2016年01月24日

一番大切な話

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この記事はこのブログの中で一番大切な話です。聖書に書かれている「福音(=良い知らせ)」とは何か。それは「天国へ至る方法」です。聖書には人が天国に入るには特別な労力はいらないと書かれています。天国へ入る資格が欲しいのなら「欲しい」と言えば無償であげると書かれています。これは「良い知らせ」ではありませんか?

「あなたはどうすれば天国へ行けると思いますか」と質問すると、天国の存在自体を信じるかどうかを別にすると、たぶん死んだ後で生きている間に行った「善い行い」全部と「悪い行い」全部を大きな天秤ばかりにかけるような「裁き」があり、はかりが「善い」の方へ傾いたら天国に行けるのだと思う、というような回答をする人がいます。そしてその人には天秤ばかりがどちらに傾くかについての確証はありません。これだと自分が天国へ行けるのかどうかは非常にあいまいで、そのときになるまでわからないことになります。「それでは大変不安でしょう?」ときくと「大変不安だがそれはあたりまえのことで、逆に天国行きの確証がある人というのは存在するんですか」ときき返されます。

聖書には、天国行きの資格は何かしらの努力を経て「勝ち取る」とか「達成する」ものではなくて、神さまから「受け取る」ものだと書かれています。しかもその代償として私たち人間の側から神さまに差し出さなければならないもの、払わなければならない対価はありません。神さまが私たちに一方的にくれるのです。いったいどういうことなのでしょうか。意味がわかりませんよね。気前が良すぎますか? そんな虫の良い話があるわけがない? ただより高いものはない? それをこのページで説明します。


罪(sin)について

天国と地上の違いは何でしょうか。天国には神さまがいて地上には人間がいます。神さまは永遠に生きる存在で人間はある日死んでしまいます。人間が死んだ後で肉体から抜け出た魂が神さまのいる天国へ行けるかどうかを決める要因があります。それが「罪(sin)」です。この話をすると、なるほど罪のある人間は天国へ入れないと言っているのだな、それはわからない話ではないと言う人は多いです。

ところで日本語で「罪(つみ)」と言うと「犯罪」をイメージしやすいです。「犯罪」にあたる英単語は「crime(クライム)」ですが、聖書に書かれている「罪」は「crime」のことではありません。これから説明する「罪」は、英単語では「sin(シン)」にあてられた訳語です。「sin」を辞書で引くと「I (宗教・道徳上の)罪, 罪業、II 〔世間の習慣・礼儀作法に対する〕過失, 違反、III 《口語》 ばち当たりなこと, ばかなこと」と書かれていて([研究社:新英和中辞典第6版])、一般的にも「crime」と「sin」が区別されていることがわかります。

繰り返しますが、聖書によると人間が天国へ入れるかどうかを決める要因は「罪(sin)」です。罪(sin)があれば人は天国には入れません。では罪(sin)とは何なのか、自分には罪(sin)はあるのか、罪(sin)の有無は誰が決めるのか、ということになります。

聖書では天地を最初に作ったのは創造主である神さまで、神さまは天地を支配する王です。天国では今日も無数の天使が神さまを褒め称えています。つまり神さまひとりが王であり法律です。神さまが善いと言うものは善く、悪いというものは悪い、ということになります。「そんなきまぐれな」と嘆く必要はありません。なぜなら神さまは不変であり、神さまの下す善悪の判断基準もいつも不変だからです。聖書を読むとそこに書かれている善悪の判断基準は特別なものではなく、辞書にも「(宗教・道徳上の)罪」と書かれていたように私たちの知っている道徳観・倫理観と通じる部分がたくさんあることがわかります。

「罪(sin)」という言葉はもともと「的(まと)から外れること」を意味します。聖書によると人間は神さまが天地を創造した過程の中で土から造ったのですが、その際には他の動物とは違ってわざわざ自分のイメージを映して創造しています。他の動物から区別して特別に愛情を注ぎ、特別な「意図」を持って造ったのです。ところが造られた人間は神さまの期待を裏切って神さまを繰り返し失望させてしまいます。これが罪(sin)です。つまり罪(sin)とは神さまの意図から外れて「人間が神さまをガッカリさせてしまうこと」の総称です。神さまがあなたを見て何かにガッカリしたらあなたには罪(sin)があるということです。

それから神さまがあなたを見ていて、あなたのこういう面にはガッカリしたけど、こっちの方を見るとかなり見所があると思えると言うような、いわゆる「天秤ばかり」的な話は、天国へ入る資格には通用されません。神さまが何かにガッカリしたらそこには確かに罪(sin)が存在したのです。天国へ入れるかどうかを決めるのは「罪(sin)の有無」なのですから、その代わりにどんなことをしても自分の罪(sin)を埋め合わせることはできません。罪(sin)がひとつでもあったら、神さまが一回でもガッカリしたらアウト、その時点で失格なのです。


律法

罪(sin)がひとつでもあったらアウト、これは大変厳しいルールです。では神さまはいったいどんなときにガッカリするのでしょうか。神さまは過去に一度、自分の判断基準である法律を人間に示したことがあります。いまから約3500年前に神さまがユダヤ人のモーゼという人を介してユダヤ人に与えた法律集です。それは聖書の中では旧約聖書の「Genesis(創世記)」「Exodus(出エジプト記)」「Levitecus(レビ記)」「Numbers(民数記)」「Deuteronomy(申命記)」の五書に書かれていて、英語ではこの部分を「Law」、日本語では「律法(りっぽう)」と呼んでいます。

律法は狭義では「Ten Commandments(十戒)」に集約されると言われ、広義では律法五書の中をすべて合わせると613個の命令になると言われています。ちなみに「十戒」は私の言葉で要約すると次のようになっています:

  • 一. 聖書の「神さま」以外の神を崇拝してはいけない。
  • 二. 偶像(金属・木・石などで作る神仏の像)を作って拝んではいけない。
  • 三. 神さまの名前をみだりに唱えてはいけない。
  • 四. 安息日(いまの土曜日)を聖なる日として仕事を休む。
  • 五. 父母を敬う。
  • 六. 人を殺さない。
  • 七. 姦淫(倫理にそむいた肉体関係を)しない。
  • 八. 盗まない。
  • 九. 嘘をつかない。
  • 十. 他人のものを欲しがらない。

神さまはこれらのことに背いたらガッカリすると言っているのです。最初の四つは自分と神さまとの関係、残りの六つは自分と他の人との関係についての命令です。私たちの知っている道徳観・倫理観とかなり通じる部分がたくさんあると思いませんか。聖書では神さまの判断基準である「善悪の概念」はあらかじめ人間の心に書いてある、だから聖書を読まなくても善悪の判断はつくだろうと書かれた部分がありますが、なるほどたしかにそうかも知れません。さて自分には「罪(sin)」はあるでしょうか。天国に入れそうですか? ちなみに聖書の律法では父母を敬わなかった人は死罪です。


神さまは人の心を見る

いまから約2000年前にいまのイスラエルにイエスという人が現れ、人々に「神さまの王国」について教え始めました。イエスの時代のイスラエルには「ファリサイ派」と呼ばれる政治派閥がありました。この人たちは聖書の学者で自分たちは十戒はもちろんのこと、613項目の律法の命令はすべて守っていると主張して人々の尊敬を集めていました。これに対してイエスは「たとえば人を殺してはいけないと律法は定めているが、(実際に殺害の行為には到らなくても)正当な理由もないのに人に腹を立てる人は裁きをうけなければならない」「たとえば姦淫してはいけないと律法は定めているが、(実際の姦淫の行為には到らなくても)情欲を抱いて女性を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したことになる」と言いました。つまり腹を立てれば殺したのと同じこと、情欲を抱いたら浮気をしたのと同じこと、その人たちには「罪(sin)」があると言うのです。

イエスが言ったのは律法の制定者の意図のことです。たとえば「50キロの制限速度」という法律は「50キロの制限速度を超えた人から罰金を徴収するため」「罰金さえ払えば50キロ制限を超えた人も社会で許容するため」に作られた法律ではありません。制定者の意図は「交通の安全を守りたい」「社会の安全を犯す者には適切に罰を加えたい」「そうやって安全を犯す危険な行動を抑止したい」というところにあったはずです。だとしたら「50キロを超えても大した問題ではない。そもそも捕まらなければ良いのだし、たとえ捕まっても罰金を払えば済むこと」と思っている人は、その時点でこの法律の制定者の意図に反してしまい、制定者をガッカリさせているることになる、というのがイエスの話の趣旨です。

聖書には「神さまは人の心を見る」と書かれている部分が何カ所かあります。もし神さまが私たちの実際の行動ではなく心を見ながら罪(sin)の有無を判断しているのだとしたら、天国行きはかなり難しくなるのではないでしょうか。たとえば先ほどの十戒は次のように読み替えることができるのかも知れません:

  • 一. 私は聖書の神さまを崇拝しているだろうか。逆に聖書に書かれた神さま以外の何かを神格化して崇拝していないだろうか。
  • 二. 私の心の中には偶像としてあたかも神さまのように崇拝している人やものはないだろうか。
  • 三. 私は「神」という言葉を必要もないのに使うことはないだろうか。私は神さまを理由にして自分を正当化することはないだろうか。
  • 四. 「安息日」はどう解釈したら良いのだろう。神さまの守りと導きを疑いなく信じて、思い煩うことや心配することなく週に一日の休日を安らかにすごすこと、あるいは神さまを覚え神さまに感謝し神さまを賛美するための日を週に一日確保するということだろうか・・・。
  • 五. 私は心の中で父母に怒りを覚えたことはなかっただろうか(=それは父母を敬わなかったのと同じこと)。
  • 六. 私は心の中で人に腹を立てることはないだろうか(=それは人を殺したのと同じこと)。
  • 七. 私は倫理的に関係が許されない異性を見て心が動いたことはなかっただろうか(=それは姦淫を犯したのと同じこと)。
  • 八. 私は心の中で他の人のものを欲しいと思うことはないだろうか(=それは盗んだのと同じこと)。
  • 九. 私は嘘をついたことはないだろうか。
  • 十. 私は心の中で他人をうらやんだことはないだろうか。

こうなると天国行きはかなり難しいどころか可能性はほとんどゼロでしょう。しかも人生の間で神さまが一度でもガッカリすることがあればそこで有罪確定なのです。そして二度と埋め合わせることはできない・・・。本当に基準はそんなに厳しいのか、そもそもこれで天国に入れる人などいるのかと思うでしょうか。


罪のない人はひとりもいない

それはそのとおりで、この条件をクリアして天国に入れる人などあり得ません。聖書によれば天国に入れる人はひとりもいないのです。神さまは「神聖(holy)」です。神さまのいる天国も神聖です。神聖とは「まったく汚(けが)れがない」ことを言います。これに対して神さまから見たとき「罪(sin)」は「汚れ」なのです。罪(sin)で汚れた人間は神聖な天国には入れません。この話のどこが「福音(=良い知らせ)」なのかと思われるかも知れません。福音が福音である理由は、天国行きの資格は何かしらの努力を経てそんな逆境から「勝ち取る」とか「達成する」ものではなくて、神さまから「受け取る」ものだからです。

ところで「罪」があれば「罰」があります。「福音(=良い知らせ)」の仕組みを説明する前に「罰」の話をしておきます。罪(sin)に対して人間に課せられた罰は「死」です。ひとつでも罪(sin)を犯せば人は死ななければなりません。でも死なない人はいませんよね。どんな人でもいつかは死ぬ。その理由は人に罪(sin)があるからなのです。もともと人間は神さまと同じ、死なない存在として造られたのですが、神さまの期待を裏切って罪(sin)を犯したので、その罰として死ぬことになったのです。

聖書によると「死」は「切り離されること」を意味します。そして罪(sin)に対する死は二段階でやって来ることになっています。第一段階は私たちが知っている死のことです。これは「魂が肉体から切り離される」ことを言います。第二段階は最後の最後に「その魂が神さまから完全に切り離される」ときのことを言います。このとき天国に入れなかった魂は火の池に投げ込まれることになっています。聖書にはそこでは投げ込まれた魂が永遠に火に焼かれ、蛆(うじ)に食われ、歯ぎしりの声が絶えることがないと書かれています。それがどんなところなのかとても想像できませんが行きたくなるような場所でないことは確かです・・・。


罪の購(あがな)い

「購(あがな)い」という言葉は私たちの日常の会話で聞くことはありません。「購(あがな)う」は「お金や品物で罪や失敗の埋めあわせをする」ことで([新明解国語辞典])、英語では動詞が「atone(アトーン)」、名詞が「atonement(アトーンメント)」です。

「罪(sin)」をどのように購うか、罪(sin)について旧約聖書の律法には「お金や品物で罪や失敗の埋めあわせをする」方法が書かれています。その埋め合わせの方法は「いのち」なのです。罪(sin)に対する罰が死なのですから、埋め合わせをする方法がいのちなのは当然と言えば当然です。でも自分の罪(sin)を購うために自分のいのちを差し出しては埋め合わせにはなりません(それは刑罰の実行になってしまいます)。埋め合わせのために捧げるいのちは自分の身代わりとなる「いけにえ」のいのちです。聖書には「生き物のいのちは血の中にある」と書いてあります。このため律法が定める罪(sin)の購いの儀式では、定められた手順に沿っていけにえを殺して神殿の祭壇に血を注ぐのです。聖書の律法にはこの手順が事細かく書かれています。

ところが人間の身代わりになって捧げられる羊などの動物の血の効力は限定的なのです。このいけにえの血は定期的に繰り返し捧げなければならないと定められています。聖書の他の箇所ではこのことについて、もし羊の血が罪(sin)を完全に購うのなら祭壇に羊の血を振りかけた時点で心の中から罪の意識がぬぐわれるはずだ、しかしそのようなことは一向に起こらない、だから羊の血はあくまでも間に合わせにすぎないのだとも書いています。


福音

ここからがいよいよ福音(=良い知らせ)の話です。神さまを一度もガッカリさせないでいられる人間はひとりもいない。すべての人は例外なく罪(sin)で汚れている。汚れた人間は神聖な天国には入れない。罪(sin)に対する罰は死である。だから人間は必ず死ぬことになった。汚れを洗い流すために聖書に示された方法、いけにえの羊の血による購いは間に合わせの方法なので最終的な解決方法ではない。だから罪(sin)について自分の力ではどうしようもない。こうして私たち人間は絶望的な状況に置かれました。創造主である神さまの期待を裏切ってしまった結果です。

これに対する解決策は神さまの側から用意されました。それが福音(=良い知らせ)です。その方法とは「完璧ないけにえの血による罪の購い」です。羊のような間に合わせのいけにえではなく、完璧ないけにえを神さまが用意しました。その「完璧ないけにえ」がイエス・キリストなのです。

罪(sin)で汚れた人間の身代わりにいけにえの動物を殺しても完全な購いとはならない。動物ではなく別の人間を殺してもその人も同じように汚れているのですから購いにはなりません。購いのために殺すとしたら「汚れのない完璧な人間」でなければなりません。すべての人間が汚れている以上そんないけにえは地上にはいません。完璧ないけにえとなったイエスは人間の姿をとって天から地上に降り立った神さまなのです。聖書ではイエスは神さまのひとり息子とされ、神さまの息子はやはり神さまなのです。神さまなので「神聖(holy)」です。汚れはありません。つまり神さまは特別な愛情を注いで創造した人間のために自分のたったひとりの息子をいけにえとして捧げたということです。イエスは過去から未来に渡り、世界中のすべての人間の罪(sin)を背負って十字架の上で殺されて血を流しました。いまから約2000年前の出来事です。これで人間に課された罰に対する支払いが完済したのです。

購いが完了し、罪(sin)に対する罰として課された死がなくなれば人間は死ぬ必要はありません。イエスは十字架死の三日後に復活して人々の前に姿を現し、死がそうやって克服できることを示しました。イエスはそれから約40日後に天へ戻り、いまは父なる神さまの近くにいて私たち人間のためにいろいろな取りなしをしてくださっています。


この話が信じられますか?

どうですか? この話が信じられますか? 天国へ入るための方法は神さまが用意してくれました。すべての人間の罪(sin)の購いはいまから2000年前に済んでいます。あなたも私も神さまの恵みにより天国へ招かれているのです。これは神さまからの一方的なご好意です。

聖書にはもしあなたがこの招待に応じたいのならその旨をきちんと自分の口で告白してくださいと書いてあります。罪(sin)の購いが済んだからすべての人間を自動的に天国へ招くというわけではないのです。神さまは王です。私たち人間はさまざまな局面で王である神さまの期待を裏切ってガッカリさせて来ました。それなのに神さまの側からわざわざ救いの手を差し伸べてくださった。ここで私たち人間がしなければいけないのは自分の罪(sin)を認め、謝罪して許しを乞い、今後は神さまの期待に添えるように行いを改めると誓い、神さまの用意された購いの計画を褒め称え、感謝して受け取ることなのです。

もしこの話が信じられるのであれば次のようなお祈りをしてください。下に書いたお祈りはひとつの例です。同じ趣旨のお祈りを自分の心から自分の言葉で告白してください。誰かと一緒でも自分ひとりでもかまいません。自分の部屋でも車の中でもかまいません。必ずきちんと声に出して言ってください。

神さま、
私は自分の罪を認めます。私は何度も神さまをガッカリさせてきたことでしょう。
大変申し訳ないことをしました。ごめんなさい。どうか私を許してください。
神さまはこんな私のためにわざわざイエスさまを地上へ送ってくださいました。
私はイエスさまが神さまであると信じます。
イエスさまは私の身代わりになって私の罪を背負い十字架で死んでくださいました。
そして三日後に復活し死が克服できることも証明してくれたのです。
私はこれからは神さまの期待に応えられるように行いを改めたいと思います。
ですからどうか私の中に入り、いつも私と一緒にいて私を守り導いてください。
このお祈りをイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン

このお祈りをすることで人は「福音(=良い知らせ)」を受け入れたことになります。そういう人を「救われた(saved)」人と言います。天国で記録されていた私たちの罪(sin)に関する記録はその時点ですべて消去され、私たちは神さまからあたかもそれまで一度も罪(sin)を犯していない真っ白な人間として扱われます。その人と神さまの間を隔てていた罪(sin)が消滅するので、その人は神さまとの関係を取り戻します。罪(sin)による汚れがまったくないので初めて神聖な神さまの前に立つことができるのです。

聖書は「救われた(saved)」人は「洗礼(baptism:バプティズム)」を受けるように記述しています。「洗礼(baptism)」は通常はキリスト教会で行われ、クリスチャンの兄弟・姉妹が見守る中で全身を水没させる儀式です。「洗礼(baptism)」はあくまでも福音を受け入れた後に行う儀式ですから、行わなかったからと言って天国行きが取り消されることはありません。その一方で聖書が行うように記述している儀式なのですからチャンスがあるのに行わなければ神さまは失望するのではないかと思います。

聖書はまた「救われた(saved)」人が教会に集うように記述しています。「洗礼(baptism)」と同様に教会に所属しなかったからといって天国行きが取り消されることはありませんが、やはり聖書が記述することなのでチャンスがあるのに教会に加わらなければ神さまは失望するのではないかと思います。


受け入れられない理由

ひととおりこの話をした後で「どうですか? この話を信じますか? 一緒に福音を受け入れるお祈りをしますか?」ときくと躊躇する人はたくさんいます。荒唐無稽すぎて信じられないという人もいれば、細かなところで納得できないからお祈りはしたくないという人もいます。

どうでしょうか。神さまはあなたを愛していて天国へ招きたいと願っています。決して中途半端な気持ちで上のようなお祈りをして欲しいわけではないでしょう。でも何だかすごく気になる、胸騒ぎがする、本当の話のような気がするのだがどうしてもお祈りをする決断がつかないという人は、代わりにたとえば次のようなお祈りをしてみたらどうでしょうか。

神さま、
私は今日福音に関する話を聞きました。
信じたいという気持ちはあるのですが決心がつかないのです。
どうかお願いです。私を信じさせてください。
どうしたら信じられるのか教えてください。
私を救ってください。


お祈りをしたけれど不安だと言う人へ

福音を受け入れる決断をしてお祈りをしたのだがなんだか不安だという人もたくさんいます。自分が本当に救われたのかどうか確信が持てないし、心の底から神さまを信じられているのかわからない、それは自分の信仰が弱いせいなのかも知れないし、自分の日々の行動が神さまの目にどのように映っているのかとても気になる、という人です。

そういう人たちに私がひとつ言えるのは、もしあなたのそういう不安が天地の創造主であり王である神さまを恐れ崇拝する気持ちから来ているのなら何も心配はないということです。あなたの不安はあなたの最大の関心が神さまにあることの証明なのですから十戒の最初の三つの命令にピッタリ合致しているではないでしょうか。

不安がどうしても消えないという人は上に書いたのと同じような要領で「私は神さまをもっともっと信じたいのです」「私をもっと信じさせてください」「どうしたらもっと信じられるのか教えてください」と主イエスの名前でお祈りするとよいと思います。










english1982 at 22:00│福音:一番大切な話