マタイの福音書

2015年12月29日

マタイの福音書第3章第13節~第17節:イエスさまの洗礼

第3章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Baptism of Jesus

イエスさまの洗礼


13 Then Jesus went from Galilee to the Jordan River to be baptized by John.

13 それからイエスさまはヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダン川へ行きました。

14 But John tried to talk him out of it. “I am the one who needs to be baptized by you,” he said, “so why are you coming to me?”

14 しかしヨハネはイエスさまにそうさせまいとして話しました。「私があなたから洗礼を受ける必要のある者です。なのにどうしてあなたが私のところへ来るのですか。」

15 But Jesus said, “It should be done, for we must carry out all that God requires.” So John agreed to baptize him.

15 ですがイエスさまは言いました。「洗礼はなされるべきなのです。なぜなら私たちは神さまが求められることはすべて行わなければならないのですから。」 そこでヨハネはイエスさまに洗礼を授けることに同意しました。

16 After his baptism, as Jesus came up out of the water, the heavens were opened and he saw the Spirit of God descending like a dove and settling on him.

16 洗礼の後、イエスさまが水から出てくると、天が開けられて、神さまの霊が鳩のように降りてきて自分の上に来るのを見ました。

17 And a voice from heaven said, “This is my dearly loved Son, who brings me great joy.”

17 そして天の声が言いました。「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私の心から愛する息子です。」




ミニミニ解説

「あなたの罪を悔やみ、神さまに向き直りなさい」とのメッセージを荒野で伝える洗礼者ヨハネをイエスさまが訪れます。「マタイ」ではヘロデ大王によるベツレヘム周辺での幼児皆殺しを避けてエジプトへ一時避難したイエスさまの家族が、パレスチナへの帰国後はガリラヤ地方のナザレに落ち着いたと書かれた後の消息は伝えられず、成人したイエスさまが洗礼者ヨハネを訪問した場面で再登場します。この間、イエスさまの誕生からは30年の月日が流れています。

イエスさまはヨハネによる洗礼を求めますが、ヨハネは立場が逆であると言って一度は洗礼を断っています(第14節)。ヨハネによるとイエスさまは自分のすぐ後に現れる自分より偉大な方なのです(第11節)。自分がイエスさまの奴隷となり、イエスさまの履き物を運ぶ価値さえないくらいイエスさまは偉大なのだと言っています。だからヨハネは「私があなたから洗礼を受ける必要のある者です。なのにどうしてあなたが私のところへ来るのですか」と言って断ります。これに対してイエスさまはヨハネがイエスさまに洗礼を施すことは、「神さまが求められること」だとしてヨハネによる洗礼の正しさを主張します。ヨハネの判断でもなく、イエスさまの判断でもなく、神さまの視点で正しいこと・善いことをなすべきだ、とイエスさまは言うのです。

イエスさまの主張を受け入れたヨハネがイエスさまを連れてヨルダン川へ入り、イエスさまを水没させる形で洗礼を授けます。そしてイエスさまが水から出てくると、「天が開けられて、神さまの霊が鳩のように降りてきて自分の上に来る」のが見えます(第16節)。

「天が開けられて」は[NLT]の英文では「the heavens were opened」となっています。まず「heavens」と「天」は複数形で書かれています。これは「天」がいくつかの「層」でできていると解釈されていたことによります。たとえばパウロは「2 Corinthians 12(コリント人への手紙第2の第2章) 」で、自分が「第三の天」に引き上げられたと書いていますが、これは恐らく「エノク書」から来ていると思われます。「エノク書」は旧約聖書には含まれません。ユダヤ人が共有している文献は膨大な量に及び、旧約聖書はそのうちの一部をまとめたに過ぎません。しかし膨大な文献の中から39冊の本が正式に旧約聖書として編纂されたと言うことには重要な意味があるのです。「エノク書」は後の旧約聖書には収められなかったけれど、広くユダヤ人に読まれている書物のひとつで、天国と地獄、最後の審判、天使と悪魔などの記述が多いようです。その中では天国が多層構造の場所として描かれているようで、天は七層(あるいは九層)の構造を持つのです。

その多層構造の「天」をひとまとまりにした複数形の「heavens」が受動態で「were opened」となっています。これは「天」に亀裂が入って裂け目ができたような状態でしょうか。その裂け目から「神さまの霊」が「鳩」のような形で飛び出してきます。そしてその「神さまの霊」はイエスさまのところまで降りてくるのです。

人に聖霊が降りる現象はイエスさま自身が弟子たちに予告した出来事です。自分はやがて天へ帰るが、そのときには自分と入れ替わりに聖霊が訪れて助け主となるとイエスさまは伝えました。聖霊は「三位一体」と言う、父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊が神さまの三つの位相であるという教義に登場する神さまの相のひとつです。やがてイエスさまを信じる人に起こることが、ひとりの人間として地上に立ったイエスさまにも起こっているのです。

聖霊を受けたイエスさまはここから神さまの助けを得ることになります。それを裏付ける形で天から声が聞こえます(第17節)。「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私の心から愛する息子です」。これは神さまがイエスさまを「私の心から愛する息子」と呼ぶ声です。

ここに書かれている内容は「マルコ」の記述とほぼ同じです。ただし洗礼者ヨハネがイエスさまの要求を一度断る場面は「マルコ」には登場しません。








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2015年12月28日

マタイの福音書:第4章

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マタイの福音書第4章第1節~第11節:イエスさまの誘惑

第4章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Temptation of Jesus

イエスさまの誘惑


1 Then Jesus was led by the Spirit into the wilderness to be tempted there by the devil.

1 それからイエスさまは悪魔の誘惑を受けるために、聖霊に導かれて荒野へ出ました。

2 For forty days and forty nights he fasted and became very hungry.

2 40日の昼と夜の間、イエスさまは断食して、とても空腹になりました。

3 During that time the devil came and said to him, “If you are the Son of God, tell these stones to become loaves of bread.”

3 その間に悪魔が来てイエスさまに言いました。「もしあなたが神の子なら、この石に命じてパンにならせなさい。」

4 But Jesus told him, “No! The Scriptures say, ‘People do not live by bread alone, but by every word that comes from the mouth of God.’ ”

4 しかしイエスさまは悪魔に言いました。「断ります。聖書には『人はパンだけで生きるのではなく、神さまの口から出る一つ一つのことばによる』と書いてあります。」

5 Then the devil took him to the holy city, Jerusalem, to the highest point of the Temple,

5 それから悪魔はイエスさまを聖なる町、エルサレムで、寺院の一番高いところにへ連れて行きました。

6 and said, “If you are the Son of God, jump off! For the Scriptures say, ‘He will order his angels to protect you. And they will hold you up with their hands so you won’t even hurt your foot on a stone.’ ”

6 そして悪魔は言いました。「もしあなたが神の子なら飛び降りなさい。なぜなら聖書には『神さまは天使たちに命じてあなたを守らせる。あなたの足を石に打ち当てて痛めることのないように、天使たちは手であなたを持ち上げる』と書いてあります。」

7 Jesus responded, “The Scriptures also say, ‘You must not test the Lord your God.’ ”

7 イエスさまは答えました。「聖書には『あなたの神さまである主をためしてはならない』とも書いてあります。」

8 Next the devil took him to the peak of a very high mountain and showed him all the kingdoms of the world and their glory.

8 次に悪魔はイエスさまをとても高い山の頂へ連れて行き、世の中のすべての王国とその栄華を見せました。

9 “I will give it all to you,” he said, “if you will kneel down and worship me.”

9 悪魔は言いました。「もしあなたがひざまずいて私を拝むなら、これを全部あなたにあげましょう。」

10 “Get out of here, Satan,” Jesus told him. “For the Scriptures say, ‘You must worship the Lord your God and serve only him.’ ”

10 イエスさまは悪魔に言いました。「ここからいなくなりなさい、サタン。なぜなら聖書には『あなたの神さまである主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてあります。」

11 Then the devil went away, and angels came and took care of Jesus.

11 すると悪魔は去っていきました。そして天使たちが来てイエスさまを手当てしました。




ミニミニ解説

イエスさまが洗礼者ヨハネによる洗礼を受けたとき、天が開いて鳩の姿をした聖霊が降りてきました。イエスさまはその聖霊に導かれて荒野へ出て行きます。荒野はユダヤの民にとって神がかりの場所なのです。

イエスさまの誘惑の話は「マルコ」の第1章にも登場しますが、そこに書かれているのは40日にわたってサタンの誘惑と戦ったことだけで、「マタイ」のように詳しい誘惑の内容が書かれているわけではありません。「ルカ」に登場する誘惑の話は、「マタイ」とほぼ同一の内容となっていますので、「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」=「マタイ」・「ルカ」の公式にあてはめると、誘惑の話はイエスさまの語録集である「Q資料」に含まれていたと推測されます。誘惑の物語そのものは「語録」ではありませんが、洗礼者ヨハネの話と同様、「語録集」を教義の中心に置く初期の教会(あるいは教会群)では誘惑の物語も一緒に教えられていた、と言うことです。

イエスさまを誘惑するのは「悪魔(devil)」です。「悪魔」は聖書の中では神さまに対抗する「霊(spirit)」として登場します。神さまや天使や悪魔は「霊」です。「霊」と言うと、私たち日本人は「幽霊」を想像しがちですが、聖書の中では滅びる肉体を持たない存在として「霊」が描かれています。第10節の誘惑の最後でイエスさまが「ここからいなくなりなさい、サタン」と呼びかけた相手の「サタン(Satan)」が神さまに対抗する悪の側の「霊」のリーダーです。「サタン」は固有名詞で、もともと神さまに仕えていた上位の天使のひとりとされます。サタンは神さまに造られて神さまに仕える立場でありながら、神さまと同等の高みに上りたいとの野望を持ち、結果として神さまから追放されて地上へ落とされます。そのときにサタンに従った天界の1/3の天使たちが、堕天使として「悪魔」になったとされます。このあたりの物語は、旧約聖書のあちこちの記述をつなぎ合わせた「解釈」のひとつですので、そのとおりを信じるかどうかは「教義」の問題になると思います。ただ「霊」としての「悪魔」や「サタン」は、それがどのように生まれたかはともかくとして、新約聖書の中では実在の存在として何度も登場します。

「悪魔」の誘惑を受けるためにイエスさまを荒野へ連れ出したのは「聖霊」です。「マルコ」では「compel(無理に~させる)」と言う単語を使って、聖霊が無理やりイエスさまを荒野へ連れ出した、と表現されています。イエスさまは荒野で悪魔の誘惑を受けるのは嫌だったのです。「聖霊」は「三位一体」では「神さま」、「イエスさま」と並んで神さまを構成する一つの位相とされています。つまりイエスさまが荒野で悪魔の誘惑を受けたのは、神さまの意志だったと言うことです。それがイエスさま本人の意志には反することだとしてもです。私たちも日々、たくさんの「嫌なこと」に出会いますが、その「嫌なこと」を私たちにもたらしているのはもしかすると神さまなのかも知れません。イエスさまは前回、第17節で神さまが「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私の心から愛する息子」と言ったほどの存在ですから、イエスさまの行動は神さまに喜びをもたらすのです。つまり神さまは悪魔にイエスさまを誘惑させ、イエスさまがどのように対応するかを見ていらっしゃるのです。そしてイエスさまの行動は神さまの目に喜びとして映っている、と言うことですから、イエスさまの言動は常に私たちのお手本なのです。イエスさまの行動を見てみましょう。

イエスさまは荒野へ出ると40日間、断食されたのでした。「40」と言う数字は聖書の中では「試練」を象徴する数字です。ノアの箱船のときに神さまが雨を降らせたのが、四十日四十夜。エジプトを脱出したユダヤ人が神さまの怒りに触れて砂漠を放浪したのが四十年間。モーゼが十戒に代表される律法を神さまから授かるためにシナイ山に上っていたのが四十日四十夜という具合です。イエスさまは荒野で試練の40日を過ごされました。果たして40日間の断食が可能なのか、という議論もありますが、そもそも断食を用いた精神修養は当時のユダヤ人の間では珍しいものではありませんでした。また断食は開始した直後こそ、大変な空腹感に苛まれますが、ある期間を過ぎると身体が「食べないこと」に順応して来るのだと言われています。それにしても40日間の断食と言うのは大変なことでしょう。

40日の断食の肉体的にも精神的にも弱った誘惑に脆弱な状態のイエスさまのところへ悪魔がやってきてイエスさまを誘惑します。誘惑の形態は三つ、書かれています。

最初の誘惑は「石に命じてパンにならせよ」と言う誘惑で、これは自分の「肉体の欲求」を満たすことを優先して生きてみてはどうか、と言う誘惑です。イエスさまはこれに対して聖書の引用で答えました。誘惑の物語での聖書の引用箇所はいずれも「Deuteronomy(申命記)」からです。「Deuteronomy(申命記)」は四十年間の砂漠放浪の後で、いよいよヨルダン川を渡ってパレスチナに入ろうとするユダヤ人たちに対し、モーゼが最後に申し送った神さまのことばで、律法が美しく要約された本です。最初の引用は「Deuteronomy 8:3(申命記第8章第3節)」です。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」([新改訳])。ユダヤ民族は40年間の砂漠放浪の間、神さまが与えたマナという食べ物を毎日食べていました。その理由は「マタイ」によると、「人はパンだけで生きるのではなく、神さまの口から出るすべてのもの(=神さまの言葉)で生きる」と書かれています。イエスさまは荒野の石をパンに変えることよりも、神さまの意志を尊重する道を選んだのでした。

次の誘惑は「寺院の一番高いところから飛び降りて見せよ」と言う誘惑で、これは「能力の証明の欲求」を満たすことを優先して生きてみてはどうか、と言う誘惑です。イエスさまの回答は「Deuteronomy 6:16(申命記第6章第16節)」です。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」([新改訳])。「マサ」は地名です。「Exodus 17(出エジプト記第17章)」に登場します。ユダヤ人が四十年間、砂漠をさまよっている間の出来事で、そのときユダヤ人は飲み水がなくて困っていました。ユダヤ人は何とかしてくれ、という不満をモーゼにぶつけます。モーゼは最初こそ、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか」と、イエスさまが最初の誘惑に対処したようにユダヤ人の誘惑を退けようとしますが、結局は根負けしてしまって神さまに相談します。そしてモーゼが神さまの指示どおりに岩を杖で打つと、岩から水がほとばしり出るのです。モーゼはこの地を「マサ(試し)」と名付けました。

悪魔はイエスさまに飛び降りよ、と言ったところで、自分も聖書を引用しています。引用箇所は「Psalms 91:11-12(詩編第91章第11節~第12節)」です。「11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」([新改訳])。ここには、神さまはどんなことがあってもあなたを守る、と書かれています。悪魔は、そのように書かれているのだから、きっと飛び降りても大丈夫だろう、証明して見せろ、と言うのです。「マサ」の場面では、ユダヤ人は水がなくて乾き呻いていて、きっと神さまなんていないんだろう、こんなことならエジプトから出てくるのではなかった、と言ったのです。それまでさんざん自分の目で見てきた奇跡の数々を忘れて神さまの存在に疑問を呈し、神さまを疑い、「試す」ことを行ったのでした。悪魔の同じような誘惑に対し、イエスさまは神さまの存在を100%信じて疑うことがないので、どうしてわざわざ飛び降りて試すようなことをする必要があるのか、と言って誘惑を退けます。自分の「能力の欲求」を満たすために、神さまの存在を試すようなことをしてはいけないのです。

最後の誘惑は「世の中のすべての王国をあなたにあげましょうか」と言う誘惑です。これは「所有欲」であり「プライド」を満たすことを優先して生きてみてはどうか、と言う誘惑です。悪魔の交換条件は、代わりに「ひざまずいて私を拝め」でした。イエスさまの回答は「Deuteronomy 6:13(申命記第6章第13節)」です。「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない」([新改訳])。十戒の最初の命令も「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と書いてあります。これは律法の中で繰り返し言われることです。私たちがひざまずいて拝まなければならないのは、神さまだけなのです。神さまは宇宙の創造者、支配者であり、全知全能です。自分の好きなように世の中に王国を興し、それを好きな人に与えることができます。また「いのち」を司る存在ですから、人を生かすも殺すも思いのままです。それだけの能力を持つ神さまの存在を知っていながら、どうして自分で「所有欲」や「プライド」を追求する必要があるのでしょう。何かが欲しいなら、何かになりたいなら、それを神さまにお願いするのが一番の早道です。

私はこの40日の荒野の苦行は、イエスさまにとっては本当につらい修行だったのではないか、と思います。この物語での悪魔とイエスさまのやり取りは、悪魔が一言二言で誘惑し、それに対してイエスさまが聖書を引用して一言二言で拒絶する、と言う具合に淡々とシンプルに描かれていますが、実際はそうではなかったのではないでしょうか。まず40日に及ぶ断食がもたらす精神状態がどれほどのものなのか、私たちには想像できません。それから悪魔がどのようにイエスさまに迫ったのかもここには書かれていません。「悪魔のようなやつ」と書いてどんな人物を想像しますか? もしかすると悪魔はイエスさまを恫喝したり、殴りつけたり、かと思うと巧妙にそそのかしたりして、ありとあらゆる手段を使って、何度も何度もしつこくイエスさまに要求を受け入れさせようとしたのではないでしょうか。そういう状況に追い込まれた人は自分が一言「わかりました」と言いさえすれば苦痛から解放されると知っていると、心のどこかから「受け入れてはいけない」と言う声が聞こえても、それを無視して「わかりました」と言ってしまうものです。人間は弱いですから。しかしそれほどの極限状況にあっても、最後まで神さまの意志を追求したイエスさまの行動は、神さまの目に正しく映ったのです。








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マタイの福音書第4章第12節~第17節:イエスさまの活動が始まる

第4章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Ministry of Jesus Begins

イエスさまの活動が始まる


12 When Jesus heard that John had been arrested, he left Judea and returned to Galilee.

12 イエスさまがヨハネが逮捕されたことを耳にすると、イエスさまはユダヤを離れてガリラヤへ戻りました。

13 He went first to Nazareth, then left there and moved to Capernaum, beside the Sea of Galilee, in the region of Zebulun and Naphtali.

13 イエスさまは最初にナザレへ行き、それからナザレを去って、ゼブルンとナフタリの地方でガリラヤ湖のほとりにあるカペナウムへ移動しました。

14 This fulfilled what God said through the prophet Isaiah:

14 これで神さまが預言者イザヤを通して言われた事柄が成就しました。

15 “In the land of Zebulun and of Naphtali, beside the sea, beyond the Jordan River, in Galilee where so many Gentiles live,

15 「ゼブルンとナフタリの地、湖のほとり、ヨルダン側の向こう側、たくさんの異邦人が住むガリラヤで、

16 the people who sat in darkness have seen a great light.   And for those who lived in the land where death casts its shadow, a light has shined.”

16 暗やみの中に座っていた人々が大きな光を見た。死が陰を落とす地に住んでいた人々に光が輝いた。」

17 From then on Jesus began to preach, “Repent of your sins and turn to God, for the Kingdom of Heaven is near.”

17 この時からイエスさまは説き始めました。「あなたの罪を悔いなさい。そして神さまに向き直りなさい。なぜなら天の王国が近いからです。」




ミニミニ解説

洗礼者ヨハネの逮捕をきっかけに、イエスさまはパレスチナ南部のユダヤ地方を離れ、自分が育った北部のガリラヤ地方へ戻ります。「マタイ」にはユダヤ地方でのイエスさまの活動は、ヨハネによる洗礼と荒野での悪魔による誘惑の話しか書かれていませんが、イエスさまは本格的な伝道活動に入る前に、しばらくユダヤ地方で洗礼者ヨハネの近くで過ごしていたのかも知れません。

この頃、ヨハネの説教を聞くためにたくさんの人が荒野へ集結していました。ローマ帝国支配下の属国で、ひとりの指導者のまわりにたくさんの人々が集結するのはいかにも不穏です。暴動を起こして独立を勝ち取ろうと画策しているのではないかと疑われても不思議はありません。ヨハネを逮捕したのはヘロデ大王の四人の息子の一人で、ガリラヤとペレアを支配していたヘロデ・アンティパスです。ヘロデ・アンティパスは恐らく洗礼者ヨハネ本人と、ヨハネがもたらす評判を危険視して、ことが大きくなる前に逮捕したのでしょう。ヨハネは死海湖畔のマケラスの要塞に閉じこめられます。イエスさまはこれを見ると、無用な衝突を避けるために活動拠点をガリラヤ地方に求めたのだろうと思います。

イエスさまはユダヤ地方を後にすると、まず生まれ故郷のナザレに戻り、そこからガリラヤ湖畔のカペナウムへ移りました。南北に長いイスラエルは南のエルサレムから北のガリラヤ湖までは直線距離で100kmくらいです。ナザレはガリラヤ湖の北西15kmくらい、ちょうどガリラヤ湖と地中海の間くらいのところにあります。カペナウムはガリラヤ湖の北岸の町で、イエスさまがガリラヤ地方で行った伝道活動の拠点となる町です。

「マタイ」の著者はこれを預言の成就としています。引用箇所はIsaiah 9:1-1(イザヤ書第9章第1節~第2節)です。「1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」([新改訳])。「ゼブルン」と「ナフタリ」はユダヤの十二部族の名前です。十二部族はパレスチナに定着したときに、それぞれ部族ごとに土地を割り振られたのですが、この二つの部族はガリラヤ地方の土地を与えられたのでした。ガリラヤ地方が受けた「はずかしめ」とは北朝イスラエルがアッシリアに征服されて滅ぼされたことだろうと思います。アッシリアの支配下に入ったガリラヤは「異邦人のガリラヤ」となったのです。そのような暗い歴史を背負うガリラヤの地なのですが、イザヤはやがてガリラヤの人々は「大きな光」を目にする、と預言しています。「マタイ」はガリラヤ地方に住んでいた人たちを照らした「光」が、すなわちガリラヤ地方で伝道活動を開始したイエスさまだと言うのです。

アッシリアが北朝のイスラエルを滅ぼしてからしばらくして、南朝のユダヤもバビロニアに滅ぼされ、このときにエルサレムの寺院も破壊されます。紀元前586年のことです。ユダヤから連れ去られた人々の一部は、その70年後にエルサレムに戻って寺院を再建し(紀元前516年)、それ以降、エルサレム周辺に再びユダヤ人は定着し始めますが、北部のガリラヤ地方が再びユダヤ人の土地になるのは紀元前100年頃です。つまり、イエスさまの時代のほんの100年前まで、北部のガリラヤ地方は異邦人の土地だったのです。 ユダヤに住む保守派のユダヤ人から見れば、ガリラヤはつい最近まで汚れた異邦人に支配されていた辺境の土地です。とても正当なユダヤ人の地と認められるような場所ではありません。そのような「死が陰を落とす地」で、イエスさまは福音の伝道を伝え始めたのです。

イエスさまが伝えた教えは洗礼者ヨハネが説いたのと同じメッセージです。「あなたの罪を悔いなさい。そして神さまに向き直りなさい」。そしてこれに付け加えて、イエスさまは「なぜなら天の王国が近いからです」とその理由を付け加えました。この「天の王国が近い」の意味するところは果たして何なのか、イエスさまが伝えようとした「天の王国」の意図と、これを聞いた人々のとらえ方は異なっていたのです。

この部分の「マルコ」の記述は、「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』」だけです([新改訳])。ゼブルンとナフタリに関する預言の実現の記述は「ルカ」には見つかりませんから、ここは「マタイ」の著者が挿入したオリジナルの部分です。








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マタイの福音書第4章第18節~第22節:最初の弟子たち

第4章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The First Disciples

最初の弟子たち


18 One day as Jesus was walking along the shore of the Sea of Galilee, he saw two brothers -- Simon, also called Peter, and Andrew -- throwing a net into the water, for they fished for a living.

18 ある日、イエスさまがガリラヤ湖の岸に沿って歩いていると、イエスさまは二人の兄弟を目にしました。ペテロとも呼ばれるシモンとアンデレです。二人は湖へ向けて網を打っていました。と言うのは彼らは生活のために漁をしていたからです。

19 Jesus called out to them, “Come, follow me, and I will show you how to fish for people!”

19 イエスさまは彼らを大きな声で呼びました。「来なさい。私について来なさい。私があなた方に漁で人間をとる方法を教えてあげます。」

20 And they left their nets at once and followed him.

20 彼らはすぐに網を捨ててイエスさまについて行きました。

21 A little farther up the shore he saw two other brothers, James and John, sitting in a boat with their father, Zebedee, repairing their nets. And he called them to come, too.

21 岸を少し先に行ったところで、イエスさまは別の二人の兄弟を目にしました。船の中で父親のゼベダイと一緒に網を修理していたヤコブとヨハネです。イエスさまはこの二人にも来るように呼びかけました。

22 They immediately followed him, leaving the boat and their father behind.

22 彼らは船も父親も後にして即座にイエスさまについて行きました。




ミニミニ解説

ガリラヤ湖北岸のカペナウムで伝道活動を開始したイエスさまが、最初に二組の兄弟を弟子にした様子が書かれています。ペテロとアンデレの兄弟とヤコブとヨハネの兄弟です。このうちペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、後に十二使徒の中でももっともイエスさまに近い側近となる人たちです。

素直に読んでいくと洗礼者ヨハネの逮捕をきっかけに、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ移ったイエスさまが、ガリラヤ湖の湖畔を歩いて見つけた四人をその場で弟子にしたように読めます。ですが四人とも大人ですし(ヨハネはかなり若かったようですが)、「漁師」をして家族と一緒に暮らしていた人たちです。ペテロは結婚もしていました。それがイエスさまの「魚ではなく人の漁り方を教えよう」の一言で、すべてをなげうって即座についていくものでしょうか。私はこの場面は最終的に四人がイエスさまの弟子になることを決めた場面なのだと思います。

「ヨハネの福音書」を読むと、イエスさまが洗礼者ヨハネの洗礼を受けた翌日、洗礼者ヨハネは自分の弟子のアンデレともう一人(おそらく弟のペテロ)にイエスさまを指し示し、二人はその後でイエスさまと時間を過ごしたと書かれています。つまりユダヤ地方の荒野で「悔い改めよ」とメッセージを伝えていた洗礼者ヨハネのところへ集まってきたたくさんの人たちの中に、アンデレとペテロの兄弟も含まれていて、さらに二人はヨハネに師事して弟子にまでなっていたのです。そしてその頃にやはりユダヤ地方にいてヨハネの洗礼を受けたイエスさまと少なからず時間を共にしました。おそらく同じことがヤコブとヨハネの兄弟にも言えるのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネの逮捕をきっかけに、自身の伝道活動を始めるためにユダヤ地方からガリラヤ地方へ移動してきたイエスさまが、ガリラヤ湖のほとりを歩いているとユダヤ地方で関係のあった四人が漁をしているのに出くわしました。四人は洗礼者ヨハネの逮捕に落胆してガリラヤ地方へ戻り、もとの漁師の仕事に戻っていたのです。

ここでイエスさまが四人に自分が伝道活動を始めることを伝えると、四人はイエスさまの伝えようとしているメッセージがヨハネと同じであると知り、イエスさまに従うことを決心し、ついに仕事や家族をなげうってイエスさまについていったのです。そういう流れなのではないかと思います。四人は一度は仕事や家族を捨てて洗礼者ヨハネの弟子となった人たちです。同じことを今度はイエスさまを師と仰いで実行に移したと言うことです。

ちなみにこの部分の記述は「マルコ」とまったく同じですから、「マタイ」の著者は「マルコ」の記述をそのまま採用したのだと思います。








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