2015年09月30日

ヨハネの福音書第1章第1節~第18節:プロローグ:救世主、永遠の「ことば」

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Prologue: Christ, the Eternal Word

プロローグ:救世主、永遠の「ことば」


1 In the beginning the Word already existed. The Word was with God, and the Word was God.

1 最初に「ことば」はすでに存在していました。「ことば」は神とともにあって、「ことば」は神でした。

2 He existed in the beginning with God.

2 この方(「ことば」)は、最初に神とともに存在していました。

3 God created everything through him, and nothing was created except through him.

3 神はすべてのものを、この方(「ことば」)を通じて造りました。造られたもので、この方を通じずにできたものは一つもありませんでした。

4 The Word gave life to everything that was created, and his life brought light to everyone.

4 「ことば」は造られたものすべてに命を与えました。そしてその命が人に光をもたらしました。

5 The light shines in the darkness, and the darkness can never extinguish it.

5 光は闇の中で輝きます。闇は光を打ち消すことはできません。

6 God sent a man, John the Baptist,

6 神は一人の男を送りました。洗礼者ヨハネです。

7 to tell about the light so that everyone might believe because of his testimony.

7 この人は光について伝えるために来ました。すべての人が彼の証言によって信じるためです。

8 John himself was not the light; he was simply a witness to tell about the light.

8 ヨハネ自身は光ではありませんでした。光について伝える、ただの証言者でした。

9 The one who is the true light, who gives light to everyone, was coming into the world.

9 すべての人に光を与える真の光である方が、世に来ようとしていました。

10 He came into the very world he created, but the world didn’t recognize him.

10 この方は、まさにご自身が造られた世に来られたのですが、世は、この方がわからなかったのです。

11 He came to his own people, and even they rejected him.

11 この方はご自分の人々のところへ来られたのに、人々はこの方を拒絶さえしたのです。

12 But to all who believed him and accepted him, he gave the right to become children of God.

12 しかし、この方を信じ、受け入れたすべての人々に対しては、この方は神の子供となる特権をお与えになりました。

13 They are reborn -- not with a physical birth resulting from human passion or plan, but a birth that comes from God.

13 その人々は生まれ変わるのです。それは人間の欲求や計画の結果生じる肉体的な誕生のことではなく、神から来る誕生です。

14 So the Word became human and made his home among us. He was full of unfailing love and faithfulness. And we have seen his glory, the glory of the Father’s one and only Son.

14 そこで「ことば」は人となり、私たちの間に住みました。この方は、絶えることのない愛と誠に満ちていました。そして私たちはこの方の栄光を見たのです。それは父の、ただ一人の子としての栄光です。

15 John testified about him when he shouted to the crowds, “This is the one I was talking about when I said, ‘Someone is coming after me who is far greater than I am, for he existed long before me.’”

15 (洗礼者)ヨハネは、この方(イエスさま)について証言し、群衆に向かって叫んで言いました。「『私の後から来る方がいる。この方は私よりはるかにまさる方である。なぜならこの方は私よりずっと先におられたのだから』と私が言ったのは、まさにこの方のことです。」

16 From his abundance we have all received one gracious blessing after another.

16 この方の豊かさの中から、私たちはみな、恵み多き祝福を次々と受けたのです。

17 For the law was given through Moses, but God’s unfailing love and faithfulness came through Jesus Christ.

17 というのは、律法はモーゼを通して与えられましたが、神さまの尽きることのない愛と誠はイエス・キリストを通して現れたのです。

18 No one has ever seen God. But the unique One, who is himself God, is near to the Father’s heart. He has revealed God to us.

18 いまだかつて神を見た者はいません。ですが、ご自身が神であるただひとりの方が、父(なる神)の心の近くにいるのです。この方が私たちに神を明らかにされたのです。




ミニミニ解説

ヨハネの第1章です。

第1節はとても有名な出だしです。[新改訳]では、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」となっています。

最初に読むと「ことば」?と、疑問符が浮かびます。「ことば」、何のことでしょう。この「ことば」が、どうやらイエス・キリストを指していることは、読み進むに連れてわかってきます。そして第14節で、「ことば」が人となり、私たちの間に住んだ、と説明されてそうであることがはっきりわかります。

「Word(ことば)」は、当時のユダヤ人とギリシア人の神学者や哲学者によって使われていた言葉だそうです。たとえば旧約聖書の中では、Psalm 33:6(詩編第33章第6節)に「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」([新改訳])と、「ことば」は神さまの手段(あるいは代理人のようにも受け取れます)のように書かれたり、あるいは神さまが人間に与えた預言や律法(法律)を指したりします。ギリシア哲学では、「ことば」は世界を支配する原理や、心の中にある思想として取り扱われるそうですが、ユダヤ人は「ことば」を神さまを指すもう一つの言葉として扱ったのです。ヨハネが「ことば」という表現にこめたのは、自分が接した一人の人としてのイエスさまであると同時に、宇宙の創造者であり、解き明かされた神さまの姿であり、地上に実在した正しく神聖な存在としてのイエスさまのことです。

第1節~第2節には、三つのことが書かれています。(1)イエスさまが最初からいたこと、(2)イエスさまが神さまと共にいたこと(ある意味、イエスさまは神さまとは別ということです)、(3)イエスさま自身も神であったこと(神さまとは別に、イエスさまという神さまがいたということになります)。これを読んだユダヤ人は、神さま以外に別の神さまを説くことを冒涜と感じたでしょうし、ギリシア人には「ことばが人になる」などという発想は通じなかったでしょう。

第3節、すべての物は神さまがイエスさまを通じて造ったのだ、と言っています。宇宙も神さまが造られたのだし、私たちひとりひとりも神さまに造られた、すべてが被創造物です。自分は神さまがいなければ存在しなかったのだし、自分が持っている肉体や能力もすべて神さまが与えた物です。神さまは、特別な愛情を持って、わざわざ自分の姿を模して人間を創造しました。ですから、自分に与えられた肉体や能力は、神さまの意図や計画に基づいているのです。もし意図や計画に疑問があるのなら、一人で悩むよりも、自分を造った神さまにきくのが一番だと思います。

第4節~第5節、イエスさまが命の源であり、その命が光を与え、光は闇に負けることがない、と書かれています。イエスさまが与える光は、愛であり、希望であり、平和です。また真理へと至る道です。イエスさまの与える光を受け取り、その光をたどろうとする人は、イエスさまと同様に、闇に負けることがない、というのです。

第6節に書かれた「洗礼者ヨハネ」は、ヨハネの福音書を記述した「使徒のヨハネ」とは別人です。イエスさまが地上に現れる約400年前に記述された、旧約聖書の最後の本である「Malachi(マラキ書)」は、次のように締めくくられています。Malachi 4:5-6(マラキ書4章第5節~第6節)です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])。この言葉の後、神さまからのメッセージは約400年の間沈黙し、その沈黙が破られた様子は、新約聖書のルカの福音書の冒頭に、この洗礼者ヨハネの誕生として描かれています。洗礼者ヨハネが、マラキの預言した「預言者エリヤ」であったことは、後に明らかになります。イエスさまの出現に先駆けて、洗礼者ヨハネは、道を整え、救世主としてのイエスさまを指し示すために現れたのです。

第10節~第11節、イエスさまが地上に現れると、それは旧約聖書に記述された救世主に関する預言をことごとく実現していたにも関わらず、ユダヤ人はイエスさまが救世主だとは気づかず、最後には拒絶して十字架にかけて殺してしまいました。ですが、その間にイエスさまを信じ、救世主として受け入れた人には、神さまの子として、生まれ変わる特権が与えられたのです(第12節~第13節)。その生まれ変わり、誕生は、私たちが知っている肉体的な誕生ではなく、神さまから来る誕生だ、と書かれています。

私たちは肉体的な誕生を経て、肉体的な命を得ますが、そのままでは誰もが間違いなくある日死んでしまう。ですが、神さまから来る誕生を経て、神さまから来る命を得れば、その命は肉体が滅んだ後も永遠に生きるのです。あぁ、なるほど宗教なのだな、天国に行くことを言っているのだな、そういう思いこみのことだろう、と思う方もいるかも知れません。が、聖書の記述が他の宗教と異なるのは、この神さまから来る命は、人が努力をして勝ち取る類のものではなく(つまり生きている間に行った善と悪のバランスなどで決まるのではなく)、命を司る神さまが、「ください」という人には、どんな人にでも一方的に与える、としているところです。逆に言えば、たかだか被創造物の人間が努力して勝ち取れるものは、つかの間の冨や名声、見せかけの幸福であって、それはある日失われてしまうものなのです。それともう一つ、キリスト教が他の宗教と大きく違うのは、約2000年前に書かれて変わることのない書物としての「聖書」が、いま私たちの目の前にあるということです。この本は誰でもどこでも買うことができます。何が書いてあるのか気になる人は、いつでも自分で聖書を開けて確認できるのです。

第14節、ことばは人となり、私たちの間に住みました。救世主に関する預言を実現するために、初めて神さまが肉体を持ち、地上に立ったのです。それがイエス・キリストです。イエスさまのことは、「Father’s one and only Son」と書かれていて、ここで強調されているのは「one and only」(ただ一人の)の部分です。また子供の部分には「Son」という単語をあてています。イエスさまを信じる人が神さまの子供になる、という場合に使われるのは、「God's children」で、「Son」が使われるのはイエスさまについての場合です。なお、聖書の預言によれば、救世主はもう一度地上に戻ってくることになっています。旧約聖書の預言がことごとく実現してイエスさまが現れたのならば、イエスさまの再来も預言どおりに実現すると考えるのは普通なのではないか、と思います。そのときの様子は、同じヨハネによる本で新約聖書の最後の「Revelation(ヨハネの黙示録)」に書かれています。「終わりの日」に地上で起こる悲惨な出来事の様子です。

第17節、モーゼは旧約聖書の律法五書である「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Levitecus(レビ記)」「Nubmers(民数記)」「Derteronomy(申命記)」の記述者とされ、これらの本には「Ten Commandments(十戒)」に代表される、神さまがユダヤの民に与えた律法(法律)が書かれています。「律法が書かれている」というと「六法全書」のような法律書を想像されるかも知れませんが、旧約聖書のこの部分は物語として書かれていますので、印象はだいぶ異なります。またここには「神さまの尽きることのない愛と誠はイエス・キリストを通して現れた」とありますが、他の場所でイエスさまは、自分は律法を成就、あるいは完成させるために来た、というようなことを言っています。

たとえば法律は「これこれの手続きをとれば離婚が成立する」と定めますが、この法律が存在することと、「離婚」が法の制定者の意図であったかは別のことです。夫婦は本来最初から別れるために結びついたわけではありません。が、人がその結婚の意図や意味を理解できないのなら、事が穏便に済むように、言うならば「仕方なく」離婚の手続きを定めたのが、離婚に関わる法律ということなのかも知れません。と言うことは法律は、その条文を読むときに、制定者の意図を考えないと適切な遵守ができないと言うことになります。イエスさまは、モーゼが神さまから預かってユダヤの民に伝えた律法について、その後ろにある、神さまの意図を具現化した人として地上に現れました。神さまは最初に「ことば」としての律法をモーゼを通じて人々に示し、今度はその「ことば」を人格化して具体的なひとりの人として人々に示したのです。「ことば」が人となったのです。当時のエルサレムで政治的に大きな影響力を持っていたファリサイ派は、律法の拡大解釈をたてにして、この後イエスさまを追いつめようとして行くのですが、神さまが定めた律法の意図である、慈悲、愛、誠、許しの視点から発言するイエスさまの言葉には、周囲の聞き手を十分に納得させる権威があり、人々は「こんな話はきいたことがない」とイエスさまへの支持を強めていきます。

第18節、イエスさまの権威は、イエスさま自身が神であり、律法を定めた神さまのもとから来たからこそ、備わっているものなのです。






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