ヨハネの福音書第9章第24節~第41節:イエスさまが生まれつき目の見えない人を癒す(続き)、霊的な盲目ヨハネの福音書第9章第1節~第12節:イエスさまが生まれつき目の見えない人を癒す

2015年09月22日

ヨハネの福音書第9章第13節~第23節:イエスさまが生まれつき目の見えない人を癒す(続き)

第9章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


13 Then they took the man who had been blind to the Pharisees,

13 人々は、以前は目が不自由だったその男の人を、ファリサイ派の人たちのところに連れて行きました。

14 because it was on the Sabbath that Jesus had made the mud and healed him.

14 と言うのは、イエスさまが泥を作って彼の目を癒したのが安息日だったからです。

15 The Pharisees asked the man all about it. So he told them, “He put the mud over my eyes, and when I washed it away, I could see!”

15 ファリサイ派の人々は男の人に一部始終をたずねました。そこで彼はファリサイ派の人々に話しました。「その人が私の目に泥を塗り、私がそれを洗い流すと、私は目が見えたのです。」

16 Some of the Pharisees said, “This man Jesus is not from God, for he is working on the Sabbath.” Others said, “But how could an ordinary sinner do such miraculous signs?” So there was a deep division of opinion among them.

16 ファリサイ派の中のある人々が言いました。「このイエスという男は神から来たのではありません。安息日に働いているのですから。」 他のファリサイ派の人たちは言いました。「だが普通の罪人である者が、どうしてこのような奇跡のしるしを行なうことができるのだろうか。」 こうしてファリサイ派の間で深い意見の食い違いが起こりました。

17 Then the Pharisees again questioned the man who had been blind and demanded, “What’s your opinion about this man who healed you?”  The man replied, “I think he must be a prophet.”

17 そこでファリサイ派の人たちはもう一度、以前目が不自由だった人にたずねて、答を求めました。「あなたを癒したこの男について、あなたの意見はどうなのですか?」 彼は答えました。「私はあの人は預言者に違いないと思います。」

18 The Jewish leaders still refused to believe the man had been blind and could now see, so they called in his parents.

18 ユダヤの指導者たちは、その男の人の目が以前は目が不自由で、いまは見えるようになったということを信じるのを相変わらず拒みました。そこで彼らは男の両親を呼び出しました。

19 They asked them, “Is this your son? Was he born blind? If so, how can he now see?”

19 指導者たちは両親にたずねました。「これはあなた方の息子ですか? 彼は生まれつき目が不自由だったのですか? だとしたら、どうしていまは見えるのですか?」

20 His parents replied, “We know this is our son and that he was born blind,

20 両親は答えました。「私たちは、これが私たちの息子で、息子は生まれつき目が不自由だったことを知っています。

21 but we don’t know how he can see or who healed him. Ask him. He is old enough to speak for himself.”

21 しかし、どのようにしていま見えるのか、あるいは誰が息子を癒したのかは知りません。息子にきいてください。息子は大人ですから、自分のことは自分で話します。」

22 His parents said this because they were afraid of the Jewish leaders, who had announced that anyone saying Jesus was the Messiah would be expelled from the synagogue.

22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤの指導者たちが、イエスさまを救世主だと言う者は誰であろうと会堂から追放すると言っていたので、彼らを恐れていたからです。

23 That’s why they said, “He is old enough. Ask him.”

23 そのために彼の両親は「息子は十分に大人です。息子にきいて下さい。」と言ったのです。




ミニミニ解説

ヨハネの第9章です。

生まれつき目が不自由だったのを、イエスさまによって目を開かれた男は、ファリサイ派の人々の元へ連れて行かれます。ファリサイ派については何度か説明していますが、当時のユダヤの最高議決機関(つまり国会)に議席を持つ政治結社で、主要なメンバーは律法学者、支持基盤は一般の民衆です。この人たちは旧約聖書のモーゼの律法五書ばかりでなく、古くからのしきたりや律法の解釈にも律法と同等の価値を与えて、そのすべてを間違いなく守ることが正しいことだとしてそれを実践して生きていました。人々は「律法の実践者」=「ファリサイ派」として、ファリサイ派の人々を尊敬し、支持していたのです。

人々が目の不自由だった人をファリサイ派の元へ連れて行った理由は、第14節によると「イエスさまが泥を作って彼の目を癒したのが安息日だったから」とあります。

安息日(the Sabbath)は毎週の土曜日で、この日は律法によって、安息しなければならない日、つまり何も仕事をしてはならない日、に定められていました。さらに律法学者たちは、何が「仕事」「労働」にあたるかについて、細々とした規則を定めていました。それによればおそらくイエスさまが目を癒すために唾液で土をこねた行為と、視力を癒した行為の二つが安息日の違反にあたるのだと思われます。ところで前回も書きましたが、男の視力を回復させた力は「魔法の泥」にあるのではなく、男が示した信仰の行動に応えた神さまの力です。つまりイエスさまはこのとき特に泥を使う必要はなかったはずです(何か他の方法でも良かったはず)。が、もしかするとイエスさまはわざわざ泥をこねることで「労働して」見せて、ファリサイ派の律法解釈の間違いを際だたせようとしたのかも知れません。

ファリサイ派の人たちは目が見えるようになった男を尋問しますが、イエスさまが奇跡を行ったということを素直に受け入れることができません。その主たる理由は第16節に「このイエスという男は神から来たのではありません。安息日に働いているのですから」と書かれています。

奇跡を行うこと、特に「視力を回復する」ような奇跡は、神さまの元から来た預言者でなければできないはずなのですが、神さまのところから来たその人が、まさか安息日にその奇跡を行うはずがない、というのがファリサイ派の考えです。安息日に奇跡を行えば、神さまがモーゼを通じて与えた律法に違反してしまうから、そこに矛盾が生じると言うのです。目の不自由だった男の視力が回復したのは事実なのに、律法や慣例を何よりも重視して拠り所とするファリサイ派は、その事実が起きたことを公然と認めることができないのです。

聖書に書かれている安息日の掟は以下です。Exodus 20:8-11(出エジプト記第20章第8節~第11節)で十戒の中に含まれています。

「8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。-- あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も -- 11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」([新改訳])。

神さまはどうして安息日を定めたのでしょうか。それは神さまが六日間で天地創造を行い、七日目に休まれたからです。私は神さまは、一週間に一度くらいは仕事を休んで神さまを思い出し、その日を神さまに感謝し、褒め称える日としなさい、こういうことさえわざわざ律法にして示さなければ、人はすぐに神さまを忘れてしまうのだろうから、と言っているのだと思います。だとしたら安息日に最優先でするべきこととは、何が何でも休むことではなくて、神さまを褒め称えることではないかと思います。

ファリサイ派は男への質問を繰り返し、そして第17節で確信を突く質問をします。「あなたを癒したこの男について、あなたはどう思うのか?」 これに対し男は「私はあの人は預言者だと思います。」と言いました。実はこの発言をしたことで、この男の人はユダヤのあらゆる共同体から追放され、普通の社会生活が営めなくなる可能性があるのです。ユダヤの律法違反者として、ファリサイ派が否定するイエスさまを公然と「預言者」と呼んだのですから。

ファリサイ派は男の決意が固いのを見て取ると、次に男の両親を呼び出します。両親は息子の目が生まれつき不自由だったこと、そしていまは見えることを証言しますが、どうして見えるようになったのかはわからない、と言います。両親は「息子を癒した人が預言者だったからだと思う」とは言えませんでした。共同体から追放されることを恐れたのです。

第22節にはそのことについて「会堂から追放する(would be expelled from the synagogue)」と書かれています。会堂(synagogue)はユダヤの集会所で、毎週の安息日には成人男子による集まりが開かれました。このとき上座には常にファリサイ派の先生が座り、人々はファリサイ派の先生から聖書の読み聞かせや、律法の解釈を聞いていたのです。ちなみに「会堂」は「寺院」ではありません。ユダヤの寺院はエルサレムにある1カ所だけです。なおファリサイ派が正式に「イエスさまを救世主だと言う者は誰であろうと会堂から追放する」と言ったのは、イエスさまの有罪が確定してイエスさまが処刑されたずっと後の話だと思います。イエスさまの十字架死~復活の後の様子を描く「Acts(使徒の働き)」では、パウロやバルナバがユダヤの会堂に入り、そこに集まったユダヤ人や異邦人に福音を伝えています。福音書が書かれたのは、イエスさまの十字架死~復活から数十年も経った後のことで(特にヨハネは一番最後です)、この頃にはイエスさまを救世主と主張するクリスチャンは、保守派のユダヤ人から迫害されて会堂を追われるようになっていました。

しかし神さまを褒め称えるべき安息日だと言うのに、ファリサイ派からは「視力が回復して本当に良かったですね」「神さまはすばらしい。この奇跡について神さまを褒め称えましょう」というような言葉はいっさい聞かれません。彼らには、男の視力が回復したことよりも、イエスさまが律法違反をしたことの方が重大事なのです。自分たちは律法を禁欲的に遵守して民衆の圧倒的な支持を集めてきたというのに、突然イエスさまという人物が現れて、安息日に公然と奇跡を行い、集まった人々には制定者の意図に沿った律法の解釈や、いままでに聞いたことのないような威厳のある言葉を語りかけ、これで民衆の支持を奪い、逆に自分たちを偽善者として批判するのです。彼らは嫉妬と怒りに燃えていたのでしょう。






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