いろいろな聖書の版
2016年01月26日
いろいろな聖書の版
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聖書にいろいろな版がある主な理由は「底本」と「翻訳手法」の二つです。
底本
「底本(ていほん)」は翻訳の土台になる本のことです(「原典(げんてん)」と呼んだりもします)。
おおもとの聖書は旧約聖書がヘブライ語、新約聖書がギリシア語で書かれているので、それ以外の言葉による聖書はすべて翻訳ということになります。翻訳をするためにはヘブライ語とギリシア語の底本が必要ですが、実はこれがひとつではないのです。
聖書は大変古い本で、聖書が書かれたのは印刷技術が発明されるよりもはるかに昔のことです。活版印刷がいつ発明されたかには諸説あるようですが、東洋では中国や朝鮮で13世紀頃、西洋で活版印刷が普及したのは15世紀です。聖書の成立は旧約聖書の一番古い部分が紀元前の14~15世紀頃、新約聖書の一番最後が1世紀の終わり頃ですからこれよりもはるか昔のことになります。
印刷技術がなかった頃は書物は人が手で書き写していました。書き写される前の一番最初の本当のオリジナルの聖書というのは現存しません。その当時本が記述されていた紙はどれほど上手に保存しても数千年も朽ちずに置いておくことができないのです。ですから世の中に存在する「古い聖書」のコレクションはいずれも人によって書き写されたものということになります。
中東や北アフリカ、ヨーロッパで見つかるこれらの「古い聖書」は、見つかる場所が物理的に離れているのに内容は驚くほど同じです。でもほんの少しだけ違う箇所があるのです。その違いによって「古い聖書」はいくつかのグループにまとめることができます。底本の違いとはこのグループの違いです。詳しくは次の「聖書の成り立ち(歴史)」の項をお読み下さい。
翻訳手法
底本が決まったらそれを他の言語に翻訳するわけですが、翻訳の結果は「味付け」によって様々に変わります。たとえば、
I love you.
私はあなたを愛しています。
と翻訳することもできるし、
I love you.
好きだ!
と翻訳することもできます。どちらが好きでしょうか。上の例は何だか堅くて学術的ですが、その一方で正確だし日本語を読めばなんとなくオリジナルの英文を想像できる利点があります。下の例は映画かドラマの脚本みたいで感情移入できて読みやすい印象がありますが、本当にこの人は「好きだ!」の雰囲気で言ったのかな、そこまで極端に翻訳してしまって良いのかな、 と思ったりもします。
聖書の翻訳でも翻訳手法は単語の一つ一つをそれぞれ外国語にできるだけ忠実に置き換える方法と、可能な限り読み手に文意が伝わるように「味付け」を施す方法とに別れます。前者はオリジナルの聖書のイメージを知る上で有効ですし、後者は現代人にもとても読みやすい聖書になります。
次の記事構成の中の「聖書の成り立ち(歴史)」とそれに続く「英語の聖書の版」「日本語の聖書の版」の項をお読み下さい。
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english1982 at 23:00|Permalink
聖書の成り立ち(歴史)
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・聖書の成り立ち(歴史)
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翻訳の土台となる本を底本といいます。ややこしいことに聖書にはいくつかの底本があるのです。聖書は66冊の本を集めて編纂したもので66冊のそれぞれについて本当の本当に最初に書かれた一冊というのは確かにあったのです。でも旧約聖書の最初の本は今から約3500年前、新約聖書の最初の本は今から約2000年前に書かれました。これらのオリジナルは古すぎて残っていません。当時の紙は素材的にこれほど長い年月の使用や保存に耐えないのです。
これは印刷技術が発明されるよりはるか昔の話です。よってオリジナルの本は「手書き」で複製されていきます。私たちが今日発見するのはこうして手書きで複製された原書なのです。
これだけの厚みのある書物を手で書き写すのですからさぞかし写し間違いが発生するのだろうと思われる方は多いかも知れませんが、当時は聖書を写す「写本の専門職」がいて、発見されるそれぞれの原本と原本(「写本」とか「写し」と言います)は驚くほどの正確さで記述が合致します。発見される聖書の写しにはいくつかのタイプがあります。またそれぞれの写しが聖書のすべての本を収録しているわけではありません。ほんの少しの違いからそれらの写本は大きく3つのグループに大別され、そのグルーピングにはキリスト教の歴史と深く関わる理由があるのです。
Papyri
「papyri(パピリ)」は聖書の写しの最初の形です。古代エジプト・ギリシャ・ローマで用いられ、パピルス(papyrus)というナイル河畔に生えるアシに似た草から作った紙のようなものに書かれていることからこう呼ばれます。パピルスの木から作られた紙は、通常木の軸にグルグルと巻き付けて巻物状にして、それを細長い箱に収めて軸の部分を回して巻き取りながらスクロールして読めるようにしてあります。その後はパピルスを同じサイズになるように切断して切りそろえて、それを中央から半分に折って束ねるようになりました。つまり今日の本に近い形です。これを「codex(コーデックス)」と呼びます。
今日までに見つかっている「papyri」は88点とのことで、2世紀~8世紀に作られたものです。このうち半分近い41点が2~4世紀の初期のものです。最も古いpapyriは西暦125年のもので「ヨハネの福音書」の一部が含まれています。
羊皮紙
4世紀からは羊皮紙(parchment)が使われ始めました。獣皮から作る紙で毛や肉の部分を取り除いた獣皮を切りそろえて加工して使います。12世紀に今日のような紙が生まれるまで使われました。
羊皮紙その1:Uncials :「Uncials(アンシアルズ)」は羊皮紙に書き写された聖書の最初のグループです。「アンシアル字体」は4~8世紀に写本作業に用いられた太くて丸味のあるギリシア語の大文字体のことで、このグループの写本は全体が大文字で記述されています。今日までに約290点のUncialsが見つかっていて、時期は4世紀~15世紀に分布します。これらのうち最も古い二つは「Codex Sinaiticus」(通称「Aleph」)と「Codex Vaticanus」(通称「Beta」)で、それぞれが見つかった場所、シナイ山とバチカンの修道院の名前にちなんで命名されています。どちらも4世紀初めの写本です。さらに重要なのはこの二つが聖書全体を収録した最古の写本だと言うことです。「Aleph」と「Beta」はそれぞれの呼称(コードネーム)で、ヘブライ語のアルファベットの最初の文字「Aleph」とギリシア語のアルファベットの二つ目の文字「Beta」にちなんでいます。この二つの次に古い写本は「Codex Alexandria」で5世紀初めの写本です。
羊皮紙その2:Minuscules :次のグループは「Minuscules(ミナスキュールズ)」です。「minuscule」は「とても小さい」の意味で、全体が小文字の筆記体で記述されていて大文字は必要なところだけに現れます(つまり今日の一般的な書き方と同じということ)。9世紀~15世紀に分布します。今日までに約2,800点のMinusculesが見つかっていて、一番古いものは西暦835年の写本です。
写本以外の拠り所
聖書の原典を議論するときに参考にするのは写本だけではありません。他にもいくつか参考となる文献があります。
Lectionaries :「Lectionaries(レクショナリーズ)」は教会の礼拝の儀式の中で読み上げる原稿として用意されたもので、ここにはところどころに聖書の記述が含まれます。今日までに約2,200点のLectionariesが見つかっていて9世紀~15世紀に分布します。
Patristic Citations :「Patristic Citations(パトリスティック・サイテイションズ)」は初期の教会の牧師が記述したノートで、ここには新約聖書からの引用が見られます。この文献の難点はその牧師が実際に聖書を見ながら書き写したのか、自分の記憶に頼って書いたのかが定かでないところです。多数の文献が見つかっていて1世紀~5世紀に分布します。
初期の版 :ここに言う「初期の版」とはギリシア語の新約聖書を他の言語に翻訳した翻訳版聖書のことです。これらのうち最も重要なのは初期のラテン語の版で「Itala」と呼ばれます。新約聖書が最初にラテン語に翻訳されたのはおそらく西暦200年頃ですが、これまでに見つかった50点の初期の版の中で一番古いものは4世紀のものです。もうひとつ重要な外国語の版として挙げられるのが「Vulgate」と呼ばれるラテン語の版です。Jerome(345~420)が翻訳に関与したとされ、「Vulgate」はローマカトリック教会の正式な聖書として採用された版でもあります。これまでに8,000点が見つかっていて一番古いものは4世紀のものです。
このようにこれまでに数千点にも及ぶ文献が見つかっていますが、新約聖書についてはそのうち85%の記述の完全な合致が確認されています。つまりどの版の新約聖書を読んでも翻訳の元になった底本の観点では85%の部分については同じものを読んでいることになります。85%という数字は私にはかなりの安心感を与えます。
二つの写本のグループ
新約聖書の85%の部分はどの写本を見ても一致しています。残る15%の部分に相違があるわけですが、全体を比較すると少なくとも原典が二つのグループに大別できることがわかります。
Byzantines :一つ目は「Byzantines(ビザンティーンズ)」です。ビザンチン教会、つまり東方正教会(=11世紀にローマ教会から分離してギリシアやロシアなど東欧諸国に多くの信者を持つ教会)がずっと使っている聖書なのでこう呼ばれます。「Byzantines」は見つかった文献の大多数(80~90%と言われる)を占めますが分布時期は後半、つまり4世紀以降で比較的新しいのです。ただし中にはそれよりも古い文献があり、数点のPapyriも含まれます。
Alexandrian :原典のもう一つのグループは「Alexandrian(アレクサンドリアン)」です。エジプトの町の名前にちなんでいます。見つかった文献の中ではほんの一握りの少数派(10%程と言われる)なのですが、分布時期が古いのが特徴です。つまり4世紀以前です。「Codex Sinaiticus」(Aleph)と「Codex Vaticanus」(Beta)のcodexは、この「Alexandrian」のグループに属し、他にPapyriもあります。
「Alexandrian」は少数派で古い文献、「Byzantines」は多数派で新しい文献とまとめることができますが、地理的にはPapyriやCodexなどの最も古い文献はエジプト周辺で見つかって、比較的新しい文献は小アジア(現トルコ共和国の黒海と地中海に挟まれたアナトリアと呼ばれる半島部分)やギリシアから見つかる傾向があります。これについてはエジプトの暑く乾いた気候がパピルス紙を良好に保存したからであって、小アジアやギリシアにもあったはずの古い「Byzantines」の文献は保存がかなわずに失われてしまっただけなのだという説や、初期の教会から危険視されていたグノーシス派(Gnosticism)などの異端派が改竄を加えた聖書は、初期の教会の指導者たちには容易に見分けられたから結果としてそれらの写本は作られなかった、だから小アジアやギリシアには正統派の正しい写しだけが多数残っているのだという説もあります。
二つの底本のグループ
はたしてどちらのグループが最初にイエスの弟子たちが記した新約聖書に等しい、あるいは近いのか、これは大きな議論になっていて、結果として二つのグループからそれぞれ別々の底本が生まれています。
Majority Text (MT) :「Majority Text(マジョリティ・テキスト)」は多数派で新しい文献の「Byzantines」に基づきます。「Byzantines」は見つかった文献の80~90%という大多数(Majority)を占め、神さまの備えとして最良の聖書は文献の多数派の中に保たれるという考えに基づいてこう呼ばれています。なお底本の議論には「Textus Receptus (TR)(テクスタス・レセプタス)」というグループが登場することもありますが、これはMTに大変近い底本です。
MTグループに入る主要な底本は今日次の二つで、この二つの底本の内容はほぼ同じです。
- The Greek New Testament According to the Byzantine Textform (Maurice A. Robinson & William G. Pierpont)
- The Greek New Testament According to the Majority Text (Zane C. Hodges & Arthur L. Farstad)
Critical Text (CT) :「Critical Text(クリティカル・テキスト)」は少数派で古い文献の「Alexandrian」に基づきます。評論家・評論家(Critics)が作った底本なのでこう呼ばれます。1800年代の後半、ウェスコット(B.F. Wescott)とホルト(F.A. Hort)の二人の研究者が最初に「Critical Text (CT)」の基本的な考え方、つまり新約聖書の原典は他の古文書と同じアプローチで鑑定すべきとの視点を示したのが始まりです。ウェスコットとホルトによれば原典の正しさを示すのは見つかった写本等の数ではなく「重み付け」が必要とします。ウェスコットとホルトが重視した「重み付け」は写本の古さです。古ければ古いほど正しいはずという考え方によれば、当然元になる原典は分布時期の古い「Alexandrian」になります。
CTグループに入る主要な底本は今日次の二つで、この二つの底本の内容はまったく同じです。
- The Greek New Testament (The United Bible Societies/ "UBS"/ Kurt AlandやBruce Metzgerなど5名による)
- Novum Testamentum Graece (Eberhand Nestle & Kurt Aland/ "Nestle-Aland")
15%の相違とは
それでは15%の相違とはいったいどんな相違なのでしょうか。実はこれらの相違のうちの大半は見比べたときにどちらが正しくてどちらが間違っているかが容易にわかります。ということはそもそも底本の違いというのはほとんどないということになります。たとえば上でとてもよく似ていると書いたMTとTRは相違点を冷静に検証すると99%合致することがわかります。またCTとMTでも同様に98%合致します。ということは相違の議論は15%についての議論ではなく、全体の1~2%の相違についての議論に過ぎないということになります。
さらに言うとこの残された1~2%部分の相違の大半が取るに足らない些細な相違なのです。たとえばギリシア語のスペルの違いとか語順の違いなどです。こういう相違が聖書を書き写すときに発生した「書き写しミス」であることは容易にわかりますし、翻訳されるときにはまったく影響を受けませんから原語で聖書を読むのでない限り意識する必要さえありません。
ただしここで大切なことがひとつだけあります。それは底本の異なるグループ間の相違は、全体に占める量や相違の内容を見ればほとんど気にする必要がないレベルだとしても、いくつかの重要な相違点は依然としてあると言うことです。そしてここが最大の議論のポイントになっているのです。でも心配はいりません。これら数カ所の重要な相違点については今日の聖書ではほとんどの場合、脚注等で相違の内容を示していますから両者の違いを自分で読み比べることができるのです。
english1982 at 22:00|Permalink
英語の聖書の版
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・英語の聖書の版
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ヘブライ語やギリシア語で書かれた聖書の底本を英訳する際には、最初に翻訳の方針、原則、ルールといったものを決めます。それが私がこのページで英語翻訳の手法と呼んでいるものです。ここでは聖書の底本を英訳するにあたってどのような手法が取られているか、それを説明します。
代表的な翻訳の手法
以下に代表的な翻訳の手法を挙げます。
逐語訳(Literal Translation)
この方法は聖書の原語であるヘブライ語やギリシア語の一語一語を洩らすことなく翻訳する方法です。さらにそれを行う際には「原語の文法の語法」さえも洩らさずに翻訳しなければいけないとします。つまり名詞は名詞として、形容詞は形容詞として翻訳するのです。
これに加えて翻訳の時にもし何かしらの理由で原語側に存在しない言葉を加えるような場合には、その部分をイタリック体(斜体)にしたり括弧でくくったりして明確に示します。
この手法による英語聖書で一番極端な例は原語と英語を交互に行間に表示する「Interlinear(インターリニア)」タイプの聖書です。これは原語のヘブライ語やギリシア語のすぐ下に個々の単語に対応する英単語を表示したタイプの聖書です。この場合、原語のヘブライ語やギリシア語の語順までもが明確にわかることになります。ただこの「Interlinear」タイプの聖書は英語の部分だけを読むと単にヘブライ語とギリシア語の原語の語順で英単語が並んでいるだけなので、なんとなく何を言っているか推察することはできても英文としてはまったく意味をなしません。たとえばこんなイメージです:
I love you.
私 | 愛する | あなた
逐語訳(Literal Translation)の聖書は、このやや極端な「Interlinear」から一歩進めて単語の順番を入れ替えることで少なくとも英文として意味が通るようにしたものです。ただし相変わらず読みづらい英文であることは確かです。
予備知識ですが、聖書の原語、特に新約聖書のギリシア語では定冠詞(英語の「the」にあたる単語)が英語よりもかなり頻繁に登場するそうで、このとき登場するすべての定冠詞を「the」に置き換えた場合、英語としては大変読みづらいものとなってしまいます。そこで逐語訳においては唯一、この定冠詞の翻訳だけは必要に応じて省略されています。
逐語訳で読める英語の聖書には以下があります(括弧内は略称、末尾の記号は底本):
- Young's Literal Translation(YLT) 1862, 1898; TR
- Literal Translation of the Bible(LITV) 1976, 2000; TR
- Analytical Literal Translation(ALT); MT
形式的な同意義訳(Formal Equivalent)
この方法でも原語のヘブライ語やギリシア語は原則として一語一語翻訳されるのですが、完全な逐語訳と異なるのは英文として読みづらいと判断された単語を翻訳時に省略していくところです。
たとえばギリシア語で書かれた新約聖書の中では「本当に(indeed)」という単語が非常に頻繁に登場しますが、ほとんどの場合文意を伝えるためにはこれをそのまま全部翻訳する必要はなく、逆にこれをすべて翻訳していくと英文としては大変読みづらくなってしまいます。この手法ではこういう単語を省略していきます。
またこの手法では逐語訳ほどは文法の語法にもこだわりません(完全な逐語訳では名詞は名詞に形容詞は必ず形容詞に翻訳します)。英語としての読みやすさを優先し、なおかつ原語に照らしても正当だと判断できれば必要に応じて品詞を変更していきます。
形式的な同意義訳で読める英語の聖書には以下があります(括弧内は略称、末尾の記号は底本):
- King James Version(KJV) 1611; TR
- New King James Version(NKJV) 1979 NT, 1982 OT; TR
- Modern King James Version(MKJV); TR
- New American Standard Bible(NASB) 1977 NAS77, 1995 NAS95; CT
解釈訳(Expanded)
この方法の特色は通常の翻訳では失われがちな原語のニュアンスを伝えることを目的としているところです。
たとえばギリシア語の文法は大変複雑なので翻訳後の言語側で適切に対応がとれる単語を見つけられないケースが出てきます。つまりギリシア語にはこういう単語があるが、それにぴったりあてはまる英語の単語が見つけられないという場合です。この場合は逐語訳のようなシンプルな翻訳手法では原語の持つニュアンスを損なわないようにするのが大変難しくなります。この方法はここに着目して翻訳の中で原語のニュアンスをできる限り伝えていこうとしています。
この方法に問題点があるとすると翻訳に解釈を折り込んでいくうちに逆に読みづらくしてしまう場合があることです。さらにはいつの間にか「翻訳」と言うよりも「解説」になってしまうこともあるということです。
解釈訳で読める英語の聖書には以下があります(括弧内は略称、末尾の記号は底本):
- Amplified Bible(AMP); CT
ダイナミックな同意義訳(Dynamic Equivalent)
これは今日もっとも普及している英語聖書の翻訳手法です。
たとえば逐語訳が「単語」を「単語」で置き換えるのに対し、この手法では「考え」を「考え」で置き換えようとしています。言い換えるとこの手法の目的は読者に原語の持つ「意図」や「考え方」を示そうとしています。
この目的を達成するため翻訳後の英語には原語のヘブライ語やギリシア語には存在しない単語が多数追加されていきます。またどの単語がもともと原語に存在しどの単語が追加されたものかは読者にはわかりません。同様に、重要とみなされなかった単語はたとえヘブライ語やギリシア語の原語に存在しても翻訳されないことがあります。接続詞の省略が代表的ですが、ときには同じことが繰り返して言われている箇所などがそっくり省略されます。文法の語法も頻繁に変更されます。代名詞を名詞に変更したり名詞を動詞に変更したり。また二つに分かれていた言い回しを一つに統合したりするなど語法は頻繁に変更されます。
ダイナミックな同意義訳で読める英語の聖書には以下があります(括弧内は略称、末尾の記号は底本):
- The Good News Bible(GNB); CT
- Today's English Version(TEV); CT
- The New International Version(NIV); CT
意訳(Paraphrase)
この手法では聖書をできるだけ読者に読みやすく理解しやすくするために聖書の原語を完全に言い換えます。
この方法に問題点があるとすると「言い換え」による意訳の作業は完全に翻訳者の主観に基づくため、できあがった聖書が翻訳者の視点による解釈になってしまうということです。ある翻訳者がどのような言い換えをするかはその翻訳者の神学上の視点に大きく影響を受けますので、読者はいつの間にかその翻訳者の神学上の視点を共有させられてしまう可能性があります。
意訳で読める英語の聖書には以下があります(括弧内は略称、末尾の記号は底本):
- The Living Bible(LB)1971; CT
- The New Living Translation(NLT)1996; CT
以上を整理すると次のようになります。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | |
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翻訳手法 | 逐語訳 (Literal Translation) | 形式的な 同意義訳 (Formal Equivalent) | 解釈訳 (Expanded) | ダイナミック な同意義訳 (Dynamic Equivalent) | 意訳 (Paraphrase) |
置き換え | 単語⇔単語 | 単語⇔単語 | ニュアンス付加 | 考え⇔考え | 完全な言い換え |
正確さ | 大変正確 | 大変正確 | ほぼ正確 | 訳者の主観 | 訳者の主観 |
読み易さ | 難しい | 難しい | やや難しい | 読み易い | 大変読み易い |
聖書の版 (底本) | YLT (TR) LITV (TR) ALT (MT) | KJV (TR) NKJV (TR) MKJV (TR) NASB (CT) | AMP (CT) | GNB (CT) TEV (CT) NIV (CT) | LB (CT) NLT (CT) |
つまり原語に忠実に正確に翻訳しようとして単語と単語を置き換えれば難解で読みづらい翻訳となり、読み易さを追求して編者が手を加えれば編者の主観や解釈が入り込み、その解釈は本当に正しいのかという問題に突き当たります。
それではどれを読めばよいのかということになりますが、私は個人的にはどの手法をとっても聖書の教義やメッセージを完全に損なうほどに記述を歪めることはできないと思っています。どの版が良いかについてとやかく言うよりも、聖書にできるだけ長い時間親しもうとする姿勢の方が大切です。
私がお勧めする読み方としてはまずは「読み易い」聖書から入り、ある程度聖書に対する理解が深まって原語への関心が高まるに連れて単語を単語で置き換えるようなタイプの版へ移行するのが良いと思います。つまり「NLT」や「NIV」から入り、興味が深まったら「KJV」「NKJV」などに挑戦します。
それともうひとつ、この表からわかることがあります。それは「解釈訳」から右の底本はすべて「CT」となっていて、つまり読み易い聖書を「TR」「MT」の底本で読むことはできないということです。しかしこれも大した問題ではありません。「聖書の成り立ち(歴史)」の記事で書きましたが底本と底本は実質98~99%の部分が合致しており、残りの1~2%の部分については脚注などで相違点が解説されているケースがほとんどだからです。
english1982 at 21:00|Permalink
日本語の聖書の版
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・日本語の聖書の版
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新改訳(しんかいやく)聖書
出版社:日本聖書刊行会
出版歴:1970年初版、2003年第三版
底本: 旧約聖書:キッテルの三版に基づく42名の翻訳者による翻訳 、新約聖書:ネストレの校訂本二十四版 [CT]
「新改訳」は日本で広く読まれている代表的な聖書の一つです。私は「聖書は英語の方がわかりやすい」という信念に基づいてずっと英語の聖書([NLT])を読んで来ましたが、聖書の勉強をして聖書がどういう本なのかがだいたい理解できたことと、またひとりでも多くの日本人に聖書を読んでもらうためには日本語の聖書は不可欠で、そうであれば自分も日本語の代表的な聖書の版を読んでみなければということで、最初に手に取ったのがこの「新改訳」です(2005年12月)。最初にこの版を選んだ理由は友人のアメリカ人の宣教師に勧められたからです。
読み始めての第一印象は日本語の聖書は相変わらず難解だということ。でもたとえ難解でも英語に比べると読んでいくスピードは極めて速い(やはり母国語なので)。次の印象は第一印象では「難解」と感じたにも関わらず「イザヤ書」などの詩的な部分は日本語で読むとなぜか感動するし(泣きそうなくらい)、もう一度読みたいと思わせるということ。これは大切ですね。
英語の聖書の対訳として比べながら読むと新改訳はKJVやNKJVなどの版と非常によくマッチしますから、編者が原書に忠実な訳を心がけていることがうかがわれます。これなら新改訳を信頼しても良さそうだと思わせる部分です。よって私の新改訳に対する印象は「難解な日本語で書かれているが、原書に忠実な翻訳をしている面でかなり信頼できそうな聖書」です。
なお新改訳第三版の売りのひとつは差別語等を見直した(例えば「らい病」を原音に近い「ツァラアト」に変更した等)とのことですが、個人的にはこれで逆にさらにわかりにくくなったと思います。私は「ツァラアト」という言葉をこれまで聞いたことがありませんから「ツァラアト」と言われても何のことかわかりません。
他にも新改訳では新約聖書の原書が「地獄」と呼ばれる部分に対して二つの言葉を使い分けているからという理由で、翻訳においては「ハデス」「ゲヘナ」の言葉をそれぞれにあてはめることにしたようですが、これもシンプルに「冥界」とか「地獄」と書いた方がわかりやすいと思います。もちろん苦悩はわかります。「ゲヘナ」はともかくとして「ハデス」には実は我々が「地獄」と聞いて連想する場所とはまったく逆の領域も含まれているし、「冥界」という言葉が日本人に連想させるものともまったく異なるから読み手に解釈を誤らせたくないのだと思います。でもわかりやすさが損なわれて難解化するのは痛いです。聖書によればサタンは人間を地獄への道連れにしようと嘘をついたり騙して誘い出そうと暗躍していて、一方の神さまは愛と恵みの心で人間に救済の手を差し伸べてくださいます。これほど大切な生死に関わるメッセージを伝えるはずの聖書なのに、こうして「地獄」の印象を弱めてしまってはサタン側の思うつぼなのではないかと思います。
他には新改訳第三版の特徴として神さまのことを「主」と太字で表していて、私などは聖書に「太字」などの字体の技法を持ち込むのはルール違反だとは思いつつも、なぜかこればかりはしっくり来る感じがして読んでいて心地良いです。太字の「主」には一票を投じる私なのですが、それは「主」が誰よりも大好きなクリスチャンとしての私の「気持ち」だからなのであって、聖書を知らない人に聖書のことを説明するときに「主が」「主が」と言っても何のことだかサッパリ通じません・・・。こういうときには「主である神さま」とか「創造主としての神さま」と言わざるを得ないです。難しいですね。
新共同訳(しんきょうどうやく)聖書
出版社:日本聖書協会
出版歴:1987年初版
底本: 旧約聖書:ドイツ聖書協会発行の校訂本文ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア 、新約聖書:聖書協会世界連盟のギリシア語新約聖書修正第三版(事実上、通称ネストレ・アーラント第26版) [CT]
「新共同訳」は日本で広く読まれている代表的な聖書の一つです。私にとっては「新改訳」に続いて二番目に読んだ日本語の聖書です。
新共同訳はカトリック教会とプロテスタント諸派の共同による翻訳委員会が作成した聖書です。プロテスタントの教会に通う私が「カトリック教会が参加した聖書」という情報について感じたのは「カトリック大歓迎!」でした。カトリックと言うと聖書に「第二正典(アポクリファ)」を加えるか否かという議論が出てきますが、新共同訳では第二正典の本は区別してきちんと別の本として刊行されています。私がカトリック教会の参加を歓迎するのはカトリック教会のように大きくて保守的な母体は聖書の言葉を守り保持するのに大変適していると思うからです。たとえば聖書の正典の成立過程ではイエスを迫害したファリサイ派や他の保守派がはやり聖書の一字一句を厳格に守る保守派閥として重要な役割を果たしました。
実際に新共同訳を読んでみての印象は「とても自然」「とても読みやすい」「すいすい読める」感じがします。新改訳が文学的で難解な印象を与えるのに対して新共同訳の表現は現代語に近く馴染みやすいです。一点ひっかかるのはところどこに出てくる専門用語です。これはたぶんカトリック教会やプロテスタント諸派が翻訳に参画したことで教会で普通に使われている言葉から選ばれたのでしょうが、キリスト教に馴染みのない人には意味が通じません。私はずっと英語で聖書を読んできたので日本のキリスト教用語はちんぷんかんぷんです。せっかく全体が読みやすく仕上がっているのにところどころの用語の意味が通じないのでアンバランスな感じがしました。でも気になって仕方がないというほどではありません。
もうひとつこれは聖書の中身とはぜんぜん関係ないのですが私が個人的に大変気にすることのひとつなので書いておきます。新改訳の聖書に比べて新共同訳の聖書は(と言うか日本聖書協会の聖書はと言うべきか)装丁が良くて活字も読みやすいのです。私は毎日のように聖書を読むので、手に馴染み、ページを繰りやすく、活字が目に優しくて読みやすい聖書が欲しいのです。その点で新共同訳は大変良い感じです。
口語訳(こうごやく)聖書
出版社:日本聖書協会
出版歴:1954年初版、1955年改訳版
底本:不明
「口語訳」は日本で広く読まれている代表的な聖書の一つです。
「口語訳」は文語訳に対して、現代語(=口語)を用いて翻訳した聖書の意味だそうで、日本語の聖書としては文語訳しかなかった当時、最初の口語体聖書として普及した聖書として知られています。新改訳や新共同訳に比較すると成立年が古く、口語訳を読んでいた人で新共同訳へ移っている人も多いそうですが、まだ根強い支持者もいるように聞いています。
私はまだ口語訳聖書は読んでいません。印象は読む機会があったらその後で書きます。
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