2015年09月30日

ヨハネの福音書第1章第19節~第34節:洗礼者ヨハネの証言、イエスさま、神さまの子羊

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Testimony of John the Baptist

洗礼者ヨハネの証言

19 This was John’s testimony when the Jewish leaders sent priests and Temple assistants from Jerusalem to ask John, “Who are you?”

19 ユダヤの指導者たちがエルサレムから祭司と寺院の者を送り、洗礼者ヨハネに「あなたは誰なのですか」とたずねさせたときのヨハネの証言はこうでした。

20 He came right out and said, “I am not the Messiah.”

20 ヨハネはまっすぐに出てきて言いました。「私は救世主ではありません。」

21 “Well then, who are you?” they asked. “Are you Elijah?” “No,” he replied. “Are you the Prophet we are expecting?” “No.”

21 彼らはたずねました。「では、いったいあなたは誰なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは答えました。「いいえ、違います。」「あなたは我々が待ち望むあの預言者なのですか。」「いいえ、違います。」

22 “Then who are you? We need an answer for those who sent us. What do you have to say about yourself?”

22 「だったらあなたは誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事を持ち帰らなければならないのです。あなたは自分自身を何だと言われるのですか。」

23 John replied in the words of the prophet Isaiah: “I am a voice shouting in the wilderness, ‘Clear the way for the Lord’s coming!’”

23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉をもって答えました。「私は、『道を整えよ、主が来られる』と、荒野で叫ぶ声です。」

24 Then the Pharisees who had been sent

24 彼らはファリサイ派の人たちから遣わされたのでした。

25 asked him, “If you aren’t the Messiah or Elijah or the Prophet, what right do you have to baptize?”

25 彼らはたずねました。「あなたが救世主でもなく、エリヤでも、あの預言者でもないのなら、何の権限であなたは洗礼を授けているのですか。」

26 John told them, “I baptize with water, but right here in the crowd is someone you do not recognize.

26 ヨハネは言いました。「私は水で洗礼を授けますが、ちょうどあなた方群衆の中に、あなた方の知らない方がおられます。

27 Though his ministry follows mine, I’m not even worthy to be his slave and untie the straps of his sandal.”

27 その方の活動は、私の活動に続くことになるのですが、私はその方の召使いとなる価値もないし、その方のサンダルの紐を解く価値もないのです。」

28 This encounter took place in Bethany, an area east of the Jordan River, where John was baptizing.

28 この出会いは、ヨルダン川の東岸川のベタニヤでの出来事です。ヨハネはそこで洗礼を授けていたのです。



Jesus, the Lamb of God

イエスさま、神さまの子羊

29 The next day John saw Jesus coming toward him and said, “Look! The Lamb of God who takes away the sin of the world!

29 その翌日、ヨハネはイエスさまが自分の方へ来られるのを見て言いました。「見なさい。世の中の罪を取り除く神さまの小羊です。

30 He is the one I was talking about when I said, ‘A man is coming after me who is far greater than I am, for he existed long before me.’

30 この方こそ、私が、私の後から来る人がいる、その方は私よりはるかにまさる方である、なぜならその方は私より先におられたからだ、と言った人です。

31 I did not recognize him as the Messiah, but I have been baptizing with water so that he might be revealed to Israel.”

31 私はこの方が救世主とは知りませんでした。しかし私が水で洗礼を授けていたのは、この方がイスラエルに明らかにされるためだったのです。」

32 Then John testified, “I saw the Holy Spirit descending like a dove from heaven and resting upon him.

32 ヨハネは証言して言いました。「私は聖霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまるのを見ました。

33 I didn’t know he was the one, but when God sent me to baptize with water, he told me, ‘The one on whom you see the Spirit descend and rest is the one who will baptize with the Holy Spirit.’

33 私にはこの方がそうだとは知りませんでしたが、神さまが水で洗礼を授けさせるために私を遣わされたとき、次のように私に言われました。『ある人の上に聖霊が降りてきて、とどまるのが見えたなら、その方こそ、聖霊によって洗礼を授ける方である。』

34 I saw this happen to Jesus, so I testify that he is the Chosen One of God.”

34 私はそれがイエスさまに起こるのを見たのです。だから私は証言します。この方こそが、神さまに選ばれた方であると。」




ミニミニ解説

ヨハネの第1章です。

第19節、ユダヤの指導者たちがエルサレムから祭司と寺院の者を送りますが、この指導者たち、と言うのがファリサイ派から派遣された人たちだったことは第24節に書かれています。この出来事の場所は第28節にベタニヤだと書かれていますが、このベタニヤはどうやらエルサレム郊外のベタニヤとは別の場所のようで、エルサレムから東へ15kmほど行き、ヨルダン川が死海へ注ぎ込む少し北を東へわたったあたりのようです。

ファリサイ派から派遣されたのは、祭司と、寺院で働く人たちですが、これはユダヤの士族の中でレビ族に属する人たちになります。レビ族は旧約聖書の律法五書の中で、神さまが自分ための仕事をする部族として特別に選んだ部族です。恐らくヨルダン川の東に、何やら人を集めて洗礼を与えている者がいる、という情報がエルサレムに届き、いったい何が言われ、何が行われているのかを確認する目的で派遣されたのでしょう。イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国は属州を管理する上で、征服民に一定の統治権を与える方法を取りました。しかし属州内に不穏な動きがあれば、ローマ帝国はすぐに問題の芽を摘むために乗り出して来て、統治権を取り上げてしまうかも知れません。ファリサイ派はローマ帝国から許された既得権を維持したかったので、イスラエル内のいろいろな動向に気を配っていたのです。

第20節~第23節のやりとりは、以下の旧約聖書の預言に基づいています。Deuteronomy 18:15(申命記第18章第15節)で、モーゼは「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」([新改訳])と予告して言っています。これが「あの預言者」です。

またMalachi 4:5-6(マラキ書第4章第5節~第6節には、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])と書かれており、これが「あなたはエリヤですか」の問いの意味になります(洗礼者ヨハネの外観や服装は、旧約聖書に描かれた預言者エリヤに酷似していました)。そして救世主(メシア)です。イスラエルに救世主が現れることは、旧約聖書の何カ所かで予告されています。エルサレムから来た使節団は、旧約聖書に基づいて、この三つの可能性を検証しました。

これに対するヨハネの答は、私は、『道を整えよ、主が来られる』と荒野で叫ぶ声です、でした。これはIsaiah 40:3-5(イザヤ書第40章第3節~第5節)に書かれている言葉です。「3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」([新改訳])。ヨハネは自分が誰なのかを問われて、それには答えず、ただ自分が来た目的を旧約聖書から引用して答えました。つまり、救世主の先駆者として道を整える自分の到来も、旧約聖書に予告されているのですよ、と告げたのです。

洗礼者ヨハネは、その名の通り、人々に洗礼(バプテスマ)を授けていたのでした。洗礼を受けたいという人と共にヨルダン川にザブザブと入っていき、その人を一度水の中に水没させる、そんな儀式です。当時、エッセネ派と呼ばれる人たちがいて、ユダヤ主義の中でも特に厳格で禁欲的な派として知られていました。このエッセネ派は、「浄化」「清め」の目的で洗礼の儀式を行っていました。が、洗礼を授ける対象は、普通はユダヤ人でない人で、もし異国人がユダヤ主義に改宗したいと表明したときに、汚れた存在である異国人を清めるために洗礼を授けていたそうです。

第25節でファリサイ派から派遣された人たちが「何の権限であなたは洗礼を授けているのですか」とたずねたのは、まずユダヤ人には清めは不要だと言う考えがあるからだと思います。ユダヤ人はユダヤ民族であるが故に既に清いと言う考えです。それでどうして清める必要のない、つまり生まれつき清いユダヤ人にわざわざバプテスマを授けるのか、という意図でたずねているのです。

さらに言うと、神さまから選ばれた民であるユダヤ人が清めのための洗礼を要するほど汚れている、だから清めのための洗礼を授けるなどというのは、人間のできることではありません。大変畏れ多いことなのです。そんな儀式を堂々と行うとは、そんな権威をいったい誰から得たのか、と批判しているのです。たとえば旧約聖書のEzekiel 36:24-26(エゼキエル書第36章第24節~第26節)には次の記述があります。「24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」([新改訳])。ここで「わたし」と言っているのは預言者エゼキエルに語りかけている神さまです。汚れたユダヤ人に清い水を振りかけ、ユダヤ人を清められるのはそれが神さまだからです。

第26節~第27節、ヨハネの答は「私は水で洗礼を授けているが、私の後からもっと偉大な人が現れる」という内容でした。自分は、水で洗礼を授けるという象徴的な儀式をして、ただ後に備えて準備をしているにすぎず、真の意味で罪を清める権威を持った救世主は自分の後から来る、というのです。第27節で、ヨハネは自分はイエスさまのサンダルの紐を解く価値もない、と言っていますが、一方のイエスさまが洗礼者ヨハネのことを評価した箇所が、Luke 7:28(ルカの福音書第7章第28節)にあります。ここには「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」([新改訳])と書かれていて、イエスさまはヨハネはこれまでに生まれた人間の中で誰よりも一番優れている、というのです。なんというほめ言葉でしょうか。でもイエスさまの言葉にはさらに続きがあって、そこには「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」と書かれています。これは、地上にいる人間は、神さまから見れば、どの人も等しく汚れた存在であり、その意味ではそれほど優れたヨハネさえ、そのままでは神聖な神の国(天国)には入れない、と言うことです。ではどうしたら、人は天国に入れるのでしょうか。その方法は、ヨハネの福音書を読んでいくうちに、たびたび登場します。

第28節、最初に書いたように、このベタニヤは、エルサレム郊外でマリヤとマルタの姉妹が住んでいたベタニヤとは別の場所で、エルサレムから東へ15kmほど行って、ヨルダン川を東へわたったあたりです。

第29節、ヨハネが群衆の前でイエスさまを指さして「神の羊」と言います。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人にとっての羊は「いけにえ」として捧げられる動物です。毎朝、毎夕、エルサレムの寺院では羊がいけにえとして捧げれます(儀式の手順に従って殺し、燃やし尽くします)。これはモーゼの律法書に定められた手順で、神聖な神さまに対する自分の「汚れ」について、その代償を支払うために、繰り返し羊の「命」が捧げられなければならないと定めているからです。

旧約聖書はイエス・キリストを指し示す、と言われますが、旧約聖書に書かれた律法や預言は、ことごとく救世主としてのイエスさまが成就する事柄の「型」(英語では「antitype」)になっています。光としての救世主イエスさまの「影」が旧約聖書には書かれている、という人もいます。旧約聖書の中に、イエスさまが地上に現れる700年近く前に記述された「Isaiah(イザヤ書)」という預言書があり、その中に救世主について記述した箇所があります。第53章全体が救世主についての記述なのですが、その中でIsaiah 53:7(イザヤ書第53章第7節)には、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」([新改訳])と書かれています。神さまが用意した救済の計画は、最後の完璧ないけにえとして、神さまであるイエスさまを人として地上に立たせ、このイエスさまの命を奪うことで、人の汚れを完全にぬぐい去る、罪に対する支払いを完了させる、というものでした。だから、イエスさまは「神の羊」と呼ばれるのです。

イエスさまは洗礼者ヨハネの洗礼を受けました。たとえばMatthew 3:13(マタイの福音書第3章第13節)から、そのときの様子が書かれていますが、ヨハネは最初は立場が逆である(自分こそイエスさまの洗礼を受けなければいけない存在なのに)と拒絶します。しかしイエスさまが「正しいことをすることがふさわしい」と言うので、ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。するとそのとき天が開いて、神さまの霊が鳩のように下ってきて、イエスさまの上にとどまり、さらに天からは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という声が聞こえたのです。第32節でヨハネが「私は聖霊が鳩のように天から降りてきて、この方の上にとどまるのを見ました」と言っているのはこのときのことです。

第33節、ヨハネが告げられていた言葉の中では、イエスさまのことを「その方こそ、聖霊によって洗礼を授ける方」と言っています。Matthew 3:11-12(マタイの福音書第3章第11節~第12節)では、やはりヨハネが「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」([新改訳])と言っています。ヨハネは「水」で洗礼を授け(これは救世主のために道を整えていた象徴的な儀式ですが)、イエスさまは「聖霊」と「火」の洗礼を授けるのです。

聖霊の洗礼は、「Acts(使徒の働き)」の第2章に書かれています。イエスさまが十字架死の三日後に復活し、天に戻ってから七週間後、イエスさまを信じる人たちのところに聖霊が現れ、ひとひとりの信者に宿りました。イエスさまが現れて後は、イエスさまを信じる人ひとりひとりに聖霊が与えられるのです。これが聖霊の洗礼です。一方、火の洗礼は、イエスさまが「終わりの日」に再来するときに起こります。つまりまだ実現しておらず、これからこの世の中に起こることです。聖書の中でいくつかの場所でそのときの様子が預言されています。マタイから引用したように、そのときのイエスさまは、福音書に書かれたイエスさまの印象とはまったく異なります。王として戻るイエスさまは、麦と殻を分けて(何かの基準で人を選り分けて)、麦は大切に蔵に納め、殻を消えることのない火で焼き尽くすのです。






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