ガラテヤ人への手紙:第3章ガラテヤ人への手紙:第2章

2015年05月30日

ガラテヤ人への手紙第2章第1節~第21節:使徒たちがパウロを受け入れる、パウロがペテロと対立する

ガラテヤ人への手紙 第2章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Apostles Accept Paul

使徒たちがパウロを受け入れる


1 Then fourteen years later I went back to Jerusalem again, this time with Barnabas; and Titus came along, too.

1 それから十四年後、私は再びエルサレムへ戻りました。このときはバルナバと一緒で、テトスも一緒に来ました。

2 I went there because God revealed to me that I should go. While I was there I met privately with those considered to be leaders of the church and shared with them the message I had been preaching to the Gentiles. I wanted to make sure that we were in agreement, for fear that all my efforts had been wasted and I was running the race for nothing.

2 私が行ったのは神さまが行くべきだと私に明かされたからです。私がエルサレムにいた間に、私はひそかに教会の指導者と目される人たちと会い、私は彼らに私が異邦人たちに伝えてきたメッセージを話しました。私は私たちが一致していることを確認したかったのです。私は私のすべての努力が無駄となり、私が走っている競走で得るものが何もないことを恐れていました。

3 And they supported me and did not even demand that my companion Titus be circumcised, though he was a Gentile.

3 彼らは私を支持し、私の仲間のテトスに割礼を施すように要求することさえしませんでした。テトスはギリシヤ人だったのに。

4 Even that question came up only because of some so-called believers there -- false ones, really -- who were secretly brought in. They sneaked in to spy on us and take away the freedom we have in Christ Jesus. They wanted to enslave us and force us to follow their Jewish regulations.

4 その問題が浮上したのだって、そこに居たいわゆる信者と呼ばれる人たちのせいなのです。彼らは実際はにせ者です。密かに送り込まれていたのです。彼らは私たちを監視して私たちがイエス・キリストの中に持つ自由を奪い取るためにこっそりと入り込んでいたのです。彼らは私たちを奴隷にして、ユダヤの規則に従わせたかったのです。

5 But we refused to give in to them for a single moment. We wanted to preserve the truth of the gospel message for you.

5 私たちはほんの一時も彼らに譲歩することを拒みました。私たちはあなた方のための福音のメッセージの真実を守りたかったのです。

6 And the leaders of the church had nothing to add to what I was preaching. (By the way, their reputation as great leaders made no difference to me, for God has no favorites.)

6 そして教会の指導者たちが、私が伝えてきたことに付け加えることは何もありませんでした。(ところで偉大な指導者であるという彼らの評判は私には何も関係ありませんでした。神さまは分け隔てをしません。)

7 Instead, they saw that God had given me the responsibility of preaching the gospel to the Gentiles, just as he had given Peter the responsibility of preaching to the Jews.

7 代わりに指導者たちは神さまが私に異邦人へ福音を伝える任務を与えていることを知りました。神さまがペテロにはユダヤ人へ伝える任務を与えたようにです。

8 For the same God who worked through Peter as the apostle to the Jews also worked through me as the apostle to the Gentiles.

8 それはペテロを通してユダヤ人への使徒として働きかけたのと同じ神さまが、私を通して異邦人への使徒として働きかけたからです。

9 In fact, James, Peter, and John, who were known as pillars of the church, recognized the gift God had given me, and they accepted Barnabas and me as their co-workers. They encouraged us to keep preaching to the Gentiles, while they continued their work with the Jews.

9 実際のところ教会の柱として知られるヤコブ、ペテロ、ヨハネは神さまが私に与えてくださった贈り物を認めて、バルナバと私を彼らの協力者として受け入れてくれました。彼らは彼らがユダヤ人たちへの仕事を続ける一方で、私たちが異邦人たちへ伝える仕事を続けるようにと励ましてくれました。

10 Their only suggestion was that we keep on helping the poor, which I have always been eager to do.

10 彼らがただひとつ提案したのは私たちが貧しい人たちを助けるのを続けることでしたが、それは私がいつも熱心にしてきたことです。



Paul Confronts Peter

パウロがペテロと対立する


11 But when Peter came to Antioch, I had to oppose him to his face, for what he did was very wrong.

11 ところがペテロがアンテオケに来たとき、私は彼に面と向かって反対しなければなりませんでした。それは彼がしたことが大変間違っていたからです。

12 When he first arrived, he ate with the Gentile believers, who were not circumcised. But afterward, when some friends of James came, Peter wouldn’t eat with the Gentiles anymore. He was afraid of criticism from these people who insisted on the necessity of circumcision.

12 ペテロが最初に到着したとき、彼は割礼を受けていない異邦人の信者と一緒に食事をしたのです。しかし後にヤコブの友人たちが何人か来ると、ペテロは異邦人と一緒に食事をしようとしませんでした。ペテロは割礼の必要を説くこの人たちからの批判を恐れていたのです。

13 As a result, other Jewish believers followed Peter’s hypocrisy, and even Barnabas was led astray by their hypocrisy.

13 結果として他の信者たちもペテロの偽善的な行為に従い、バルナバまでもが彼らの偽善によって道から逸らされてしまいました。

14 When I saw that they were not following the truth of the gospel message, I said to Peter in front of all the others, “Since you, a Jew by birth, have discarded the Jewish laws and are living like a Gentile, why are you now trying to make these Gentiles follow the Jewish traditions?

14 私は彼らが福音のメッセージの真実に従っていないことを知ると、私は他の全員がいる前でペテロに言いました。「あなたは生まれながらのユダヤ人でありながらユダヤの律法を棄てて異邦人のように生活していると言うのに、なぜいまあなたはこの異邦人たちをユダヤの伝統に従わせようとするのですか。

15 “You and I are Jews by birth, not ‘sinners’ like the Gentiles.

15 あなたと私は生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のようないわゆる「罪人」ではありません。

16 Yet we know that a person is made right with God by faith in Jesus Christ, not by obeying the law. And we have believed in Christ Jesus, so that we might be made right with God because of our faith in Christ, not because we have obeyed the law. For no one will ever be made right with God by obeying the law.”

16 しかし私たちは人が律法に従うことではなく、イエス・キリストへの信仰によって神さまから正しいとされると知っています。そして私たちがイエス・キリストを信じたのは、私たちのキリストへの信仰によって神さまから正しいとされるためであって、私たちが律法に従ったからではありません。なぜなら律法に従うことで神さまから正しいとされる者はひとりもいないからです。

17 But suppose we seek to be made right with God through faith in Christ and then we are found guilty because we have abandoned the law. Would that mean Christ has led us into sin? Absolutely not!

17 しかし私たちがキリストへの信仰を通じて神さまから正しいとされることを求めながら、私たちが律法を棄てたことで罪に定められると想像してみなさい。それではキリストが私たちを罪へ導いたことになりませんか。そんなことは絶対にありえません。

18 Rather, I am a sinner if I rebuild the old system of law I already tore down.

18 もし私が一度は破壊した古い律法のシステムを建て直すとしたら、そのときこそ私は罪人です。

19 For when I tried to keep the law, it condemned me. So I died to the law -- I stopped trying to meet all its requirements -- so that I might live for God.

19 なぜなら私が律法を守ろうとしていたときには律法が私を有罪に定めました。だから私は律法に死んだのです。私は律法のあらゆる要求を守る努力をやめました。それは私が神さまのために生きるためです。

20 My old self has been crucified with Christ. It is no longer I who live, but Christ lives in me. So I live in this earthly body by trusting in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

20 私の古い自分はキリストとともに十字架にかけられました。生きているのは私ではなく、私の中にキリストが生きているのです。だから私は私を愛し、私のためにご自身を与えた神さまの息子を信じることで、この地上の肉体の中に生きています。

21 I do not treat the grace of God as meaningless. For if keeping the law could make us right with God, then there was no need for Christ to die.

21 私は神さまの恵みを意味のないものとしません。なぜならもし律法を守ることが私たちを神さまに対して正しくするのなら、キリストは死ぬ必要がありませんでした。」




ミニミニ解説

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の第2章です。

第1節は「それから十四年後」と始まっています。この14年間の間に何があったでしょうか。 第1章によると、パウロはファリサイ派の急先鋒としてキリスト教徒迫害の目的でシリヤのダマスコに向かう途上でイエスさまに出会い、使徒とされました。 パウロはそれからアラビヤへ行きます。恐らくイエスさまからの啓示を受けたパウロは、旧約聖書の預言者たちのようにアラビヤの地で山に登るか荒野に出るかして神さまと一対一の対話をしたのだと想像します。それからパウロはダマスコに戻った後、三年後に一度エルサレムに行ってペテロに会っています。エルサレムでは15日間をペテロと共に過ごしたと書いてあります。このときには恐らくパウロからペテロからイエスさまの伝道活動の一部始終についての話を聞いたのだと思います(この時点では「福音書」は存在しません)。

このときの様子はActsの第9章に書かれている部分だと思います。Acts 9:26-28(使徒の働き第9章第26節~第28節)です。「26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。」([新改訳])。パウロはファリサイ派の急先鋒として恐れられていたはずが、これをエルサレムの弟子たちに引き合わせたのはバルナバでした。パウロはこのときにペテロの他にイエスさまの弟でエルサレムの教会でリーダーを務めていたヤコブにも会っています。

パウロはその後、シリヤとキリキヤで活動します。Acts 9:30(使徒の働き第9章第30節)には「兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。」([新改訳])とパウロをエルサレムから脱出させた下りが書かれていて、この中のタルソはパウロの生まれ故郷のキリキヤ州にある町です。シリヤにはアンテオケがあります。パウロをタルソからアンテオケへ連れてきたのはまたもやバルナバでした。Acts 11:25-26(使徒の働き第11章第25節~第26節)です。「25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」([新改訳])。

アンテオケでの活動が14年間の大半を占めると思われます。先ほどの引用の最後に「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」とあるように、パウロとバルナバの活動でアンテオケの教会は大きく育ち、イエスさまを信仰する信者に「クリスチャン」という名前が与えられて認知されるほどになったのです。またこの14年の間にパウロはバルナバと共に第一回の伝道旅行を行っています。シリアのアンテオケを船で出発し、キプロス島を経て、「小アジア」と呼ばれる地中海と黒海に挟まれた半島部分の南にあるペルガに上陸します。そこから半島を北上し、ピシディア地方のアンテオケで東に折れて、ルカオニア地方のイコニウム、リステラ、デルベへと進みました。復路は同じ道を引き返します(キプロス島は経由しない)。

下の地図ではパウロの第一回目の伝道旅行は、黒い線で表されています(地図は『New Illustrated Bible Dictionary』より)。

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ここまでが私たちが想像できる「それから十四年後」までの間に起こった出来事です。今回の第1節~第10節はパウロが再びエルサレムへ行ったときの様子を書いています。バルナバとテトスが同行しています。テトスは第3節によるとギリシヤ人、つまり異邦人の信者ですからユダヤ主義の問題を浮き彫りにします。第2節にはパウロは神さまの啓示を受けてエルサレムへ行ったと書かれていますが、教会に忍び寄るユダヤ主義問題解決のために行ったのでしょう。エルサレムでは名前の挙がっているヤコブ、ペテロ、ヨハネの指導者たちはパウロを支持し、第6節にはパウロが伝えている福音のメッセージについて付け加えることは何もないと彼らから言われたとあります。しかし教会にはユダヤ主義者が入り込んでいるのです。パウロはこの人たちを「いわゆる信者と呼ばれる人たち(so-called believers)」とか「にせ者(false ones)」と呼んでいて、信者とは認めていません。ちなみにエルサレムの教会の指導者の三人の最後に書かれている「ヨハネ」は、ガリラヤの漁師ゼベダイの息子のヨハネである可能性もあるし、ヨハネの福音書の中で自身を「イエスさまが愛した弟子」と呼んでいた別のヨハネの可能性もあります。

さてActs(使徒の働き)では第一回と第二回の伝道旅行の間にエルサレムで会合があり(「エルサレム会議」と呼ばれる)、記述によるとエルサレムの教会はパウロと合意しますが、信者が守るべきルールとして「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」との手紙をアンテオケの教会宛てに送りました。しかしパウロの話ではエルサレムの教会は「貧しい人たちを助けるのを続けること」を提案しただけなので、ここは記述が食い違います。「Acts(使徒の働き)」側にある信者が守るべきルールは、パウロが教えていることに「付け加え」を行うことになります。パウロは福音については「ほんの一時も譲歩することを拒んだ」くらいなのですから、パウロの居る場所でこのような手紙が書かれること、その手紙を携えたバルサバと呼ばれるユダおよびシラスがアンテオケへ戻るパウロの旅に同行することは考えられません。

私たちもこの手紙を読んでパウロがどういうスタンスで何に反対したのかを心に刻み、自分の信仰の中に、自分が考えた何かしらの善行を優先するような部分が入り込んでいないか、よく検証するのが良いと思います。パウロがいのちをかけて守った福音の自由を私たちが2000年後に歪めてしまってはいけません。

第11節~第21節はアンテオケで起こった事件の記述です。

先にアンテオケを訪問していたペテロはパウロたちと共に、異邦人と食卓を共にしていました。異邦人と食卓を共にする行為は旧約聖書の律法では「汚(けが)れ」を招く行為としてユダヤ人から避けられています。ペテロは最初は異邦人と食事をしていたのに、「ヤコブの友人」と称してエルサレムからアンテオケへやって来たユダヤ主義者たちが合流し、この人たちがユダヤ教の観点から律法に反する異邦人との交わりを否定し始めると、ペテロはとたんにグラグラしてパウロたちと食事を共にしなくなるのです。そしてペテロがグラグラすると、同じくエルサレムから来たバルナバまでもがグラグラして道を外れてしまいます。「Acts(使徒の働き)」では第二回目の伝道旅行のはじめでパウロとバルナバが仲違いをして別行動を取るようになります。「Acts(使徒の働き)」にはその原因がヨハネ・マルコを伴うかどうかだと書かれていましたが、真の原因はユダヤ主義にあると見るのが正しいでしょう。第二回目の伝道旅行でパウロはバルナバがヨハネ・マルコを連れて行くことに強く反対します。このヨハネ・マルコは第一回目の伝道旅行の途中で離脱しているのですが、もしかするとその理由はパウロがイエスさまへの信仰を告白した異邦人を、いとも簡単に信者として同胞に取り込んでいくことに、ユダヤ主義的な観点から異を唱えたのかも知れません。

私たちはパウロがいのちをかけて守った福音の自由の立ち位置をしっかりと受け止めておきましょう。その上でペテロがどうしてグラグラとしてしまったのかを考えてみます。エルサレムはユダヤ人の共同体の中心です。ユダヤ人の中からスタートしたキリスト教の教会がエルサレムにあることは大変重要な意味を持ちます。しかしファリサイ派に代表される保守的なユダヤ人層が力を強める場所で、声高に律法の遵守は間違いだと説けば迫害は免れません。エルサレムの教会のリーダーはイエスさまの弟のヤコブになっていましたが、ヤコブは「義人ヤコブ」と呼ばれていました。この「義人」と言うのは、「義である人」「正しい人」、つまりは旧約聖書の視点で神さまの目に正しく映る人の意味です。つまりヤコブが「義人」と呼ばれるほど、ユダヤの律法や慣習に近い位置で活動していたからこそ、エルサレムの教会は存続できていたのかも知れません。アンテオケに現れたユダヤ主義者たちは「ヤコブの友人」を称していましたが、ペテロはヤコブの名前を出され、エルサレムのヤコブの立ち位置を考えると、アンテオケの信者たちの前であからさまに律法を否定することができなくなってしまったのではないかと思います。

後半はパウロの強烈なメッセージです。心に響きます。

第16節、「私たちがイエス・キリストを信じたのは、私たちのキリストへの信仰によって神さまから正しいとされるためであって、私たちが律法に従ったからではありません。なぜなら律法に従うことで神さまから正しいとされる者はひとりもいないからです。」 「律法に従う」は私たちの場合、「正しい行いをする」で置き換えて読めば良いでしょう。私たちはただひとつ福音を、つまりイエスさまを通じた救済の計画を信じることで神さまの目に正しいと映ります。これ以外に私たちが神さまから正しいとされる道はありません。私たちが何か正しい行いをすることによって私たちが神さまの目に正しく映るわけではないのです。ではどうして私たちはあいかわらず正しい行いを目指すのでしょうか。それはもともと天国へ行く資格のなかった私たちを神さまが救ってくださったからです。その感謝や喜びの気持ちをどうやって表すべきでしょうか。まずは神さまを賛美すべきです。神さまを褒め称えるべきです。すべての栄光を神さまに帰す、これが第一です。それから毎日を過ごすときに、神さまの子供として適切に振る舞うことに頭をめぐらします。そのときには何を行動規範とすべきでしょうか、それが旧約聖書の律法なのです。イエスさまはMatthew 5:17-18(マタイの福音書第5章第17節~第18節)で、「17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と言っています([新改訳])。

順番を間違えてはいけません。「律法に従うことで神さまから正しいとされる者はひとりもいない」のです。善行によって天国に入る人はひとりもいません。第21節にあるとおりです。もし自分が善行を重ねることで天国に入れるのなら、イエスさまは死ぬ必要がありませんでした。






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