ルカの福音書

2015年10月31日

ルカの福音書第1章第39節~第45節:マリヤがエリザベツを訪問する

第1章


 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Mary Visits Elizabeth

マリヤがエリザベツを訪問する


39 A few days later Mary hurried to the hill country of Judea, to the town

39 数日後、マリヤは山地にあるユダヤ地方の町へ急ぎました。

40 where Zechariah lived. She entered the house and greeted Elizabeth.

40 ザカリヤの住んでいた町です。マリヤは家へ入り、エリサベツにあいさつしました。

41 At the sound of Mary’s greeting, Elizabeth’s child leaped within her, and Elizabeth was filled with the Holy Spirit.

41 マリヤのあいさつを聞くとエリザベツの子供が胎内で跳ね、エリサベツは聖霊に満たされました。

42 Elizabeth gave a glad cry and exclaimed to Mary, “God has blessed you above all women, and your child is blessed.

42 エリザベツは喜びのあまりに大きな声をあげてマリヤに言いました。「神さまはすべての女性の中であなたを一番祝福されました。あなたの子供も祝福されています。

43 Why am I so honored, that the mother of my Lord should visit me?

43 私が何をそれほど誇りに思うって、私の主の母が私を訪問してくださるとは。

44 When I heard your greeting, the baby in my womb jumped for joy.

44 あなたのあいさつの声を聞いたとき、私の胎内で子供が喜びのあまりに跳ねました。

45 You are blessed because you believed that the Lord would do what he said.”

45 あなたが祝福されるのは、主がされると言ったことを実行すると、あなたが信じたからです。」




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第1章です。

前回の第36節では天使のガブリエルがマリヤに「あなたの親類のエリサベツは老齢で妊娠しました」と言っていました。エリザベツは胎内に洗礼者ヨハネを授かっています。洗礼者ヨハネはマラキ書で予告されたとおり、預言者エリヤの再来として主イエスさまの前に道を整えるため、世に現れるのです。 マリヤとエリザベツは親類なので、マリヤはガブリエルの情報を聞いて、エリザベツを訪問することにしたようです。なにしろマリヤはガブリエルから不思議なことを聞かされましたから、エリザベツから何か関係のある情報が得られるのではないかと考えたのかも知れません。

マリヤが住んでいるのはイスラエル北部、ガリラヤ地方のナザレの町です。一方、第39節によるとエリザベツの家はイスラエル南部のユダヤ地方にあったようです。たとえばエリザベツの家がユダヤ地方のエルサレムの都に住んでいたとすると、ナザレからエルサレムまでは直線距離で100キロ程度あります。ユダヤ人は律法の定めで年に何度か、エルサレムを訪ねることを習慣にしていましたから、この旅程は通い慣れた道なのだと思います。

第41節、到着したマリヤがエリザベツにあいさつすると、その声を聞いた胎内のヨハネが喜んで跳ねます。そしてエリサベツは「聖霊」に満たされたとあります。 「聖霊」は「父なる神さま」と「子なるイエスさま」と共に「三位一体」説を形作る要素のひとつです。「三位一体」説は「神さま」「イエスさま」「聖霊」は三つのようで一つ、一つのようでいて三つ、神さまとはそのような存在だ、という考え方です。

このうち「聖霊」はイエスさまの十字架を境にして聖書の中で役目が変わっています。イエスさまは十字架にかかる前に、自分はやがていなくなるが、自分の代わりに聖霊が訪れると話しました。新約聖書の「Acts(使徒の働き)」の最初の部分には、このイエスさまの予告どおりに聖霊が降りてきて、神さまを信じる人ひとりひとりに宿る様子が書かれています。聖霊はそうやって信者の中にあって信者を守り導く存在となるのです。 聖霊は三位一体説では神さまです。そして神さまは神聖な存在です。イエスさまはどうして十字架にかかる必要があったのでしょうか。それは私たち人間が、「罪(sin)」によって汚れているので、そのままでは神さまのいる天国に入れないからです。イエスさまが十字架で流した血が私たちの「罪」の汚れを洗い流し、人間と神さまの関係を和解させてくれたので、私たち人間は神さまにお祈りすることもできるし、天国に入ることもできるのです。 復活したイエスさまを目撃した信者たちのところへ聖霊が訪れ、イエスさまの十字架の意味を理解した信者たちひとりひとりの中に聖霊が封印されます。これも信者たちがイエスさまの十字架を信じたことで、「罪」の汚れが洗い流された結果だと理解できるでしょう。

ところがエリザベツはマリヤの訪問を受けた時点でもうすでに聖霊に満たされています。これは驚くべきことで、第6節に書かれていたことが思い返されます。そこには「ザカリヤとエリザベツは神さま目に正しく映り、主のすべての戒めと規則を注意深く守っていました」と書かれていました。つまり二人は神さまの目に正しく映り、聖霊が入れるほどの清い存在だったということになります。なんとも希有な存在です。 エリザベツは第43節で、「私の主の母が私を訪問してくださる」と言っていますから、エリザベツはマリヤがやがて自分の「主」の母親となる、つまりイエスさまを出産することをもう知っていることになります。これはエリザベツを満たした聖霊が教えたのでしょう。 またエリザベツは旧約聖書に書かれている主なる神さまを信じてきたユダヤ人でありながら、やがてマリヤの胎内に授かる存在も「主」だと認めているのですから、ここにもやはり三位一体の考え方、つまり「父なる神さま」「子なるイエスさま」「聖霊」の三者が神さまを構成している、という考え方が表現されていることになり、ここにも聖霊の導きが感じられます。

マリヤはエリザベツの口から「私の主の母が私を訪問してくださる」の言葉を聞き、これでガブリエルが告げた不思議な事柄が、エリザベツの発言と符合したので心強く感じたのではないでしょうか。 ザカリヤとエリザベツがどれほど敬虔に誠実に神さまを信奉していたかはマリヤも知っていたでしょうから、そのエリザベツが信じられないほどの高齢で子を宿し、また天使の言葉と符合する話をきかせてくれるので、大変安心したことでしょう。

第45節、エリザベツは「あなたが祝福されるのは、主がされると言ったことを実行すると、あなたが信じたからです」と告げます。マリヤはガブリエルの話をきいて、前回の38節で「私は主のしもべです。あなたが私について言ったことすべてが本当になりますように」と答えました。たとえ自分が不義の疑いをかけられるようなことになろうと、神さまのされることに間違いはないと信じ、マリヤはガブリエルの言葉をそのまま受け止めたのです。エリザベツは、神さまに対するマリヤのこの誠実な姿勢こそが、神さまがマリヤを祝福する理由なのだと言います。 聖霊を受けたエリザベツの言葉は、すでに預言のように聞こえます。






english1982 at 19:00|Permalink

ルカの福音書第1章第46節~第56節:マニフィカト:マリヤの賛美の歌

第1章


 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Magnificat: Mary’s Song of Praise

マニフィカト:マリヤの賛美の歌


46 Mary responded, “Oh, how my soul praises the Lord.

46 マリヤは答えました。「あぁ、私の魂がどれほど主をたたえることか。

47 How my spirit rejoices in God my Savior!

47 私の霊が、どれほど私の救い主である神さまを喜ぶことか。

48 For he took notice of his lowly servant girl, and from now on all generations will call me blessed.

48 なぜなら主は卑しいしもべに気づいてくださいました。そしてこれから後はあらゆる時代の人々が私を恵まれた者と呼ぶことでしょう。

49 For the Mighty One is holy, and he has done great things for me.

49 なぜなら強き方は神聖であり、私のために偉大なることをしてくださいました。

50 He shows mercy from generation to generation to all who fear him.

50 その方は主を恐れるすべての人に、世代を超えて憐れみを示してくださいます。

51 His mighty arm has done tremendous things! He has scattered the proud and haughty ones.

51 主の強い腕はとてつもないことをなされました。高慢な者や横柄な者を追い散らしました。

52 He has brought down princes from their thrones and exalted the humble.

52 主は君主たちを王位から引きずり下ろし、謙虚な者を高く引き上げました。

53 He has filled the hungry with good things and sent the rich away with empty hands.

53 主は飢える者たちをを良いもので満たし、富む者を手ぶらの状態で追い払いました。

54 He has helped his servant Israel and remembered to be merciful.

54 主はしもべであるイスラエルを助け、憐れみを持つことを忘れません。

55 For he made this promise to our ancestors, to Abraham and his children forever.”

55 なぜなら主は私たちの父祖であるアブラハムとその子孫に、永遠にこのように約束したからです。」

56 Mary stayed with Elizabeth about three months and then went back to her own home.

56 マリヤはエリサベツの元に三か月ほど滞在し、それから自分の家へ帰りました。




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第1章です。

前回、マリヤは天使ガブリエルから親戚のエリザベツが子供を授かったと聞いて、ユダヤ地方のエリザベツの家を訪ねました。マリヤのあいさつを聞くとエリザベツのお腹の中で子供が跳ね、エリサベツは聖霊に満たされたのでした。

今回のマリヤの言葉の部分は「The Magnificat(マニフィカト)」と呼ばれます。これはラテン語に翻訳された聖書の中の、この部分の最初の単語だそうです。ラテン語の聖書とはヒエロニムス(Jerome)が四世紀に時の教皇ダマスス一世の命によって、そのときまでに存在した断片的なラテン語訳を一冊に完成させた『ヴルガータ聖書(Vulgate)』(あるいはウルガタ聖書)のことです。

私が最初に読んだ英語の聖書が「ルカ」であることは書きましたが、私は最初にこの賛歌を英語で読んだとき、マリヤがエリザベツの前で突然賛歌を歌い始めるのを見て驚きました。あぁ、登場人物が突然歌い始めているぞ、まるでミュージカルの脚本を読んでいるようだ、と思いました。 そして、このようにミュージカルのように展開するから聖書は「ゴスペル」と呼ばれるのだななどと勝手に解釈していました(笑)。実はゴスペルと言う言葉が「良い知らせ」を意味していて、その良い知らせとはイエスさまに関する人類救済の計画のことであり、「歌」とはまったく関係ないと知ったのはしばらく経ってからのことです。

聖書を通して読むと、この部分は旧約聖書の「1 Samuel(サムエル記第1)」に登場するハンナの祈りを想起させます。子供ができないことで辛い思いをしていたハンナは神さまに子供を授けて欲しいと祈ります。そしてもし子供を授かったならば、その子を神さまに仕えるしもべとして捧げると誓います。ハンナの祈りは聞き入れられてハンナは妊娠し、喜びにあふれるハンナは次のような祈りを捧げました。 1 Samuel 2:1-10(サムエル記第1第2章第1~10節)です。「1 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。2 主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。3 高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。4 勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、5 食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。6 主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。7 主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。9 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます」([新改訳])。どちらも神さまは高慢な者や横柄な者を引きずり下ろし、飢える者、弱い者を助けて引き上げるのだ、と神さまを讃えています。ハンナが授かった子供はサムエルです。サムエルは預言者となり、イスラエルの初代の王サウルと二代目の王ダビデに油を注ぎます。

第48節でマリヤは、「そしてこれから後はあらゆる時代の人々が私を恵まれた者と呼ぶことでしょう」と言っています。これは優越や自慢の気持ちの現れではないと思います。まず優越感や自慢の気持ちの強い人は、往々にして神さまの存在を認めず、自分は神さまなしでやっていける、生きていけると考えます。あるいは神さまが自分を通してされたことを、さも自分がやったかのように誇らしげに語ります。 マリヤの姿勢は神さまのされることを、そのまま素直に受け取り、自分のようなつまらない者に目を留めてくれた神さまに感謝して、自分を通して実現することについて神さまだけを褒め称えています。

マリヤがそのままエリザベツの家に三ヶ月も滞在したのは驚きです。これが当時のユダヤ人の風習でよくある話だったのか、マリヤとエリザベツに関わる特別なことだったのかはわかりません。ただナザレからユダヤ地方への100キロの旅は、年に何度か通う道だとしても大変な道程には変わりありませんから、長期間の滞在は当然だったのかも知れません。






english1982 at 18:00|Permalink

ルカの福音書第1章第57節~第66節:洗礼者ヨハネの誕生

第1章


 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


The Birth of John the Baptist

洗礼者ヨハネの誕生


57 When it was time for Elizabeth’s baby to be born, she gave birth to a son.

57 エリサベツが子供を産むときが来て、エリサベツは男の子を産みました。

58 And when her neighbors and relatives heard that the Lord had been very merciful to her, everyone rejoiced with her.

58 近所の人々や親戚は、主がエリサベツに大変慈悲深くあったと聞いて、エリザベツと共に喜びました。

59 When the baby was eight days old, they all came for the circumcision ceremony. They wanted to name him Zechariah, after his father.

59 子供が生まれて八日になると、人々はみな割礼の儀式のためにやって来ました。人々は子供に、父の名をとってザカリヤと名づけたいと思いました。

60 But Elizabeth said, “No! His name is John!”

60 ところがエリザベツは言いました。「違います。子供の名前はヨハネです」。

61 “What?” they exclaimed. “There is no one in all your family by that name.”

61 人々は声を大きくしました。「なんだって? あなたの家族にはその名前の人はひとりもいませんよ。」

62 So they used gestures to ask the baby’s father what he wanted to name him.

62 そこで人々は子供の父親に、子供に何という名をつけたいかを身振りでたずねました。

63 He motioned for a writing tablet, and to everyone’s surprise he wrote, “His name is John.”

63 ザカリヤは書字板を持ってくるように合図しました。みなが驚いたことに、ザカリヤは「子供の名前はヨハネです」と書いたのでした。

64 Instantly Zechariah could speak again, and he began praising God.

64 直ちにザカリヤは再び話せるようになり、神さまを讃え始めました。

65 Awe fell upon the whole neighborhood, and the news of what had happened spread throughout the Judean hills.

65 畏敬の念が周囲一体を包み、何が起こったかの知らせはユダヤの山地全体に伝わりました。

66 Everyone who heard about it reflected on these events and asked, “What will this child turn out to be?” For the hand of the Lord was surely upon him in a special way.

66 これを聞いた人々はみな、これらの出来事のことをよく考えてたずねました。「この子はいったい何になるのだろうか」。と言うのは主の御手が特別な形で彼の上に置かれていたからです。




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第1章です。

いよいよエリザベツに子供が生まれます。男の子の誕生に近所の人たちも親戚も大喜びです。

第59節にある「割礼の儀式(circumcision)」は、男子の誕生から八日目に行うことが旧約聖書に定められています。Genesis 17:10-14(創世記第17章第10~14節)です。「10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである」([新改訳])。

「包皮の肉を切り捨てなさい」と書かれているとおり、これは男子の性器の包皮の一部を切除することを指しています。古代の文献から、この習慣はユダヤ人ばかりでなく、エジプト人やエチオピア人も行っていたことがわかっているようです。 割礼を施した理由としては、恐らくこれで性病の発生を予防していたのではないかと考えられています。包皮には感染症にかかりやすい細胞が多数存在しますが、これを切除してしまうと性器が乾きやすくなり、標的となる細胞の数そのものが減ります。そうやってウイルスが粘膜上で生存、繁殖する可能性を減らそうとしているのではないか、という考えです。

同第59節で、人々は儀式の場で子供に名前を付けたいと考えています。割礼の日に新しく生まれた男の子に名前を付けるのが当時のユダヤ人の風習だったようです。 また人々は子供の名前には、父親のザカリヤと同じ名前を付けるのがふさわしいと考えていたようです。現在ではユダヤ人の間では、生きている親族の中から名前を引き継ぐ習慣はもはや存在しないようですが、2000年前には行われていたのです。

いずれにしても生まれた子供に何と言う名前を付けるかは、家系や名前は血筋を重んじるユダヤ人には大変重要な意味を持つのです。それでエリザベツが第60節で「子供の名前はヨハネです」と言うのを聞いて、集まった人々は大きな驚きの声を上げています。なぜならヨハネという名前はザカリヤの家系には登場しないからです。

第62節、人々は神さまによって口がきけなくされているザカリヤに意見を求めます。第63節、神さまによって口がきけなくされているザカリヤは、名前を筆記で伝えるために身振りで書字板を持ってくるように合図しました。 人々が驚いたことにザカリヤも書字板に「子供の名前はヨハネです」と書きました。家系に登場しないヨハネという名前が、エリザベツからもザカリヤからも出てきました。そして突然、ザカリヤはこの瞬間から話せるようになります。

神さまは、寺院の聖域でガブリエルの言葉に疑問を抱いたザカリヤをたしなめるために、第20節でザカリヤの口をふさぎました。今回、ザカリヤが突然話せるようになったのは、ザカリヤが「子供の名前はヨハネです」と書字板に書いたことで、神さまがザカリヤとエリザベツの夫婦に意図したことがすべて実現したからではないでしょうか。 人々は畏敬の念を感じます。洗礼者ヨハネの誕生に神さまの意志が働いていることを強く感じているのです。そしてこのことはユダヤ地方一帯の噂となりました。






english1982 at 17:00|Permalink

ルカの福音書第1章第67節~第80節:ザカリヤの預言

第1章


 
(英語は[NLT]、日本語は私の拙訳です。)


Zechariah’s Prophecy

ザカリヤの預言


67 Then his father, Zechariah, was filled with the Holy Spirit and gave this prophecy:

67 それからヨハネの父親のザカリヤは聖霊に満たされ、次のような預言の言葉を話しました。

68 “Praise the Lord, the God of Israel, because he has visited and redeemed his people.

68 「イスラエルの神さまである主を讃えよ。主はその民を訪れ、救い出しました。

69 He has sent us a mighty Savior from the royal line of his servant David,

69 主は、主のしもべであるダビデの王室の家系から、強力な救い主を私たちに送って下さいました。

70 just as he promised through his holy prophets long ago.

70 それは遠い昔に主の聖なる預言者たちを通じて主が約束されたとおりです。

71 Now we will be saved from our enemies and from all who hate us.

71 これで私たちは、私たちの敵から、そして私たちを憎むすべての人たちから救われるのです。

72 He has been merciful to our ancestors by remembering his sacred covenant --

72 主は聖なる契約を覚えていてくださり、私たちの父祖たちに慈悲深くありました。

73 the covenant he swore with an oath to our ancestor Abraham.

73 その契約は主が私たちの父祖アブラハムに誓われたものです。

74 We have been rescued from our enemies so we can serve God without fear,

74 私たちが私たちの敵から救い出されるのは、私たちが恐れなく主に仕えることができるようにです。

75 in holiness and righteousness for as long as we live.

75 私たちが生きている間にわたって、神聖に、また正しい形でです。


76 “And you, my little son, will be called the prophet of the Most High, because you will prepare the way for the Lord.

76 そして私の小さな息子であるあなたは、最も高き方の預言者と呼ばれるのです。なぜならあなたは主のための道を備えるのですから。

77 You will tell his people how to find salvation through forgiveness of their sins.

77 あなたは主の民に罪の許しを通じた救いを見つける方法を伝えるのです。

78 Because of God’s tender mercy, the morning light from heaven is about to break upon us,

78 神さまのあわれみ深い慈悲により、天からの朝の光が私たちの上に現れようとしています。

79 to give light to those who sit in darkness and in the shadow of death, and to guide us to the path of peace.”

79 それは暗黒と死の陰の中に座る人たちに光りを与え、私たちを平和の道へ導くためなのです。」

80 John grew up and became strong in spirit. And he lived in the wilderness until he began his public ministry to Israel.

80 ヨハネは長し、霊の強い人となりました。ヨハネはイスラエルに対して公に仕事を始めるまで、荒野に住んでいました。




ミニミニ解説

「ルカの福音書」の第1章です。

前回、いよいよエリザベツに男の子が生まれ、天使のガブリエルが伝えたとおり、ヨハネと名付けられました。 するとザカリヤは突然口がきけるようになりました。これを見た人々は畏敬の念に包まれます。今回はその流れでザカリヤが聖霊に満たされ、聖霊の導きのままに預言の言葉を話します。

エリザベツが聖霊に満たされたときにも書きましたが、聖霊は三位一体説に基づけば、神さまを構成する「父なる神さま」「子なるイエスさま」「聖霊」の三者のうちのひとつ、つまり神さまそのものです。 神さまは神聖な存在なので、そのままの状態では汚れた人間と接することはできません。全人類の罪を背負って清めの血を流したイエスさまの十字架の前であれば、少なくとも旧約聖書の律法に定められた重厚な清めの儀式を経る必要があったでしょう。ところがエリザベツもザカリヤも、そのままの状態で聖霊に満たされています。これは二人が神さまの目に正しい存在として映っていた証です。

ザカリヤは天使ガブリエルの言葉を疑って口をきけなくされていました。神さまの言葉をそのまま信じなかったのですから、これは明らかに神さまをガッカリさせる行為、つまり「罪(sin)」にあたるでしょう。しかしそのザカリヤがここでは聖霊に満たされています。神さまのされることは私たちには到底理解できません。とてもミステリアスなのです。

今回のザカリヤの預言の言葉は「The Benedictus(ベネディクトゥス)」と呼ばれます。これはマリヤの「The Magnificat(マニフィカト)」と同様、ラテン語に翻訳された聖書の中の、この部分の最初の単語なのだそうです。

ザカリヤの預言は多分に旧約聖書の「Psalm 107(詩編第107章)」を想起させます。最初の部分を引用してみます。第1節~第15節です。「1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。2 主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、3 彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。4 彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。5 飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。8 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。10 やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、11 彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。12 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。13 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。15 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ」([新改訳])。

最後の朝の光が訪れ、暗黒と死の陰の中に座る人たちに光を与えるというあたりは、やはり旧約聖書の「Isaiah(イザヤ書)」の第9章を想起させます。Isaiah 9:1-7(イザヤ書第9章第1~7節)です。「1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」([新改訳])。

つまり「やみの中を歩んでいた民」や、「死の陰の地に住んでいた者たち」の上に照る光とは、「私たち(=ユダヤ人)」のために生まれる「ひとりの男の子」なのです。そして「主権はその肩にあり」、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるのです。そしてその主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえます。そしてそれが「今より、とこしえまで」続くのです。 これは言うまでもなく救世主イエスさまのことを指し、その到来を預言する言葉です。つまりザカリヤは聖霊に導かれ、預言の言葉の中でイエスさまの誕生を予告しているのです。 注目すべきは英語で使われている時制です。「he has visited and redeemed his people」「He has sent us a mighty Savior」とイエスさまの到来と、イエスさまのもたらす救いは現在完了形で書かれています。ザカリヤは聖霊に導かれて、イエスさまの到来をすでに目撃しながら、この言葉を話しているのです。

洗礼者ヨハネ本人については第76節~第77節に予告されています。「最も高き方の預言者と呼ばれる」、そして、「主のための道を備える」、「 あなたは主の民に罪の許しを通じた救いを見つける方法を伝える」と書かれています。

洗礼者ヨハネが預言者エリヤの再来であると予告したのは、旧約聖書最後の預言書である「Malachi(マラキ書)」です。 なんだか今回のザカリヤの言葉を読むと、短い預言の中で旧約聖書をひととおり通過しているように見えます。救世主イエスさまの到来は旧約聖書最初の本、「Genesis(創世記)」の中で神さまがユダヤ人の父祖、アブラハムに約束した通りなのだし、偉大なるダビデ王の時代に残された「Psalm(詩編)」を想起させながら、預言書の中でも救世主を指し示す最強の節とも言える「Isaiah(イザヤ書)」の第9章を通って、洗礼者ヨハネの役割への言及で最後の預言書である「Malachi(マラキ書)」に到達している、という具合です。

この世に生を受けた洗礼者ヨハネは、機が熟すまでイスラエルの「wilderness(荒野)」に住みます。これは「こうや」ではなくて「荒れ野」と読んだ方が雰囲気が出ると思います。 イスラエルの荒れ野はサハラ砂漠みたいな砂の山ではなくて、大きな岩や石がごろごろとしているような荒れ果てた土地です。非常に乾燥しているために農業に適さず、荒涼とした土地ですが、その一方で非常に霊的(スピリチュアル)な場所でもあります。旧約聖書でも預言者は荒れ野にいることが多いのです。






english1982 at 16:00|Permalink