ガラテヤ人への手紙:第1章コリント人への手紙第2:全体目次

2015年05月31日

ガラテヤ人への手紙:はじめに

ガラテヤ人への手紙


はじめに
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第06章
全体目次




新約聖書の「Acts(使徒の働き)」はイエスさまが十字架死から復活後に天に戻られた後で、使徒たちがどのように福音を広めていったかを書いた本で、その中で特にパウロの活動を詳しく取り扱っていました。

「Acts(使徒の働き)」の中でパウロは伝道の旅を三回行った後、最後にローマへ護送されています。新約聖書にはパウロがこれらの伝道の旅の途中で自分が開いた、あるいは自分が関与した教会の信者たちに宛てて送った手紙がいくつか収められています。「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」はそのうちのひとつです。日本語の本のタイトルの「ガラテヤ人」の中にある「人」は「じん」ではなく「ひと」と読みます。つまり「ガラテヤびとへの手紙」と読みます。

手紙は「ガラテヤの教会」へ宛てられています。手紙の冒頭に宛て先として書かれている教会は英語では「churches」と複数形なので、正確には「ガラテヤの教会群」「ガラテヤの諸教会」へ宛てられています。

では「ガラテヤ」とはどこのことでしょうか。パウロは最初の第一回の伝道旅行でバルナバを伴い、当時の活動拠点であるシリアのアンテオケを船で出発し、キプロス島を経て、「小アジア」と呼ばれるアジアの西端、現トルコ共和国の大部分を占める地中海と黒海に挟まれた半島部分の南にあるペルガに上陸します(「小アジア」は別名「アナトリア」とも呼ばれます)。一行はそこから半島を北上し、ピシディア地方のアンテオケで東に折れて、ルカオニア地方のイコニウム、リステラ、デルベと進みます。これらの都市はローマ帝国の「ガラテヤ州」に所属しますので「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」はこれらの都市の教会に宛てられた手紙であろうというのが一つの説です。

下の地図ではパウロの第一回目の伝道旅行は、黒い線で表されています(地図は『New Illustrated Bible Dictionary』より)。

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別の説は、この手紙の宛先は「ガラテヤ州」の教会ではなく、「ガラテヤ地方」の教会だとします。第一回目の伝道旅行の旅程の諸都市は「ガラテヤ州」の中のピシディア地方とルカオニア地方ですが、「ガラテヤ州」の中の「ガラテヤ地方」は小アジアをさらに北へ進んだ現在のアンカラを中心としたあたりを言うようです。

パウロとバルナバは「Acts(使徒の働き)」の第15章の終わりで仲違いをしています。それで第二回の伝道旅行では、パウロはバルナバではなく、シラスを同行しました。この旅行ではシリアのアンテオケから陸路をとり、タルソ、デルベ、リステラと進み、ここでテモテを加えます。一行はイコニウム、ピシディア地方のアンテオケと進んだ後、そのまま西に進むことができずに進路を北へ取ります。Acts 16:6-8(使徒の働き第16章第6節~第8節)です。

「6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。」([新改訳])。

このときに通ったのが「ガラテヤ州」の北部にある「ガラテヤ地方」で、「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」は、この地方の教会に宛てた手紙であろうという説です。

上の地図ではパウロの第二回目の伝道旅行は、緑の線で表されています。

「Acts(使徒の働き)」の中で、記述者のルカはアンテオケの教会とエルサレムの教会の会議を第一回と第二回の伝道旅行の間に位置づけていて、この会議が西暦50年前後と推定されます。と言うことは、いずれの説を採っても「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」もやはり西暦50年前後に書かれた手紙となり、これが新約聖書に納められた文献の中で一番最初に書かれた部分なのです。ちなみに最初の福音書である「Mark(マルコの福音書)」が書かれたのは西暦55~65年の間と想定されています。

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」の内容は警告です。「Acts(使徒の働き)」の中でパウロはずっとユダヤ人に命を狙われていました。このパウロの殺害を企てたユダヤ人たちはユダヤの律法の遵守に熱心な人たちです。ユダヤの律法の遵守に熱心な人たちと言われて私たちが想像するのはファリサイ派ですね。パウロはイエスさまに呼ばれて使徒となる前に何をしていたでしょうか。パウロはイエスさまに会うまでは実はファリサイ派に所属し、急先鋒としてクリスチャンを見つけ出しては逮捕し、投獄し、ときには死に追いやっていました。その目的でわざわざ国外のシリアのダマスコへ行き、ダマスコのクリスチャンを迫害しようと計画していたその旅の途中でイエスさまに会ったのです。つまりパウロは以前の自分がやっていたのとまったく同じように、今度はイエスさまを救世主とする信仰を世の中に伝える伝道師として、ユダヤ人の保守派集団から命を狙われる側になったのです。

クリスチャンはなぜユダヤ人から命を狙われたのでしょうか。パウロはイエスさまの福音を受け入れるのに条件は何もない、私たち人間の側から差し出すものは何もない、ただイエスさまを救世主として信じて自分の口で信仰を告白すれば誰でも救われる、と説きました。これが新約聖書に書かれている私たちの信じる福音です。

パウロはユダヤ人の教師として伝道の旅を行い、新しい町に入るとまず最初にユダヤ人の集まる会堂へ行って福音を説きました。ユダヤ人たちに向かってイエスさまを救世主として信じることが神さまの意図に沿うことだと説いたのです。これは神さまの目に正しく映るためには、神さまがユダヤ人に与えた「律法」を守ることが第一である、と信じるユダヤ人には到底受け入れられない教えでした。

旧約聖書の律法は、律法に逆らう教えを説くような教師は殺すように命じています。だからパウロもかつてはクリスチャンを迫害すること、場合によっては殺すことが神さまの意志に沿うと信じて実行していました。パウロの命を狙うユダヤ人が特別に過激なわけではなく、彼らは純粋にユダヤ教を信じている人たちなのです。

三回の伝道旅行を含むパウロの伝道活動は、最初にエルサレムの教会からシリアのアンテオケを訪れたバルナバが、キリキヤ州のタルソからパウロを連れてきてスタートします。バルナバを送り出したエルサレムの教会は、イエスさま本人と実際に伝道活動を共にした直弟子の使徒たちと、イエスさまの弟で「義人」と呼ばれたヤコブを中心とする教会でした。

このエルサレムの教会はもともとイスラエルに住んでいたユダヤ人が中心の教会です。ファリサイ派に代表されるユダヤの律法遵守を追求するユダヤ社会の中心に位置するわけですから、真っ向からユダヤ社会と対立する形ではなく、ユダヤ社会と融合するような形で存続していました。ここに「ユダヤ主義」が登場します。

「ユダヤ主義」はエルサレム教会で生まれた、ユダヤ律法とイエスさまの福音の複合の産物です。パウロとバルナバがアンテオケの教会で福音を伝え、多くの異邦人がそれを信じて教会に加わるようになると、エルサレムの教会では福音に条件を付けました。これを「ユダヤ主義」と呼びます。ユダヤ主義は異邦人がクリスチャンになるためには、その前提としてその異邦人がまずユダヤ人になる必要があると教えます。具体的には旧約聖書の律法に記されている「割礼」の儀式を行って、異邦人が律法上のユダヤ人とならなければいけない、と教えたのです。 (割礼は男性性器の包皮を切除する儀式です。)

パウロにとって「ユダヤ主義」は最大の敵で、パウロはこれに激しく反論しました。西暦50年にエルサレムで会議が開かれたのも、第二回の伝道旅行の前にパウロとバルナバが仲違いしたのも、その理由は「ユダヤ主義」の問題なのです。

「Galatians(ガラテヤ人への手紙)」が送られたガラテヤの教会では、パウロがイエスさまの福音を説いてそこに教会を誕生させましたが、パウロが去った後に「ユダヤ主義」を唱えるユダヤ人たちがやって来て、パウロが説いたのとは異なるキリスト教を吹き込みました。そして信者たちはそちらの思想へと染まっていきます。パウロはこれを伝え聞いて憤慨し、ガラテヤの教会に警告の手紙を送るのです。


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