マルコの福音書

2015年11月30日

マルコの福音書:はじめに

マルコの福音書


はじめに
第01章第02章第03章第04章第05章
第06章第07章第08章第09章第10章
第11章第12章第13章第14章第15章
第16章
全体目次



新約聖書にはイエスさまの生涯を描いた「福音書」のタイトルを持つ本が四つ、「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の順に収録されています。同じイエスさまの生涯を描いた本であるのに内容が少しずつ異なります。「マルコ」は最初から二番目、四つの中では一番短い本で、聖書研究によると四つのうち一番最初に書かれた福音書とされています。

四冊を比較すると「マルコ」はイエスさまが「言ったこと」よりも、イエスさまが「行ったこと」を中心に記述し、イエスさまの奇跡や活動に重点を置いて、イエスさまがどのように自分の言葉を行動で裏付けたかを描いた福音書です。また生き生きと直接的に物語を読み聞かせるような記述が特徴で、イエスさまの伝道活動の間に起こった出来事を知るには最適の本です。

記述者がマルコと言う人物であることについては、本の中にマルコの名前が書いてあるわけではありませんが、初期の教会の文献がこの本の記述者を、当時ペテロの通訳をしていたマルコであると記述しています。マルコはイエスさまの伝道活動そのものには参加していなかったのですが、後日にペテロから聞いた回想録を記述したのだとされます。ということは「マルコの福音書」は実質「ペテロの福音書」をマルコが代筆したということになるでしょうか。

実際のところ「マルコ」には、ペテロの目を通して書かれたと解釈する方が自然な部分がたくさんあり、その点でも著者をペテロの伝道を手伝っていたマルコだ、とする文献の信憑性を支持します。またイエスさまの伝道活動に直接参加しておらず、使徒でもなかったマルコがこの福音書を記述したのであれば、そういう成り立ちの本を正式な福音書として新約聖書に組み込むのは当時の教会のやり方としては不自然なことです。これは当時ペテロの口述をマルコが記録して本にしたことが信徒たちの間で広く知られていたから、初期の教会でもマルコの記述が正当な作業と認められていた、と考えられています。

「マルコ」は異邦人(=ユダヤ人から見た外国人)に向けて、特にローマ人を読者に想定した本と考えられています。それはユダヤ人が使っていたアラム語やヘブライ語、あるいはラテン語をローマ人向けにギリシア語に翻訳して書き直している部分がたくさんあることからです。またローマ人を中立的、ときには好意的に描いている面もあります。当時ローマ皇帝の迫害に苦しむローマ在住の信徒たちを勇気づける目的で描かれた福音書なのかも知れません。

「マルコ」を書いたマルコは、ヨハネ・マルコの名前で知られており、ルカが記述した「Acts(使徒の働き)」にもペテロやパウロの助手として何度か登場します。実はマルコよりも母親のマリヤの方が有名な女性だったようです。マリヤはエルサレムで大変影響力を持った女性らしく、複数の従者を抱えて大きな屋敷を所有していました。イエスさまが天に戻られた後の初期の教会は、よくこの屋敷に集まって会合を開いていました。

「Acts(使徒の働き)」の中ではバルナバ(信徒の指導者のひとりでマルコの従兄弟にあたる人)とパウロが、エルサレムからマルコを連れてパウロの活動拠点であるアンテオケへ戻って来て、その後三人は第一回目の異邦人への伝道の旅に出かけます。助手のマルコはおそらく旅程や食べ物、宿舎等の手配を手伝っていたはずなのに、一行がペルガまで来たときにマルコは旅を途中でやめて一人で戻ってきてしまいます。この離脱の理由は聖書の中では明らかにされていないのですが、パウロの書簡からそれが福音の教義であることがうかがい知れます。このマルコの離脱事件は後にパウロとバルナバの間の仲違いを招きます。二回目の伝道の旅でパウロはマルコを連れて行きたくないと言い、バルナバはマルコを連れて行くのだと主張して二組はバラバラに出発するのです。

この仲違い事件はおそらく西暦49~50年頃のことなのですが、次にマルコが聖書に登場するのはそれから約10年後、パウロの書簡(「コロサイ人への手紙」)になります。ここではマルコは一転して好感を持って書かれています。またパウロがローマで牢に入れられるとパウロは愛弟子のテモテにマルコを一緒にローマへ連れてくるようにと告げたりもします。マルコは最初の頃にはパウロとの衝突こそ起こしたものの、後年はローマで献身的にパウロと共に働き、とても信頼されるようになったようです。

マルコが最後に聖書に登場するのは当時ローマにいたペテロによる記述で、手紙の中でマルコを「自分の息子」と書いています(「ペテロの手紙一」)。

「マルコ」が書かれたのは西暦55~65年頃、ローマ帝国の支配下で地中海一帯の言語が統一され、交通と通信も整備されてイエスさまの福音を伝える状況が整った時期でした。

「マタイ」「マルコ」「ルカ」の三冊を合わせて「共観福音書」と呼びます。これはマタイとルカが最初に書かれた「マルコ」を読んで参考にし、そこに自分たち集めた情報をそれぞれ追加して完成させたから、とされるからです。




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マルコの福音書:第1章

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マルコの福音書第1章第1節~第8節:洗礼者ヨハネが道を整える

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


John the Baptist Prepares the Way

洗礼者ヨハネが道を整える


1 This is the Good News about Jesus the Messiah, the Son of God. It began

1 これは神の子、救世主イエスさまに関する良い知らせです。それが始まったのは、

2 just as the prophet Isaiah had written: “Look, I am sending my messenger ahead of you, and he will prepare your way.

2 ちょうど預言者イザヤが次のように書いたとおりでした。「見なさい。私はあなたに先だって使者を送る。その使者があなたの道を整える。

3 He is a voice shouting in the wilderness, ‘Prepare the way for the Lord’s coming!  Clear the road for him!’ ”

3 その使者とは荒野で叫ぶ声です。『主が来られる。道を用意せよ。主のために道を片付けよ。』」

4 This messenger was John the Baptist. He was in the wilderness and preached that people should be baptized to show that they had repented of their sins and turned to God to be forgiven.

4 この使者が洗礼者ヨハネだったのです。ヨハネは荒野で人々に述べ伝えました。自分たちの罪を後悔し、許しを求めて神さまに向き直ったことを示すため、洗礼を受けなさいと。

5 All of Judea, including all the people of Jerusalem, went out to see and hear John. And when they confessed their sins, he baptized them in the Jordan River.

5 エルサレムの人々すべてを含むユダヤ地方のあらゆる人々が、ヨハネの話を聞こうと出て行きました。そして人々が罪を告白すると、ヨハネはヨルダン川でその人たちに洗礼を授けました。

6 His clothes were woven from coarse camel hair, and he wore a leather belt around his waist. For food he ate locusts and wild honey.

6 ヨハネの服は粗いラクダの毛から織られていて、腰には皮のベルトを締めていました。食べ物はイナゴと野蜜を食べていました。

7 John announced: “Someone is coming soon who is greater than I am -- so much greater that I’m not even worthy to stoop down like a slave and untie the straps of his sandals.

7 ヨハネは言いました。「私よりもはるかに偉大な方がすぐに来ます。あまりに偉大な方なので、私などは召使いのようにかがんで、その方のサンダルの紐を解く価値さえありません。

8 I baptize you with water, but he will baptize you with the Holy Spirit!”

8 私はあなた方に水で洗礼を授けますが、その方はあなた方に聖霊の洗礼を授けます。」




ミニミニ解説

第1節に書かれているのが「Mark(マルコの福音書)」の要約です。英語なので後ろから後ろから修飾していきますが、マルコが第1節で書いたのは「This is the Good News(これは良い知らせです)」、「about Jesus(それはイエスさまに関する知らせです)」、「the Messiah(イエスさまは救世主です)」、「the Son of God(イエスさまは神さまの息子です)」と言うことです。

第1節~第2節、イエスさまに関する福音(良い知らせ)の話は「イザヤが書いたとおり」と書かれていますが、イザヤ(Isaiah)は紀元前700年頃に存在した預言者でその言葉が旧約聖書の「イザヤ書」に納められています。イザヤ書は全体が大きく二部構成になっていて後半は救世主に関する預言です。イエスさまに関する福音は約700年前に預言されていたということです。

第3節にその部分が引用されています。これはIsaiah 40:3(イザヤ書第40章第3節)です。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。』」([新改訳])。荒野で「主の道を整えよ」という声が聞こえる、というのです。

同様の預言はやはり旧約聖書のMalachi 3:1(マラキ書第3章第1節)にも見られます。マラキは紀元前400年頃の預言者で、「マラキ書」は旧約聖書全体の最後の本です。「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている』と万軍の主は仰せられる。」([新改訳])。

第4節ではその声の主である使者とは「洗礼者ヨハネ」のことだったのだと言います。

「洗礼者ヨハネ(John the Baptist)」はイエスさまが伝道活動を開始する少し前に出現して荒野でメッセージを伝え始めた人です。メッセージの内容は第4節に書いてあるとおり「自分たちの罪を後悔し、許しを求めて神さまに向き直りなさい」、「そして神さまに向き直ったことを示すため洗礼を受けなさい」です。ヨハネが人々に自覚するようにと呼びかけた「自分たちの罪」とは天地万物の創造者である神さまへの「背き」なのですが、簡単に言うとこれは「神さまの期待を裏切ること」「神さまをガッカリさせること」全般のことなのです。

神さまはユダヤ人を自分の言葉を伝える民族として選び、紀元前1500年頃に預言者モーゼを通じてユダヤ人が「守るべきルール」を教えています。これを「律法(りっぽう)」と言います。そのルールの中には条件付きの予言が含まれていて、ユダヤ人がルールを破った場合にはどのような厄災が及ぶかが書かれていました。ユダヤ民族はルールを授かったときこそ神さまへ忠誠と信仰を誓うのですが、すぐに忘れてしまって、以降は自分たちの視点で勝手なことのやり放題になります。旧約聖書に記述されたユダヤ民族の歴史は神さまへの裏切りの積み重ねなのです。

ユダヤ人の裏切りを見た神さまは次々と預言者を送って警告を発します。が、ユダヤ人は警告に従おうとしません。そのため予告どおりの厄災が降りかかります。聖書に予告された厄災とは異民族による侵略、パレスチナ地域からの追放、そしてユダヤ国家の消滅です。紀元前8世紀からイスラエルの国家はアッシリアとバビロニアの攻撃を受けて滅び、国民は侵略国によって国外へ連れ去られて、ユダヤ国家は一度消滅しています。その後紀元前6世紀にエルサレムの都と寺院が再建されるのですが(これも預言どおり)、洗礼者ヨハネが出現した頃のパレスチナは異邦人の国家であるローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ民族の国家としては成立していませんでした。ローマ帝国支配からの解放と独立は当時のユダヤ人の悲願だったのです。

第5節、洗礼者ヨハネが伝えた「自分たちの神さまへの裏切りの罪を自覚して神さまに向き直りなさい」のメッセージは以前にユダヤの歴史上で警告を発した預言者のメッセージによく似ています。最後に現れた預言者は前述のMalachi(マラキ)で、それ以降400年にわたって神さまからのメッセージは止んでいましたから、人々は待望の預言者の声を聞きに荒野へ出て行きました。旧約聖書では山と荒野が霊力の強い場所なのです。さらに第5節には「そして人々が罪を告白すると、ヨハネはヨルダン川でその人たちに洗礼を授けました」と書かれています。ヨハネは自分の罪を告白した人をヨルダン川の中に連れて入り、その人をザブンと水没させて「清めの儀式」を施したのです。

聖書の中での「罪」は神さまへの裏切り行為であり、それは神聖な神さまの目には「汚(けが)れ」として映るとして書かれていることから、ヨハネは罪を告白した人を川に連れて入って形式的な洗浄の儀式を施すことでこれを悔い改めの象徴としたのです。もちろん川の水で洗うことで罪の汚れが洗い流されるわけではありません。これはイザヤ書に予告された「主のために道を整える」行為なのです。

第7節~第8節でヨハネは言っています。「私よりもはるかに偉大な方がすぐに来ます。あまりに偉大な方なので、私などは召使いのようにかがんで、その方のサンダルの紐を解く価値さえありません。私はあなた方に水で洗礼を授けますが、その方はあなた方に聖霊の洗礼を授けます。」 ヨハネは自分の後から現れる救世主のことに言及して、自分はその方が来るときに備えて人々の心を準備していると言っているのです。自分は形式的に水の洗礼を授けているが、その方は「聖霊の洗礼」を授けると言います。この聖霊の洗礼こそが「罪の洗浄」の本番なのです。ヨハネの後に来るはるかに偉大な方とは救世主イエスさまのことです。

第6節にはヨハネの姿形が描かれています。「服は粗いラクダの毛から織られていて、腰には皮のベルト」「食べ物はイナゴと野蜜」。何という格好なんだろう、何という食生活なのだろうと思いますが、これは当時の生活様式からもかけ離れています。実はこれは旧約聖書に登場した最強の預言者、預言者エリヤ(Elijah)の姿形と同じなのです。2 Kings 1:7-8(列王記第二第1章第7節~第8節)です。「7 アハズヤは彼らに尋ねた。「あなたがたに会いに上って来て、そんなことをあなたがたに告げた者は、どんな様子をしていたか。」 8 彼らが、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。」([新改訳])。

旧約聖書の一番最後、預言書「マラキ書」の最終節は次のように締めくくられています。Malachi 4:5~6(マラキ書第4章第5節~第6節)です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」([新改訳])。実際の預言者エリヤは紀元前9世紀に存在しました。マラキ書が書かれたのは紀元前5世紀(紀元前400年頃)です。その時点で「預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」との預言が出てきたということは「預言者エリヤの再来」が予告されているということになります。実はこの預言者エリヤの再来が洗礼者ヨハネだったのです。






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マルコの福音書第1章第9節~第15節:イエスさまの洗礼と誘惑

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Baptism and Temptation of Jesus

イエスさまの洗礼と誘惑


9 One day Jesus came from Nazareth in Galilee, and John baptized him in the Jordan River.

9 ある日、イエスさまがガリラヤ地方のナザレから来て、ヨハネはヨルダン川でイエスさまに洗礼を授けました。

10 As Jesus came up out of the water, he saw the heavens splitting apart and the Holy Spirit descending on him like a dove.

10 イエスさまが水から上がって来ると、そのとき天が二つに割れて聖霊が自分の上へ鳩のように降りるのを見ました。

11 And a voice from heaven said, “You are my dearly loved Son, and you bring me great joy.”

11 そして天から声がしました。「あなたは私が心から愛する息子、あなたは私に大いなる喜びをもたらしてくれる。」

12 The Spirit then compelled Jesus to go into the wilderness,

12 それから聖霊は無理やりイエスさまを荒野へと行かせました。

13 where he was tempted by Satan for forty days. He was out among the wild animals, and angels took care of him.

13 イエスさまは荒野で四十日間にわたってサタンの誘惑を受けました。イエスさまは荒野に野生の獣とともにいて、天使たちがイエスさまに仕えていました。

14 Later on, after John was arrested, Jesus went into Galilee, where he preached God’s Good News.

14 後にヨハネが捕らえられてから、イエスさまはガリラヤ地方へ行き、そこで神さまの良い知らせを伝えました。

15 “The time promised by God has come at last!” he announced. “The Kingdom of God is near! Repent of your sins and believe the Good News!”

15 イエスさまは言いました。「ついに神さまが約束したその時が来ました。神さまの国が近づきました。罪を悔いて良い知らせを信じなさい。」




ミニミニ解説

第9節、旧約聖書の預言どおりに救世主の先駆けとして現れ、荒野で「悔い改めよ」とのメッセージを述べ伝える洗礼者ヨハネのもとへイエスさまがやって来ます。イエスさまはイスラエル北部のガリラヤ地方のナザレという小さな町に育ちました。一方ヨハネが人々に洗礼を施していたのはイスラエル南部で死海の北岸からヨルダン川に沿って北へ上ったベタニアと呼ばれるあたりです。ナザレからベタニアまでは直線距離で80キロほど離れています。イエスさまはこの時点で30歳くらいです。イエスさまが神さまの国についての福音を伝える活動のスタートがヨハネによる洗礼なのです。

第10節、イエスさまがヨハネの洗礼を受けると天が割れて聖霊がイエスさまの上へ鳩のように降りて来ます。そして第11節、天から声が聞こえます。「あなたは私が心から愛する息子、あなたは私に大いなる喜びをもたらしてくれる。」

この声は父なる神さまの声でイエスさまを「息子」と呼んでいます。天に裂け目が生じてそこから降りてきた聖霊(Holy Spirit)もやはり神さまです。父なる神さま、息子のイエスさま、そして聖霊の三者が一つの神さまです。これを「三位一体(Trinity)」と言います。三者がどのように一つの神さまとなっているのか、バラバラなのに一つ、一つかと思えば三つの相はそれぞれが独立して動く、何しろ神さまのことなのでその仕組みは人間には想像できません。

聖書を読んで考えた私個人のイメージとしては、父なる神さまというのは無限の大きさを持ち時間を超越したとてつもなく大きな存在(これはイメージ不能です)で、恐らくその中に球形の巨大な「天国」という空間があり(どうやら天国は多層構造のようです)、さらにその中に球形の「宇宙」があります。球形の宇宙全体を球形の天国が内包しているような感じです。そして神さまの子のイエスさまは神さまの元から出て聖書全体に記述された神さまの仕事を実際に実行している方です。つまり最初に天地の創造を行い(球形の天国、球形の宇宙、その中の地球を造る作業)、いまから2000年ほど前には人間を救うため、人間の姿をとってわざわざ地上に立った方です。

三位一体の三つ目の相の「聖霊」は聖書の中で神さまの使者のように振る舞って様々な仕事をしています。そして聖書を読むとイエスさまが十字架にかかる前と後で聖霊の役割が変わっています。イエスさまが死から復活して天に戻った後は、聖霊はイエスさまを信じる人ひとりひとりを訪れ宿りそこに封印されるようになります。第10節の場面ではこの聖霊が天から降りてきてイエスさまに宿ります。

人に聖霊が降りる現象はイエスさま自身が弟子たちに予告した出来事なのです。自分はやがて天へ帰るが、そのときには自分と入れ替わりに聖霊が訪れて助け主となるとイエスさまは弟子たちに伝えました。やがてイエスさまを信じる人に起こることが、ひとりの人間として地上に立ったイエスさまにも起こっているのです。聖霊を受けたイエスさまはここから神さまの助けを得ることになるのですが、それを裏付ける形で天から声が聞こえたのです。

第12節、天から鳩のように降りてきた聖霊が無理やりイエスさまを荒野へ追いやります。聖書では「山」と「荒野」が霊力の強い場所なのです。イエスさまは荒野に40日滞在しますが、他の福音書を読むとイエスさまはその間何も食べませんでした。ちなみに聖書の中ではこの「40」という数字は苦難や試練の期間を象徴的に表します。モーゼが神さまとの対話のためにシナイ山へ登り、十戒を授かるのに要したのが40日、ユダヤの民族がエジプトを脱出した後、約束の地パレスチナへ入ることを拒んで神さまの怒りを買い、砂漠の中をさまよい歩いた期間が40年という具合です。

荒野の試練が40日を過ぎたときにサタンが現れてイエスさまを誘惑します。サタンは以前は高位の天使のひとりだったのですが、神さまに逆らったことで天国から追放され地上に落とされました。と言うことはいまの地上はサタンのために用意された牢獄で、サタンは牢獄のボスとして地上を支配しているのです。神さまが自分の姿を映して特別な愛情を注いで創造した人間も、地上でサタンの誘惑にまんまと引っかかって神さまの期待を裏切ってしまいました。イエスさまがサタンに受けた誘惑の様子は「Matthew 4(マタイの福音書第4章)」と「Luke 4(ルカの福音書第4章)」に詳しく書かれています。サタンはイエスさまの空腹と所有欲とプライドをくすぐって誘惑しますがイエスさまはサタンを退けます。

第14節にあるように洗礼者ヨハネはヘロデ王(ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパス)によって捕らえられてしまいます。これはヨハネがヘロデ王が自分の兄弟の妻と結婚したことを律法違反だとして責めたからです。

第15節、イエスさまは北部のガリラヤ地方で福音の伝道活動を開始します。そのメッセージは「ついに約束の時が来た。神さまの国は近づいた。罪を悔いて行動を改め福音を信じなさい」です。これは言い換えれば「ついに旧約聖書の預言で約束された救世主が現れた。救世主は人間を罪のくびきから解放するために来た。神さまご自身が支配する神の国が実現する。だからいままでの自分たちの行いを反省して、どれほど創造主の神さまをガッカリさせてきたかを自覚し、救世主による罪の許しの良い知らせを信じなさい」ということです。






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マルコの福音書第1章第16節~第20節:最初の弟子たち

第1章



(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The First Disciples

最初の弟子たち


16 One day as Jesus was walking along the shore of the Sea of Galilee, he saw Simon and his brother Andrew throwing a net into the water, for they fished for a living.

16 ある日イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いていると、シモンと兄弟のアンデレが湖で網を打っているのが見えました。二人は生活のために漁をしていたのです。

17 Jesus called out to them, “Come, follow me, and I will show you how to fish for people!”

17 イエスさまは二人に呼びかけました。「私について来なさい。漁で人間をとる方法を教えてあげます。」

18 And they left their nets at once and followed him.

18 二人はすぐに網を置いてイエスさまに従いました。

19 A little farther up the shore Jesus saw Zebedee’s sons, James and John, in a boat repairing their nets.

19 湖のほとりをまた少し行くと、イエスさまにゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネが舟の中で網を修理しているのが見えました。

20 He called them at once, and they also followed him, leaving their father, Zebedee, in the boat with the hired men.

20 イエスさまはすぐに二人を呼び、彼らも父親のゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残してイエスさまに従いました。




ミニミニ解説

第16節、ガリラヤ湖はイスラエル北部にある湖です。イスラエルを北から南へ流れて死海へ流れ込むヨルダン川は大陸の裂け目を流れる川ですが、ガリラヤ湖はその亀裂が深くなったところに水がたまってできています。湖の大きさは南北に約21km、一番幅の広いところで東西に13kmあります。南岸を除いて湖の周辺は切り立つ崖で、東岸は崖の上がそのまま標高900mの肥沃なゴラン高原になっています。この地形によって冷たい風が急な崖を吹き下ろすと突発的に湖面に激しい嵐が起こります。このような地形にも関わらず、当時は湖の周囲に人口15,000人以上の都市が九つあり、漁業が盛んでした。

イエスさまが歩いていたのはガリラヤ湖北部のカペナウムという町です。ここで四人を最初の弟子にしています。シモンとアンデレの兄弟とヤコブとヨハネの兄弟で、シモンはペテロのことです。このうちシモン(ペテロ)、ヤコブ、ヨハネの三人は弟子の中でいつもイエスさまと行動を共にする側近のような存在になります。この三人はイエスさまの奇跡のほんとんどをすぐ間近で目撃し、イエスさまの言葉を間近で細部まで聞いた人たちです。ペテロはイエスさまが十字架死~復活を経て天国へ戻った後で、福音を伝える中心人物となります。ヤコブは最初に迫害によって殺される使徒となります。

実はこの四人はこのときにイエスさまと初めて遭遇したわけではありません。この四人のうち少なくとも二人は最初は洗礼者ヨハネの弟子でした。師である洗礼者ヨハネが、自分はこれから来る救世主とは比べものにならないくらい低い存在なのだと話し、イエスさまをその救世主として指さしたとき、二人はイエスさまと会っています。このときの様子は「John 1:35(ヨハネの福音書第1章第35節)」から後に書かれています。この「二人」はヨハネには「アンデレともう一人」と書かれていて、二人はイエスさまが宿泊しているところまで一緒に行ってその日をイエスさまと一緒に過ごしています。ここで「神の国」と「福音」についてかなり詳しく話を聞いたはずです。そして四人は漁師仲間ですからその情報を共有して話をしていたはずです。

それから恐らく一年ほどが経過した頃にイエスさまがガリラヤ湖畔に四人を訪ね、自分に着いて来いと呼びかけて正式に弟子にしたのがこの場面です。その間、「アンデレともう一人」は一度イエスさまに会っているにも関わらずずっと漁師をしていたということになります。ペテロは後に元の漁師に戻ろうとする場面もありますが、そんなペテロがイエスさまから「私を愛するなら私の羊を養いなさい」と大切な仕事を任され、後にはクリスチャンのリーダのひとりとなるのです。イエスさまへの信仰を表明したものの神さまに近づいたり離れたり、自分はこれでよいのだろうかと思い悩む人、福音の話はひととおり聞いたけど信仰を表明する決心がつかない人はたくさんいますが、あのペテロでさえ最初はそうだったと言うことです。






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