ヨハネの福音書:第9章ヨハネの福音書第8章第31節~第42節:イエスさまとアブラハム

2015年09月23日

ヨハネの福音書第8章第43節~第59節:イエスさまとアブラハム(続き)

第8章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


43 Why can’t you understand what I am saying? It’s because you can’t even hear me!

43 どうしてあなた方は私の話していることが理解できないのですか。それは、あなた方には私の話を聞くことさえできないからです。

44 For you are the children of your father the devil, and you love to do the evil things he does. He was a murderer from the beginning. He has always hated the truth, because there is no truth in him. When he lies, it is consistent with his character; for he is a liar and the father of lies.

44 あなた方は、あなた方の父である悪魔の子供です。そしてあなた方は悪魔が行う邪悪な事柄をするのを好みます。悪魔は初めから人殺しでした。悪魔は常に真理を嫌ってきました。それは悪魔の中に真理がないからです。悪魔が嘘をつくとき、その嘘は悪魔の性格そのものです。なぜなら悪魔は嘘つきであり、偽りの父だからです。

45 So when I tell the truth, you just naturally don’t believe me!

45 だから私が真理を話すとき、あなた方が私を信じないのは自然なことなのです。

46 Which of you can truthfully accuse me of sin? And since I am telling you the truth, why don’t you believe me?

46 あなた方のうちの誰か、私に罪があると本当に責められる者がいますか。そして私が真理を話しているのに、どうして私を信じないのですか。

47 Anyone who belongs to God listens gladly to the words of God. But you don’t listen because you don’t belong to God.”

47 神さまに帰属する者は、喜んで神さまの言葉に耳を傾けます。ですがあなた方は神さまに帰属しないから、耳を傾けないのです。」

48 The people retorted, “You Samaritan devil! Didn’t we say all along that you were possessed by a demon?”

48 人々は言い返しました。「サマリヤの悪魔め。我々はあなたが悪魔に取り憑かれていると、ずっと言ってこなかったですか。」

49 “No,” Jesus said, “I have no demon in me. For I honor my Father -- and you dishonor me.

49 イエスさまは言いました。「違います。私の内に悪魔はいません。なぜなら私は私の父を褒め称えるからです。あなた方は私に恥辱を与えています。

50 And though I have no wish to glorify myself, God is going to glorify me. He is the true judge.

50 そして私は私自身を褒め称えようとは思いませんが、神さまは私を褒めてくださいます。神さまは真理の裁判官です。

51 I tell you the truth, anyone who obeys my teaching will never die!”

51 あなた方に本当のことを言いましょう。誰でも私の教えに従う者は死ぬことがありません。」

52 The people said, “Now we know you are possessed by a demon. Even Abraham and the prophets died, but you say, ‘Anyone who obeys my teaching will never die!’

52 人々は言いました。「あなたに悪魔が憑いていることが今こそわかりました。アブラハムや預言者でさえ死んだのです。しかしあなたは『誰でも私の教えに従う者は死なない』と言うのです。

53 Are you greater than our father Abraham? He died, and so did the prophets. Who do you think you are?”

53 あなたは私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。アブラハムは死んだのです。預言者たちも死にました。あなたは自分自身を誰だと言うのですか。」

54 Jesus answered, “If I want glory for myself, it doesn’t count. But it is my Father who will glorify me. You say, ‘He is our God,’

54 イエスさまは答えました。「もし私が自分自身のために栄光を欲するなら、それには何の価値もありません。ですが私に栄光を与えるのは私の父なのです。あなた方は『彼は私たちの神だ』と言います。

55 but you don’t even know him. I know him. If I said otherwise, I would be as great a liar as you! But I do know him and obey him.

55 ですがあなた方は神さまを知ってさえいません。私は知っています。もし私が知らないと言えば、私はあなた方と同様にたいそうな嘘つきになるでしょう。しかし私は神さまを知っており、神さまに従っています。

56 Your father Abraham rejoiced as he looked forward to my coming. He saw it and was glad.”

56 あなた方の父アブラハムは、私が来る日を期待して喜びました。彼はそれを見て喜んだのです。」

57 The people said, “You aren’t even fifty years old. How can you say you have seen Abraham?”

57 人々は言いました。「あなたはまだ五十歳にさえなっていません。それなのにどうしてあなたはアブラハムを見たと言えるのですか。」

58 Jesus answered, “I tell you the truth, before Abraham was even born, I Am!”

58 イエスさまは答えました。「あなた方に本当のことを言いましょう。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」

59 At that point they picked up stones to throw at him. But Jesus was hidden from them and left the Temple.

59 ここまで来て人々は石を拾い上げてイエスさまに投げつけようとしました。しかしイエスさまの姿は人々から隠され、イエスさまは寺院を後にしました。




ミニミニ解説

ヨハネの第8章です。

イエスさまは仮庵の祭りにエルサレムへ上りました。仮庵の祭りは期間中、寺院ではシロアムの泉から汲んできた水を祭壇に運ぶ儀式が毎日行われ、夜間には寺院に燈火が絶やされることなく灯されました。仮庵の祭りは光と水の祭典です。祭りの最後の日、儀式が最高潮に達したときにイエスさまは群衆の中で立ち上がり、「渇いているのなら、誰でも私のもとに来なさい。」「私は世の光です。もし私に従うのなら、もう闇の中を歩む必要はありません。」と呼びかけました。イエスさまの呼びかけの内容も光と水になっているのがわかります。

イエスさまは寺院でイエスさまと真っ向から対立するファリサイ派や、イエスさまを口先だけで信じると言って集まってくる人たちと議論を戦わせてきました。今回が寺院での話のクライマックスです。

第43節、イエスさまは、あなた方は「私の話していることが理解できない」、「私の話を聞くことさえできない」と言います。ここは、Isaiah 6(イザヤ書第6章)を思い起こさせます。Isaiah 6:8-10(イザヤ書第6章第8節~第10節)です。

「8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」」([新改訳])。

これは預言者イザヤが見た幻の中で、神さまがイザヤに対して「民に言え」と伝えた言葉です。神さまの民に対する怒りから発した、もう聞いても理解するな、見ても知るな、という呪いの部分です。今回、イエスさまはそうでなくとも「聞いても理解できない」ように神さまから呪いをかけられている人たちに、「聞くことさえしない」と言っているのです。

第44節はあまりにも強烈です。「あなた方は、あなた方の父である悪魔の子供です。そしてあなた方は、悪魔が行う邪悪な事柄をするのを好みます。」 これは全福音書を通じて一番強烈な言葉かも知れません。前回、人々は自分たちはアブラハムの子供であり、すなわち神さまの子供である、と主張しました。これは血筋や家柄に基づいた発言です。イエスさまはそれは違う、と頭から否定し、今回は同じ人たちに「あなた方は悪魔の子供だ」と言い放ちます。ここまで人々がイエスさまに示してきた態度は、真理の否定、表面を飾り立てるための嘘、殺意を感じさせる怒りなどから出てきていて、これらはサタンのキャラクターそのものです。イエスさまは、どれほど人々の心が悪魔にコントロールされているかを指摘して言っているのですが、人々はそのように言われても、いよいよ頑固に態度を硬化させてイエスさまと対立していきます。

第46節、「あなた方のうちの誰か、私に罪があると本当に責められる者がいますか」とイエスさまが挑戦します。イエスさまは幾度か、こうやって周囲の人々に挑戦しますが、ほとんどの場合、人々の反応は、「挑戦を受けない」か、「挑戦の結果得られた答を素直に受け入れない」のどちらかです。これは現代に生きる人々とまったく同じです。世の人たちはイエスさまや聖書の存在を無視するか、関心を払わないか、あるいは説明を受けても受け入れようとしない人がほとんどです。聖書によれば、最初の創造主の神さまが作った世界は、神聖で完璧だったのですが、その中に置かれた最初の人間のアダムとエバは、自らの意志で神さまを裏切る行動をとったのでした。つまり人々が神さまの元を追われたのは自己責任です。ところが神さまにとっての人間は、他にはない特別な愛情を注いで創造した存在なのです。たとえそうやって自分勝手に飛び出して行った人間でも見捨ててはおくことはぜず、人間の犯した裏切りの罪の代償として、わざわざ自分の子供のイエスさまを犠牲に差し出したのです。神さまの側から、そういう一方的な救済策を用意した、というのが聖書に示された「良い知らせ」「福音」の意味です。人間がこの救済策を受け入れるか否かは、ひとりひとりの選択に委ねられています。救済策は一方的なものなので、「受け入れる」と表明する人には無条件で無償で与えられるのです。ですが世の中の人々の大半は、この計画を無視するか、受け入れないかのどちらかです。神さまの側から、これ以上はない和解の提案が行われているのに、人々は聞かないし、理解しようとしないのです。

第48節、人々はついに怒り始め、「サマリヤの悪魔め」と、悪魔はイエスさまの側だ、イエスさまには悪魔が取り憑いている、と言い始めます。サマリヤは以前イスラエルが南北の王朝に割れたときの北朝の首都で、北朝の初代の王ヤロブアムは、聖書が禁じていた偶像崇拝を公にスタートさせ、これをきっかけとして最終的には王朝を壊滅に追い込みました。アッシリア帝国に滅ぼされた北朝からは、下層民を除くユダヤ人が国外へ連れ去られ、代わりに植民された異民族と下層ユダヤ人との間で混血が始まりました。このためサマリヤは神聖や純血を尊ぶエルサレムの指導者層から嫌悪される存在なのです。一方、ヨハネの福音書ではそのサマリヤの人たちにアプローチして支持を得るイエスさまの姿が象徴的に描かれており、エルサレムの指導者層はそれを苦々しく思っていて、これが「サマリヤの悪魔め」という台詞につながったのかも知れません。

第51節、「あなた方に本当のことを言いましょう。誰でも私の教えに従う者は死ぬことがありません。」は、先にも書いた神さまの救済策のことを言っています。ひとりの人間が、自分は神さまの期待を裏切る罪人であると認め、イエスさまを信じ、と言うのはつまりイエスさまが、神さまから地上へ遣わされた人間の肉体を持つやはり神さまであり、そのイエスさまの十字架死が人々の罪を洗い流し、役目を終えたイエスさまが死から復活したことを信じ、これまでの自分の生き方を悔い改めて、神さまの意志を追い求めるのなら、その人は神さまを裏切った「罪」に対する「罰」としての「死」から解放され、つまり死ぬことがなくなる、ということです。自分で「信じる」「選択する」と宣言することで、イエスさまを通じた神さまとの和解の道が開かれる、ということです。

ところが第52節、人々には「死なない」の意味がわかりません。これは当然だと思います。特にこのときはイエスさまの十字架死と復活の前なのですから、イエスさまが何を言っているのか、わかっている人はひとりもいません。第52節~第53節、旧約聖書に登場するアブラハムや預言者たちも死んだ、地上の人間で死を免れる者は一人もいないはずなのに、イエスさまは自分の教えに従う者は死なないと言います。人々はイエスさまが自分を、旧約聖書の英雄であり自分たちの父祖であるアブラハムよりも上に置く発言を許すことができません。

第56節、イエスさまは「あなた方の父アブラハムは、私が来る日を期待して喜びました。彼はそれを見て喜んだのです。」と言います。アブラハムが生きた時代は、イエスさまの時代から、2500年も前の過去なのに、イエスさまはアブラハムが喜んだ様子をあたかも自分の目で見たような言い方をします。それで第57節で人々は「見たのか?」とききます。

第58節、これに対するイエスさまの答は、「あなた方に本当のことを言いましょう。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」です。聖書を読んでいくと、天地を創造した神さまを含めて、聖書に登場する神さまが、実はイエスさまだったことがわかります。「三位一体」は父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三者がひとつの神さまであり、神さま、イエスさま、聖霊はそれぞれ同じ神さまの異なる位相や格だと言う考え方です。これは何しろ神さまのことなのでよくわかりませんが、私個人の中のイメージは、神さまというのは何かとてつもなく大きな存在で、その中で「手段」や「媒体」として、世界や人間と物理的に接してきたのがイエスさまのようです。だとするとアブラハムに現れた神さまも実はイエスさまであり、第56節の記述「あなた方の父アブラハムは、私が来る日を期待して喜びました。彼はそれを見て喜んだのです。」によれば、そのときにイエスさまはアブラハムに、2500年後の未来に自分が地上に降りる日の様子を幻の中に見せたのではないでしょうか。旧約聖書の中にはそのときの様子は見あたりませんが、おそらくアブラハムが息子のイサクを捧げようとしたときではないかと想像できます。そしてイエスさまは、いまから2000年前、自分の役目を全うするために人間の肉体を持って地上に降りたのです。

第59節、人々の怒りは頂点に達して、イエスさまに向かって石を投げつけようとします。これは旧約聖書の律法で、神さまに対する冒とくの罪を働く人を死刑にする石打ちのためです。イエスさまの言った言葉の中の「before Abraham was even born, I Am!」の中の最後の部分、「I Am」のところは「Am」の「A」が大文字で書かれていますが、この「I Am」はそのまま「私はいる」「私である」などと訳すこともできますが、これは実は神さまが聖書の中で自分自身を呼んだ呼称なのです。Exodus 3:14(出エジプト記第3章第14節)で、モーゼが神さまに名前をたずねる場面がありますが、そのとき神さまは「わたしは、『わたしはある』という者である。」([新改訳])と答えました。つまりイエスさまはここで自分が「I Am」だ「自分は神だ」と言っているに等しいので、人々はこれを神さまに対する冒とくととらえ、我慢ができなくなったのです。

しかし石はイエスさまに当たりませんでした。[NLT]には「But Jesus was hidden from them and left the Temple.(しかしイエスさまの姿は人々から隠され、イエスさまは寺院を後にしました)」とありますが、下にある[KJV]ではこの部分に興味深い記述があります。同じ箇所は「but Jesus hid himself, and went out of the temple, going through the midst of them, and so passed by.(しかしイエスさまは自身の姿を隠し、人々の真ん中を通り、すり抜けて寺院から出て行きました)」と書かれているのです。イエスさまは、自分の姿を隠して、人々から気づかれることなく人々の真ん中を通り抜けることができたのです。






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