マタイの福音書

2015年12月31日

マタイの福音書:はじめに

マタイの福音書
第06章第07章第08章第09章第10章



新約聖書にはイエスさまの生涯を描いた「福音書」のタイトルを持つ本が四つ、「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の順に収録されています。同じイエスさまの生涯を描いた本であるのに内容が異なります。

四つの福音書のうち、「マルコ」が最初に書かれ、「マタイ」と「ルカ」は「マルコ」を元にして、そこに「追加」をする形で作成されたことがわかっています。しかも「マタイ」と「ルカ」で追加された情報には共通点が多いことから、何かの「同じ文献」に基づく追加作業が行われたこともわかっています。この文献は恐らくイエスさまの言葉を集めた「語録集」のような文書だったはずで、仮に「Q資料」と呼ばれています(「Q」はドイツ語の「資料」にあたる単語の頭文字)。実は「Q資料」そのものはこれまで見つかっていないのです。ずっと見つからなかったので、存在そのものが疑われて来ましたが、つい最近、1945年に見つかった「トマスの福音書」の内容が語録集に近い形態だったことから、このところは「Q資料」の存在を支持する説が強くなっているようです。

四つの福音書のうち、最初に書かれた「マルコ」は、何しろ最初にイエスさまの生涯、イエスさまの行動を一冊の本にまとめたのですから、福音書として大変意義のある本なのですが、「マタイ」と「ルカ」はそこにイエスさまの語録集を組み入れることで、イエスさまの「行動」と「語録集」を兼ね備える総合的な福音書になりました。

ところで私たちは新約聖書を手に取ることで、いつでも四つの福音書を読み比べることができますが、新約聖書が今日のような29冊の本の集大成(「正典(canon)」と呼びます)として成立したのは4世紀のことです。イエスさまの十字架死と復活のすぐ後の1~2世紀の初期の教会では、今日の正典に含まれるパウロの書簡や福音書ばかりでなく、この他にも様々な文献が成立して、ときにはバラバラに、ときには組み合わされてクリスチャンの間で流布されていたようです。

「流布」と書くと誤解を招きそうですが、1~2世紀のクリスチャンは「次に流布されて来る本はどんな本だろうか」とワクワクしながら新刊の流布を待っていたわけではありません。どちらかと言うと逆のはずです。たとえば新約聖書の中に「マルコの福音書」と言う一冊の独立した本があると言うことは、それを一冊の本として成立させ、それを信仰の中心として使っていた教会(あるいは教会群)があったことを意味します。つまり「マルコ」を成立させた教会はイエスさまの「行動」を信仰の中心に置いていた教会と言うことで、イエスさまの「行動」を中心に据えた教義を持っていたはずなのです。

また「トマスの福音書」のようなイエスさまの「語録集(Q資料)」があったと言うことは、イエスさまの語録集を成立させ、それを信仰の中心とする教会(あるいは教会群)があったことを意味します。この教会はイエスさまの言葉を教義の中心に据え、そのために信仰の中心となる「語録集」を持っていたのです。

そして「マタイ」と「ルカ」の福音書の存在は、それら二つの信仰の形態を組み合わせて総合的な福音書として成立させ、イエスさまの「行動」と「語録集」の双方を信仰の中心として用いていた教会(あるいは教会群)の存在を意味します。

さて、「マルコ」に語録資料としての「Q資料」を組み合わせて「マタイ」と「ルカ」ができあがったのなら、逆に「マタイ」と「ルカ」から「マルコ」を抜き去れば、追加された「Q資料」らしき部分が残るはずですね。ところがこの引き算の結果は必ずしも一致しません。理由は二つあります。

一つは、恐らくイエスさまの言葉を集めた「語録集」には、いろいろなバージョンがあって地域ごと、教会(あるいは教会群)ごとに似て非なる語録集を持っていたと思われること。もう一つは、「マタイ」は「マルコ」+「Q資料」だけでできあがっているのではなく、「マタイ」の「著者の考え」を書いた部分も組み込まれているからです(「ルカ」も同様)。そして「マタイ」と「ルカ」で追加された「Q資料」らしき部分や、「著者の考え」の部分を比較検討すれば、それぞれを信仰の中心として使っていた教会(あるいは教会群)の教義や考え方がおぼろげながら推理できるのです。

今回からスタートする「マタイの福音書」を成立させた教会(あるいは教会群)はどんな教会だったのでしょうか。恐らくそれはユダヤ人主体の教会で(異邦人・外国人主体の教会ではないと言う意味)、もともとファリサイ派に代表されるようなユダヤの律法を重視する保守的な派閥に所属していた人たちが集まって作った教会です。これは旧約聖書からの引用や、律法を重んじる記述、預言の実現への言及が多いこと、ユダヤ人を読者に想定した書き口が多いことから推測できます。

ここで重要なのは、もともと旧約聖書を熟知し、律法を重視していたユダヤ人が、旧約聖書の中に救世主としてのイエスさまに関する裏付けを発見して、イエスさまを待望の救世主と認め、イエスさまを否定する多数派のユダヤ人たちと決別してイエスさまを信じる道を選んだ、ということです。彼らは旧約聖書に精通していたが故に、イエスさまの説く救済の計画が、旧約聖書の中にあらかじめ予告されていたことに気づいたのです。この人たちは律法を重んじるユダヤ人としてのアイデンティティを保ちながらイエスさまに関する素晴らしい知らせ、福音の意味を伝えようとしているのです。

なおこの本のタイトルは「マタイの福音書」とされていますが、それは1~2世紀のクリスチャンたちの間でこの本がそう呼ばれていたと言ことで、実際の作者は十二使徒のマタイではないだろうとされています。と言うのは、マタイはイエスさまに直接呼ばれて弟子となり、後にイエスさまから十二使徒として選ばれた側近の一人です。ガリラヤ地方での初期の伝道活動から、十字架、復活に至る時間の全体をイエスさまのすぐ近くで共に過ごした弟子の一人です。仮にそのマタイが福音書を書くとしたら、他の人が書いた「マルコ」をほぼそのままの形で取り込んで、そこに「語録集」を追加するような編集はしないのではないでしょうか。イエスさまの行動や言葉については、自分自身の目と耳で見聞した内容を、いくらでも自分自身の言葉で書くことができたはずですから。「マタイ」は素晴らしい福音書です。この本を誰が書いたかはあまり大きな問題ではないのです。




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マタイの福音書:第1章

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マタイの福音書第1章第1節~第17節:救世主イエスさまの祖先

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Ancestors of Jesus the Messiah

救世主イエスさまの祖先


1 This is a record of the ancestors of Jesus the Messiah, a descendant of David and of Abraham:

1 これはダビデとアブラハムの子孫である、救世主イエスさまの祖先の記録です。

2 Abraham was the father of Isaac. Isaac was the father of Jacob.  Jacob was the father of Judah and his brothers.

2 アブラハムはイサクの父親でした。イサクはヤコブの父親でした。ヤコブはユダとその兄弟たちの父親でした。

3 Judah was the father of Perez and Zerah (whose mother was Tamar).  Perez was the father of Hezron.  Hezron was the father of Ram.

3 ユダはパレスとザラの父親でした(二人の母親はタマルでした)。パレスはエスロンの父親でした。エスロンはアラムの父親でした。

4 Ram was the father of Amminadab.  Amminadab was the father of Nahshon.  Nahshon was the father of Salmon.

4 アラムはアミナダブの父親でした。アミナダブはナアソンの父親でした。ナアソンにサルモンの父親でした。

5 Salmon was the father of Boaz (whose mother was Rahab).  Boaz was the father of Obed (whose mother was Ruth).  Obed was the father of Jesse.

5 サルモンはボアズの父親でした(ボアズの母親はラハブでした)。ボアズはオベデの父親でした(オベデの母親はルツでした)。オベデはエッサイの父親でした。

6 Jesse was the father of King David.  David was the father of Solomon (whose mother was Bathsheba, the widow of Uriah).

6 エッサイはダビデ王の父親でした。ダビデはソロモンの父親でした(ソロモンの母親はウリヤの未亡人のバテ・シェバでした)。

7 Solomon was the father of Rehoboam.  Rehoboam was the father of Abijah.  Abijah was the father of Asa.

7 ソロモンはレハブアムの父親でした。レハブアムはアビヤの父親でした。アビヤはアサの父親でした。

8 Asa was the father of Jehoshaphat.  Jehoshaphat was the father of Jehoram.  Jehoram was the father of Uzziah.

8 アサはヨサパテの父親でした。ヨサパテはヨラムの父親でした。ヨラムはウジヤの父親でした。

9 Uzziah was the father of Jotham.  Jotham was the father of Ahaz.  Ahaz was the father of Hezekiah.

9 ウジヤはヨタムの父親でした。ヨタムはアハズの父親でした。アハズはヒゼキヤの父親でした。

10 Hezekiah was the father of Manasseh.  Manasseh was the father of Amon.  Amon was the father of Josiah.

10 ヒゼキヤはマナセの父親でした。マナセはアモンの父親でした。アモンはヨシヤの父親でした。

11 Josiah was the father of Jehoiachin and his brothers (born at the time of the exile to Babylon).

11 ヨシヤはエコニヤとその兄弟たちの父親でした(彼らが生まれたのはバビロンへの国外追放の頃でした)。

12 After the Babylonian exile: Jehoiachin was the father of Shealtiel.  Shealtiel was the father of Zerubbabel.

12 バビロンへの国外追放の後、エコニヤはサラテルの父親でした。サラテルはゾロバベルの父親でした。

13 Zerubbabel was the father of Abiud.  Abiud was the father of Eliakim.  Eliakim was the father of Azor.

13 ゾロバベルはアビウデの父親でした。アビウデはエリヤキムの父親でした。エリヤキムはアゾルの父親でした。

14 Azor was the father of Zadok.  Zadok was the father of Akim.  Akim was the father of Eliud.

14 アゾルはサドクの父親でした。サドクはアキムの父親でした。アキムはエリウデの父親でした。

15 Eliud was the father of Eleazar.  Eleazar was the father of Matthan.  Matthan was the father of Jacob.

15 エリウデはエレアザルの父親でした。エレアザルはマタンの父親でした。マタンはヤコブの父親でした。

16 Jacob was the father of Joseph, the husband of Mary.  Mary gave birth to Jesus, who is called the Messiah.

16 ヤコブはマリヤの夫であるヨセフの父親でした。マリヤは救世主と呼ばれるイエスさまを産みました。

17 All those listed above include fourteen generations from Abraham to David, fourteen from David to the Babylonian exile, and fourteen from the Babylonian exile to the Messiah.

17 上に記録した人たち全員で、アブラハムからダビデまでが十四代、ダビデからバビロン追放までが十四代、バビロン追放から救世主までが十四代になります。




ミニミニ解説

「マタイの福音書」をお送りします。

第1章は長い長い家系図で始まります。「マタイの福音書」は新約聖書の最初の本ですから、新約聖書がこの家系図の記述でで始まることになります。

余談ですが、私は小学校三年生と四年生のときに同級生に牧師の息子がいて、彼に誘われて毎週日曜日の朝、教会の日曜学校に通っていました。教会では最初の日に新約聖書をくれました。たぶん小学校四年生のときだったと思うのですが、私はある日、聖書を最初から読んでやろう、と思い立ちました。そして最初のページを開きました。そこに書かれていたのがこの家系図です。小学生の私は「いったいなんなんだ、この本は・・・。意味不明・・・」となり、私は聖書に「難解で理解不能」のレッテルを貼ってしまいました。これがずっと尾を引いて、それから30年近く、聖書を読もうと思いたつことはありませんでした。似たようなことは作家の曽野綾子さんも書いていたように記憶しています。

聖書をひととおり勉強した後でこの第1章を読むと、ここに家系図が置かれた意味、アブラハムからイエスさまに至る血筋を説明した意味がよくわかります。アブラハムは旧約聖書の最初の本、「Genesis(創世記)」の第11章に登場します。天地創造から始まる「創世記」は、最初の人間であるアダムを起点として増えていった人類が、ノアの箱船のときの大洪水でノアの家族だけを残して一度全滅し(第6章)、人類は再びノアを起点として増えていくことになります。

創世記の第11章は、ノアの長男のセムからアブラハム(最初は「アブラム」と呼ばれている)に至る系図を説明し、第12章の最初のところで神さまがアブラハムに現れて、アブラハムをユダヤ民族の父とする最初の契約を結ぶのです。以降の旧約聖書はアブラハムを父とするユダヤ民族の歴史を描いた本になっていて、「マタイ」の第1章に登場する家系図は、そのまま旧約聖書の縮図になっています。つまり第1章1~17節は「旧約聖書」そのものとも言えるのです。そしてその家系からイエスさまが誕生したことを描くことで、救世主としてのイエスさまの正当性を旧約聖書をよく知るユダヤ人たちに伝えてこれを「マタイ」の導入部とし、「正典」と言う意味では新約聖書全体の導入部としているのです。

旧約聖書の最初の本の「Genesis(創世記)」は、第2節の「ヤコブはユダとその兄弟たちの父親でした」までを書いている本です。ところが旧約聖書の「Genesis(創世記)」に続く「Exodus(出エジプト記)」以降は、ここに書かれている「ユダ」ではなく、「兄弟たち」の中に含まれている「ヨセフ」と、ユダヤ史上最大の預言者であるモーゼの物語になります。つまりダビデ王に至る血筋は、「出エジプト記」で大活躍するヨセフの血筋ではないと言うことです。第3節の「ユダはパレスとザラの父親でした(二人の母親はタマルでした)」のくだり、わざわざ「二人の母親はタマルでした」と書いた理由は、「Genesis 38(創世記第38章)」に書かれています。第5節の「サルモンはボアズの父親でした(ボアズの母親はラハブでした)」の「ラハブ」は、モーゼの後継者であるヨシュアに率いられたユダヤ民族が、ヨルダン川を渡ってパレスチナに入るのを助けた女性です。その物語は「Joshua(ヨシュア記第2章)」に書かれています。そしてそのラハブの息子の「ボアズ」は「Ruth(ルツ記)」に登場します。第5節~第6節を読むとボアズの息子がオベデ、オベデの息子がエッサイ、エッサイの息子がイスラエル史上、もっとも称えられる王となったダビデです。ダビデはイスラエル史上最大の英雄ですから旧約聖書の中で多数の本に登場しますが、「1 Samuel(サムエル記第1)」「2 Samuel(サムエル記第2)」は誰でも大変おもしろく読める歴史物語になっています。ダビデはこの中で大活躍します。また「Psalms(詩編)」の中には、神さまを称えるダビデの歌が多数収録されています。

第6節にはダビデがソロモンの父親だと書かれています。ソロモンはイスラエル史上、もっとも賢い人物とされていて、イスラエルはソロモン王のときに最大の栄華を誇ります。エルサレムに最初に寺院が建築されたのもソロモン王の時代です(この寺院は後に破壊されてしまいます。イエスさまの時代の寺院はその後で再建・増築された寺院です)。ソロモンの母親のバテ・シェバはダビデ王が率いるイスラエル軍の戦士ウリヤの妻だった人です。その物語は「Samuel 2 11(サムエル記第2第11章)」に書かれています。

ソロモン王によるイスラエル王国最大の栄華はソロモン王の代で終わり、次の代で王国は南北に分裂してしまいます。北がイスラエル王国、南がユダ王国となります。第7節に書かれているソロモンの息子のレハブアムは南朝ユダ王国の最初の王です。第7節以降に書かれているのは南朝ユダの王室の家系です。それぞれの王がどのような歴史の中を生きたのかは、「1 Kings(列王記第1)」と「2 Kings(列王記第2)」の中で読むことができます。

第11節~第12節に書かれているヨシヤの子供の代の頃、当時強国となったバビロンのネブカデネザル王が攻めてきてユダ王国は滅びます。ユダ王国の国民は富裕層を中心にバビロンへ連れ去られ、代わりにユダヤ人のいなくなったパレスチナ南部のユダの地には、バビロンが異民族を植民します。こうやって征服した民族の団結力をそぐ策なのです。これが「Exile(国外追放)」です。国外追放は70年続き、その後でユダヤ民族(の一部)はユダヤの地に戻って再びイスラエルを建国します。そのときの様子は「Ezra(エズラ記)」や「Nehemiah(ネヘミヤ記)」に書かれています(他にも国外追放の時代にてついて書かれている本は旧約聖書の中にあります)。

ユダヤ人がパレスチナの地に戻って再建したイスラエルの中で、ダビデ王の血筋を引くヤコブと言う男までの家系が書かれていて(第16節)、このヤコブから生まれたヨセフが、イエスさまを産んだマリヤの夫なのでした。ここまでの記述で、「マタイ」の導入部は「どうですかユダヤ人の皆さん、これでイエスさまがダビデ王の血筋から生まれたことがきちんと証明されているでしょう」と言っているのです。それは旧約聖書のあちこちに、やがて現れる救世主はダビデの血筋に生まれることが預言されていて、救世主を待望するユダヤ人は長い間、救世主はダビデの家から出ることを信じていたからです。

実際のところ、イエスさまはマリヤの処女懐胎(マリヤが処女の状態)で生まれたとされますので(そのときの様子はこの後で登場します)、この家系を説明してもイエスさまがダビデの血筋を引いていることにはならないではないか、と言う反論がありますが、ユダヤでは男性だけが家系図に登場する文化ですし、家系図の血筋は必ずしも実子である必要はなく、ユダヤのルールに従って子供として認知された人は正式に家系図に組み込まれていきます。ですからヨセフがイエスさまを実子として家系に組み込むことについては、ユダヤ人にとっては何も問題はないのです。聖書はすべてユダヤの文化の中の話なのです。

男性だけが登場する家系図に登場する「タマル」「ラハブ」「ルツ」、ウリヤの妻の「バテ・シェバ」の四人は旧約聖書の中で重要な役割を演じた女性たちです。どこに書かれているかは上で書きましたので、それぞれ旧約聖書の中で読んでいただければ、聖書に対する興味が深まると思います。男尊女卑の文化を持つユダヤ人の読者に対して、この部分をことさらに強調して書く「マタイ」は、保守的なユダヤ社会に対して挑戦をしているようにも読めます。さらに言えば、純血を重んじるユダヤ文化であるのに、この四人の女性は実は異邦人(外国人)なのです。旧約聖書に書かれた律法は、もともとは異邦人に優しく開かれた文化を求めていますが、保守的なユダヤ人にとってはあまり触れてもらいたくない部分だったかも知れません。









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マタイの福音書第1章第18節~第25節:救世主イエスさまの誕生

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Birth of Jesus the Messiah

救世主イエスさまの誕生


18 This is how Jesus the Messiah was born. His mother, Mary, was engaged to be married to Joseph. But before the marriage took place, while she was still a virgin, she became pregnant through the power of the Holy Spirit.

18 これは救世主イエスさまがどのように生まれたかを書いたものです。イエスさまの母のマリヤはヨセフと結婚する予定で婚約していました。ところが結婚が成立する前、マリヤが処女である間に、マリヤは聖霊の力によってみごもったのです。

19 Joseph, her fiance, was a good man and did not want to disgrace her publicly, so he decided to break the engagement quietly.

19 マリヤの夫のヨセフは善い人で、マリヤを公に辱めたくないと思ったので、婚約を秘密裏に破棄しようと決めました。

20 As he considered this, an angel of the Lord appeared to him in a dream. “Joseph, son of David,” the angel said, “do not be afraid to take Mary as your wife. For the child within her was conceived by the Holy Spirit.

20 ヨセフがこのことを考えていると、主の天使がヨセフの夢の中に現われました。天使は言いました。「ダビデの子ヨセフよ。マリヤをあなたの妻として迎えることを恐れてはいけません。マリヤの内にいる子供は聖霊によってみごもったのです。

21 And she will have a son, and you are to name him Jesus, for he will save his people from their sins.”

21 マリヤは男の子を産みます。あなたはその子にイエスと名付けます。なぜならこの方が、ご自分の民を彼らの罪から救うからです。」

22 All of this occurred to fulfill the Lord’s message through his prophet:

22 これらのことすべては、主が預言者を通して伝えたメッセージが実現するためなのでした。

23 “Look! The virgin will conceive a child!  She will give birth to a son, and they will call him Immanuel, which means ‘God is with us.’”

23 「見よ。処女がみごもる。彼女は男の子を産む。人々はその子をインマヌエル、その意味は「神さまが私たちと共におられる」、と呼ぶ。」

24 When Joseph woke up, he did as the angel of the Lord commanded and took Mary as his wife.

24 ヨセフは目を覚まし、主の天使が命じたとおりにして、マリヤを自分の妻としました。

25 But he did not have sexual relations with her until her son was born. And Joseph named him Jesus.

25 ですが男の子が生まれるまでの間、ヨセフはマリヤと性的な関係は持ちませんでした。そしてヨセフは男の子にイエスと名付けました。




ミニミニ解説

今回の部分は「マタイの福音書」が伝えるイエスさま誕生のいきさつです。

前回、アブラハムからダビデ王を経て、血筋が証明されたイエスさまの父のヨセフは、マリヤという女性と婚約しました。「結婚」は私たち日本人と同様、ユダヤ人にとっても人生上の大切で重要なイベントです。「婚約」の持つ意味も、今日の私たちが考える「婚約」よりもずっと重く、当時のユダヤ人にとっての婚約は、私たちから見れば結婚したに等しいくらいの契約上の意味を持っていました。これはもしかするとユダヤだからと言うことではなくて、日本でもつい最近、明治維新までは好きな人と自由に結婚することはできなかったのだし、そういう文化の中で結婚の約束をすることはほぼ結婚したに等しく扱われていたのではないかと思います。

婚約をした女性が結婚をする前に妊娠するというのは大変な出来事です。ユダヤの律法によれば、処女だと言って結婚した女性が処女でなかったことを証明できれば、夫は妻を離縁できましたし、婚約者が自分の知らない子供を身ごもっていると言うことは、他の男性と関係を持ったと言うことになりますから女性は姦通の罪に問われ死罪となります。ところがヨセフはことを荒立ててマリヤを訴えることをせず、なんとか婚約を秘密裏に破棄する方法を探すことにしたのです。実際にどうやって「秘密裏」にやるのかはわかりませんが、たとえば婚約破棄の理由をマリヤの妊娠以外のものとして婚約解消を成立させれば、律法上はマリヤは独身の女性として妊娠したことになり、これは姦通罪にはなりませんからマリヤの命は守られることになります。

するとヨセフの夢の中に天使が現れてお告げを与えます。聖書の中で人が神さまからのメッセージに触れるのは、直接神さまの声を聞くパターン、天使が神さまのメッセージを伝えるパターン、神さまが人間を使者として遣わせるパターンがあります(神さまの言葉を預かる使者を「預言者」と言います)。ヨセフの場合には天使が自分の夢の中に現れて神さまのメッセージを伝えます。結果としてヨセフは婚約者のマリヤが妊娠していることを知り、その父親が誰だかわからないのにマリヤを妻として迎える決断をしたのです。そしてその理由はこの夢であると説明されています。これは逆に言えば、「天使が夢に現れて神さまのメッセージを伝える」と言う文脈が当時のユダヤ人にはそれだけの説得力を持って理解されていたということです。

第21節、 天使は生まれてくる子供にイエスと名付けるように伝えました。「イエス」は当時のユダヤ人にとってはそれほど珍しい名前ではありません。ちなみに旧約聖書でモーゼの後継者に指名された「ヨシュア」(ヘブライ語)は「イエス」(ギリシア語)と同じ名前です。天使はイエスと名前を付ける理由を「なぜならこの方が、ご自分の民を彼らの罪から救うからです」と伝えました。その理由は第22節以降に書かれています。これは旧約聖書の預言の実現なのだと言うのです。第23節に引用されているのは、Isaiah 7:14(イザヤ書第7章第14節)「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」の部分です([新改訳])。これは神さまが預言者イザヤに預けて南朝ユダの王アハズに伝えさせた言葉の一部です。そのときアハズは北朝のイスラエルが攻めてくるのではないかと怯えていたのですが、神さまはそのようなことは起こらないとアハズに伝えさせ、それが実現する証として処女がみごもって男の子を産むという超常現象を目にするだろう、と言っているのです。

この男の子がここではインマヌエルと名付けられています。インマヌエルは第23節にあるように「神さまが私たちと共におられる」の意味です。神さまは預言者イザヤを通してアハズに「心配するな」と伝え、その証拠に処女が男の子を産むところを見せます。つまりその男の子の誕生がアハズにとって「神さまが私たちと共におられる」ことの証明なのです。そして今回はマリヤが処女の状態でみごもり男の子を産みます。これはイザヤ書の中で起こったことの繰り返しであり、やはり「神さまが私たちと共におられる」ことの証明なのです。そして救世主として世に送り出されるイエスさまは、自らが十字架にかかる道を選ぶことで、神さまが私たち人間と共におられることを示すのです。

第25節には、ヨセフが「男の子が生まれるまでの間」、マリヤと性的な関係を持たなかった、とされています。余談ですが、後のカトリック教会はマリヤを聖母として拝み、マリヤは永遠の処女であるとの教義を持つようになりましたので、マリヤにヨセフと性的な関係を持たれては困りました。福音書を読むとヨセフとマリヤの間にはイエスさまの誕生の後で子供が何人も生まれていることがわかりますから、ここに書かれているのは明らかにイエスさまが誕生するまで二人が性的な関係を持たなかったという意味のはずなのですが、後のカトリック教会はその兄弟や姉妹さえも従兄弟(いとこ)であるとこじつけて解釈しました。

それからもうひとつ、マリヤが処女の状態でイエスさまを産んだという「処女降誕」とか「処女懐胎」と呼ばれる教義は、クリスチャンにとっては譲ることのできない基盤です。それはイエスさまが神さまでありながら、人類救済の使命を全うするため、神さまとしての能力や属性をすべて捨てて、私たちと同じ、ひとりの人間として地上に現れたことの証のひとつだからです。神さまはマリヤと言う女性を選び、聖霊の力によってイエスさまをマリヤの胎の中へ送ったのです。ですがこの教義が書かれているのは四つの福音書のうち「マタイ」と「ルカ」だけです。最初の回に書きましたように四つの福音書の存在は、当時の四つの教会(あるいは教会群)の存在を意味しているはずなので、1~2世紀の教会でも処女降誕を教義として強く信じる教会もあれば、そうでない教会もあったと言うことになります。その後、新約聖書が29冊の本を含む正典(canon)として成立し、キリスト教の教義が確立されていく段階で、処女降誕・処女懐胎もキリスト教にとってなくてはならない教義の一つとなったのだと思います。ですからこの部分を信じるのがクリスチャンだ、信じなければクリスチャンではない、というような議論はあまり意味がないように思います。イエスさまの誕生、十字架死、復活という歴史上の出来事は旧約聖書の預言の成就であると主張する「マタイ」の教会は、ユダヤの文化の視点からイエスさまの救世主としての正当性を説き、これが神さまの意図に沿った計画どおりの出来事だとしてこのように伝えたのです。










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2015年12月30日

マタイの福音書:第2章

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