ヨハネの福音書:第10章ヨハネの福音書第9章第13節~第23節:イエスさまが生まれつき目の見えない人を癒す(続き)

2015年09月22日

ヨハネの福音書第9章第24節~第41節:イエスさまが生まれつき目の見えない人を癒す(続き)、霊的な盲目

第9章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


24 So for the second time they called in the man who had been blind and told him, “God should get the glory for this, because we know this man Jesus is a sinner.”

24 そこで彼らは、再び以前目が見えなかった人を呼び出して言いました。「このことについて栄光を受けるべきなのは神さまです。なぜなら我々はこのイエスという男が罪人であると知っているからです。」

25 “I don’t know whether he is a sinner,” the man replied. “But I know this: I was blind, and now I can see!”

25 男は答えて言いました。「あの人が罪人かどうか、私は知りません。私が知っているのはこれです。私は目が見えなかったが、今は見えます。」

26 “But what did he do?” they asked. “How did he heal you?”

26 彼らはたずねました。「だが彼は何をしたのか。彼はどうやってあなたを癒したのか。」

27 “Look!” the man exclaimed. “I told you once. Didn’t you listen? Why do you want to hear it again? Do you want to become his disciples, too?”

27 男は大きな声を出しました。「いいですか。私は一度お話ししました。聞いていなかったのですか。どうしてもう一度聞きたいのですか。あなた方も、あの人の弟子になりたいのですか。」

28 Then they cursed him and said, “You are his disciple, but we are disciples of Moses!

28 すると彼らは男をののしって言いました。「おまえはあの男の弟子だ。しかし私たちはモーゼの弟子だ。

29 We know God spoke to Moses, but we don’t even know where this man comes from.”

29 我々は、神さまがモーゼにお話しになったことは知っている。しかし我々はこの男がどこから来たのか知らないのだ。」

30 “Why, that’s very strange!” the man replied. “He healed my eyes, and yet you don’t know where he comes from?

30 男は答えて言いました。「どうしたことでしょう。おかしなことです。あの人は私の目を癒したのです。なのにあなた方は、あの人がどこから来たのか、知らないのですか。

31 We know that God doesn’t listen to sinners, but he is ready to hear those who worship him and do his will.

31 私たちは、神さまは罪人の言うことは聞かないが、神さまを敬い、神さまの意志を行なう人の言うことはいつでも聞いてくださると、知っています。

32 Ever since the world began, no one has been able to open the eyes of someone born blind.

32 世界が始まってからかつて、生まれつき目の見えなかった者の目を開けることができた人などいません。

33 If this man were not from God, he couldn’t have done it.”

33 もしこの方が神さまから来られたのでなければ、そんなことはできなかったはずです。」

34 “You were born a total sinner!” they answered. “Are you trying to teach us?” And they threw him out of the synagogue.

34 彼らは答えて言いました。「おまえは完全に罪人として生まれたのだ。おまえは私たちに教えようと言うのか。」そして彼を会堂の外へ追い出しました。



Spiritual Blindness

霊的な盲目


35 When Jesus heard what had happened, he found the man and asked, “Do you believe in the Son of Man?”

35 イエスさまが、何が起こったかを聞くと、その男を見つけ出して言いました。「あなたは人の子を信じますか。」

36 The man answered, “Who is he, sir? I want to believe in him.”

36 その男は答えました。「主よ、その方はどなたですか。私はその方を信じたいのです。」

37 “You have seen him,” Jesus said, “and he is speaking to you!”

37 イエスさまは言いました。「あなたはその方を見たのです。その方はいまあなたと話しています。」

38 “Yes, Lord, I believe!” the man said. And he worshiped Jesus.

38 その男は言いました。「はい。主よ。私は信じます。」そして彼はイエスさまを崇拝しました。

39 Then Jesus told him, “I entered this world to render judgment -- to give sight to the blind and to show those who think they see that they are blind.”

39 それからイエスさまは彼に言いました。「私は裁きを下すためにこの世に来ました。つまりそれは目の見えない者たちには視界を与え、自分たちには見えると思っている者たちには、実は目が見えていないことを示すためです。」

40 Some Pharisees who were standing nearby heard him and asked, “Are you saying we’re blind?”

40 近くに立っていたファリサイ派の人々の幾人かが、このことを耳にしてイエスさまにたずねました。「あなたは、私たちの目が見えないと言っているのですか?」

41 “If you were blind, you wouldn’t be guilty,” Jesus replied. “But you remain guilty because you claim you can see.

41 イエスさまは答えて言いました。「もしあなた方の目が見えなかったのだとしたら、あなた方には罪はありませんでした。しかしあなた方は『見える』と言うのですから、あなた方に罪は残るのです。」




ミニミニ解説

ヨハネの第9章です。

生まれつき目が不自由だったのにイエスさまによって目を開かれた男は、ファリサイ派の人々の元へ連れて行かれ何度も同じ質問を受けています。前回、男が「私はあの人は預言者だと思います。」と言うので、ファリサイ派は男の両親を呼び出しましたが、両親は事実だけを述べて、イエスさまについては口を閉ざしました。今回、ファリサイ派は再度男の人を呼び出し、同じ質問を繰り返しました。これに対して男が第27節で、「どうしてもう一度聞きたいのですか。あなた方も、あの人の弟子になりたいのですか。」と言うと、ファリサイ派は「おまえはあの男の弟子だ。しかし私たちはモーゼの弟子だ。」と言い、イエスさまの一派と自分たちを明確に区別します。イエスさまを救世主として信じる教会と、モーゼの律法の遵守を第一義に考えて一歩も譲らないファリサイ派の対立は、この時代の典型的な対立の図式です。

ところがこの男の人はひるみません。生まれつき不自由だった自分の目が開き、自分の人生がまったく違うものになった事実が、この男の人を強くしているのです。男の人の発言には確信があります。第30節、「どうしたことでしょう。おかしなことです。あの人は私の目を癒したのです。なのにあなた方は、あの人がどこから来たのか、知らないのですか。」と逆に質問します。神さまのことなら何でも知っているはずの、律法学者のファリサイ派のはずなのに、イエスさまがどこから来たのかわからないのか、ときいているのです。第31節では、「私たちは、神さまは罪人の言うことは聞かないが、神さまを敬い、神さまの意志を行なう人の言うことはいつでも聞いてくださると、知っています。」と言い、自分の意志よりも神さまの意志を尊重し、そうやって願い探し求める人には、必ず答があるのだ、と言います。これは旧約聖書に書かれている、神さまとユダヤ民族の歴史に表されています。ユダヤ民族が独自の判断で、自分たちの好き勝手なことを始めると神さまの怒りを買い、その神さまの怒りを真摯に受け入れて謝罪して助けを求める民を神さまはいつも助けてきたのです。

つまりこの男の人は、イエスさまから目に泥を塗られて「行ってシロアムの池で洗いなさい。」と言われたとき、「私は言われたとおりシロアムの池で自分の目を洗います。もしもそれが神さまの意志であるならば、どうぞ私の目を開いて下さい。私は見えるようになりたいのです。」と願ったのではないでしょうか。そして第32節~第33節、「世界が始まってからかつて、生まれつき目の見えなかった者の目を開けることができた人などいません。もしこの方が神さまから来られたのでなければ、そんなことはできなかったはずです。」と言います。

たとえば、Isaiah 29:18(イザヤ書29章第18節)には、「その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る。」、Isaiah 29:18(イザヤ書35章第5節~第6節)には、「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」と、神さまが目の見えない者に視力を与える様子が預言されています(ともに[新改訳])。「目の見えない者の目を開く」「耳の聞こえない者の耳を開く」「足の萎えた者が飛び跳ねる」「口のきけない者が話し始める」という奇跡は旧約聖書にあらかじめ予告されていた、神さまの力の現れ方なのです。その神さまの力が現れる理由は、「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」とありますが、この部分は、人々に命を与えるイエスさまが、それを飲めば二度と渇くことのない「生きた水」を与える様子を想起させます。

この男の人は、目が見えなかったにも関わらず、聞かされた聖書のことばを胸に刻んで、救世主の訪れを待ち望んでいたのではないでしょうか。これに対してファリサイ派は、「おまえは完全に罪人として生まれたのだ。おまえは私たちに教えようと言うのか。」と言って、男を会堂から追い出します。これで男の処遇は決定的になりました。男はこれからまともな社会生活が営めなくなるのです。

ファリサイ派の言った「おまえは完全に罪人として生まれた」は、この奇跡が起こる前に弟子たちがイエスさまに質問した「先生、どうしてこの人は生まれつき目が見えないのですか。この人自身の罪のためでしょうか、あるいは両親の罪のためでしょうか。」に対するファリサイ派の答です。男が生まれつき目が見えないのは、「完全に罪人として生まれた」からだと言うのです。さらに言えば、ファリサイ派の人たちが、「おまえは私たちに教えようと言うのか」の部分で言いたいのは、自分たちファリサイ派は、律法をことごとく遵守し神さまの元へ行くことが約束された人間なのだ、おまえたち罪人とは立場も身分も違うのだ、と言っているのです。

イエスさまの答は違いました。イエスさまは第3節で、「それはこの人の罪のせいでもでも、この人の両親の罪のせいでもありません。このことが起こったのは、神さまの力がこの人の中に見えるようにです。」と答えています。またイエスさまは、ファリサイ派については別の場面で、表面だけをきれいに見せている偽善者で、内面は汚れに満ちており、神さまの怒りが下ると公然と批判しています。

第35節、男が会堂から追放された(=ユダヤ社会から断絶された)ことを知って、イエスさまが男の前に現れます。イエスさまは「あなたは人の子(the Son of Man)を信じますか。」とききます。「人の子(the Son of Man)」は、イエスさまが好んで用いた自分を呼ぶ際の呼称です。「人の子」は旧約聖書のDaniel(ダニエル書)に登場する「救世主の呼称」なのです。Daniel 7:13-14(ダニエル書7章第13節~第14節)には、「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」と人の子の到来の様子が描かれています([新改訳])。この場面は、救世主の再来、つまり再度イエスさまが地上に姿を現す場面に関する預言として解釈されています。

第36節、男が「人の子」について「主よ、その方はどなたですか。私はその方を信じたいのです。」とたずねると、第37節でイエスさまはそれは自分のことである、と答え、男は第38節で「はい。主よ。私は信じます。」と告白し、イエスさまを信じました。この男の人は、イエスさまについて、自分の体験に基づく証言を重ねるにつれて、イエスさまについての信仰を強めてきたように読めます。自分を癒し、視力を回復してくれたイエスさまを敬愛し、探し求め、イエスさまを信じる証言を重ねてきて、信仰が強められていったのです。

第39節で、イエスさまが言います。「私は裁きを下すためにこの世に来ました。つまりそれは目の見えない者たちには視界を与え、自分たちには見えると思っている者たちには、実は目が見えていないことを示すためです。」 「自分には見える」と思っている者には実は何も見えておらず、「自分には見えない。できることなら真実が見たい。見せて欲しい。」と探し求める者には、イエスさまが、イエスさまを通じた視力を授けるのです。

1 Corinthians 1((コリント人への手紙第1の第1章)には次のように書いてあります。イエスさまに関する信仰や、創造主としての神さまに対する賛美は、他の人が聞けば愚かに聞こえるかも知れない。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(第27節、[新改訳])。神さまは、神さまの存在を否定したり、あるいは無関心を決め込んで、人間の知恵や栄光を絶対的なものと信じ、神さまへの帰依や信仰を愚弄する人たちを「はずかしめるために」、わざわざ愚かな者を選んで福音を伝えさせている、と言うのです。「あなたは神さまを信じますか?」と問われて、「バカじゃないの?」と答える人は、いつの日かはずかしめを受けることになる、ということです。

しかも第39節によると、イエスさまは「自分たちには見える」と、そうやって自負している人たちに「裁きを下す」ためにこの世に来たと言うのです。

第40節で、近くに立って聞いていたファリサイ派の人が、「あなたは、私たちの目が見えないと言っているのですか?」とたずねます。 イエスさまはこれに対し、もし『見えない』と言うのなら話は別だが、「あなた方は『見える』と言うのですから、あなた方に罪は残る」と言います。






english1982 at 20:00│ヨハネの福音書 
ヨハネの福音書:第10章ヨハネの福音書第9章第13節~第23節:イエスさまが生まれつき目の見えない人を癒す(続き)