのものばかりでなく、その部分が記述された意図にまで言及して話すので人々は、人々はその権威に驚き反論できません。

第38節、イエスさまは「たとえ私を信じられないとしても、私の行った奇跡のわざの証拠を信じなさい」と言います。しかし人々はイエスさまの奇跡を自分の目の前で目の当たりにしながら、イエスさまを信じようとしません。そして相変わらず「証拠を見せろ」「証拠を見せろ」と言って、イエスさまへの迫害を続けるのです。

イエスさまを信じる人は羊飼いであるイエスさまの声を聞き分けてついて行くのですから、イエスさまは自分の声を聞き分けない人を説得するためにわざわざ奇跡を繰り返し行うことはしません。 自分が神さまであることをすべての人に証明して納得させることは、神さまであるイエスさまには不要なのです。証拠は十分に示されているのですから、それを信じるかどうかはひとりひとりの人の判断に委ねられているのです。 イエスさまがもう一度地上に現れるとき、イエスさまは王として、人々を裁き、地上に君臨するために来ます。その栄光と力は誰の目にも明らかです。このときには地上にいるすべての人々が、イエスさまが王であることを知ることになります。






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